ツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)
アクエンアテン(アメンヘテプ四世 紀元前1379~1362)
新王国時代第十八王朝のファラオ「アクエンアテン(アメンヘテプ四世)」は、アメン・ラー神(アメン神と太陽神ラーが合体した神)を最高神とする多神教の時代、アテン神(へリオポリスの太陽神)を絶対とする一神教への宗教改革を強行した。
強大になったアメン・ラー信仰に乗じて発言力を強め、政治にも口をはさみだしたアメン神殿の神官達を排除しようとしたためである。
さらに、アメン・ラー神官団の影響が強いテーベ(現在のルクソール)を逃れ、カイロとルクソールのほぼ中間に位置するのテル・アル=アマルナの地に、新都を3年の歳月をかけて建設した。この間に、王名もアメンホテプ四世からアクエンアテン(アテン神に気に入られた者)に変えている。
この新都は「アケト・アテン(アテンの地平線)」と呼ばれ、アクエンアテンは、美しい王妃ネフェルトイティイと共に移り住んだ。
ツタンカーメン(紀元前1361~1352)
ツタンカーメンの父親は、よく分かっていないが、幼児期にアケト・アテン(アマルナの新都)の北の宮殿で過ごしていた。たぶん、アクエンアテンの妃ネフェルトイティの手で育てられたと考えられる。
アクエンアテンの死後、ネフェルトイィは、アクエンアテンと自分の間に生まれた三女で、しかもアクエンアテンの妃であったアンケセパーテンが王位継承権を有するので、このアンケセパーテンをツタンカーメンと結婚させ、新ファラオとして即位させた。
ツタンカーメンが即位したときには、宗教改革の途中であったので、ツタンカーメンは、トゥト・アンク・アテン(アテン神の生る似姿)と呼ばれ、妃もアンケセナーメン改名した。ツタンカーメンの即位は、10~11歳と考えられている。
即位2年目、後見人であったネフェルトイティが死ぬと、アメン神官団の勢力が強くなり、宗教改革も継続困難になり、ついに、ツタンカーメンとアンケセパーテンは、アメン信仰に改宗することになる。ツタンカーメンの名前も、トゥト・アンク・アメン(アメン神の生る似姿)に変更し、王妃もアンケセナーメンに変えた。
また、都も、テーベに移された。アケト・アテンは見捨てられてしまい、それ以後、アケト・アテンは歴史の記述に登場することがなくなった。
その後、即位9年目に、突然ツタンカーメンは死亡する。死因は、毒殺、病死、撲殺(ミイラのX線写真で頭骨に穴があり、耳小骨?が飛んでいることから)などが言われているが、はっきりしない。
ツタンカーメン没後
ツタンカーメンの宰相アイ(高齢だが)は、ツタンカーメンの妃アンケセナーメンと結婚を画策した。アンケセナーメンはこれを嫌いヒッタイトのシュピルリウマに手紙を送り、その王子を婿に迎えて国王としたいとの手紙を送りこれが成功した。
シュピルマ王は、王子ザンナンザをエジプトに送ったが、途中で行方不明になった。(アイ一派に暗殺されたと考えられる)
結局、アンケセナーメンとアイは結婚し、アイが次の国王となったが、高齢のため治世は4年であった。
ツタンカーメンの墓
ツタンカーメンの時代の王墓作業監督マヤは、下エジプト国境警備隊長に任命替えになるまで長い間真面目に墓守を続けていた。その後、ツタンカーメンの墓の位置だけでなく、ツタンカーメンの存在さえ忘れ去られてしまった。従って、ラムセス二世(紀元前1304~1237)が多くの神殿に刻ませた王名表にもツタンカーメンの記載がない。
1900年頃、王家の谷の発掘権をを取得したセオドア・デービス(アメリカ)が、48号墓(ラムセス三世墓の近く)から、ツタンカーメンの名を記した容器や粘土製の印影発掘した。
ハワード・カーター(イギリス)は、これらの資料を入手し整理するうちに、未知の王「ツタンカーメン」の存在を確信した。カーナボン卿(イギリス)の資金援助を得つつ血の滲むような努力の結果、1922年、ついにツタンカーメンの王墓を発見した。
ツタンカーメンの王墓は、ファラオの墓としては小型であるが、盗掘を免れた多くの副葬品やミイラが発掘された。また、ミイラの顔にかぶせてあった黄金の面は特に素晴らしいものである。