「翁」のそば

 平成8年12月29日、恒例の長坂「翁」の東京そば会が、今年は場所を変えて浅草待乳山聖天宮で、開かれた。前年に続いて2度目の参加を果たすことが出来た私は幸せ者である。以下はその会場で見た「翁」主人高橋さんの見事なそば打ちについてのリポートである。

 水回しとこねはお弟子さん(といってもすでに独立した方が多いらしい)が担当し、高橋さんがその後ののしと包丁をもっぱら担当していた。

早い

 のし始めてから切り終わるまでのスピードがともかく早い。

余りに早すぎて見とれていたので時間を計ることすら忘れていた。粉の重さで1.5キロの玉を、のし始めて切り終わるまで10分はかからなかったように思う。

無駄がない

 とにかく無駄がない。素人はとかく無駄が多いが、貴重なそば粉を大切にするまさに職人仕事といえるのだろう。切り終わってほんの少し残った切れ端は次の玉に混ぜ込まれていた。

耳が全く切れない

 延ばしていく内、耳がギザギザになったり、切れてきたりするのが普通だが、さすがに高橋さんのそばは全く切れず、きれいにまっすぐ耳が延びていった。芸術品である。毎回のし終わった麺体の大きさがほとんど変わらない

 きれいな長方形でその大きさが毎回ほとんど変わらなかった。プロだから当たり前と言ってしまえばそれまでだが、見事だった。

丸出しを出来るだけ大きく出す

 耳が切れないこつの一つは、丸出しを大きめにすることのように思われる。丸出しを大きくすれば四つ出しの後、縦方向に余りたくさんのさなくて良い。その結果耳も切れにくいのではないか。1.5キロの玉で6〜70センチほどの大きさに出していた。

二つの角を一回で出す

 高橋さんの四つ出しは二回しか棒に巻き取らない。凡人は最低四回巻き取る必要がある。棒に巻いた一番内側が角が出る。四つの角を出すためには四回方向を変えて棒に巻き取り、転がしながら内側になった部分の角を出す。これを高橋さんは二回で済ます。どうやっているのか。正直なところよく分からなかった。一年前にはそもそも気がつかなかった。それだけスムーズということである。推測するに、高橋さんは普通に巻き取って前に転がしながら内側の角を出し、同時に外側の角は手のひらの微妙な握り方で出す。このように同時に二つの仕事をこなしているらしいのである。

 正直これには驚いた。これだけ手際が良ければ早く打てるはずである。

三段重ねに畳む

 のし終わった麺体はまず長い方の辺を二つ折りするのが一般的である。残った辺を二回畳んで、合わせて8枚重ねになる。ところが、高橋さんは長い方の辺を三段重ねにする。この結果麺体は12枚重ねになる。重ねれば重ねるほど仕事は速くなるが、厚みが増すので包丁の角度が少しでも変わると下の方は馬鹿に太いそばとなってしまう。素人は八段重ねで我慢している方が身のためと思う。

包丁を右に倒すようにして切る

 これはどういうことかというと、包丁を駒板にぴったり付けて切るのでなく、包丁の上を右に傾ける、つまり刃の方を駒板の下に押し込むようにして切っていく。それで前の方に数センチ押し切りにするので切り終わった瞬間を見れば包丁は真っ直ぐで駒板は既に次に刃が入る位置まで移動し終わっている。要するに包丁を左に倒す意識を持たなくても、自然に包丁が駒板を押していく、そういう状況が出来ているのである。

 これを実践することが出来れば絶対に包丁仕事は速くなるだろう。切って、倒してというダブルアクションが一つのアクションに統合されている。私も今度からはぜひこのシングルアクションを練習したいものである。

駒板の包丁の当たる部分の高さが普通の半分

 これは少し怖い。ちょっとでも包丁を高く挙げると飛び越えて左手を切りそうである。包丁の当たる部分の高さは一センチちょっとしかないように見えた。何万回切ろうともこの一センチの幅の中に挙げた包丁が戻ってくる、まさに職人芸である。

あっという間に切り終わる

 そのスピードの速いこと、ただただ驚く。やっぱりプロはこれくらいの早さがないと食っていけないのかなと妙なところで納得する。

切り終わったそばを持ち上げても一本もそばが落ちない

 これも実は素人には大変なことである。これが究極の目標といっても過言でない。のしの間にどうしても麺体に傷が付きそこから切れたり、あるいは切るときに薄く切りすぎて切れてしまったり、そばが切れる原因は掃いて捨てるほどある。これらを全てクリアして一本も切れないそばを打つのは素人の夢である。

ややグリーンがかった美しいそば

 出来上がったそばはややグリーンがかったみずみずしい美しいそばである。これが日本中のそばファンが一度は食べてみたいと思う「翁」のそばである。そばはそれほどは細くない。もちろん太いというほどでもない。ちょうど良い太さということになるが、私は個人的にはもう少し細いそばが好きである。

おいしい汁

 翁の汁はおいしい。文字通りおいしいのである。そばがくる前に汁を飲み干してしまいそうな心配をするほどである。物の本には「から汁は出しの香りがしてはいけない、そばの味、香りを殺す」などと書かれています。この指摘からするとここの汁はおいしすぎることになりますが、おいしい汁もそばによく合うんです。 鰹節の香り豊かな汁か香りを抑えた汁かこの問題は私自身がこれからいろいろな汁を試すことで答えを出していきたいと思います。

切れ端は次の玉の水に入れる

 これも考えてみると大変合理的なことが分かるが、ちょっと思いつかないやり方である。そのまま加えるよりは粘りが出やすいことなどこねが易しくなる効果が絶大である。知らないことは罪ですね。