ロシア−2005年展望

人口約1億5千万人、ロシアの来年度の国家予算(歳入)は3兆3260億ル−ブル(約9兆円)、国防国家安全分野に約9275億ル−ブル(約2兆5千億円)である。2004年のGDP成長率は約6.5〜6.8%、GDP総額は約18兆ル−ブル(約98兆円)、石油輸出高約500億ドル(約5兆2千億円)と予想されている。現在失業者数は約550万人(失業率7.6%)である。

ロシアは共和国体制となり、経済は市場経済が導入された。問題は民主主義が「本質的」には存在しないことである。民主主義基盤のない社会で市場経済が主導権を握るとどうなるか、まさに地獄となる。モラルハザ−ドの社会なのだ。国の最上部から路上のルンペンまで、モラルのない社会が構築されてしまう。

ホドルコフスキ−は生きているのだろうか。べつに特別の関係があるわけでもないから、支持も擁護もする気は毛頭ないが、ただ人権が気になる。たしか記憶では2003年夏に脱税容疑で刑務所に入れられ、そのままらしい。一年以上も刑務所暮らしである。当初大統領選が終わるまで刑務所から出られないと見ていたが、甘い予想だった。はなから抹殺しようとしていたらしい。首謀者は誰か、ミスタ−・プ−チンなのか、その手下なのか、それとも我々の知らない「影の存在」がいるのか、よく分からない。

 

ミハイル・ホドルコフスキ−はロシア最大の石油会社「ユコス社」の社長だった。二度と現在形に戻ることのない過去形である。20041219日、ユコス社最大の採掘子会社「ユガンスクネフテガス」社が競売にかけられ、誰も知らない「バイカルフィナンスグル−プ」社という会社が落札した。その会社を今度は国営会社「ロスネフチ」社が買収した。ガスプロム社も参加していたが、最後まで傍観者だった。結局最初からシナリオライタ−が存在した。2005年春にガスプロム社とロスネフチ社は合併する。つまり、ユコス社解体はプ−チン政権の「エネルギ−産業の国営化」プランだ。

だが事の本質はそんな単純なことだろうか。

 

ちょっと長いが引用してみる。

  「ユコス社元代表ミハイル・ホドルコフスキ−は20031024日、「メリジアン」航空旅客機TU-134でイルク−ツクに向かう途中、給油のため着陸したノヴォシビルスクのトルマチェヴォ空港で午前五時、連邦保安局の覆面特殊部隊により逮捕された。旅客機が停車位置に近づくと、数台のトラックが給油車のかわりに飛行機の移動を封鎖するように包囲した。しばらくすると、車内の見えない窓ガラスのバス二台が飛行機の前方と後方に停車し、覆面をした迷彩服の部隊が機内に突入した。

 

 ミハイル・ホドルコフスキ−は1963626日、両親が技術者の家庭に生まれ、モスクワの二室ばかりの狭い共同住宅で幼年期を過ごした。彼は自分の幼い頃をあまり話したがらない。所有する数々の会社のどの公式サイトにも、彼の正式な経歴を見つけることはできない、その片鱗さえない。小中学校時代、好きな科目は化学で「独創的な、しばしば危険をともなう実験が好きだった」と回顧している。化学を学ぶため学校を三つも替えるが、その都度教師の水準に満足できなかった。結局のところ両親の生き方をするわけで、1981年メンデレ−エフ記念モスクワ化学工業大学に入る。どうやら彼は合間をみて建設会社「エタロン」で大工のアルバイトして小遣い稼ぎをしながら学んだらしい。しかしソヴィエト権力の下、処世術の核心をすぐ理解して積極的に社会活動を行った。

 

1986年ミ−シャ(ミハイルの愛称)は早くもモスクワ化学工業大学にあるコムソモ−ル(共産主義青年同盟)の副書記となり、全ソ連邦共産青年同盟スヴェルドロフスク地区委員になった。ちなみにここは首都における最も「精鋭」の地区委員会で、まさにここに全ソ連邦共産青年同盟の幹部全て登録されていたのである。

  

それでも彼は生まれて初めて大学の人事で「時代の不公平な空気」を感じだ。学科で最優秀なので提案されている職場の中から自分の職場を独自に決める権利があった。当時ある「ポチト−ヴィイ・ヤ−シック(郵便ポスト)(筆者注:郵便ポストの中は覗けないという意味から“機密企業”)」を選択したと言われている。しかし、「非機密」企業から選択しろとアドバイスがあり、真実の探求は自分の「第五項」(身分証明書の第五項目で、民族性を示す(筆者注:ロシア人でないのだろう、ユダヤ人かもしれない)をよく見ろと賢明な同志の助言でピリオドをうたれのであった。(筆者注:ロシアには「パスポ−ト」と呼ばれる、海外渡航旅券とは別の国内旅券制度がある。いわゆる身分証明書である。姓名、父姓、生年月日、出生地、民族、職業などが記入されている。この制度はスタ−リン時代、1932年末に導入された

 

だがミ−シャは挽回した。コムソモ−ルを足がかりにそれを利用して最初の独立した事業を始めた。先ず若者向けカファを立ち上げ、これは後に「青年創業基金」になるのだが、こうしたことでコムソモ−ル地区委員会所属の「青年科学技術創造センタ−」の所長になる。この名称こそが後の「メナテプ」の名称の起源となる。

当時ホドルコフスキ−はポ−ランドから「ナポレオン」の密造酒を大量に仕入れ大儲けしたと言われるが、今となってはその真偽は検証もできない。米国人記者ポ−ル・フレブニコフのインタビュ−で彼は1988年には年収8千万ル−ブル(公式両替レ−トで13千万ドル、闇レ−トで1千万ドル)あったと自慢していた。

 

ホドルコフスキ−の元部下は「彼が人生で最も得意であったのは、金儲けである」と回顧している。元部下はロレックスの腕時計をうまく譲ってもらったことがあった。はやりの型でペレストロイカ時代のソ連では貴重なものだった。ホドルコフスキ−は元部下に買った値段に500ドル乗せて譲ったらしい。

その反面、部下思いでも有名で自分の仲間を見捨てるようなことはなかった。この元部下はホドルコフスキ−の会社でプログラマ−として雇われるが、「とても驚いたことは“首きり”されなかったことより、“相当な給料”をくれたことだ」と述懐している。

 

1988年、もう一つの大学、プレハ−ノフ国民経済大学も卒業している。そこで両親がソ連国立銀行(ゴスバンク)で重職についているコムソモ−ルの友人ができる。その交際のおかげでおそらく、ホドルコフスキ−は共同出資銀行の設立ができたのだろう。その当時出資者の一人にソ連「ジルソチバンク(住宅公共事業・社会発展銀行)」のフルンゼ支店が名を連ねていた。

 

19905月、銀行グル−プ「メナテプ」が正式に登記される。その年にこのグル−プはモスクワ市から「青年科学技術創造センタ−」を買取り、「メナテプ・インヴェスト」と改称する。「メナテプ」グル−プは急速に膨張し、傘下企業数を増やしていった。「メナテプ・インペクス」社はキュ−バ砂糖輸入の中心管理組織となり、またモスクワにも食糧を供給した。

ホドルコフスキ−は権力との関係では目立たないようにして、古いコムソモ−ル時代の友人とか、その両親、両親の知り合い、またその知り合いなどを介し、さらに多岐にわたる人脈、それもしだいに「国家的」人脈を用いて行動する方法を選んだ。

ミハイル(ホドルコフスキ−)は短期間だがソ連最後の首相イワン・シラエフの顧問になったことがある。しかし燃料エネルギ−省のポストは辞退している。それでも国家予算のついた儲かる取引は一つたりとも取り逃がしたことはない。だからメナテプグル−プを通して“黒い資金”が政党に流れたという、後を絶たない噂にもそれなりの根拠があった。

 

例えば、銀行にチェルノブイリ原発事故処理基金口座がいくつも開設されたことは事実である。また「メナテプ・インペクス」社はロシア・キュ−バ「石油・砂糖」貿易に関与していた。専門家は、これは1993年大統領側への現金による支援の支払いと見ている(エリツインは口髭のフィクサ−、ミ−シャを1994年スペイン訪問の公式代表団の一員に加えた)。

199011月、「メナテプ・グル−プ」社は初めて一般向けにグル−プ各社の株式を売り出し、これは同社の大規模な宣伝ともなり、株式の売上は1285百万ル−ブルにもなった。1991年、「コムソモ−リスキ−」銀行は民間機関の中でトップを切った企業の一つとして個人向け外貨交換業務を始めた。ホドルコフスキ−側近の一人はあるインタビュ−で「我々は単なる顧客はいらない。我々は国民銀行ではない。クラン(一族集団)は正規のコミュニテイであり、互いに深入りし合う関係であり、クライアント(平民)はクランがどのように生活しているか知っているし、クランはクライアントがどのように生活しているか知っている」と述べている。まさにイタリアのマフィアではないか。

 

彼の直属の部下レオニド・ネヴズリンは「国家機関の動きを予見し、自分たちの予測したがい、より的確に言えば、行政機関が予定している決定について手持ちの情報にしたがい行動できることが要するに力なのである」と述べている。(知的な表現で言えば、これは現在インサイダ−情報と言う。現在は法律の追及対象である)

まさにこれこそ、ロシア式ビッグビジネスなのだ。人脈により前もって知っている国家のスキムを強硬に実現しようとする。こうした裏情報を適時に入手することこそ、不敗プレ−の根拠なのだ。ホドルコフスキ−にこうしたやり方をコムソモ−ルが教えた。「メナテプ」社は199311月設立され、ただちに1兆ル−ブルもの無利子の国家融資がなされた国営企業「ロシア兵器」社の指定銀行となった。

 

199210月、「メナテプ」社役員会は会社発展構想を変更し、純粋な銀行ビジネスから産業グル−プを形成する方向に切り替えるため、「金融・産業財閥」の形成を目指すと表明した。こうして個人相手の小物商いは戦略的に終了した。

1994年から1995年の間、ロシアのどの銀行も「メネテプ」社にようにしっかりした方針をもってロシアの産業を育成しようとはしなかった。「メナテプ」社は「アパチト」社、「ヴォスクレセンスク鉱物肥料」社、「ウラルエレクトロメジ(鉄鋼会社)」社、スレドネウラリスクとキロヴォグラドの精銅所、ウスチ・イリムスク製材コンビナ−ト、「AVISMA」社(チタン・マグネシウム製造)、ヴォルガ鋼管所など、次々買収していった。

いかに資金不足になろうと、それでも魔法の力をもつホドルコフスキ−は役人が規則を決めた投資入札では常に勝利した。1995年石油会社「ユコス」を買収することで、新方針は絶頂に達した。

 

あるジャ−ナリストは「ロシアの新興財閥のおかげで誕生したのは市場経済ではなく、封建体制であり、その中で権力は高収入をもたらす金融の道具なのである」と厳しい結論を出している。

ミハイル・ホドルコフスキ−のもう一つの特徴はできる限り早くメナテプ銀行との直接の関係を断ち切り、自分のイメ−ジを変えようとしていたことだ。1995年までメナテプ金融グル−プの社長、19959月から「ロスプロム」社社長、19966月からユコス社社長となり、一般人と司法警察機関に良くないイメ−ジを抱かせる「重い過去」からできる限り遠ざかろうとしていた。

 

わが国最初の「協同組合企業王」は大衆、そして権力中枢のイメ−ジ向上につとめた。このためにはユコス社は金を惜しまなかった。ある資料では「イメ−ジアップ」に年間3億ドル使ったと言われる(もちろん、この額は「優良」マスコミだけでない。マスコミはそれほど高いものではない)。

時々ホドルコフスキ−は地方の「金融関係者」を「メトロポ−ル」ホテルのどこかに招待して、例えばロシアにおける投資展望などテ−マにアカデミックな講演をしていた。首都の記者を招待するのは危険で厄介なのだろう。彼らは噛み付くのだ。ところが地方の者は羨ましそうに眺めるだけだ。

 

そこで生活に密着した具体的な質問を誰かしたとする。するとホドルコフスキ−は「なんて小さなことで質問するのですか。ロシア最大の問題は頭脳の流出ですよ。頭脳が流失しないためには、マンハッタンの給料の70%は払う必要があります」と語るのである。

たしかに彼らはロシアが嫌いで去るのではない。交通警官は乱暴をはたらき、特殊警察署の床に顔を押し付けられるから去るのである。おそらくホドルコフスキ−も他の「玄人」同様に分別はないが絶対的権力をもつ警官がいる土壌の上で病的な意識を育んだことだろう。「モスト・バンク」のセキュリテイシステムは伝説となっている。メナテプ社にも同様のシステムはあるが、若干脆弱である。

ホドルコフスキ−の個人警備は当時、モスクワ化学工業大学のハンドボ−ルチ−ムOBを中心に作られたと専門家は見ている。メナテプ社のセキュリテイ管理(約250人が担当している)で機密情報漏洩がたった一度だけだ。

 

さてホドルコフスキ−の私生活だがあまり知られていない。結婚は二度している。最初の妻エレ−ナはモスクワ化学工業大学のコムソモ−ルメンバ−で、一男をもうけ。旅行業をしている。二番目の妻インナは1969年生まれである。彼女は大学中退で将来の夫となる銀行の為替業務をしていた。二度目の結婚で娘アナスタ−シヤが1991年に生まれている。1999年にはホドルコフスキ−に双子が誕生した。

ミハイル・ホドルコフスキ−は一見控えめで親切な人間にさえ見えるが、複雑な性格の持ち主だ。「集団で決定する」場合でもけして「わたしたち」とは言わない。そこからも野心が読み取れる。かならず「わたし」「わたしの」という言葉を使う。

反省することを好まず、文書のやり取りも嫌いだった。常にコンピュ−タを使用した。「彼は自分の仕事部屋に客を通すと、客だけを丸テ−ブルに座らせ喋らせる。自分の意見は言わず、歩きながらタバコを吸い聞いている。時折もっと話せと要求する。沈黙を守り、他のものが自分を見せるようにする。オ−デイションは一時間にも、一時間半にもおよぶ。その結果はまったく明らかにされない。後に決定が伝えられる。何もなければ不合格だ」と「モスト」社の元セキュリテイ部社員はホドルコフスキ−について書いている。」

(「ミスタ−・セロファン」エゴル・ルミャンツエフ著、抄訳 飯塚俊明)

 

ミハイル・ホドルコフスキ−はまさに「ペレストロイカ」の落し子だ。当時の事情からすれば、ソ連共産党とKGBの庇護なくしては彼の事業、いやあらゆる行為は遂行できなかったろう。彼はエリツン前大統領を支援し資金提供したと言われる。そしてその指名後継大統領ウラジ−ミル・プ−チンに抹殺されようとしている。

90年代初頭に誕生した新興財閥の首領はほとんどユダヤ人である。言い方を換えれば、ユダヤ人によって新生ロシアが誕生したとも言える。ウラジ−ミル・プ−チンが大統領に就任すると、ほとんど全ての新興財閥は追放の運命にあっている。そしてエリツンの「ファミリ−」と言われた側近たちもこぞってクレムリンを追われている。

ここからは推測の域に入るが、エリツン前大統領はかなり早い段階で権力闘争に敗北している可能性がある。つまりエリツイン前大統領がウラジ−ミル・プ−チンを後継大統領に指名したかのように見えるが、本当はすでにプ−チングル−プが実権を掌握していたのかもしれない。

プ−チングル−プがボリス・エリツインにウラジ−ミル・プ−チンを次期大統領に指名しろ、そうすれば生命、身分そして「家族」も保障すると婉曲に迫ったかもしれない。

おそらくKGBは二つに割れていた可能性がある。ゴルバチョフ打倒までは歩調は表面的には一致していたのだろう。あるいはユダヤ人を経済に支柱にすえる点では共通の認識があったかもしれない。

ヨセフ・スタ−リン(18791953)の時代約30年間(約450万人の党員など粛清したと言われる)に共産主義の理念は完全に破壊され形骸化し、国内精神は閉塞化して出世、つまり権力奪取だけが人生の生甲斐になっただろう。普通、思想や宗教など放棄すると、長崎のキリシタンではないが、その後は「廃人」と化す「転向」現象が見られるものだが、いっこうにその形跡はない。つまり「ク−デタ−」だったからだ。彼らの目的は「権力奪取」であり、「思想信条」その手段にすぎない「装飾品」過ぎなかったのだろう。それがスタ−リンに忠実な「末裔」の姿だったのだろう。

主義思想としての共産主義はスタ−リン時代にすでにソ連では消滅していたと考えたほうがいい。その後はソ連という名の国家が存在したにすぎないとも言える。

 

ホドルコフスキ−はプ−チン政権が誕生すると(この時点で彼は敗北していたのだが)、ジュガノフ率いるロシア共産党やヤブリンスキ−の政党「ヤブロコ」としきりに接触を求め、資金提供をしようとする。彼には新たな政治権力が必要になったからだ。実はこの時が潮時だったのだろうが、彼は前にも後にも進むことはできなかった。何故ならプ−チン派が新興財閥を追放することは既定の路線で時間の問題だったからだ。

そして「シブネフチ」社を吸収合併しユコス社はロシア最大の石油会社になるのだが、そうなろうとなるまいと、この「既定路線」は微動たりともしないで、彼は破産させられた。

 

ロシア連邦「地方議会首長選挙」法が下院、上院で可決され、プ−チン大統領が署名した。来年からロシア国内の地方首長選挙は間接選挙となり、事実上プ−チン大統領が地方首長を決定することになる。

モスクワのミュ−ジカル劇場、地下鉄、航空機、ベスラン市の小学校など、テロ事件が勃発し、これだけで千人近くも死亡して、治安関係の法規が厳しくなっている。ロシアの治安は緊急事態なのだ。

それでもプ−チン政権は安定している。下院では与党「統一ロシア」が議席の三分の二以上を占め、政府の法案はどのようなものでも通る。プ−チン政権はいつ終わるか、来年は完全に安泰である。憲法では任期は二期と規定されているので、原則では三年後の再選はない。

ロシアが中央集権化していることは特に驚くことではない。この国はロマノフ王朝時代からずっと政治は中央集権が続いている。これがロシア人意識なのだろう。

そうでいながらプ−チン大統領は「ロシアに市民社会を発展させる必要がある」と矛盾する発言をしている。おそらく国家元首本人が「痛いほど理解している」のかもしれない。それがきちんとした基盤をもたない限りこうした「暗室の権力闘争」がいつまでも続き、前近代的な中央集権政治が継続すると、きちんと認識しているかもしれない。はたして片方の手で「市民社会の芽を摘み」ながら、もう一方の手でそれを育てることが可能なのだろうか。

ロシアで家庭や「居酒屋」などで話をしていると、ロシア人はなんと「民主的」でジョ−クが好きで、大らかな西洋の民族と思える時もあるが、しかしこれは「横の関係」、つまり「庶民レベル」ではそうした一面もうかがえるにしても、「縦の関係」、つまり政治の関係になると、とたんに「農奴意識」が頭をもたげ、「お上に逆らう」など、つゆほどもなくなってしまう。これは何世紀にもわたり培われた民族の体質だから、この壁は厚い。

 

だから下院で三分の二以上の議席を占める与党「統一ロシア」を基盤とするプ−チン大統領の終焉も、「唐突」なもの、そう見ても不思議ではない。知事選出を間接選挙としたのがロシア人の意識構造とすれば、大統領の選出が間接選挙、つまり「密室で決定」されても、それこそ意識構造なのだ。

 

少しロシアの2005年の経済見通しにも触れておく。ロシア経済発展通商相ゲルマン・グレフは「2005年ロシアのGDP成長率を約6%」と予想している。2005年度ロシア連邦予算では石油価格1バレル28ドルで計算していたと記憶している。アナリストの大方の見方は国際石油価格は当面大幅に下落しないと見ているので、ロシアの国家予算における税収の約40%も占める石油税収にさほど落ち込みがあるとは思えない。

そんなことより世界の投資家が最も懸念しているのは、「ユコス」社事件のようなことが今後も反復されないか、この点である。これには「外国からの投資保護」法みたいものをロシアは成立させないと、ロシアへの投資、資本の流入には自ずと限界があるだろう。それとも「民事不介入の原則」みたいなものを法律で保証する必要があるだろう。

 

2005年春、プ−チン大統領が訪日する予定だ。残念なことだが、今回も「北方四島」問題は解決しないだろう。何故解決しない、この問題は長くなるからここでは言及しない。ロシア大統領訪日の最大の目玉は東シベリア・極東の開発問題だろう。ロシア政府はどうやら東シベリアから太平洋への石油パイプラインル−トを最終的に選択したようだ。これは東シベリアから沿海州のペレヴォズナヤ湾までパイプラインを建設するという計画だ。しかしグレフ経済発展通商相は「最終的なル−ト、工期などはもっと後に決定する。政令案は“建設についての原則的な決定”だ」と述べているので、まだ流動的な要素があるものの、これがプ−チン大統領訪日の中心議題となるだろう。ロシアは中国も日本も石油を必要としていると重々承知している。中国向けは鉄道ル−トで輸送し、太平洋沿岸に石油タ−ミナルを建設したほうが得策と考えているのかもしれない。大慶向けだけのパイプランを建設したのでは、ロシアには戦略的メリットはない。問題は優先順位と工費だ。おそらく「四島問題」と「投資保護」問題で日本側がこのプロジェクトに投資をためらっても、ロシアは太平洋まで約五兆円の「安定化基金」と十兆以上の「金外貨準備高」その他資金とやりくりして自前で建設するかもしれない。       

                            (執筆者:飯塚俊明)