飯塚俊明

ロシア経験論批判

ドストエフスキ−の作品「カラマ−ゾフの兄弟」でアリョ−シャが僧院を去る場面がある。これは古いロシア社会、因習・慣習・血族の社会を否定し、ヨ−ロッパから流入する近代主義、合理主義模索への出発かもしれない。1917年ロシア十月革命後、ボリシェヴィキは全国の教会寺院を破壊し、僧侶を追放した。けれでも、彼らはいつしか社会主義ソ連邦というピラミッド型の差別階級社会を七十年かけて作り上げた。これは何に起因するのか、そのことを解明するのがこの論文の目的ではない。最大の目的は、時代の転換期に直面したロシア人意識の変化と日本人の関係を究明することである。

 

無自覚なロシア人意識の地殻変動

人間社会で何百年もの間に培われた生活風習は一朝一夕には変わらない。皇帝への忠誠心、卑屈な農奴意識、ヨ−ロッパ文明への憧憬、広大な領土から生まれる大国意識など、17年革命後は党への忠誠心、プロレタリア−トデイクタトウ−ラ、東欧世界の支配、軍拡大国主義にとってかわった。しかし画一主義、大量生産、歪曲された合理主義、競争のない閉塞した経済構造、万民平等の名の下の階級社会、形式主義、冷戦下の軍拡競争による経済負担などが社会主義ソ連の内部崩壊を引き起こした。ポストソ連最初の10年間は、ロシア正教への忠誠心、資本主義の無条件の受容、過度な改革主義、破綻した国威からくる零落意識となった。そして今日、ロシア正教会への懐疑、資本主義の無条件受容の疑問、過度の改革主義の反省、国威回復の希求となっている。

  封建社会の特徴は、血族、同族、家族制度、ムラ社会、人脈、信義、義理人情、因習・慣習、権威主義、宗教、談合、女性蔑視、属性による差別、年功序列、人権蹂躙、カリスマ性、門閥派閥、階級社会、主従関係などあげられる。これに対峙するのが近代合理主義、法律を中心にする契約社会である。

  ロマノフ王朝からソ連に移行したが、結局こうした封建社会の遺産は清算できなかった。ソ連社会主義とロマノフ王朝の構図は、ぴったりと符合した。看板こそ世界の知識人が考え出した立派なネ−ミングではあったが、中身はおそまつなものであった。ソ連社会主義の功績を敢えてあげれば、女性地位の向上、低賃金だが失業者のいない社会、教育費の無料化、主に軍事面だが科学技術の急速の進歩、さらにこの中で最大な功績は家族制度の破壊かもしれない。ソ連時代、一部の特権階級を除けば、無料の教育制度と引き換えに職場選択の自由はなかった。大学を卒業すると、就職先は党が決定し、家族はばらばらになった。ソ連には二世代、三世代同居という家庭はほとんど存在しなかった。この意味では、現在の年金問題は深刻である。だがこうして家族制度が破壊されたことにより、ロシア人の個人意識が芽生えたのも事実である。そしてそれが個人と国家の対立という図式に発展する萌芽を宿したかもしれない。

 

共産主義者のいないソ連共産党

  共産主義を一言で言えば、“平等”ということになる。これは人間関係、社会関係もあらゆる面において“平等”ということだ。勿論、これは理念ではあるが、少なくともソ連共産党員にはそれはなかった。言葉の上では確かに“平等”とよく口にはしたが、本人の意識の中にはそうした“平等”の概念は定着していなかった。それでもスタ−リンが統治する前、約10年間には、そうした“平等”を末端で実践していた共産党員もいたことも事実である。スタ−リン時代になると、“共産主義”は出世の代名詞に変わった。ピオネ−ルにせよ、コムソモ−レッツにせよ、共産党員にせよ、全て出世階段の道具でしかなかった。そこにはすでに共産主義の理念も、共産主義そのものもなかった。存在したのは私利私欲、汚職、退廃、エリ−ト主義、自己主義、強権政治だけであった。だが世界はそうは見なかった。それを共産主義と断定し、誤解したのである。この場合、故意であろうが、無意識であろうがあまり重要でない。重要なのは真実の認識を回避したのか、それともそうした能力がなかったことだ。要するに、“悪魔の論理”でパワ−ゲ−ムに勝利しさえすればよかった。それ故、この問題は現実では決着はついたが、理論的には未解決のままであり、この世の最高の理念は、米国のいう“人類共通の価値観”ということになっている。しかし第三の道、第三の理念を構築するには、この問題を避けては通れない。

  ゴルバチョフ、エリツイン、プ−チンにせよ、みなもとは立派なソ連共産党の幹部であった。彼らに思想的転向があったのだろうか。そのようなものは無かったと言っても過言ではない。だから余り苦悩せずに、いやそれどころか喜んで資本主義を迎え入れたではないか。ここで問題としているのは、社会制度の是非ではない。問題としているのは心的内面のことである。少しでも重厚な思想なるものがあれば、社会にたいする自己の責任を痛感するはずである。いや、そのことより自己内部の矛盾が破裂し、自己の社会的存在にけじめをつけていたかもしれない。だがそうしたことはまったく起こらなかった。颯爽と資本主義に移行していった。それはまさに破綻した社会共同体の醜態であった。とは言っても、問題の本質を個人に帰着すべきではない。どうしてそうした意識が形成されたのか、それが問題なのだ。たぶん、これは集団意識、社会意識であったのだろう。意識には短期間に形成される意識と長い歴史の中で沈潜した意識下の意識というものがある。

 

新しい時代の幕開け

  新しい時代とは何か、それは価値観の変化、パラダイムが変わることである。これは形態や制度のことではない、意識の問題である。ロシア人の中に近代合理主義の意識がどれほどあるだろうか。僧院を去ったアリョ−シャは結局、紆余曲折しながらソ連社会主義に行きつくのだが、今となって見るとロシア人は僧院にも、社会主義にも戻ることはないだろう。僧院は農奴を連想させ、社会主義は自由と物資のない階級差別社会を思い起こさせるにちがいない。それでもロマノフ王朝、ソ連と続いた自由のない生活に今度は終止符を打つかもしれない。ロシア人は宗教問題と思想問題は無意識の中で結論を出している可能性がある。ただし、これは表面にすぐには現れない、まさに微妙な変化が進行している。時代が根本的に変わる時、過去の価値観を清算しないことはありえない。コペルニクスの転回が起きる。ロシア人とって自由とは国家主義の呪縛から解放された個人の自由であり、豊かな能力主義の社会だろう。ロシア上層部最大の誤算となると思われるのは、かつてのソ連のようにロシア国民が国家にたいし忠誠心を持たなくなり、自覚した個人の集団である市民社会が形成されることである。おそらく上意下達の精神は終焉するだろう。それ故、チュチェン紛争に見られる大国意識は早い段階で内部崩壊するかもしれない。

 

赤いコネクションの儚い夢

  どのような時代でも新しい時代に突入する時、きまって元に戻ろうとする運動が働く。リアリテイをもって表現すれば利権ということになるが、それより人は新たなものを異物として拒否する生理的機能を宿命的にもっている。それが生物の本能だろう。ソ連が崩壊する時、ソ連共産党とソ連国家の資産はどうなったのだろうか。誰しも知りたいクエスチョンである。ソ連の国内外資産、特に国外資産は旧KGBの手で隠匿され、ポストソ連のために用意されたと言われる。主にそれは新興財閥の資金あてられたらしい。彼らにとって国家体制は重要ではなかった。重要なのは保身だけである。それも庶民ではけして手の届かぬ贅沢三昧の日常生活である。KGB出身のプ−チンはこのことをよく知っていたにちがいない。最近ロシア政権が新興財閥を目の敵にしているのは、こうした影の権力闘争のせいかもしれない。この構図は、はるかに複雑で把握し難く錯綜しているが、ゴルバチョフにせよ、エリツインにせよ、プ−チンにせよ、“赤いコネクション”の連鎖の中にいることは間違いないだろう。彼ら旧ソ連共産党幹部全員、改革派である。おそらくガイダ−ル率いたヤングリフォ−マ−たち、ネムツオフ、チュバイスなどもこの連鎖の中にいるのだろう。   

だがソ連社会主義という閉塞硬直化した政治経済体を破壊したことは、パンドラの箱を開けたことである。このことが、ロマノフ王朝からソ連に移行したことと、決定的に異なる点である。ロマノフ王朝とは君主が存在し、一部の支配階級が農民・労働者を支配していた自由のない封建社会である。ソ連邦とはボリシェビキという“赤い貴族”が労働者を支配し、基本的な自由のない社会である。しかし今度のロシアではそうはいかない。旧ソ連共産党幹部が夢想する支配の構図には基本的矛盾を最初から孕んでいる。新生ロシアは、自由経済民主主義国家を標榜している。特に経済では市場原理を導入している。市場原理は一面では物価を適性に導くが、もう一面では経済の過当競争を招き、市場そのものを破壊する可能性もある。だが最大の問題はインモラルである。人間が思考する基軸が腐敗し、破壊される。貨幣のみがあるゆる価値基準の最大のものとなり、それまでの因習・慣習、社会を形成した古い仕来りを葬り去るだろう。ソ連時代、建前こそ立派な様相を呈していたが、実際はKGBがコントロ−ルしていた裏取引の世界であった。KGBが認可した者だけがソ連では取引が出来たが、認可されなかった者はソ連では相手にされなかった。ところがこうした人脈、コネクションの世界は間もなく終わるだろう。その第一の根拠は法律が一般社会に開放され、それを基本に人間関係、社会関係、経済関係が決定されるからである。第二はソ連崩壊により、ロシア人は国家への信頼感を喪失し、自立精神が芽生え、個人主義が確立しつつある。この十年間、零落した生活の中で、古い型の国家指導者に期待をもてなくなっている。言い換えると、これはソ連時代のエリ−ト政治家の頽廃と無能を目の当たりにし、新生ロシアでもこれが継続しているからである。第三に新しい世代が経済界や、政界、法曹界、教育界などに進出している。こうした世代はソ連時代を悪弊の影響をほとんど受けずに成長し、特にヨ−ロッパから流入した価値観、合理主義を信奉している。

赤いコネクションと言っても、これは共産主義者の結びつきを意味するものではない。古い時代の利権・人脈グル−プのことである。この利権・人脈グル−プがいまだ新生ロシアでも、実権を握っているのは事実であろう。しかし彼らが存在できる前提条件は、純朴で義理人情のある古いロシア人の存在である。そうしたロシア人は自由主義経済や市場原理が定着してくると最早過去の幻影となる。

 

悲しい日露の歴史

  日露関係を最も複雑にしている最大の理由の一つは、第二次大戦直後の日本人捕虜60万人のシベリア抑留であろう。スタ−リンは戦争賠償の前金として、恐ろしいことだが生きた日本人約60万人をシベリア各地に連行し、強制労働させ、多くはそこで帰らぬ人になった。やがて日本人捕虜が時期をおいて復員してくる。早期復員者の中には多くソ連協力者がいたと言われる。遅れて帰還したものは非協力者であったのかもしれない。しかしこうして戦争の犠牲になり、その人生を翻弄された人たちが戦後日本社会のロシア観に大きく影響したのも事実である。日本ではその一部はソ連称賛の左翼勢力となり、他方は程度の差こそあれ、反共反ソとなる。シベリア抑留者のソ連批判はたしかに迫力があり、多くは事実でもあった。日本人はこうした人たちの意見を聞くにつれ、ロシア人嫌悪感が昂揚し、さらに米ソ冷戦が始まり、日本もその枠組みに組み入れられると、国策としても反ソ世論が形成される。ソ連抑留者の共産主義者転向は底の浅いものかもしれないが、生命と引き換えにした人もいるだろうから、かなり重い内容もあるのだろう。しかし振り返れば、当時ソ連に共産主義者が皆無に等しかったことを考えると、命と引き換えにその協力者になり、あるいはその思想に感化されたことが、時代の不可抗力にせよ、どれほど意味があったのだろうか。

  もう一つ特記しておくべきは、サハリン引揚者問題である。彼らは大方親ソであり、ソ連批判を余り聞かない。もしかしたらそうした宿命を背負わされたのかもしれない。それが出国の条件だったのだろうか。五十代、六十代のサハリン引揚者は少年期ロシア人を共に過ごし、ロシア人にたいする情は濃厚である。抑留復員者もサハリン引揚者も、ロシアでの人脈には格別のものがある。戦後の日ソビジネスはこうした人たちを中心に発展していった。このコネクションは今でも強いものがある。

  最後に北方領土問題に触れてみる。元島民の返還の強い希求は当然のことだが、日本人一般の心にはこの四島はどのように映っているのだろうか。戦後日本人のアイデンテイテイが恥辱にまみれたのは、沖縄と北方領土であろう。沖縄は70年代に返還されるが、相手は同盟国米国であるので、国内騒然としたとはいえ、当然の感もあった。ところが北方領土は仮想敵国ソ連が所有している。おそらく敗戦による日本人の屈辱感はかなり屈折した形で北方領土に投影されたにちがいない。日本人の民族意識にとって、きわめてシンボリックな存在になってしまった。だがこれは日本人の幻想かもしれない。日本の文化はそもそも外来文化である。日本人の思考が柔軟なのも、こうしたせいであり、元来民族意識の希薄な国民性なのである。こうしたナショナリズムは明治期に入り、日本人が国家を意識しだし、はじめて形成されたものと思われる。当時日本のエリ−ト層は欧米に留学し、あるいは外国の書物から多くのものを学んだにちがいない。だがこれは国家にとって必要な民族意識で、上からの民族意識の形成であった。そうした意味では人為的な民族意識でもある。日本人にパトリアチズムはあるだろうが、本質的にはナショナリズムはないのかもしれない。そう考えると、ソ連に奪われた北方領土にたいする日本人の意識は、鬱屈した日本人心理の捌け口とも言える。我々は空想ナショナリズムで北方領土返還をバ−チャルコミュニズムのソ連に求めていたのかもしれない。

  

歪められた真実

戦後半世紀以上経つが、日本に流れるロシアの情報はあまりにも少ない。米国とは同盟関係もあり、経済関係の比重が大きく、人的交流も活発で多くの日本人はリアルタイムで米国の事情を知ることができる。日米関係の情報はすでに一部専門家だけのものではなく、広く一般国民に開放されている。だがロシアに関してはいまだ特殊な専門家の領域である。最近でこそ、ソ連崩壊後ロシアとの往来は自由になったとはいえ、米国などと比較すると一桁も二桁も違うし、日本全体がそうしたエキスパ−トの所有する情報からしか、ロシアを知ることができない。しかしこのエキスパ−トが問題なのである。日本社会で今ロシア専門家と言われる人間はほとんど、若い時ソ連時代を体験し、政治的偏見に立脚している。彼らにとってロシアはいまだにソ連であり、赤いKGBが活躍する社会主義国家なのである。そのような国家は最早地球上に存在しないし、幻の姿をただ追いかけているだけである。幻影を信じる国民と国家がロシアを傍観者的に眺めているだけである。かつて作家深沢七郎が雑誌に外国人についてコメントを求められ、「私は元来外国人は嫌いだし、その上日本人はさらに信用できない」と述べたように記憶している。おそらくこれが戦後日本人意識の最も本質に近い表現かもしれない。

  交流の少ない分野では、情報は管理しやすいし、歪曲されやすい。数少ないロシアスペシャリストがロシアのリアリテイと称し、日本人にロシアの情報を自由に加工して流している。しかしいずれにしても、ロシア専門家は左翼知識人であろうと、保守派知識人であろうと、上述した赤いコネクションの連鎖に中に関わっている。ただ程度の差があるだけである。したがってこうした専門家以外から、正確な情報をつかむ必要がある。そうしないと、日本人のロシア観は当分変化することはないだろうし、日ロ関係は大きく進展する可能性はないだろう。

 

ロシア人と日本人の心

 ロシア民謡が日本で一時ブ−ムになったことがある。70年代新宿に歌声喫茶なるものがあり、そこで多くの若者がロシア民謡を大声で口ずさんでいた。たしかに日本人はロシア民謡が好きだ。あの音色のどことなく寂しい響きと、楽天的な早いテンポのリズム、そこにシンパシイとノスタルジアがある。日本とロシアには共通点が多い。日本の農民は長い間、無権利状態のまま苦しい労働と生活を余儀なくされてきた。ロシアでは農奴という形で農民は土地と領主に縛られていた。日本は300年間もヨ−ロッパ文明から隔絶され、近代科学に接することがほとんどできなかった。ロシアも首都を除けば、そうした文明からは大きく遅れをとっていた。ましてやシベリアなどではそうした文化を享受することはまったく不可能であった。両国とも長年にわたり、近代文化と離れた生活をおくっていた。さらにロシアでは10月革命後、社会主義・全体主義体制下で個人は全体への奉仕とされ、個人意識が育つことはなかった。一方日本は富国強兵、軍国主義と国に対し滅私奉公の道を戦前は歩んでいた。両国民にはおそらく「僕は君の考えには反対だが、君の考えを抹殺しようとする勢力にたいして僕は命を賭けて君を守る」という意識は、今日でさえないだろう。両民族とも情や義理を重んずる民族で、民主主義はさほど定着していない。形式だけは民主主義の体裁はとるが、実は古い家族制度、長老世界、先例主義で無意識のうちにあらゆる選択を決定している。民主主義は少数意見、反対意見を認めないと成立しないシステムである。何故なら言うまでもなく、それは個人の権利の上に成り立っているからだ。自覚した個人の集団である社会の中にまったく同じ意見の人が存在するわけはない。どこかで微妙に食い違っているものだ。

  これは民族の特性というより、むしろ古い封建社会の負の遺産なのである。こうした負の遺産を克服できず、両民族とも喘いでいる。日本は古い意識構造の上に、近代科学を開花させた先進国である。今日このことが日本の科学技術や経済発展の大きな足枷になっている。このことに大胆に踏み込まず、経済構造だけを改革しようとしても、待っているのは断崖絶壁であり、大破局であろう。全て最後は人間の意識が決定する。どんなに優れた資産があろうとも、どんなに優秀な技術設備であろうと、それを操るのは、最後は人間の意識である。この部分が腐敗していれば、どんなに立派な組織であろうと、どんなに高価な物であろうと、破壊されてしまう。

  ロシアも類似している。古い封建意識の上に近代軍事科学技術が聳え立っていただけである。こうした関係は相互に影響し合う関係にあるとはいえ、その格差はあまりにも大きい。ソ連はこうしたことによっても、崩壊していったのだろう。古い封建意識を背景とした国家上部層、そして古い封建意識のままの国民、そして市場原理主義、こうした相互の矛盾がロシアにせよ、日本にせよ、それまでの意識構造を変革し、おそらく政治家も学者も予想しえない結末が待っているだろう。

  日本人は、ロシア人を低く見ている。社会主義ソ連の時は、ロシア人は鉄鎖に繋がれて強制労働のイメ−ジを浮かべ、新生ロシアになると、連日マスコミが流す乞食のロシア人の姿をみては納得する。第二次大戦当時、日本人は米国やソ連の国力、戦力を正確に分析するより、神国という自己陶酔の世界に浸った。他の民族と比較すると、遥かに内的、心的なものに価値を見出す。心の中のイメ−ジをとても大切にする。そうしたものは、わびさびの世界、俳句の世界、禅の世界に通じる。日本人にとってロシア人は、こうしたイメ−ジの世界なのかもしれない。ロシアでは農奴という桎梏の中、19世紀ロシア文学が誕生した。ロシア人にとって日本人は、ロシア文学やソ連社会主義が日本人にあたえた強いインパクトに較べると、とても希薄な存在だろう。そして彼らに浮かぶイメ−ジは、勤勉実直な勤労者の姿である。日本は他国の文化を吸収することこそあれ、自国オリジナル文化を他国に輸出するような国ではない。バブル期に貿易交流を通して、日本の文化も輸出されたように見えた。しかしどれも現象的な応用文化に過ぎない。日本人が自覚すべきはまさにこのことなのである。そうした自覚なしに外国人と交流すると、日本人は安っぽい民族として際立ってしまう。まさにそれ故、お国自慢が好きなのである。その意味では自己陶酔、自己耽美型の文化なのである。

 

戦争とロシア語

ロシア語堪能者の中に、戦争抑留者やサハリン引揚者、さらにハルビン学院、満鉄、関東軍特務機関出身者が多くいる。全て戦争ル−ツである。戦後日本のロシア語普及はこうした人たちの存在ぬきには考えることはできない。一方は左翼運動に走り、他方はビジネス界入りした。前者は思想とロシア語を結び付け、ロシア語を通してソ連社会主義思想の文献理解や、中にはロシア語自体がイデオロギ−のシンボルとさえ思い込んだ者もいた。左翼の視点からロシア語を日本国内に普及させようとした試みも行われたが、結局うまくいかなかった。こうした言語そのものにイデオロギ−が介在した言語も珍しい。それ故にロシア語は広く国民の支持を受けることはなかった。日本の中では孤立した特殊な言語となった。ロシア語は言語そのものの価値とか魅力という視点で論じられることはほとんどなかった。それよりも、現実のメリットだけに焦点があてられ、極端に矮小化された。さらに冷戦構造の対立軸の上にロシア語が存在したことも、この言語の悲劇性がある。二十一世紀の今日でさえ、ちょっと田舎にいくと、いまだロシア語は共産主義の代名詞となっている。ちょっと考えれば分かることだが、それでも言語の属性はイデオロギ−であった。たしかに言語は何かの伝達手段である。それには勿論、ル−ルがある。情報発信者と受信者に同じル−ルがなければならない。例えば「山」という信号を送れば、相手は「山」という概念を理解している前提である。ロシア語の場合、これが経済や文化の情報というより、むしろイデオロギ−情報であった。英語について言えば、中学では義務教育、さらに高校大学と学習し、全体として見れば程度の差こそあれ、総合的な異文化知識が身についている。ところが、ロシア語は偏向的であり、その知識もビジネスはビジネス、文学は文学というように総合的でなく、セクト言語なのである。経済実用専門のロシア語はその域外に出ることはなく、戦争ル−ツである。文学のロシア語は、ほとんどマニアックで会話などまったく無関心である。このように日本には総合的ロシア語教育は存在せず、戦争という歴史がもたらした、歪曲された言語であった。

 

ロシア経験論批判

 何事も経験ほど有効であり、価値のあるものはない。過去の経験知識を深く学習し、それをもとに将来を判断する者ほど、現実に的確に対処できることは言うまでもない。ところが過去の制度が廃止され、新しい枠組みで何もかも決定せざるえなくなると、過去の経験知識ほど有害なものはない。時代の潮流に逆らうことになる。第二次大戦経験者、ソ連社会主義時代のロシア関係者はそろそろ歴史の舞台から退場する時である。そうした残党は企業にも、ロシア語界にもまだまだ力をもち、偏見の上で蓄積収集した調査デ−タや知識を流布している。本人はいたって真面目ではあるが、自己の歴史的使命は終焉していることにはまったく無自覚である。しかしこの人たちが日露関係も、ロシア語の正しい理解にたいしても、ブレ−キになっていることは最早明らかなことである。アリョ−シャは僧院、つまり古い封建社会(ロマノフ王朝とソ連社会主義)から近代社会の中に立ち去ったのだと思う。まさに日本のロシア関係者はアリョ−シャと共に新しいロシアパラダイムに突入する時期ではないだろうか。