cinemannual
Copyright:HIROTA KYOICHI
E-MAIL k-hirota at mug. biglobe. ne. jp
2024年
ぼくら日本人が知っている日本が日本なのか、そんな揺さぶりを海外の映画からかけられる。典型的なのが、このアニュアル2021年に書いた、「新しき土」(アーノルト・ファンク 伊丹万作 1937年)。厳島神社の裏手の浅間山から上がる噴煙をみて、戦中日本エキゾチズムのすがたをみるようだった。似たようなエキゾチズムは、「追撃機」(ディック・パウエル 1958年)にもあった。舞台は朝鮮戦争時の1950年代、伊丹空軍基地に着任した軍人ロバート・ミッチャムが部下の妻と京都ドライブする場面で、厳島神社が出てくる。厳島神社は特定の神社であることを超越し、どうやら日本らしい神社のアイコンにのぼりつめたようだ。「追撃機」が公開された1950年代末の訪日外国人数は年間10万人、1964年東京オリンピック、1970年大阪万博で一気に増えたものの、それぞれ35万人、85万人で、現在の3000万人超規模※と比べると、この極東の国は直に知られることのない、謎の国だったのだろう。(※「訪日外客統計2024年11月」(日本政府観光局)より)
日本趣味の21世紀 「ブレット・トレイン」
さて21世紀、多くの外国人が訪日して直にみて、またメディアを通じて日常的に日本をみて、謎の国ではなくなったのかというと、そうではないようすだ。浅間山のふもとには厳島神社はない、京都にもない、それはわかっていて、謎の国の謎を残しているところ、映画ならではのお楽しみ。そう思ったのが、東京発京都行の新幹線ひかり号(っぽいNippon Speed Lineのゆかり号)を舞台にしたアメリカ映画「ブレット・トレイン」(デヴィッド・リーチ2022年)だ。
おそらく日本をよくわかった上で、リアル日本(あるある日本)とフェイク日本(でたらめ日本)を組み合わせることで、謎多き日本っぽさを組み立てているようすだ。この組み合わせという点において、21世紀の日本趣味といえるものかもしれない。
プロット展開にあまり関係ないところで、日本らしさのデフォルメが大きく3つあり、いずれも笑わせる。一つ目は、ゆるキャラの「モモもん」。新幹線の中に、モモもんだらけの号車が設えられ、着ぐるみモモもんもいる。よくみると車両にはモモもんの「ガチャ」が据えられている。新幹線の中にガチャはないこと日本人なら承知しているが、海外からみえる「いかにも日本」なのだろう。二つ目は、新幹線のスマートトイレ。自動で蓋が開く、自動で水がでる、温風が吹く。凄腕殺し屋のブラッド・ピットがトイレに弄ばれる。日本のホテルにあることはあっても新幹線にはない、とか言い張ってもしかたない。海外からみえる「いかにも」のハイテク・ジャパン代表だからだ。なおハイテクの連なりで描かれるのが、新幹線の停車駅での1分ちょうどの停車時間だ。1秒の狂いもなく閉まるドアは、話の行方を左右するものとして描かれている。三つ目、車両の内装デザインが、日本伝統文様、青海波に鶴、だったりする。トイレのガラスや車内販売ワゴンにあしらわれる。新幹線にはないものだが、最近の各地の観光特別列車にみられるものだと考えると、リアル意匠ではある。これら、三大デフォルメといってよい。この映画の企画書には、「いかにも日本」要素として、①サブカルチャー系 ②ハイテク系 ③伝統文化系 と書かれている。などと妄想が膨らむ。
三大デフォルメがみどころではあるが、フェイク日本(でたらめ日本)がところどころ、わざとのように仕込まれているのも見逃せない。その1、東京駅に向かうブラッド・ピット、盛り場の電飾看板(所謂ネオンサイン)の通りを歩いていく。ネオンサインには、パブ・スナック、カラオケ、マッサージとか並ぶ。が、注意深く見よ、ネオンサイン「文具すずき」が混ざっている。実在するなら夜にちょっと訪問してみたい文具店だ。ちなみに、この後ブラッド・ピットが仕事道具を受け取るコインロッカーは、なんと新幹線のプラットフォームにある。その2、ゆかり号は、東京駅を出発して、品川、新横浜、静岡、名古屋、米原、そして京都と、ひかり号と同じ正しい順番で途中停車するのだが、ぼんやり眺めていてはいけない。富士山が車窓から見えるのが、名古屋、米原間になっている。その3、京都に着いて脱線・転覆したゆかり号の近くに、東寺五重塔のような街中寺社がみえるのだが、存在しないプロポーションの四重塔にわざとしている。武家屋敷のような峰岸邸に厳島神社ばりの鳥居がついていたり、でたらめ日本を、間違いさがしよろしく楽しめ、といわんばかりのでたらめぶりだ。
参考) 電通「ジャパンブランド調査2024」(世界15か国・地域の20~59歳 7460人対象)
お金を払って体験・利用したいものの3位、「新幹線」だ。単なる移動手段ではない何かがあるのだろう。1位 「庶民的な和食レストラン」(41.4%)、2位「農泊体験」(40.0%)、3位「新幹線」(37.3%)、4位「高級な和食レストラン」(36.3%)、5位「日本の伝統工芸品の購入」(35.9%)
「陽のあたる坂道」 思い出し笑いの名場面
「陽のあたる坂道」(田坂具隆 1958年)は、石坂洋次郎原作の会話に忠実に作られているようす、とにかく、台詞が多い、台詞が長い。登場人物は思いめぐらしやら、行動の理由やら、のべつまくなし語り続ける。最近の映画ではありえない台詞量ではないか。原作が新聞連載小説であるからか、もともと会話ばかりで構成された、冗長ともいえる小説で、並行していくつか走るプロットを割愛してもなお、台詞だらけで、聞き疲れするような映画だった。その中で、思い出し笑いの場面がふたつあって、それだけでシアワセな気分になる。それらの場面、後で原作を紐解いて確認したところ、原作に忠実なシーンではあるものの、台詞でなく動きで、気持ちの不思議を伝える名場面だった。(原作、つまり文章ではそのおもしろさを伝えきれていない部分の映像を、これまた文章で伝えようとしている愚かしさをおして、書いておきたい名場面だ)
石原裕次郎の田代信次は、故あって生き別れだった生母に会いに行き、そこでその息子民夫(川地民夫)にも会う。突然現れた信次を当然兄と認めようとしない民夫は、とうとう信次と川原で殴り合いになってしまう。信次の異母妹で民夫に憧れを抱く、芦川いづみの田代くみ子と、くみ子の家庭教師、北原三枝のたか子(信次への想い揺れつつけてる)が、はらはらしながらその様子をみまもる場面。はらはらするたびに、なぜかりんごを齧るくみ子。つられるように、たか子もりんごを齧る。齧る。齧る。原作(ちなみにりんごでなく梨だが)には「何かの動作をすることで、恐さを紛らさうというのであろう」註① ともっともらしい説明がつくが、映画では問答無用のおかしさを拾い出している。
そしてその夜、信次と民夫も仲直りし、四人で向かった「銀座裏の大きなキャバレー」の場面、原作に従って辿ると、こんな場面だ。「二百人近い男女」に交じって、信次はたか子と、くみ子は民夫と踊っている。「信次がたか子に強引に接吻」をするやいなや、「右手をひらめかせて信次のほほに烈しい平手打ちを喰らわせた」 ここまでは映画によくある場面だ。それをみたくみ子は、たか子につられたように「無意識に、自分も手をあげて民夫の頬ぺたをビシリと殴った」註② 民夫はくみ子に何もしていない。エルンスト・ルヴィッチ「天使」の、マレーネ・ディートリッヒの名台詞「女の行動に理由なんかないわ」を突然思い出す。映画を見終えても、この二つの場面、思い出し笑いが何度もこみあげてくる。
註 原作の引用は、石坂洋次郎「陽のあたる坂道」 「曇後晴れ」章 角川文庫 ①P.509, ②P.528~529
「プレイタイム」 バーバラの「パリの休日」
ジャック・タチ「プレイタイム」(1967年)のみかた。パリ観光にエコノミック航空の団体旅行で訪れたアメリカ人バーバラの視点で、ジャック・タチが案内する「パリの休日」を楽しむこととしよう。バーバラはアマチュア・キャスト。アメリカ人観光客役の女性たちは、SHAPE(欧州連合軍最高司令部)のアメリカ士官夫人とのことだ。ほぼ全編、パリ郊外のタチヴィル(TATIVILLE)と呼ばれた巨大セットの中で撮影された。オルリー空港からパリ市内に向かう、また帰路、空港に向かう、美しいハイウエイだけは、例外のロケだ。
どこの国も似たようなかんじのモダンな空港ターミナルビルは、バーバラの「パリの休日」を予告する。パリ市内に到着すると、ちょうど20階建ほどでスカイラインを揃え、低層部がセットバックした、アノニマスな美しいビルが建ち並んでいる。アノニマスなのは、すべてセット(5階までがホンモノとしてつくられ、あとハリボテらしい)だからだ。
バーバラがちょっと足をとめて、ビルの窓の観光ポスター「fly to London」に目を向ける。旅情を誘うポスターには、アノニマスなモダン・ビルと、小さく描かれた赤いダブルデッカーバス。みていると仲間から、「こっち、こっち。すてきな眺めよ」と促され、「ガイドブックによれば、アレキサンダー三世橋ね」と教えられるバーバラ。そこには、ロンドンのポスターのビルと全く同じビルが正面にみえる。ここでたじろぎもしないバーバラ、この「パリの休日」を享受するレディネスが備わっているかのようだ。ビルの脇に、かろうじて、アレキサンダー三世橋の金色の彫像がみえる。バーバラは促されるように、カメラを向ける。パリ観光のはじまりだ。ちなみに、映画をみているぼくらは、アレキサンダー三世橋の一帯は歴史的市街地で、大きなビルが建っているはずのないことを知っている。
モダンなビル街の中で、路面の花売りをみつけるバーバラ。「ホントのパリね」と独り言ち、「パリの風情を撮らせて」と、邪魔がたびたびはいりながらも、花売りの写真を撮る。アメリカ観光客ご一行様は忙しい。団体行動に遅れるわけにはいかない。国際見本市会場のビルにはいる。仲間が叫ぶ。「アメリカの製品もあるわよ」 どのビルも同じだが、ガラス扉に反射したエッフェル塔に、バーバラは気づく。ただ、エッフェル塔のまわりにはモダンなビルが建ち並んでいる。(映画をみているぼくらは、そんなわけない、と笑う) ビル内の航空会社のカウンターのまわりは、観光ポスターが並ぶ。U.S.A.、Hawaii、Mexico、Stockholm、Brazil、と続くが、すべて、Londonと同じ、モダンなビルの意匠だ。世界はみな、アメリカのようになってしまっているのだろうか、などと思い悩む間もなく、バーバラの「パリの休日」は続く。日が落ちかかる。町中のビルは、フロアごとに明かりが灯っていく。圧巻の夜景、バーバラはホテルに向かうバスの中だったから、うまいことみられたかどうか。
皆といっしょにロイヤルホテルに着いたバーバラは、緑のイブニングドレスに着替え、ナイト・ツアーにむけホテル・ロビーに集合する。ここで、ガラス扉に映るのは凱旋門だ。バーバラは気づかなかったようす、惜しい。だが、ホテルの正面はコンコルド広場で、噴水とオベリスクがガラスに映って見えている。ここはしっかり逃さず、夜景写真に収める。凱旋門とコンコルド広場の両方に近いホテルとはどのへんだろうとか気を揉む必要はまったくないことを、ぼくらは知っている。
アメリカ観光客ご一行様が到着したのはロイヤルガーデン。ここでフランス料理のディナーと音楽のお楽しみ。店の名は宿泊ホテルと同じく英語だが、ここでもそうなのか、と最早気にすることもないアメリカ観光客御一行様だ。新装開店のこのレストラン、いたるところ不具合だらけ、エントランスのガラス扉が砕けおちるのを合図にしたかのように、陽気な乱痴気パーティにむかう。ダンスをしたり、ピアノを披露したり、「パリの休日」の夜をめいっぱい楽しむバーバラだ。そのうち、夜があける。店の客と連れ立って、近くのドラッグストアでパーティの続き。ここでもDRUGSTOREと英語のネオンサインだ。店のガラス扉には、サクレクール寺院が映ってみえるではないか。バーバラは気づかずだ。残念。バーバラが求めるパリらしさは、路上の花売りで、またまた、ここでも花売りの写真を撮る。ドラッグストアにはいったのは明け方で、ようやく近隣のお店が開き始めたと思ったら、もう帰りの空港バスの時間だった。誰かからの贈り物の箱をバスの中で開けるバーバラ、贈り物のスカーフを頭につけ、箱からでてきたスズランの造花を手に、窓の外をみると、スズランの花と同じハイウエイの照明が、一つ一つ灯っていく。思い出いっぱいの「パリの休日」、これ以上ない、美しいエンディングだ。
映画の中で語られていることではない空想の世界にはいる。バーバラが撮ったパリの写真、アレキサンダー三世橋やコンコルド広場は、遠すぎたり暗すぎたりで、現像してみてがっかりだった。しかし、路上の花売りの写真は、背景がパリの歴史的な街並みでなく究極モダンの街並みであることで、エッジーな写真になった。これらは、フランス映画の歴史には残ってはいても、もうみることができないタチヴィルを撮ったものとして、ジャック・タチファン垂涎の写真だ。バーバラはタチヴィルの街並みに、シカゴ・ミシガン湖沿いのレイクショア・ドライブ・アパートメント(ミース・ファン・デル・ローエ 1951年、1956年)の、揃ったスカイラインやセットバックした低層部を連想しただろう。
ちょっと歴史を振り返る。1927年、ドイツで実験住宅展「ヴァイセンホーフ・ジートルンク」が、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエらの設計で行われた。翌年、近代建築国際会議CIAM第1回がスイスで開かれ、ヨーロッパ発、国をまたがるモダン・ムーブメントを方向づける契機となった。そして、この流れは1932年ニューヨーク近代美術館での「モダン・アーキテクチャー:インターナショナル展覧会」につながり、さらに第二次世界大戦後、アメリカがその経済力でリードしながら、インターナショナル・スタイルと呼ばれるモダニズム建築群が世界各地でつくられることとなる。(ミース・ファン・デル・ローエも、ナチスによってバウハウスの校長の座を追われ、活躍の舞台をヨーロッパからアメリカに求めた建築家の一人だ) なので、観光ポスターに、ロンドンもアメリカも同じようなビルが描かれるというギャグにまでなるのだ。 「ボリューム、規則性、装飾の忌避」とされたインターナショナル・スタイル3原則が反映されたユニバーサルな建築群、つまり、各々の目的を有しながらも目的に縛られない建築群が並ぶ街並み、実際にはそんな場所は世界中どこにもない。いってみればモダニズムの共同幻想だ。それが、パリという、都市の輪郭がはっきり認知されている街に再現している姿を、バーバラは目撃する。
かりそめとはいえ、モダニズムの共同幻想が実現した世界唯一の場所が、タチヴィルはないか。ヨーロッパ生まれのムーブメントが、機能性・合理性ゆえの揶揄の対象となりながらもアメリカで花開き、パリに凱旋したと考えると、バーバラの「パリの休日」は、ちゃんと、エッフェル塔やら凱旋門やらサクレクール寺院やらがみられなかったとしても、かけがえのない、モダニズム美の「Moment of Truth」に立ち会ったものといえる。
バーバラと違って、実際のタチヴィルをみることができなかったぼくら、でも悲しむことはない。「プレイタイム」のメイキング映像「プレイタイムを超えて」 (Au-delà de PLAYTIME ステファン・グデ 2002年) で追体験することができる。それによると、タチヴィルは、「プレイタイム」撮影終了後、別用途による再活用の道も探られたようだが、すべて解体されることとなった。映画のセットなのでその役割が全うされたことでそうなるのはいたしかたない。タチヴィルの解体のようすの一部が、「プレイタイムを超えて」に残る。セットのモダン・ビルが引き倒される場面、ジャック・タチが台本を放り投げて、間一髪逃げる、という、とってつけたような映像が残されている。ジャック・タチにとって、タチヴィルとは「プレイタイム」そのものだったのだろう。
あとがき
ジャック・タチがタチヴィルをつくるにあたり、インスパイアされたものが実際にあったのではという推測がいくつかあるようだ。建築雑誌「Architectural Digest」フランス版WEB 2022年3月8日 Clément Bellanger「Retour sur l’un des plus grands décors du cinéma français : « Tativille »に、「inspirée par le Lever House de Gordon Bunshaft.」とあり、ニューヨークの代表的モダニズム・ビル「レバーハウス」(ゴードン・バンシャフト 1952年)があげられている。註① 映画と建築の投稿サイト「KSA MA Architectural Visualisation」 2015年11月4日 には、「based on the Esso building at la defense and implicitly on lever house in New York」 (Angela Mantilla 「Absurdities of Modernity (in Jaques Tati´s Playtime)」)と.の記載がある。エッソビル(ジャック・グレベール1963年 1993年解体)は、パリ郊外ラ・デファンスにあったモダン・ビルの先駆けだ。註② レバーハウスとエッソビルは、他にもあちこちに記載があるものの、根拠について触れられていない。アメリカ発のライターのプラットホームサイト「MIDIUM」(2021年3月25日)、オーストラリアのインテリアデザイン企業のプログ「de de ce blog」(2014年11月11日)、ミラノ州立大のWEB学生季刊誌「Vulcanostatale」 (2014年12月17日)、スペインの建築事務所「Hulot」のプログ(2020年11月4日)、などなどだ。しかたないので、推測の根拠探しをしてみると、かろうじて、以下の手がかりがみつかった。
1958年、「ぼくの伯父さん」の大成功で、ジャック・タチはニューヨークを訪れている。写真家Yale Joelがタチを撮った写真が残っていて、よくみると、タチが工事現場越しに遠望しているのはレバーハウスだ。註③ エッソビルについては、「プレイタイム」テーマのタチへのインタビュー記事に、「80メートルの廊下の奥にあらわれる男、そうしたことはいたるところに見られます。エッソの建物はもっと長いんですが、そこを通る間に給油が必要になりかねない」註④ というタチのジョークが残る。セット撮影の際、巨大エッソビルが念頭にあったことが覗われる。真実はわからないが、妙なことに関心をもつジャック・タチファンが世界中にいることが知れて、なによりだった。
註① https://www.admagazine.fr/lifestyle/cinema/article/playtime-decor-cinema-francais-tativille
註② https://ksamaarchvis.wordpress.com/2015/11/04/absurdities-of-modernity-in-jaques-tatis-playtime/
註③ https://fi.pinterest.com/pin/563935184573079637/
註④ 「カイエ・ドュ・シネマ」1968年3月 「ジャック・タチインタビュー」細川晋訳 『E/Mブックス ジャック・タチ』 p.100
2023年
先日、このアニュアルの2019年「クレージー、半世紀」で触れた、大和証券呉服橋ビルの跡地に行ってみた。跡形もなく38階建のタワーに再開発されていた。クレージー映画で、さまざまな会社のオフィス役を、看板書き換えだけで務めた大和証券呉服橋ビル、「社長漫遊記」(杉江敏男 1963年)でも同じように「太陽ペイント」のオフィス役だったところをみると、クレージー映画だけでなく社長シリーズ含め、当時の東宝映画のあちこちに出ているかもしれない。再開発の街区を歩きながら、元々と異なる役回りを担わせることをキャスティングというのであれば、映画の中では、建築のキャスティングというのがあるのではないだろうか、と変なことを思いついた。大和証券呉服橋ビルはふつうのオフィスビルなので、看板書き換えだけでどんな会社にもなれた。が、オフィスビル以外にはならないことから芸域がせまいキャストともいえるかもしれない。建築のキャスティングの中には、元々の役回りからかけ離れたものもある。建築からすると、仮想のコンバージョン(用途変更)ともいえるのではないか。変な思いつき、エスカレートして止まらない。
建築のキャスティング
昨年2022年のこのアニュアル、「ロケ地熱情『ロスト・エモーション』」で触れた、大阪府立狭山池博物館(安藤忠雄2001年)の矯正施設”役”が、建築キャスティング、元々とは異なる役回りの例だ。建物の意匠や佇まいからのインスピレーションでキャスティングされたものだろう。つまり、たまたまのロケで使ったというより、意図をもって元々と異なる役回りを担わせていたということになる。映画の創造力、ときに妄想力の表れの一つではないだろうか。
映画と違って建築はアーカイブができないので、古くなったら解体され新陳代謝していく一方だが、昨今、文化資産として残していく動きも活発化している。古い建築の「リノベーション」、つまり、同じ用途のまま付加価値をつけての再活用は世界中で広がっているようすだ。例えば、放置されていた19世紀の国会議事堂にガラスのドームをはめ込んで再活用している、ベルリンのライヒスターク(改修ノーマン・フォスター1999年)がよく知られているかもしれない。ベルリン名所でもあるここ、ぼくが改修直後に訪れたとき、内部見学は1時間待ちの長蛇の列だった。リノベーション後のライヒスタークは、ブライアン・デ・パルマ「パッション」(2012年)、テレンス・マリック「聖杯たちの騎士」(2015年)など、多くの映画のロケ地にもなっている。
また、用途変更する「コンバージョン」も多く見聞きするようになった。コンバージョンもリノベーション同様、今に始まったことでなく、19世紀以前の伝統的建築について、パリのオルセー美術館(もとはオルセー駅) ロンドンのテイト・モダン(もとはバンクサイド発電所)など事例が多々あったが、最近、竣工から50年100年経過した20世紀のモダニズム建築にも、その順番が回ってきているようだ。このアニュアルに2021年でも書いた、ニューヨーク・J・F・ケネディ空港のTWAターミナル(エーロ・サーリネン1962年)がTWAホテルになったのも、モダニズム建築のコンバージョン代表例だろう。ほかにもある。トリノのフィアット工場・テストコースであるリンゴット(ジャコモ・マッテ・トルッコ 1923年)も、1989年にホテルなどの複合施設にコンバージョンされた。フィアット現役の工場だったときのリンゴットは、「ミニミニ大作戦」(ピーター・コリンソン 1969年)でみることができる。マイケル・ケイン演ずる金塊泥棒たちが乗ったイギリス車のミニ3台が、イタリア車のパトカーを楽々振り切って逃げるシーンのひとつがここの屋上、フィアットの完成車のテストコースだったところだ。そんなロケを許した、当時のフィアットの度量、すごい。ちなみにぼくがホテルに泊まった6年前、屋上テストコースはホテル宿泊客専用のジョギングコースになっていた。これもすごい。走っている人はいなかったが。
アニュアルを振り返ってみると、そういうことはあまり意識せずに、20世紀名建築のキャスティングを取り上げていた。2021年のアニュアル「戦中日本エキゾチズム、『新しき土』」では、西宮・甲子園ホテル(現・武庫川女子大学 遠藤新 1930年)の、「新しき土」(アーノルド・ファンク、伊丹万作1937年) 東京のホテル・ヨーロッパ”役”のことを書いた。ドイツからみた同盟国日本の首都の、ヨーロッパのホテルかと見まがうほどの素敵なホテル、という役だろう。用途でいうとホテルをホテルとして扱っているが、建築キャスティングの一種といえる。現在の甲子園ホテルは、戦中は海軍病院、戦後は米軍将校宿舎というコンバージョンを繰り返したのち、今は武庫川女子大学で会館として大切にされている。1930年代阪神間モダニズムの象徴のような場所の一つとして、建築ツアーで訪れることができ、ホテル・ヨーロッパ”役”を演じたとおりの華やかさを体験できる場所だ。
2017年のアニュアル「フェリーニ、ロケなのに特撮」では、ローマ・エウル会議堂(アダルベルト・リベラ 1954年)の、精神病院”役” (ジャン・ルイ・トランティニアンの父親の入院先)を、ローマ・エウル内のけったいな建築群の一つとして取り上げた。「暗殺の森」(ベルナルド・ベルトルッチ 1970年)だ。ムッソリーニが1942年ローマ万博に向けて国家の威信をかけて着工し頓挫、戦後竣工したもの。ファシズムが拠り所となっていた時代からその崩壊までが描かれたこの映画で、会議堂を精神病院に見立てるところ、ベルトルッチの批評の眼を、建築キャスティングによって垣間見ることができる。2017年にエウルを訪れ仰ぎ見た会議堂は、とりわけ斜めの角度からのクロスヴォールトの屋根が美しく、もしも、街の決め事のようなシンメトリに縛られずに権威性を避けられていたら、別の見え方のものになっていたろうと思わせるものだった。
アニュアルでふれてないが、建築が担った時代の役割とは別に、造形をもとにした建築キャスティングで強烈な印象があったものを思い出した。「ガタカ」(アンドリュー・ニコル 1997年)だ。マリン郡シビックセンター(フランク・ロイド・ライト1957年)に宇宙センターのガタカ社”役”がキャスティングされていた。そもそも、アポロ計画の始まりより早い1957年の建物だが、建てられた時からずっと近未来、しかも同じ機能を持ち続けている公共施設。現実の建物は、リノベーションもコンバージョンも関係ない。このガタカ社の建物の、つくりものではない美しさは、映画の切なさを際立たせていた。
今年見た邦画でも、印象に残ったものがあった。「Arc アーク」(石川慶 2021年)だ。ここでキャスティングされていたのは、香川県庁舎(現・東館 丹下健三1958年)と瀬戸内海歴史民俗博物館(山本忠司1973年)だ。不老不死が商品として民間企業の技術で実現された時代、それを選択する人々、選択しない人々がいる、というSFの舞台、不老不死技術を売るエタニティ社”役”が、香川県庁、そして 寿命のある人生を選んだ高齢者ホーム「天音の庭」”役”が瀬戸内海歴史民俗博物館だ。いずれも、半世紀以上昔からの現役公共施設というところに、映画のメッセージがあるように感じた。マリン郡シビックセンターのようなSF的な建築は日本にも多くあるにも関わらず、日本のモダニズム建築が選ばれている。香川県庁舎も瀬戸内海歴史民俗博物館も、日本らしいモダニズムを確立した記念碑性と、誰もがいつでも自由に出入りできる日常性が同居している建築だ。特に、香川県庁舎は昨年、戦後の庁舎建築の中で初めて重要文化財に指定されたが、重文になっても、ロビーの猪熊弦一郎の陶板壁画は触ることができるし、剣持勇のベンチには座ることができる。ちょっと大袈裟にいうと、戦後日本がめざしてきた豊かな公共というものがあるとすればこういうものでは、と感じられる場だ。日本の戦後民主主義を象徴し続けているような場が、不老不死という商品の舞台となっている。建築キャスティングは、シュールなSF仕立ての物語と、不老不死技術というものがあったとしても変わることのない人の生活のつなぎ役になっているようだった。
映画のロケ地を調べるのは、洋画の場合は、IMDBの「Filming Location」が重宝する。例えば、「ガタカ」では、「Filming Location」が19か所あげられており、そのトップに、「Marin County Civic Center, San Rafael, California, USA(Gattaca headquarters)」とあって確認ができるわけだ。邦画はIMDBではロケ情報は乏しい。逆に、有名な邦画では「映画タイトル+ロケ地」のWEB検索で、いくらでもヒットする。その中で最近目立つのが、ロケ地のフィルム・コミッションのサイトだ。「ロケ・ツーリズム」という言葉が最近でてきたとおり、映画などのロケ地巡りは、ツーリズムという言葉になるほどマーケットにもなってきているのだろう。あちこちのフィルム・コミッションなどから、ロケ地情報が公開されている邦画の一つに「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(山崎貴 2007年)がある。岡山県、山口県、茨城県などのフィルム・コミッションのオフィシャル・サイトで、実績アピールされている。これら公開情報があることで、ロケ地巡りをしたい人の助けになっていることだろう。一方で、「ロケ・ツーリズム」という言葉が登場する以前から、映画マニアによって、この名作映画のあの場面はここ、という個人サイトのような情報も多く出回っている。これらをみるとどうやら、ロケ地巡りとロケ地探し、似ているがちょっと異なる楽しみ方がそれぞれあるようにみえる。「ALWAYS 続・三丁目の夕日」をみて、フィルム・コミッションも了解の上で、ロケ地が映画の上ではわかりづらい状態にしておいて、ロケ地探しの楽しみの余地を映画の上で残しているのでは、とちょっと妄想してしまった。
第一作の「ALWAYS 三丁目の夕日」(山崎貴 2006年)の時から、1958年の最先端は東京タワーに絞って、どちらかというとそれよりもずっと古いロケ地を選択することで昭和レトロを形造ってきた作り手は、この2作目でも、昭和レトロのロケ地探索は怠りない。選んできたのは、例えば、甲子園ホテル(1930年)、宇部市民館(渡辺翁記念会館 村野藤吾1937年) 九段会館(旧軍人会館 川元良一1937年) という戦前の建物だ。第一作の舞台1958年でいうと、東京タワー以外に神奈川県立図書館とか、第二作の舞台1959年では国立西洋美術館とか、今も健在でロケもおそらく可能な、往時最先端の場所はあったろうが、戦前のものが選ばれている。しかも、わざわざロケをしたにも関わらず、その場所だとわかるかわからないか、という撮りとどめ方であるのに驚いた。
茶川(吉岡秀隆)が向かう東大の同窓会会場は甲子園ホテル、鈴木(堤真一)が向かう陸軍の同窓会の会場は九段会館、いずれも玄関ロビーのみで、かろうじて窓やドア、照明の意匠からわかるくらいのチラ撮りだ。宇部市民館は種明かしが映画の外でなされない限りはわからない撮られ方。六子(堀北真希)が友達といっしょに、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」(井上梅次1957年)をみにいく映画館がそれだ。もちろん映画のシーンの必然がロケの場所をどれだけ伝わるものとなるかで決めるものだろうから、どれだけチラ撮りでも変ではない。しかし、わざわざロケまでして、たったこれだけ? との感じが残る。チラ撮りしたとしても、どうせ宇部の人か建築関係者でないとわからないのであれば、「実はあれ宇部で撮ってました」という逸話のほうがおもしろいかも、とでも考えたのではないかと思いたくなる。わざわざ宇部ロケをしておいて、贅沢な使い方だ。これが贅沢だとすると、その贅沢を支えているのがフィルム・コミッションとその向こうでロケ地巡り、ロケ地探しを楽しみにしている映画ファンなのかもしれない。
ちなみに、山口県フィルム・コミッションのオフィシャル・サイトの「ロケ地情報」には以下のようにしっかり記載されている。 「建築家・村野藤吾が設計し、昭和12年(1937)に建てられた市民ホールです。国の重要文化財に指定されています。1階ロビーは、映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」で銀座の映画館の設定で使用されました。」
妄想だとしてもよいではないか、映画を楽しむ想像がひろがる、建築キャスティング、仮想コンバージョンの発見だ。
1958年というタイミングは、この映画にとっても、企業城下町八幡、八幡製鉄所にとっても、ここを逃すとこうは撮れなかったであろう、絶妙なものと思える。「この天の虹」は木下惠介が「楢山節考」と同年に撮った作、木下惠介コンプリートDVD-BOX 第4集に収められたことで、なんとかみる機会が得られた。(松竹による映像作家の周年プロジェクトは、一昨年の篠田正浩に限らずシリーズ化しているようで、「木下惠介生誕100周年プロジェクト」も大変ありがたい)
舞台は、戦後日本の産業振興による経済成長のシンボル、企業城下町八幡。「東洋一の製鉄所」と誇らしげなナレーションがはいる。経済成長が人々の夢を約束しはじめた時期(注1)、かつ、公害が社会問題化するより前の時期である。この映画が撮られた後の1960年代は、「大規模な工場が林立する洞海湾周辺地域の「城山地区」では、1965年に年平均80t/km2/月(最大108t/km2/月)という日本一の降下ばいじん量を記録しました。そして、1969年には、日本で初めてのスモッグ警報が発令されるなど、著しい大気汚染に苦しみました。」(北九州市ホームページ「北九州市の公害克服」より)というように省みられる時期になる。タイトルの「この天の虹」とは、工業地帯から立ち上る七色の煙のことで、夢を約束する象徴とされていることに、1960年代を知る者としてびっくりするが、もっとびっくりするのは、映画に撮りとどめられた、当時の最先端企業城下町のようすだ。木下惠介は、ドラマの舞台ということ以上に、記録映画のように企業城下町の姿を追っている。この映画における、そのみどころは二つある。
一つは、企業による生活まるがかえのようすだ。八幡の町全体が八幡製鐵(注2)の社宅だ。高炉公園からみおろすと桃園住宅がひろがる。生活を支える買い物は「購買会」、工員(大木実)が怪我をして担ぎ込まれるのは製鐵病院。レクリエーションの場も企業が用意する。従業員クラブ、体育館・プール、さらには保養所まで、すべて八幡製鐵が供するもので生活圏が完結している。桃園住宅は「我が国はじめての本格的 RC アパート団地」(注3)で、1950年から1956年にかけ46 棟 1336 戸が建設された。さらに大きな規模の穴生団地が1958年から建設されはじめる。スターハウスを配しサンルームつきの間取もある最新型は、映画の中でも団地の格差としてとらえられている。また、社宅なので定年退職すると退居しないといけない、どうしよう、ということが定年前の工員の家で話題になったりする。「この天の虹」は本当に虹なのか、巨大な機械に人間が従属しているだけなのではないか、主人公川津祐介の懊悩がドラマの一つの軸になっているが、そんなことで立ち止まっていられないという勢いで、生活と産業が一体となって、町全体が、時代が前進するようすが映画からよく伝わってくる。
もう一つは、まるがかえにとどまらない、生活文化を企業が牽引しているようすだ。従業員向けの娯楽として、水上ステージのショーが供される、大谷体育館では「八幡製鐵所 芸能祭」が催される、従業員クラブの門田会館では、溶鉱炉の組長の笠智衆が謡曲の練習に励んでいる。近くの河内貯水池(注3)には健康保険クラブがある。田村高廣と高千穂ひづるが、お見合いさせられたあと、意に染まないものだったと打ち明けあうクラブハウスだ。「アメリカのレーモンド設計事務所が設計」とナレーションがはいる。フランク・ロイド・ライトと来日したのがきっかけで、長く日本のモダニズム建築をリードしたアントニン・レーモンドが、大谷体育館などとともに手掛けた建築だ。(注5) この場面だけみると、コモ湖かレマン湖か、どこぞのヨーロッパ湖畔リゾートだろうというようにみえる。企業の福利厚生施策という次元ではない、生活文化をひきあげるのは企業のミッションと定めているのではないかと思うほどだ。ブラジル転勤を命ぜられた田村高廣に求婚された久我美子が、心揺れながらついていく決意をするエンディングにむかう。この映画においては、日本の西の端の一地方都市での出来事とは思えないくらい、昭和の日本最先端が漲っている。
注1 八幡製鐵所を舞台とした映画に「熱風」(1943年 山本薩夫 主演:藤田進 原節子)がある。富国強兵のため鉄の増産に命を懸けるという、戦中の国策映画だった。この映画からは、八幡製鐵所の、戦中からあった「生活まるがかえ」がうかがわれる。工員倶楽部には、演藝場、撞球室・卓球室などが備えられているのが描かれる。夜勤者のための「太陽燈室」と呼ばれるものもあったようだ。
注2 のちに「八幡製鐵」は企業合併を繰り返し、1970年「新日本製鐵」、2012年「新日鉄住金」、そして現在の「日本製鉄」(2019年より)と企業名が変遷する。(日本製鉄ホームページ「企業情報」「沿革」より)
注3 『「八幡製鐵所の官舎・社宅開発と市街地形」菅和彦 都市住宅学68号』 より
注4 河内貯水池は八幡製鐵が大正時代に建造した貯水池で、当時東洋一の規模だった。(「北九州市市政だより平成29年5月15日号八幡東区」より
注5 大谷体育館は1957年アメリカ建築協会「Award of Merit」を受賞したが、1999年解体された。健康保険クラブ、すなわち旧八幡製鐵河内寮は、その後、西南女学院河内研修所となったが現在使用されておらず廃墟となっている。河内寮について、暖炉のある談話室、1階から屋上につながる螺旋階段、など当時のハイカラな様子の写真が、『北九州地域における戦前の建築と戦後復興の建築活動に関する研究』(尾道健二, 内田千彰, 開田一博 九州共立大学 北九州産業技術保存継承センター)に残っている。
あとがき
建築キャスティング、もうひとつ。「時をかける少女(2010)」(谷口正晃2010)のクライマックスシーン、これから事故に遭ってしまう高速バスとわかりながら未来を変えられない、未来から来た「時をかける少女」(仲里依紗)のシーンは、群馬音楽センター(アントニン・レーモンド1961年)でロケされている。夜間の新宿高速バスセンター”役”。斜めのコラムと正方形のスティルサッシの全面ガラスからそれとわかる程度。高崎フィルム・コミッションのホームページでも実績作品として特に取り上げられているわけではないが、「時をかける少女(2010) ロケ地」で検索すると、ロケ地探しやロケ地巡りをしている人のサイトがどっさりでてくる。新宿高速バスセンター”役”にキャスティングされたのは映画製作上の必然が多くあってのことだろうが、チラ撮りであったとしても、いかにも「1970年代の新宿高速バスセンター」のようにみえる映画に仕上がって、地元高崎市の人や一部の人だけがそのことがわかるようになっており、そして、多くのこの映画のファンがどこだろうと調べたり訪問したりしてみたりしているのであれば、映画にとっても群馬音楽センターにとっても誰にとっても、ちょっといい話だ。
2022年
2007年のアニュアルに、『「ドン・キホーテを殺した男」に、マドンナを超えるキャスティングをして、SINGING TELEGRAMを17世紀スペインに、アオリ巨人とともに出演させてほしいものだ。』と書いたが、十数年ごしに念願叶い、「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」(原題 The Man Who Killed Don Quixote 2018年) をみることができた。2007年にこれを書いたときには、「ロスト・イン・ラ・マンチャ」(テリー・ギリアム 2002年) が、メイキング映画の形をとりながらも企画頓挫を売りにしていたくらいだったから、テリー・ギリアムによるドン・キホーテ映画、完成しないのではと半ば諦めかけていた。「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」日本の公式サイトによると「構想30年、企画頓挫9回」とのこと、やけくそのようなアピールにもみえるが世界中にぼくのように待っていた人がいたということだろう。
低予算モンティ・パイソン映画では考えられない、国際色豊かな豪華キャスト、スペイン・ポルトガルロケで、空想の翼に心地よく揺られ続けた。ドン・キホーテ役を演じたことで自らをドン・キホーテと信じてしまった靴職人老人ハビエル(ジョナサン・プライス)、その靴職人の弔いに向かいながら自分がドン・キホーテではないかと最後に思い始めるCM監督トビー(アダム・ドライバー)、この二人の登場人物、テリー・ギリアムその人だろうと思わせた。トビーが弔いの旅で出くわすのが巨人(実際はただの風車)、アオリで撮った「アオリ巨人」で、テリー・ギリアムファンの十数年ごしの期待にしっかり応えてくれていた。
ロケ地熱情 「ロスト・エモーション」
コロナのために旅がしづらい年が続く中、映画ではどこへでも行ける。ふだんから映画では全世界ロケをありがたく楽しませてもらって、自分ではとても行けないような場所にも行けるし、行けるようなところであっても空撮とか、みることのできないところから眺めることができたり、うれしいきもちばかりで、申し訳ないことにロケがどれだけ大変かというようなことを思う機会はあまりなかった。「ロスト・エモーション」(ドレイク・ドレマス)みて、余計な心配をしてしまった。感情が抑制・管理の対象となる近未来社会の舞台として選ばれたのは、シンガポールとともに日本。それらのロケ地が、著名建築家による建築作品で、行きやすいとはいえないところも含め、がんばって行ったことがあるところばかりだったもので、ついつい、ロケ、どれだけ大変だったのだろうと、へんなところに思い致すこととなった。
近未来の通勤はシンガポール・ロケ(ヘンダ―ソン・ウェーブ、マリーナ・バラージ)だが、そこから人々がはいっていくオフィスは、いきなり、越谷の埼玉県立大学(設計 山本理顕)だ。場面ではつながっているが、ロケは5000キロ以上離れた場所。それなりの数のキャスト・スタッフがいるだろうところ、大変な大移動、と思っていたら、さらに、オフィスの屋外にある集会場所は、淡路夢舞台(設計 安藤忠雄)の野外劇場。これ、国内移動も、楽ではない。ロケ地のコラージュ、一つの場所であるかのようにつなげている。
たしかに、淡路夢舞台は、野外劇場だけでなく、山の斜面に100の花壇を並べた百段苑、水庭、海回廊、ウェスティンホテル淡路(現グランドニッコー淡路)などなど、クールで美しい場所、近未来ロケ向きかもしれない、ここはきっとフィルム・オフィスとかもあってロケ誘致もしているだろうから、と勝手に独り合点してみつづける。近未来舞台はクールで美しいのだが、ディストピアの舞台でもあった。感情を持つことを「病気」とされる共同体、「病気」にかかると矯正施設送りになる。その施設、地下に掘り下げられた階段の、リズムを刻むハンドレール、零れ落ちる水のカーテン、大阪府立狭山池博物館(設計 安藤忠雄)だ。この映画のロケ意欲、すごいことなっていることに気づきはじめる。たたみかけるように、施設の入口となっているトンネル、これは信楽の山奥にあるMIHO MUSEUM(設計 イオ・ミン・ペイ) のステンレス・プレート張りのトンネルではないか。映画ではMIHO MUSEUMそのものも、またトンネル出た後に続く、弦楽器のような造形美の斜張橋も描かれない。トンネルのためだけに、滋賀でロケをしたということだ。
感情のある世界への逃避行、半島への列車に乗り込みこの映画はおわるが、その半島行きの列車に向かうところでは、MIHO MUSEUMのトンネル同様、ピンスポットで、熱海のMOA美術館のエスカレーターが選ばれている。IMDb のFilming Locationsで調べてみると、気づくことができなかったが、他にも長岡技術科学大学でもロケがあったようだ。日本ロケは、埼玉、兵庫、大阪、滋賀、静岡、新潟に及んでいたことになる。ロケ地への特別のこだわりがあることでできあがった映画のようにみえる。
受け手にとっては、ロケ地熱情に圧倒されながら、クールで美しいと思える建築コンセプトが反転していくのを目撃する映像体験でもあった。百段苑はもともと、阪神淡路大震災被災者への「祈りの庭」として設計されたもの。それがディストピアの舞台に組み込まれると、人間同様に高度管理下に置かれた植物世界というような見え方になる。MIHO MUSEUMのトンネル、この先何があるのだろうと期待を抱かせるために巧みにつくられたカーブが、どんな恐ろしいことが待ち構えているのか、という先の見えない景色に反転している。特定の歴史的、文化的な背景を背負った場所でなくとも、みえかたみせかたによって気持ちを大きく揺らす作用をつくることができる、そしてそういう場所があること、この映画は改めて気づかせてくれたかもしれない。
「ロスト・エモーション」のMIHO MUSEUMのステンレス・プレート張りのトンネル場面で、似た映像経験を思い出した。ニューヨーク、ジョン・F・ケネディ空港の「TWAターミナル5」のTUBEと呼ばれるトンネル状の通路だ。TWAターミナル5は、エーロ・サーリネン設計、1962年に竣工した、シェル構造建築の代表のような建物。2001年にTWAがアメリカン航空に吸収合併されターミナルとしての営業停止するまで、40年近く使われ続けた。その後、第5ターミナルは拡張され、ジェットブルー航空の拠点として、2008年10月から利用されている。ヘッドハウスと呼ばれた元ターミナルビルは、旅客増の時代に取り残されしばらく使われなかったが、2016年12月からの改装工事で、TWA Hotel に生まれ変わり、2019年5月にオープンしたようだ。1960年代デザインのアイコンでもあり、ニューヨーク市や国の歴史的建造物の指定を受けている。今ではレトロフューチャーのシンボルのような存在だが、ターミナルビルとして営業中には、ジョン・F・ケネディ空港のターミナルの一つとして日常風景として登場していたものだ。
「幸せはパリで」 (スチュワート・ローゼンバーグ 1970年)では、ニューヨークからパリへ、それぞれの家庭を捨てて出立するジャック・レモンとカトリーヌ・ドヌーブが新しい人生にむかう場面が、TWAターミナル5だった。「狼よさらば」(マイケル・ウィナー 1974年)では、チャールズ・ブロンソンが出張からニューヨークへTWA便で帰ってくるという普通の場面で、TWAターミナル5 が出てくる。ヘッドハウスとゲートの間をつなぐ通路TUBEは、「チリ・ペッパー・レッド」といわれた赤のカーペットが敷かれ、わざとのように狭く、また少し勾配があるようで、アメリカに入国する、あるいは出国するだけなのに、異次元の出入口かのように作られている。MIHO MUSEUMのトンネルと同じく、異なる場所への期待を募らせる効果があったのだろう。
この印象を反転させてうまく使ったのが、「マラソン・マン」(ジョン・シュレシンジャー 1976年) だ。ローレンス・オリヴィエ演ずる元ナチス戦犯「ゼル」がウルグアイからニューヨークへ、赤いカーペットを通って思わせぶりの入国。異国からやってくる、不吉な何者かという場面。「ロスト・エモーション」のトンネルと同じ、反転効果だ。
「ウェディング・バンケット」(アン・リー 1993年)では、台湾からニューヨークにやってくる、主人公ウェイトンのお見合い相手の空港出迎え場面で、シェル構造のヘッドハウスの建物全体がでている。台湾からはるばる、息子ウェイトンの結婚式に出て、門出を祝うはずだった両親は、ウェディング・バンケットのあと偽装結婚と知る。このまま帰国してしまっていいものか、しかしそうする他ない、門出を祝うには変わりない、というような複雑な想いをなんとか整理しながら帰国便の搭乗口に向かう。そのシーンで、TUBEだ。特別なこと、普通のこと、が、いったいどこにつながっているだろうと、居場所を見失わせるようなトンネル内で交錯する。
1960年代の輝かしい航空業界を、21世紀にふりかえったのが、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(スティーヴン・スピルバーグ 2002年) IMDbのFilming Dates によると、「2002年2月から4月の撮影」とされている。営業停止したばかりのターミナルがロケに使われたのだろう。レオナルド・ディカプリオの詐欺師フランクがなりすますのがパンナムのパイロット、TWA機で「デッドヘッド」(業務上の移動) する場面、たっぷりとTWAターミナル5ロケだ。TUBEが出てくるのは映画の最後のほう。詐欺で捕まり罪滅ぼしでFBIの仕事をやらされる毎日となったフランク、仕事のない土日に、かつての自由を取り戻すかのように、再びパイロットなりすまして空港に向かう。追ってきたトム・ハンクスのFBI捜査官がフランクに呼びかける、I 「どこへ行くんだ、行く先もないのに。。。月曜には戻って来いよ」 行先もないどこかへ向かう場面で、TUBEだ。
このように、TWAターミナル5のTUBEは、60年代アイコンから離れていき、非日常の旅への入口というよりも、異界への入口のような据えられ方をしていく。 2018年、改装工事がおわり、ホテルとしての、オープン前のお披露目でもあったのだろう、「オーシャンズ8」(ゲイリー・ロス 2018年)では、よみがえった60’s レトロフューチャーの場として、ファッションショーの舞台に選ばれている。オーシャンズ・シリーズ、お決まりのスカウティングの最初が、ヘレナ・ボナム・カーターのファッション・デザイナー。曰くありげの8人の女性たちが思いを遂げる大仕事、その始まりを告げる舞台となっていた。
TWAターミナル5は、”がんばって行きたい”場所だったので、2010年に訪れて、ジョン・F・ケネディ空港のエアトレインから姿がみえてきたときの感激はひとしおだった。ちょうど内部の工事中で、はいることができなかった。今度こそと思い、翌2011年再訪するが、やはり中にははいれない。さらに、その翌年2012年、三度目の挑戦、TWAのサインが復活していて利用されている雰囲気あったが、内部はガラスのドアごしにみるだけだった。今思うと時期が悪かったのだろう、三年連続で思い遂げられず、今に至った次第。TUBEにはいれる日は、コロナ明けのお楽しみにしておこう。
喝采、小物俳優サム・ロックウェル
大物を演ずる役者はたくさんいるが、小物を演じて名を馳せる役者はサム・ロックウェルをおいて他にいない。みた映画にサム・ロックウェルの出演クレジットはたくさん残っているのだが、どんな役だったか、申し訳ないことに記憶にはさっぱり残っていなかった。目に留まったのは、「ギャラクシー・クエスト」(ディーン・パリソット 1999年)。ティム・アレン、シガニー・ウィーバー、アラン・リックマンといった俳優陣の中で、ただひたすらの小物、という役回りだった。この映画、突き抜けた馬鹿馬鹿しさをふりまくSFパロディだが、根っこには抑えきれないほど溢れるフィクション愛があり、フィクション愛でフィクションの中にそれっぽいノンフィクションを抱え込む構造だ。そんな構造とは無関係に、過去の栄光でしかないつくりものの世界に憧れを抑えられないのが、サム・ロックウェル演ずるガイだ。かつての人気テレビシリーズ「ギャラクシー・クエスト」(映画と同名)の第81話で、溶岩モンスターに5分で殺されるだけの役を経て、「ギャラクシー・クエスト」ファンの集いのMCを務めながら、なんとかしてギャラクシー・クエストの一員になれないものか、あくせくしている。そして、どさくさに紛れ宇宙船プロテクター号に「乗組員6」として乗り込み、宇宙戦争に向かっていく役だ。それが本当の宇宙戦争とは知らずに。もちろん宇宙戦争では何の役にも立たず足を引っ張るばかり。ギャラクシー・クエストの面々は、栄光の過去に、他に選びようもなく不承不承しがみついているのに対し、しがみつくほどの過去もないのに憧れだけで過去にしがみついているうちに宇宙にいってしまう。誰も何も期待していないのになぜかそこにいるキャラクターだ。抑えられない憧れだけで、記憶に残る小物になった。
2002年あたりから、立て続けに主役を張るようになる。「コンフェッション」(ジョージ・クルーニー 2002年)「ウェルカム・トゥ・コリンウッド」(アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ 2002年)や「マッチステッィク・メン」(リドリー・スコット 2003年) 「銀河ヒッチハイク・ガイド」(ガース・ジェニングス 2005年) 「スノー・エンジェル」(デヴィッド・ゴードン・グリーン 2007年) 曲者、ダメ男、軽佻浮薄、悪くはないが、サム・ロックウェルしか出せない色はみられない。小物ぶりの輝きは、「月に囚われた男」(ダンカン・ジョーンズ 2009年)を待たねばならなかった。「月に囚われた男」 産業化した未来の宇宙。かつてのアストロノーツの栄光は去り、退屈な日常の場になっている月で働く宇宙労働者サムが役どころだ。よく壊れる機械や薄汚れた宇宙服がなんともよく似合う。どこにでもいる平凡な労働者でも、地球で待つ家族の元へ帰ることを待ちわび、かけがえのないその人の人生を送っているかのようにみえた。がそうではなかった、かけがえならいくらでもあった、というブラックなSF映画の味を何者でもないサムが深くしている。小物以外では出せない味わいではないか。
サム・ロックウェルが小物役者として脚光を浴びるようになったのは、アメリカという国のありようと重なるところがあるのではないだろうか。そう思ったのは「スリー・ビルボード」(マーティン・マクドナー2017年)の巡査ディクソン役、「ベスト・オブ・エネミーズ」(ロビン・ビセル 2019年)のKKK(クー・クラックス・クラン)支部長エリス役 を続けてみたときだった。社会悪と戦い勝利することを期待される役回りからかけ離れた位置で、自身の事情に閉じこもっている男が、確信もなくみせる良心は、数十年前には、普通に信じられていた「アメリカの良心」ともいえるものとはずいぶん異なるとしても、ここにあるではないか、と思わせるものだ。
2001年アメリカ同時多発テロ、アフガニタン、イラク侵攻と、ジョージ・W・ブッシュ政権下のアメリカは世界の中でのプレゼンスを大きく変えることとなった。その舞台裏の一つの側面が、「バイス」(アダム・マッケイ 2018年)で描かれていた。ちょうど「スリー・ビルボード」と「ベスト・オブ・エネミーズ」の間で撮られた作だ。「影の大統領」といわれていたチェイニー副大統領役はクリスチャン・ベイル。大向うから「大統領!」と声が聞こえるかのような副大統領の大物ぶり。それと対置させたのがジョージ・W・ブッシュ大統領役、演じたのは、誰も何も期待しない小物役のスペシャリスト、サム・ロックウェルだ。キャスティングだけで、アメリカという国のありよう、良心に確信をもつことが難儀になってしまったことを象徴しているかのようだった。だからこそ、「スリー・ビルボード」のディクソン、「ベスト・オブ・エネミーズ」のエリスは、サム・ロックウェルとともに強烈に記憶に刻まれることとなったように思える。
「スリー・ビルボード」では、ディクソンが被害者の母親フランシス・マクドーマンドのミルドレッドと犯人を求めて隣州に向かうところで映画は終わる。犯人に罪を償わせるという決着はつかないが、それよりも大きな次につながることが生まれたことが確信できるかのようなラストが用意されていた。「ベスト・オブ・エネミーズ」のエンディングは、KKK支部長でありながら黒人の側に付いたとされ白人に焼き討ちにあったエリスのガソリンスタンドに、彼を助けようと黒人がつくる車列だ。フランク・キャプラ映画の「アメリカの良心」をみるようだった。
あとがき
映画がコンテンツの一つとなってオンデマンドで提供されること、誰もが想像できたかつての未来だが、残念ながら必ずしもデマンドを満たせるものにはなっていない。好きな時に好きな場所・デバイスでみられるものの、映画ファンにとって、昔みたあの映画をもう一度みたいという欲求がさくさくかなえられるものになりそうになく、プレミアのついたセルDVDとかが依然幅をきかせているのはおもしろい。
コロナが始まってNetflixでも映画をみるようになったが、映画の紹介の最初に監督の名前が出ず、いつもとまどう。「もっと見る」で詳細情報にいくとみられるかというと、キャストはわかるが監督はでない。さらに「もっと見る」で、ようやくみることができるようになっていて、監督をよりどころに映画を選ぶようにはできていない。それは無名の駆け出し監督も声価を高めた監督も横並びのつくりだ。映画のつくり方、提供のしかたが変わることで、受け手の行動も変わっていくものだろうか。
2021年
昨年のCinemannualに、『篠田正浩「夜叉ヶ池」が、権利関係で今みることができないのはなんとも口惜しい』と書いたら、その声が届いたのかしらん、今年、「松竹100周年記念プロジェクト」の一環で、「篠田正浩監督生誕90周年4Kデジタルリマスター版」として、42年ぶり、「ジャパン・プレミア」上映だ。新型コロナ感染症収まらない中、久しぶりのユーロスペース。1年ずれの東京オリンピック2020とも関係ない、コロナとも関係ない、なぜ今「夜叉ヶ池」か、など考えるスキマもない、2時間の泉鏡花の幻想世界。
この原作を映画にしようというと誰もが心配する、有象無象の役柄の者ども。ちゃんと、「鯉七」(井川比佐志)もでてくる、「蟹五郎」(常田富士男)も、「鯰入」(三木のり平)もだ。繰り返し映画化され続ける「狸御殿」にも似て学芸会さながらの演出をする一方で、イグアスの滝のほとりに鐘楼を建ててしまう大スペクタクル。この傾斜が楽しい、真夏の涼しい映像体験だった。
時代も場所も超えるか、クロサワ映画
おもしろい本をみつけた。「旅する黒澤明 槙田寿文ポスター・コレクションより」(国書刊行会)。東京国立近代美術館フィルムセンターから独立した、国立映画アーカイブの開館記念の出版のようだ。海外で公開されたクロサワ映画のポスターの、29か国82点ものコレクション、開館記念の展示会でお披露目されたものらしい。
ポスターからは、極東の島国ニッポンをどう伝えるものか、苦労・工夫、あるいは野心のようなものが入り混じって寄せてくる。海外の映画賞を立て続けにとった「羅生門」「七人の侍」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」といった時代劇が多いだけに、写実性を高めようとすれば武士の装束など考証が追いつきにくいということもあったかもしれないし、映画の解釈をした上での抽象化に向かおうとしたら日本の文化や歴史への理解がさらに大変なところもあったろう。だが、異国の作品を紹介するぞという意欲がみなぎっていて、楽しい。
例えば、西ドイツのハンス・ヒルマンの「羅生門」ポスター。映画の解釈をした上での抽象化の好例。黒から白に区切られたグラデーションの上にのる、手、顔、足、がつながらない人のかたち、墨絵のようなぼかしのタッチ。この本に寄稿、岡田秀則「『言い切る』-ポスターに見る黒澤明の至芸」の中で、「ポスター画面を横切る3本の水平線によって、登場人物の言い分が食い違うこの作品自体の話法がシンボライズされているのが特徴であり、一歩進んだ黒澤映画への理解が読み取れる」と評されている。ポスターというよりも、クロサワ映画にインスパイアされて創ったアート作品といってもいいくらいだ。また、フィンランドのライモ・ライメラによる「七人の侍」は、三船敏郎の菊千代は描かれず、志村喬の勘兵衛も隅を追いやって、津島恵子の、農村の娘志乃が全面に立つ。勘兵衛のラストの名文句「勝ったのはあの百姓たちだ」を解釈したかのような意外な構図だ。緊張感と躍動感を漂わせながらも、色づかいにおいてはフィンランドのテキスタイルデザインのような鮮やかさ。ポスター展ではだれもが立ち止まったのではないか。ポーランド、チェコスロバキアといった、映画公開当時、旧ソ連影響下の東側諸国といわれた国々のデザインも、立ち止まらせる力がある。また、アラビア文字のイラン版(「七人の侍」)とか、キリル文字のソビエト版(「悪い奴ほどよく眠る)とか、映画は知っている日本人にとっても、ポスターから、いったいどんな映画だろうと想像をたくましくさせるものがあって、おもしろい。タイポグラフィ、カラーリング、など作品順、つまり年代順にみていくと、グラフィックデザイン20世紀後半の流れがみえてくるようでもある。
一方で、フィンランド「七人の侍」のようなお国柄がにじみ出るものはどちらかというと例外的であることも気づきだった。諸外国ではなじみの少ない時代劇のような要素が多いことから、「羅生門」は「羅生門」、西ドイツでもアメリカでもソ連でも、お国柄のだしようがないともいえるが、日本に根差しながら、いや、根差すことで逆に、お国柄によらない普遍性を、クロサワ映画がもっていた証かもしれない。
などと考えていたら、黒澤明作をちゃんとみかえしたくなった。全30作。未見のものいくつかあり、また数十年ぶりにみるものもあり、「旅する黒澤明」のおかげで、外国の人がみたらどんなふうに受け止めるのかというような、想像の黒澤明を旅することができた。
「姿三四郎」(1943年)
「一番美しく」(1944年)
「續姿三四郎」(1945年)
「虎の尾を踏む男達」(1946年)
「わが青春に悔なし」(1946年)
「素晴らしき日曜日」(1947年)
「醉いどれ天使」(1948年)
「静かなる決闘」(1949年)
「野良犬」(1950年)
「醜聞」(1950年)
「羅生門」(1951年)
「白痴」(1951年)
「生きる」(1952年)
「七人の侍」(1954年)
「生きものの記録」(1955年)
「蜘蛛巣城」(1957年)
「どん底」(1958年)
「隠し砦の三悪人」(1958年)
「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)
「用心棒」(1961年)
「椿三十郎」(1962年)
「天国と地獄」(1963年)
「赤ひげ」(1965年)
「どですかでん」(1970年)
「デルス・ウザーラ」((1975年)
「影武者」(1980年)
「乱」(1985年)
「夢」(1990年)
「八月の狂詩曲」(1991年)
「まあだだよ」(1993年)
没後20年以上経っていても、特に苦労することなく全作みることができるのは、ありがたい。まとめてみてみて、黒澤明の才気煥発ぶり、ぼくが理解できるものなどごく一部だろうが、楽しむことができた。ドストエフスキーやシェイクスピアを日本にもってくる。歌舞伎や能の様式美をもってくる。例えば、「虎の尾を踏む男達」 「勧進帳」に組み合わせるは洋楽コーラス「ヴォーカル・フォア合唱団」(日本で初めてのプロ合唱団らしい) 締めは、狂言回しの強力役エノケンの飛び六法だ。このたび初めてみて、思わずおひねりを投げたくなった。「旅する黒澤明」の中に、この映画の西ドイツ版のポスターもあったが、よくぞ西ドイツ、公開したものだ。ラストというのに、誰もいなくなっちまって、本来、弁慶の大河内傳次郎が相務めさせていただくべきところ、あっしですいませんね、とでもエノケンがいうかのような、爆笑の飛び六法、なんだかよくわからない所作だとしても、西ドイツできっと拍手喝采のラストだったろう。
古今東西のドラマや様式を自在に駆使してきた黒澤明が1970年に初のカラー作品として撮った「どですかでん」は、一見不思議な作だ。これもみ逃していた1作。山本周五郎「季節のない街」を原作に、戦後、掃きだめのような最底辺の生活がくりひろげられるバラック街が舞台だ。なぜ1970年に戦後のバラックなのか。当時「今日的」から最も距離があったのではないだろうか。時代や場所が特異であることで、時代や場所を超えた普遍性を却って際立たせられること、確信していたからこその企みであったかもしれない。「どですかでん」は時代や場所を超えるものか。公開当時の日本ででさえ、きっと特異にみえる舞台設定、超えたポイントが二つあるように思った。
ひとつは、六ちゃん(図師佳孝)だ。空想の電車の運転に毎日余念がない六ちゃん。なんだか理解をこえる人たちの、始末に負えないことだらけのバラック街と町の間を、毎日規則正しく往復する。子供たちから「電車ばか」と呼ばれ、石を投げつけられたりするが、意に介すことなくしっかりお勤めをしている。タイトルの「どですかでん」は六ちゃんが口にする電車の音だ。母親(菅井きん)は六ちゃんのことが心配で、毎日仏壇に向かい祈りを捧げているのに、傍らで当の六ちゃんが「かあちゃんの頭がよくなりますように、お願いします」(山本周五郎「季節のない街」(山本周五郎全集第15巻 新潮社 以下同、原作より)とやっている。バラック街でおこる出来事の合間合間にでてくる六ちゃんをみていると、これが日々の使命 と思って勤しんでいるぼくらも皆、けっこう六ちゃんではないか、と思えてくる。運転している電車が空想上のものか、実際のものか、などひょっとしたら、たいした違いではないのかもしれない。使命としてやっていることが実は現実の世界ではないかもしれないとしても、ほかにやりようがないではないか。六ちゃんも自分の電車には本当は人が乗っていないこと承知の上なのかもしれないが、それが毎日のお勤めであり、営みなのだ。
もうひとつは、カラーでバラック。これをカラーでとる必要などないだろうというような掃きだめ、象徴的なのが、六ちゃんの電車の発着駅となっている、ゴミを除けて通路になったところの行き止まりだ。色などない。チェコスロバキアのポスター(デザイナー、ヴラチスラフ・フラヴァティー)ではモノクロでとりあげられている。もともとカラーで美しくみせる必要のない街だから、色がアイコンとなる場面が妙に印象に残ったりする。酔っぱらいが自分の家と人の家を色でみわけたりという、馬鹿げたような色による彼我の区別は、のちの「影武者」や「乱」で、合戦の敵味方を色で区別するスペクタクルにつながっていくものかもしれない。いろいろなカラーの実験が仕込まれている中、 黒澤明、初のカラーでバラック街の理由は、映画の冒頭、また最後にでてくる六ちゃんの家の中ではないだろうか。窓や障子に貼られた、おびただしい、色とりどりの電車のこども絵だ。息子を思う母親と母親を思う息子が、毎日「やれやれ」というような生活しているだけなのに、掃きだめの街でここだけが神々しくみえる。光がさすと色の爆発、まるでゴシック教会のステンドグラスだ。美術監督、村木与四郎・忍夫妻の魔法がここにある。極東の掃きだめに、イギリスの人はカンタベリー大聖堂の、チェコスロバキアの人は聖ヴィート大聖堂の、ステンドグラスをみたにちがいない、と断じたくなるほどだ。
この映画、村木与四郎・忍の魔法がまだある。原作の章でいう「プールのある家」のエピソード、現実逃避しつづける宿なしの父と子は、家を建てる空想に生き、子どもは父親の空想の相手をするうち病であっけなく死ぬ。死んでも父親の空想は続く。原作の表現では、「総檜の冠木門」「塀は大谷石」「洋館は階上階下ともに冷暖房装置」「日本間のほうは数寄屋造り」「庭はいちめんの芝生」と、当時よくつくられた和洋折衷の富豪の家のようすだが、映画では、部屋の一つ一つがキューブになって積み木のように組み合わさった住宅が描かれている。メタボリズム建築ではないか。都市の成長や人口増に応じた有機的な成長をコンセプトとした建築として、丹下健三「静岡新聞・静岡放送東京支社ビル」(1967年) 菊竹清訓「エキスポ・タワー」(1970年) 黒川紀章「中銀カプセルタワー」(1972年) などの系譜。この映画がつくられた1970年は、世界に向けた理論の発信の後、大阪万博を頂点に実作に向かった時代だった。バラック街から空想するメタボリズム建築、建築の心得があったであろう村木与四郎・忍が、当時の建築トレンドをふまえたのではないだろうか。映画の中では、子どもの死後、子どもの希望だったプールが家の庭に付け加えられる。ずっと模型だった家に、本物の大きなプールが現われ、悲しくも美しい空想が完成する。
バラック街もなく電車ばかもいない半世紀後の日本でみていて、時代や場所を超えたなにものか、が伝わってくるようだ。クロサワ映画の中で、日本においては興行的にも躓き、必ずしも代表作のように扱われているわけではない「どですかでん」、「旅する黒澤明」の中では、先にとりあげたチェコスロバキアだけでなく、イギリス、ルーマニア、ポーランドのポスターが紹介されており、当時、これらの国々で公開されていたことが窺い知れる。この本に紹介されたポスターが必ずしも海外でのクロサワ受容を示すものではないだろうが、ポスターの点数では、「七人の侍」「羅生門」「影武者」が上位3で、「どですかでん」は「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」と並び4番目。ついでに、IMdbの「Release Info」の公開履歴から、「どですかでん」のクロサワ受容の一端でもわからないか、と調べてみたところ、公開された国の数、1位 「デルス・ウザーラ」26か国、 2位 「羅生門」24か国 、3位「七人の侍」 「乱」 23か国。 「どですかでん」は21か国でそれに次ぐ。「デルス・ウザーラ」「乱」は、もともと国際資本の映画であるし、また「「羅生門」と「七人の侍」は国際的な映画賞の受賞作だ。「どですかでん」は、日本からすると国際的に不思議な位置にある印象を受ける。イギリスのポスター(デザイナー セリア・ストザード)は、たくさんの六ちゃんとたくさんのDODESKADENのタイプを重ねた表現。六ちゃんだらけにすることで、そこにもいる、ここにもいる六ちゃんを暗示しているようにもみえる。時代や場所を超えるものが、日本人の思う以上にあったのかもしれない。
注) 空想の家のデザイン、当時の建築トレンドをふまえたものであったか、 「村木与四郎の映画美術」(フィルムアート社)の、聞き書き「どですかでん」の章によると、「登場人物の衣装と、乞食が想像する家は彼女のデザイン」との村木与四郎の言が残るのみで、想像の域をでない。
戦中日本エキゾチズム、「新しき土」
「原節子十六歳 新しき土」とタイトルを変え、2012年、75年ぶりリバイバル上映の機会でもなければ、戦中のプロパガンダ映画として、歴史に埋もれ続けていた映画かもしれない。1937年日独合作、アーノルト・ファンク 伊丹万作共同監督作。
のっけから日本人はパンチをくらう。原節子の大和光子が住むお屋敷の庭先は、厳島神社だ。ドイツ帰り、小林勇の輝雄は横浜港へ帰国する。出迎える東京のネオンサイン「阪神電車」が光る。外国人が撮る日本、まあそんなこともあるだろう。さらに、横浜港にむかう客船は果たして松島をとおるのだろうかとか、東京で泊まる「ホテル・ヨーロッパ」は、西宮の甲子園ホテル(現在、武庫川女子大学)なのに、とか、気になりだすが、細かいことを気にしてはいけない。おわりのほうで、大和家お屋敷の裏山(浅間山のようだ)から噴煙が上がり噴火の音が響きわたる前に、この映画の楽しみ方を日本人はわかっておけばよい。厳島神社が庭先にあって浅間山が裏山となる場所はどこだろう、などと考え巡らすことに意味はない。なぜなら、この日独合作は、それが日本のどこであるかなどに頓着しない、伝統的あるいは現代的日本らしい風景を、文化的、地勢的文脈と切り離してコラージュした映画で、求められるのは、海外に伝播される日本エキゾチズムを楽しむ度量だからだ。
外国人になった気持ちで日本はどのようにみえるものかを楽しみつつ、若い男女が悲劇にむかわざるをえない封建的な「家」の制度とか、日本はこの時代、そうだったんだろう、とか思ってみているうちに、ラストが突然訪れる。現代日本人が真に驚かないといけないのはここだ。そして輝雄は光子とともに満州開拓に汗を流すのでありました、という、とってつけたラスト・シークェンス。邦題「新しき土」はそういうことか、とわかる仕掛けになっている。今日、「原節子十六歳」とでもいわない限り、みてくれる人がいなくなってしまった映画である由だ。
注)アーノルト・ファンク 伊丹万作共同監督作ということだか、編集の違いで、ファンク版と伊丹版があるらしい。(今ふつうにみることができるのはファンク版) 原題は「Die Tochter des Samurai」(サムライの娘)。 なじみのうすい、極東の同盟国の紹介映画でもあったようだ。
2020年
日本人としての知識、というほどのものがあるわけでないけれど、それでもあるったけ掻き集めて総動員、としたところで、描かれている実体には到底迫れない。想像でどれだけ埋め合わせできるか次第なのだが、そもそも埋めようと手を伸ばしたとてそこにあるものといえば、たちのぼる気配、そこはかとないあわい、つかもうとした具体は、言葉を追ううちに片っ端から過ぎたものになっていく。
「(そこにいるのは)柳橋の(芸者の、あの)小芳 であつた」とは、泉鏡花は書かない。「粹で、品の佳い、しつとりした縞お召に、黒繻子の丸帯した御新造風の圓髷は、見違へるやうに質素だけれども、みどりの黒髪たぐひなき、柳橋の小芳であつた。」(『婦系圖』 「鏡花全集」春陽堂 以下同) 英語だと、主語、述語、そのあとに修飾語群が並ぶところ、ビジネス言語であれば「結論から言え」と叱られるところだ。修飾、修飾、そしてまた修飾、言語の伝達に係る合理性や機能性と縁切りした、最果ての日本語だ。黒繻子の丸帯とはどういうものか、御新造風の円髷とはどんなかんじだろう、思い悩む間に、小芳は登場してしまう。小説の冒頭でもそうだ。「お蔦は、酸漿を鳴らしてゐる」とは書かない。「素顔に口紅で美しいから、その色に紛ふけれども、可愛い音は、唇が鳴るのではない。お蔦は、皓歯に酸漿を含むで居る。」(『婦系圖』) レトリックによるイメージ連続技を仕掛けられているうちに次に行ってしまう。こけつまろびつ後を追うはめになる。この、置いてけぼりの仕打ちにあうのが鏡花の楽しみだ。
映画「瀧の白糸」の原作、『義血侠血』のヒロイン白糸の登場場面。「髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に臙脂のみを點したり。服装は、將棊の子を大形に散らしたる紺縮の浴衣に、唐繻子と繻珍の晝夜帶をば緩く引掛に結びて、空色縮緬の蹴出を微露し、素足に吾妻下駄、絹張の日傘に更紗の小包を持添へたり。」 映画はこれをどうするものか。絢爛たる描写、思い悩む暇なく、主人公たちはとっとと登場してしまうではないか。そんな気持ちから、泉鏡花原作映画を遠ざけていたところがあるかもしれない。今年、動画サイトで戦前の作をみたことがきっかけで、日本映画の鏡花へのむきあいに関心が及ぶこととなった。
泉鏡花映画化の20世紀
泉鏡花の小説・戯曲が原作とされている映画は、これまで26作ほどつくられているようだ。(舞台の映像化作品除く) 時代別に便宜的に三区分してみてみると、【戦前】9作、【戦後】(終戦から高度成長時代、映画動員数が延べ2億人を越えていた1973年まで)11作、【現代】(それより後、今に至るまで)6作。26作のうち、今年、動画サイトやセル・レンタルDVDでふつうにみることができたのは半数強の15作。最も新しい映画化が1995年、四半世紀つくられていない。映画としてはあまり流行っていないということだ。原作別に、初映画化された順に映画を並べてみよう、みえてくるものがありそうだ。
『義血侠血』(映画のタイトル「瀧の白糸」)
【戦前】 細山喜代松1915年 溝口健二1933年 広瀬五郎1937
【戦後】 木村恵吾1946年 野淵昶1952年 島耕二1956年
『日本橋』
【戦前】 溝口健二1929年
【戦後】 市川崑 1956年
『婦系圖』 (映画のタイトル 1955年版は「婦系図 湯島の白梅」)
【戦前】 野村芳亭1934年 マキノ雅弘1942年
【戦後】 衣笠貞之助1955年 土居通芳1959年 三隅研次1962年
『賣色鴨南蛮』 (映画のタイトル「折鶴お千」)
【戦前】 溝口健二1935年
『白鷺』
【戦前】 島津保次郎1941年
【戦後】 衣笠貞之助1958年
『歌行燈』
【戦前】 成瀬巳喜男1943年
【戦後】 衣笠貞之助1960年
『高野聖』(映画のタイトル 1957年版は「白夜の妖女」)
【戦後】 滝沢英輔1957年
【現代】 武智鉄二1983年
『三枚續』 (映画のタイトル「みだれ髪」)
【戦後】 衣笠貞之助1961年
『草迷宮』
【現代】 寺山修二1978年
『夜叉ヶ池』
【現代】 篠田正浩1979年
『陽炎座』
【現代】 鈴木清順1981年
『外科室』
【現代】 五代目坂東玉三郎1992年
『天守物語』
【現代】 五代目坂東玉三郎1995年
泉鏡花原作で最も多く映画化されたのは、『義血侠血』(映画タイトル「瀧の白糸」)で6回、次が『婦系圖』5回。ただ、この2作、【現代】になってから撮られたことはない。この二作以外は、泉鏡花代表作といわれる『歌行燈』や『高野聖』も含め、1回か2回に留まっている。「通俗小説-新派劇」パターン、紅涙絞る人気の系譜は【戦後】で廃れ、【現代】になってから幻想ものを中心に、初めての映画化、果敢な挑戦が細々と続いているという構図がみえてくるようだ。
映画の作り手は、泉鏡花の映画化がテーマではなく、映画の原作として文学作品の一つを選んだだけだろうから、原作の読者の一部が、レトリックによるイメージ連続技とやらを原作に感じていたとしても、取り合うこともあるまい。特に、最初の映画化である【戦前】作は、「通俗小説原作の新派劇」の、どろどろプロット展開の中で、映像だからこそ伝わるものへ一目散、映像のおもしろさを追うこころが伝わってくるようで楽しい。「瀧の白糸」(溝口健二1933年)を最初にみて、立て続けになった。
戦前作の気合
白糸(入江たか子)と欣弥(岡田時彦)の出逢いの場面。出逢いといっても、ロマンスにはとてもつながりそうもない乗合馬車の、馬丁の欣弥と「擧止侠」(とりなりきゃん)な客の白糸の場面だ。「開化の利器」といわれていたらしい乗合馬車が、人力車に追い抜かれまた追い抜いていく場面は、スペクタクルといっていい。人力車を何人ものの人が押して馬車を抜く、などという場面を、渾身の大まじめ、俯瞰遠写しに移動撮影。それだけでうれしくなる。しかもこの場面、舞台前に思い出し笑いする白糸にフラッシュバックさせる構成の妙。たしかに、馬車に乗り込む場面で登場する白糸、紺縮の浴衣も、空色縮緬の蹴出も描写されない。そもそもモノクロだし、この時代のカメラ・フィルムの解像度では着物のテクスチャまで及ぶはずもないが、そんなことを気にする者はいない。乗合馬車と人力車のチェイスに圧倒されるばかりだ。加えて、瀧の白糸の水芸。原作を何度読んでもよくわからないもの、なかなか乙なものとわかる。21世紀の科学知識に照らしてみても、どこからどうやって水が出てくるのだろう、不思議不思議と思っている間に、一面噴水のフィナーレになだれ込む。アメリカがMGM、エスター・ウィリアムスの水中レビューなら、日本は瀧の白糸の水芸だ、とまではいわないまでも、日本の夏に涼しい風をおくってくれる見世物小屋の芸が、美しく撮りとどめられている。
「瀧の白糸」だけではない。「白鷺」(島津保次郎1941年)の冒頭シーン。雪そぼ降る川面から白鷺が飛び立つ。同時に、橋上へクレーンアップするカメラ、そこには人待ち姿の蛇の目傘(料亭の娘、お篠 山田五十鈴)。待ち人は、意表をついて橋の下、橋をくぐった舟は料亭の舟着場へ。須臾の間に視座の早変わりをつめこんで、新派の舞台とは、おそらくちがう期待を集める幕開けだ。「折鶴お千」(溝口健二1935年)ではクライマックスシーン。風俗係にしょっ引かれるお千(山田五十鈴)、宗吉(夏川大二郎)と間を引き裂かれる。「ほつと吹く息、薄紅に、折鶴は却つて蒼白く、花片にふつと乘つて、ひらゝと空を舞つて行く」と原作(『賣色鴨南蛮』)。折鶴は折紙の隙間から息を吹き入れて出来上がり、は日本人としての知識の総動員でわかるが、そのまま飛んでいくは想像が及ばない。お千の「魂をあげます」の気持ち、折鶴に吹き入れられ空を舞う、は舞台では表現しえない。これが映画だ、というかの気合。
戦後作の開き直り
「通俗小説原作の新派劇」の映画化が陳腐になりつつあったであろう戦後、二番煎じリスクの中、泉鏡花原作で最もたくさん撮ったのが衣笠貞之助。衣笠4作中3作が戦前作の再映画化だ。全作コンビを組んだ渡辺公夫のカメラワークは、二番煎じとは言わせない迫力に満ちている。
どうせあまねく知られた物語なのだから見せ方だ、そんな開き直りも感じられる。遠いとよくみえなかった戦前モノクロ時代とは違う。舞台では一部の人しか享受できなかった「かぶりつき」がいくらでもできる、表情の細かなところまで写しとれる。そこを、あえて距離をおく。人物に迫らない。時代はカラー、そしてワイドスクリーン。横に広がったスコープを活かして、奥行を活かす。前景を大きくとる。大きく撮られるのは格子戸や障子の反復パターン、人物が片隅に小さく映る。登場人物への気持ちの寄りを抑制し続けるカメラともいえるかもしれない。
「歌行燈」(衣笠貞之助 1960年)の、お三重(山本富士子)と喜多八(市川雷蔵)の最初の場面。巨大な盆栽のような枝ぶりの庭木、池の水面に撥ねた光の揺らぎが障子にうつる。その向こうに小さく二人。これからどんな物語がはじまるのだろう、期待が高まるロングショット。お三重の父宗山の通夜に訪れた喜多八が追い出される場面は格子戸ごし。そして残されたお三重、障子と障子の間に小さく小さく。「みだれ髪」(衣笠貞之助 1961年)でも同じようなカメラワークが続く。待てども待てども山ノ井(川崎敬三)が来ない。夏子(山本富士子)の不安を写し取るのは、切子格子の切子の間をとおすハイアングルだ。その後、悲運に見舞われ地方に流れて芸者小夏になった夏子。追って再会を果たした愛吉(勝新太郎)。愛吉が切り出す思いの丈、察した小夏の「それから先はいわないで」の名場面、額入障子の額に愛吉、障子の隙間に小夏、手前に二人を阻むかのような庭木の枝。「白鷺」(衣笠貞之助 1958年)でも、ハイアングルが多用される。稲木潤一(川崎敬三)とお篠(山本富士子)の出逢いの場面では、間越欄間を前に斜めに走らせる。二度目に会う料亭でも 枡格子欄間と襖を近景にしたハイアングルだ。パースペクティブの小さな台形に、人々を小さく詰め込んだたように描かれる。誰のものでもない視点は、ただならないことが始まることを人智超える何者かがみている、といった視点だ。これが繰り返され、人智超えるラストに向かっていく。
細かい縦と横の単色の線、その繰り返しだけで構成された日本の住まい、格子戸や障子の美しさを際立たせる斜めの角度から、人は点のように配置するだけで絵のように引き立つ。格子戸、障子、襖、欄干。光や音は自在に行き交う。格子だから、障子だから、ぜんぶはみえない、人の表情など最早みえなくとも、気配だけがそれら越しに伝わる。これら住まう形象こそ、主人公ではないか、と思えるような存在感。運命に翻弄されっぱなしの男女はただの点だ。古めかしい明治の物語を物語るにそれしかない。そんな、期すところがあるかのようなカメラワーク、【戦後】の作だからこそかもしれない。
現代作、続く挑戦
【現代】になって初めて映画化された鏡花原作の映画は5作。「草迷宮」「夜叉ヶ池」「陽炎座」「外科室」「天守物語」、「外科室」を除いて皆、幻想譚、怪異譚だ。それらを、当代腕っこき、寺山修司、鈴木清順が、好き勝手妄想して撮った溌剌ぶりが、「草迷宮」や「陽炎座」にはある。(篠田正浩「夜叉ヶ池」が、権利関係で今みることができないのはなんとも口惜しい) こうして並べてみたとき、幻想譚「天守物語」の個性は際立っている。原作『天守物語』が小説でなく戯曲であることを差し引かないといけないかもしれないが、原作への忠実度が頭抜けている。それは、坂東玉三郎の泉鏡花に対する純な思い入れの度合いのようにもみえる。泉鏡花先生にみてもらって、褒めてもらいたい、というような。監督として2作、役者として2作、(「夜叉ヶ池」百合、白雪姫の二役と、天守物語の富姫役、つまり監督兼役者として、が1作)という履歴は映画だけのことで、舞台との関わりはそれよりも古く、また現在も続いているようだ。
露を餌に秋草釣り、優雅な天守暮らしの一方で、城主の首など意のままの、魔性のものども。人間と争いで傷つき視界を失ってしまうラスト、唐突に登場するのは、彫師近江之丞桃六。魔物に眼を彫り込み目をあける。呆気に取られたまま、なんだかよくわからないハッピーエンドになる。妖をさらに超えるものがいましたとさ、おしまい。妖を超える造形の神をぽんと書き加える自由奔放、そう、造形の神をも超えるは戯曲の原作者に他ならない。人智を超える多重構造を坂東玉三郎はそのまま再現してみせた。泉鏡花先生もきっとお褒めになることだろう。
柳橋の小芳
「通俗小説-新派劇」パターン、紅涙絞る人気の系譜 といういいかたで、十把一絡げの物言いになってしまったが、紅涙絞る場面、古びるものばかりでもない。
「婦系図」といえば、湯島の境内、別れの場面、「切れるの別れるのッて、そんな事は、藝者の時に云ふものよ。……私にや死ねと云つて下さい。蔦には枯れろ、とおつしやいましな。」(原作『湯島の境内』)は、古色蒼然の感あり、今や紅涙も絞りにくいのではないか。翻って、若い女性でないので紅い涙でもないものの、今もぐっとくるのは、お蔦の先輩芸者、小芳だ。
なお、映画「婦系図」は、原作『婦系圖』から離れて、書生の早瀬主税と芸者お蔦の悲恋物語に仕立てられている。湯島の名台詞は、新派劇をもとに、『婦系圖』から7年後泉鏡花本人により書かれた戯曲『湯島の境内』の中にあるものだ。小芳は、野村芳亭版(1934年)でも、三隅研次版(1962年)でも、原作に沿った人物造型、お蔦の影法師のような存在として、野村芳亭版では吉川満子が、三隅研次版では木暮美千代が、抑制の効いた好演をしている。
日陰者の悲しみを一身に、実の娘とは生き別れも同然、一目だけでも会いたい、でも叶わない。そんな思い、妹分のお蔦にだけはさせまいと、耐えてきた小芳、ひょっくり娘と会ってしまう場面だ。早瀬が書生をしている酒井家の娘、妙子は、早瀬を慕って早瀬の「内緒の奥さん」お蔦を、髪結いの家に訪ねる。応対するのが、たまたまお蔦の見舞いに来ていた小芳だ。妙子は実の母のことなど知る由もない。玄関で小芳が、妙子だと気づいて動揺するのは一瞬。「駒下駄の先を、逆に半分踏まへて、片褄蹴出しのみだれさへ、忘れたやうに瞻つて」 (原作)のとおり。素知らぬ顔で相対し続ける。無邪気に、「小母さん、小母さん」と言われ続ける小芳。お蔦に会って用が済んだ妙子が去ってから、実の娘であるのにそれを言えない、言う相手はお蔦の他なく、泣き崩れる。
この文脈を踏まえ、冒頭に引用した文をみてみよう。「粹で、品の佳い、しつとりした縞お召に、黒繻子の丸帯した御新造風の圓髷は、見違へるやうに質素だけれども、みどりの黒髪たぐひなき、柳橋の小芳であつた。」 運命の皮肉、用意がない再会をしてしまう小芳への気持ちの寄りが、勿体ぶった容姿の描写につながっているようではないか。これは、「(そこにいるのは)柳橋の(芸者の、あの)小芳 であつた」では伝わらない。こけつまろびつでも、後を追う甲斐があるというものだ。
あとがき
今年は、新型コロナウイルス感染症の「ステイホーム」のおかげで、泉鏡花の原作映画と原作の間、ひねもす何度となく行ったり来たり、ゆるゆるな時間が持てた。泉鏡花原作映画という切り口でみてみたが、【戦前】の、舞台に対し映画でしかできないことへの執念、【戦後】の、二番煎じの開き直り 【現代】新たな表現への挑戦 は、原作と映画の間をいちいち行ったり来たりなどしなくともいささか自明の、日本映画に広くあてはまることではと思ったり。中島敦が「日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなもの」とエッセイ「泉鏡花氏の文章』(中島敦全集 筑摩書房)に書いていたことを思い出し、原作映画と原作の往来は、「日本人としての知識」など貧しくも、日本人の特権だ、などと思ったり。
注) 泉鏡花の引用原典は「鏡花全集」春陽堂1925年版(『婦系圖』のみ「鏡花全集」春陽堂1910年版) 引用原典の正字の中で、環境依存漢字は避けました。
2020年東京オリンピックと関係しているかどうかわからないが、東京都心の再開発が進んでいる。八重洲北口の一帯も、常盤橋街区再開発プロジェクトとして大がかりな開発が始まっている。解体が進むビルの中には、延床面積で東洋一といわれた日本ビルヂング、屋上に据えられた三本脚電波塔が近未来的な大和証券呉服橋ビルなどがある。大和証券呉服橋ビルは、訪れたことはなくても1960年代東宝映画のファンなら、きっと誰もが見覚えのあるビルだ。「クレージー映画」(クレージー・キャッツ出演の、無責任シリーズ、日本一シリーズ、作戦シリーズ)の映画の舞台、「太平洋酒」「明音楽器」「ローズ化粧品」「丸々電機」「後藤又自動車」「統南商事」「世界ストッキング」「金友商事」といった会社オフィスのロケ地になっている。玄関キャノピーとスクリーンブロックのモダンなデザインはいつも変わらない。キャノピーに書かれる社名だけが映画ごとに入れ替わる、ロケ地定番。名脇役ともいえるかもしれない。
クレージー、半世紀
「ニッポン無責任時代」(1962年 古澤憲吾)にはじまるクレージー映画は、前回の1964年東京オリンピック前後の高度経済成長時代の、日本の高揚感を今にしっかり伝える。会社員の出世、国内外の企業間競争や規制との闘い、などが明るい未来に続くものとして背景に据えられているようだ。会社生活の中で、部長とか課長とかの職位により責任を分担しながらこつこつ積み上げていた当時の多くの普通の会社員にとって、植木等演ずるキャラクターはきっと、現実ばなれした爽快きわまりない存在だったにちがいない。だから「こつこつやる奴ぁ、ご苦労さん!」と笑い飛ばされたとて、なお眩しくみえる。何があっても、映画の中の植木等に「さあいっちょう、ぶわあっといくか」と掛け声をかけられると、「ハッスル、ハッスル、ハッスルホイ」といった元気が出るものだったのだろう。製作されて半世紀後にみた、こつこつやる奴タイプのぼくも、「クレージー作戦 くたばれ!無責任」(1963年坪島孝)をみた後はしばらくずっと、「ハッスルホイ」が頭の中で響いていた。
時代は貿易自由化。海外との競争や協業ネタで、映画の話はスケールアップしていく。当時多くの日本企業が実際に経験しはじめていたことでもあったのだろう。自動車の販売、転じて国産飛行機のアメリカへの売り込み(「日本一のゴマスリ男」1965年古澤憲吾)、浄水器の販売から中東アラジニア共和国への浄水施設の売り込み(「日本一のゴリガン男」1966年古澤憲吾)、さらには、ストッキング原材料のナイロン輸入の契約切れ危機に、窮地を脱する特許のクロス・ライセンス契約(「日本一の男の中の男」1967年古澤憲吾) ほら話めいた企業戦略も高度成長期らしさの一種だ。
クレージー映画では、東京ロケの名建築をみるのも楽しみの一つだ。日本ビルヂング(三菱地所 竣工1962年)の美しい水平ラインは、「日本一のゴマスリ男」の、細川眉子(浜美枝)のオープンカーで首都高から上野毛に向かう場面で、また「クレージーだよ奇想天外」(1966年坪島孝)の「大聖本社ビル」の場面で登場する。大和証券呉服橋ビル(中山克己建築設計事務所 竣工1956年)とともに、もうみることができないビルだ。「ニッポン無責任野郎」(1962年古澤憲吾)では、1968年の解体、一部移設前の、帝国ホテルの玄関(フランク・ロイド・ライト 竣工1923年)が登場する。もし全体保存がされていたら、今年選定登録された世界遺産「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」にはいっていたかもしれないともいわれるもの。そんな日本建築史の貴重な映像記録に残るのは、結婚式に”お呼びでない”のに闖入する源等(植木等)だ。式場でいっぱつ飛び入りで歌うのが、「てなこといわれてその気になって、女房にしたのが大間違い」の「ハイそれまでョ」だ。日本相互銀行本店ビル(前川國男 竣工1952年)も、失われた戦後名建築の一つ。うまい具合に大和証券呉服橋ビルのはす向かいにあったもので、「ニッポン無責任時代」や「日本一の色男」(1963年 古澤憲吾)をはじめ、大和証券呉服橋ビルがでてくるたびにちらちらみえてうれしい。「日本一の男の中の男」(1967年 古澤憲吾)は、日本一シリーズ5作目、舞台の「丸菱造船」のオフィスは、とうとう大和証券呉服橋ビルではなくなってしまったかと思っていたら、子会社出向になった小野子等(植木等)が赴いた「世界ストッキング」、これがちゃんと大和証券呉服橋ビルで、なんだかほっとする、妙なきもち。ちなみに「丸菱造船」のオフィスは、当時できたばかりの最先端、パレスサイドビル(日建設計 林昌二 竣工1966年)だ。現在、平日の昼休みしか開放されないビル屋上をみられるのもありがたい上に、道路拡張のため失われた、東玄関の躍動感あふれるバタフライ状の車寄せがみられるのもありがたい。
モダニズムより古い年代の、今なき建築が幻のように登場するところもみどころだ。「ニッポン無責任時代」植木等の平均(たいらひとし)が、「太平洋酒」を馘になって数寄屋橋のあたりで逆立ちする場面、向こうに見えるのは、表現主義といわれた様式の、旧東京朝日新聞社社屋(石本喜久治 竣工1925年) その隣の日本劇場(渡辺仁 竣工1933年) 今、有楽町マリオンの場所だ。かたや、半世紀以上生き残りつづけ今も健在の名建築が、映画を盛り立てているのも忘れてはいけない。「クレージーのぶちゃむくれ大発見」(古澤憲吾 1969年)、銀座のクラブ・フロアマネージャーの植木等が、コンピュータ会社の社員ハナ肇のツケの回収の話をするのは、三愛ドリームセンター(日建設計、林昌二 1962年)の、銀座4丁目交差点を一望するおしゃれな喫茶店だ。「日本一の男の中の男」、世界ストッキングのアメリカ取引先「デュパン」社、その東京支社は1960年代メタボリズム建築の代表ランドマーク、静岡放送・静岡新聞ビル(丹下健三都市建築設計研究所 竣工1967年)がロケ地に選ばれている。「クレージーだよ天下無敵」(1967年 坪島孝)では、競合相手の企業秘密を盗もうと躍起になった挙句、競合同士の会社合併のため馘になった猿飛三郎(植木等)と犬丸丸夫(谷啓)の二人が新会社「D&M商事」を立ち上げて新発明品「立体テレビ」を先んじて発売、という溜飲を下げるラスト、「D&M商事」の本社となっているのは、千代田生命本社ビル(村野藤吾 竣工1966年)だ。現在は目黒区総合庁舎にコンバージョンされて、ときどき建築見学会が催されたり、庁舎ロケーション誘致事業によって映画、ドラマ、CMのロケ地になったりで、大切に活かされている。
ミュージカル映画でもあるクレージー映画、植木等の歌と踊りを引き立てる舞台として選ばれているのが、1964年東京オリンピックのレガシー、駒沢や代々木だ。「日本一のゴマリすり男」の「ゴマすり節」は、駒沢公園体育館・管制塔(芦原義信 竣工1964年)を背景に駒沢オリンピック公園、「日本一の男の中の男」の「そうだそうですその通り」は、国立屋内総合競技場(丹下健三 竣工1964年)を背景に代々木公園だ。植木等の歌と踊りが今ひときわ大きくみえるのは、現在の駒沢や代々木に比べて、まわりにビルが少なく植栽も小さいせいだけではない。これから新しいことがはじまる予感に満ちた場所だったからではないか。
「クレージー映画」のタイトルバックも、1960年代、高度経済成長中の日本を今に伝える、大切な役回りになっている。近未来を先取りするような東京の街が何度も、空撮をまじえ撮られている。中でも国立屋内総合競技場は、空撮だからこその美しい姿をみることができる。1964年開通したての東海道新幹線が、何もないところや田圃を斜めに突っ切る様子も空撮ならではだ。日本初の超高層ビル、霞が関ビルディング(三井不動産、山下設計 竣工1968年)は、竣工前に「日本一の男の中の男」で、待ちきれないかのように首都高からのショットがタイトルバックに使われている。「クレージー大作戦」(1966年 古澤憲吾)のタイトルバックは、タイトルバックそのものがアート作品といえるような建築スチル写真の連続で驚かされる。国立屋内総合競技場、ホテルニューオータニ(観光企画設計社 竣工 1964年)、戸塚カントリークラブ・クラブハウス(丹下健三 竣工1961年)、パレスサイドビル、と、東京の当時のエッジーな建築がモノクロで連続する。東京の街は欧米と比較して、造っては壊しの連続 と語られることが多いが、二度目の東京オリンピックを契機に、1964年東京オリンピックのレガシーという言い回しもできて、半世紀たっても大切に使って残していこうという機運もあるようだ。クレージー映画は、そんなことどもに対してまったく無関係、無責任なのだが、今みると1960年代最先端の日本、東京の魅力をゆるぎなく伝える力を持っている。
補注)クレージー映画に登場する1950年代1960年代建築、日本相互銀行本店、パレスサイドビル、三愛ドリームセンター、静岡放送・静岡新聞ビル、駒沢公園体育館・管制塔、国立屋内総合競技場、千代田生命本社ビル、霞が関ビルは、docomomo Japan (Documentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movement モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の記録調査および保存のための国際組織)の選定作品になっている。
「無法松の一生」1943年 いちばんの場面
ぼん、ぼんさん、と呼んでいた敏雄も進学のために、いよいよ熊本へ旅立ちだ。こどもと思っていたのに、時がたつのは速い。吉岡夫人から、敏雄のこと、もうぼんさんと呼ばないでほしい、例えば「吉岡さん」とか、とやんわりいわれて面食らう、無法松こと松五郎。そして、小倉駅に向かって力車を引きながら、吉岡さん、吉岡さん、と練習するかのようにぼそぼそつぶやいている。松五郎にとっては、ずっと続いてきた、敏雄にまた吉岡夫人に頼られる存在だったところから、距離があこうとする瞬間でもあった。
飲み屋のカウンターでコップ酒の松五郎。しばらくやめていたという酒に再び溺れるようす。壁にかかった、清酒「カブト正宗」の美人画ポスター、吉岡夫人に似てなくもない、そこにカメラがぐいと寄ったところでパン、すると「ごめんください」と吉岡夫人が松五郎のねぐらを訪ねる翌朝の場面につながる。美人画と吉岡夫人が重なるように連続する妙。ねぐらの壁には、松五郎が前の晩見つめていた美人画ポスターが貼られていているではないか。松五郎、思慕のあまり、ポスターをちゃっかり手にいれて貼ったにちがいない。そんなところに、不意打ちの吉岡夫人の訪問だ。話をしながらも、美人画を夫人にみられはしないか、もじもじしながら気にする松五郎。仮にみられたとしても、吉岡夫人が自分をなぞらえたものと思うはずもないところの、取り越し苦労のもじもじ。「無法松の一生」(1943年 稲垣浩)の、いちばんの場面だ。
35年前、上映会でこの映画を初めてみたときには知らなかったが、 「無法松の一生」といえば、検閲で一部削除されたため、稲垣浩が戦後しばらくして(1958年)、三船敏郎、高峰秀子を主演にセルフリメイクして、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した快挙で有名だったようだ。製作時に内務省の検閲で削除、終戦後GHQの検閲でまた別のところを削除と、踏んだり蹴ったりであったらしい。
「無法松の一生」(1943年)が、映画表現と検閲をめぐる代表の物語のようになったのは、1958年のリメイクが、検閲、一部削除の痕をはっきり知らしめるためかというくらいに、1943年版に忠実に作られたためではないだろうか。どこがどのように削除されたのか、それはなぜだったのか、という多くの研究者やファンの関心は、1958年版によってつまびらかになった1943年版との差異が起点となっているように思える。
「無法松の一生」は、1958年稲垣浩のセルフリメイクの後、1963年版(村山新治)、1965年版(三隈研次)とリメイクがブームのように続いた後、しばらく時間をおいて、検閲の歴史のふりかえりが始まったようだ。1987年になって、伊丹万作の脚本(1943年版)をもとに、失われた部分を歌・映像・朗読で再現するという試みが、映画評論家白井佳夫によっておこなわれる。これは「無法松の一生 完全復元パフォーマンス」として今もビデオでみることができるようだ。「映画『無法松の一生』再生(Ⅰ)―映画検閲とその復現検証―」太田米男 大阪芸術大学紀要『藝術17』(1994年)は、この映画を検閲の履歴とともに丹念に掘り起こし、1997年までの4か年にわたり、物語にまで高めている論評だ。「今回,この映画の撮影を担当された宮川一夫カメラマンの資料整理と調査の過程で,映画『羅生門』などのカット・ピースと共に,この『無法松の一生』のフィルム・ロールの一部が見付かっている。(中略)何よりもこのフィルム・ロールの中には検閲で切除され現存しない筈のシーンが含まれていることである。」ここで言及されているのが、戦後GHQによって削除された映像だ。踏んだり蹴ったりの「蹴ったり」の削除部分。長らく失われていたものの発見は、検閲の歴史のふりかえりの大きな機会になったのだろう。この削除部分は、2007年角川書店発売のDVD「無法松の一生」の特典映像として、音声はないけれどだれもが確認できるものとなっている。
この論評の中でも検証先として引用されている「映画検閲時報」は、大正14年から昭和19年の内務省警保局による映画検閲の履歴文書だ。これが復刻出版されたのが1985、1986年。出版元「不二出版」によるパンフレットには内容例の一つとして、昭和18年10月号の時報(一部)が取り上げられている。
一 第九巻松五郎ト熊吉トガ居酒屋ニテ酒ヲ飲ム画面中熊吉ガ松五郎ニ嫁ヲ貰ヘト薦メル箇所及ビ松五郎ノ家ヲ未亡人ガ訪ネ来ル画面中松五郎ガ壁ニ掲ゲタル美人画ノビラヲ巻キ取ル箇所ハ自D12 至D25及ビ自D33A至D42 ト共ニ切除(七二米)(風俗)」
一 第九巻巻末ニ於テ吉岡家ノ居間ニテ写経中ノ未亡人ヲ松五郎ガ訪ネ来ル箇所切除(十四米)(風俗)
一 第一〇巻吉岡家ノ居間ニ於テ於五郎ガ未亡人ニ対シ今マデ未亡人ヲ思慕シ居タル気持ヲ告白スル箇所及ビ松五郎ガ居酒屋ニテ微吟シナガラ酒ヲ飲ム箇所並ニ松五郎ガ雪中ニ行キ倒レル箇所ハ右各画面ニ付随スル記声部分自D1至D12 ト共ニ切除(二〇一米)(風俗)
こちらが「踏んだり」の部分。パンフに内容例として取り上げられるということはそれほど知られた存在で、この内部文書が公になることを待っていた、日本映画史研究者とかが数多いたのだろう。検閲をめぐる物語はこうして今に至っているようだ。「踏んだり」にしても「蹴ったり」にしても、削除理由は推測の域を出ない。内務省のほうは(風俗)というのがその説明にあたる部分だろう。説明ないに等しい。「蹴ったり」は、GHQの資料が時代の流れで将来公開されることがもしあれば理由に迫れる可能性もなくはないが、現在は知る由もない。
こうして僕も好奇心に導かれ、「無法松の一生」の映画表現と検閲をめぐる物語にはいっていったわけだが、35年前に何の知識もなくみたときの感動も、今改めて「踏んだり蹴ったり」の後であることを知った上でみたときの感動も、まったく変わらない。1958年版で、どれだけ削除の痕をみせつけられたとしても、だ。 削除された「美人画ノビラヲ巻キ取ル箇所」はなくとも、美人画を夫人にみられはしないか気にする松五郎の姿で、きもちは伝わる。1958年版では、三船敏郎の松五郎がポスターを巻き取るところまで再現されているが、1943年版の「いちばん」が揺らぐことは、少なくともぼくにはない。銃後を守る軍人未亡人への車夫の恋慕など許されない、とか、日露戦争の戦勝に沸く提灯行列みたいな、戦中の国威発揚に近づくものはけしからん、といった時代時代の事情で踏んだり蹴ったりがあったとしても、この「いちばん」が残ったことは、全部残ったと同じと思えるくらいだ。
カレル・ゼマンの目くらまし
初めてカレル・ゼマンの「悪魔の発明」 (1958年) 「ほら男爵の冒険」(1961年)をみときのびっくりを、2005年のこのアニュアル「近未来の見立て」で、 「イスタンブールならロケができるかも、という発想さえ禁じ手、それであるかどうかより、それらしくみえるかどうかへの挑戦に、拍手だ。」と書いた。この時代、ほとんど空想するしかなかった月世界も、それなりの科学的な情報をもとに想像したであろう海底も、ロケをしようと思ったらできたかもしれないイスタンブールも、全部、カレル・ゼマンの手にかかれば同じこと、どんな時代のどんな場所でも映画の舞台にしてしまえるのだから、月世界や海底がロケなしでできるのだからイスタンブールでもロケなど不要だ。さらにいうと、空想によりつくることこそ拘りどころ、リアルであるかどうかは二の次だ。「それらしさの挑戦」においては、リアルをわかるかどうかというのは尺度ではないので、大人も子どもに対し優位があるわけでなく、持つもの持たざるものを分かつものもない。空想したもの勝ち。そんな「それらしさの挑戦」に拍手、という印象のものだった。今年、「悪魔の発明」 「ほら男爵の冒険」に続く時期に撮られた「狂気のクロニクル」(1964年) 「彗星に乗って」(1970年)をみて、ちょっと、抜かった。「それらしさの挑戦」どころか、「それ」もあるのかないのか、どれなのか、支離滅裂、アナーキーな目くらましに遭った。
「狂気のクロニクル」はオーストリア・ハプスブルク帝国で始まったといわれる、17世紀の30年戦争を舞台としていることになっている。語り部の台詞「戦いの神様の声が遠くで響くと 町は火の海になりました」 のとおり、神様の息で風が吹けば、ドラゴン印の国王軍が優勢か、鳥印の皇帝軍が優勢か、目まぐるしく戦況が変わる。戦況が変わると敵と味方が入れ替わる。入れ替わると、農夫のペテルとロバを連れていたレンカの二人は、捕虜になったり、閣下と奉られたりする。桶屋が儲かる、というオチすらない。用意されたのは、ペテルとレンカの二人は、国王軍と皇帝軍の間で翻弄されながら最後は、追手から逃げ切ることができました、の大団円だ。皇帝のお城は書き割りに実写、神様はアニメーション、などなどつくりもの要素はいつものとおりだが、つくりものでそれらしくみせる対象はここにはみあたらない。
「彗星に乗って」はどうか。1888年 植民地時代の北アフリカ、植民地をめぐって、フランスやスペイン、アラブの部族が争う中、未知の彗星の接近により、彗星にさらわれる。さらわれたのは、どこなのか、何なのか、などいちいち気にしていられないくらい、ここからどんどん宇宙規模の支離滅裂に引っ張られる。非常事態に対して、統治をするフランスはどうするか、まずは外国人逮捕だ。非常時にありがちなことだ。ここまでは無理矢理理解するとして、そんな無理矢理など意味なくぼくの理解などぶっちぎる勢いで、目くらましが加速する。続いて、彗星に現われるのは恐竜の群れだ。大砲放射では埒が明かない。すかさず騎兵隊の出動だ。偶然の、鍋・やかんの音で恐竜はなんとか退散。今度は、彗星ごと火星に接近する、世界の終焉だ。植民地をめぐる戦争はおしまい、と思ったら火星衝突は避けられることに。地球に戻れるぞ、となったらまた、領土争いが再開される。植民地は書き割りに実写、彗星や火星、恐竜はアニメーションだが、ここでも、それらしくみせる熱情が注がれる対象はみあたらない。
一方で、特撮もまじえた映像ギャグともいいたくなるシーン、思い出し笑いの数々。「狂気のクロニクル」の老兵マティ。飲みすぎて足取りも覚束ない。酔っぱらいの目には見張り塔がぐにゃぐにゃにみえる。ここでぐにゃぐにゃ特殊効果だ。さらに、見張り台は実際にぐにゃぐにゃして乗っている人が振り落とされるというおまけつきだ。「彗星に乗って」では、恐竜の群れをも退けた鍋・やかんの音、さっそく軍の武器は、棒に括り付けた鍋・やかんに取り換えだ。鍋・やかん棒で音を立てる軍隊の訓練が大真面目に続けられる。大笑いしながら、うすうす気づく。この二作、物語の中心となっている戦争が、それらしくみせる対象にはなっていない。それらしさの挑戦をする価値もないといいだけな、陰画の構造だ。
「狂気のクロニクル」「彗星に乗って」が撮られた時代は、カレル・ゼマンにとってどんな時代だったのだろうか。カレル・ゼマンの一生は、出自であるチェコスロバキアの国の一生と、ほぼ重なっているようだ。カレル・ゼマンの生年は1910年、チェコスロバキア建国は1918年だ。没年1989年のすぐ後の1992年、チェコとスロバキアの分離による国の終わりを迎えている。これらの映画が撮られた頃はどんな時期だったのだろう、1960年社会主義国になり、それに抗う変革活動「プラハの春」とソ連の軍事介入が1968年。ビロード革命と呼ばれた社会主義体制の崩壊が1989年、チェコスロバキアという国そのものの激動の時代をカレル・ゼマンは生きたといえる。二作が撮られたのは、チェコスロバキア社会主義共和国の時代。表現の制約がなかったとは思いにくい。空想物映画の器で目くらまししているが、器にはたっぷり風刺の毒が盛りつけられている。そう思ってこれら二作を振り返ると、戦いを司ったり彗星を接近させたりする、空想の世界の神々の哄笑が聞こえる気がする。それは、うまいこと目くらましに成功したゼマンのものかもしれない。
あとがき
山田洋次「馬鹿まるだし」(1964年)は、稲垣浩「無法松の一生」へのオマージュ作としてよく知られているようだ。ハナ肇、桑野みゆき主演で、クレージー・キャッツの面々も次々と登場する。だが、植木等は出てこない。植木等だけは出ないのかと思ったら、最後の最後にひょっくり登場する。「なんだかほっとする、妙なきもち」、「日本一の男の中の男」で、ぼくが大和証券呉服橋ビルに寄せたきもち、これと同じだ。
2018年
キューバに行くのはなかなか面倒だ。ホテルの予約、いつも使っている予約サイト(アメリカではないサイト)でしようとすると、アメリカ人の渡航規制(家族の訪問、.政府関連公務、.ジャーナリズム活動、など13の指定項目以外は不可)と同じ規制がなぜかかかって予約ができない。入国時に必要とされるのは、ビザに相当するツーリストカードに加えて海外旅行保険証書なのだが、アメリカの保険会社のものは不可、とされたりする。現地でしかできない「外国人用」の現地通貨への両替、その手数料は、米ドルだけ特別に高いのでユーロの用意をしないといけなかったりもする。政治のありようは、観光においても影響を及ぼしているようだ。
今年8月、ハバナに降り立った。映画「ハバナ」(シドニー・ポラック)や「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(ヴィム・ヴェンダース)などを通じて、あこがれとともに勝手につくっていたイメージが、目の前に現われる景色とひとつひとつちゃんと重なっていく。表通りには、磨き上げられた観光用だけでなく、引退時期を逃してしまったかのようなぼろぼろの現役クラシックカー、路地にはいると、無造作に積まれた果物、鼻歌まじりで働く人たち、なぜだかすわりこんでだらだらしている人たち。出立前の面倒のもろもろなど一切忘れさせる、街の景色。
少し注意すると、歴史の積み重ねが、地層の美しい断面のようにもみえてくる。例えば、観光名所でもある革命博物館。建物はもともと、1920年、スペインからの独立後、アメリカの影響下、カピトリオ(国会議事堂)と同じようにスパニッシュ・コロニアル様式で建てられた大統領官邸だ。博物館の手前に見えるのは、17-18世紀、スペイン統治下のCity Wallと呼ばれる城壁の遺跡、要塞都市であった頃の名残。反対側には革命のモニュメントの戦車だ。駐車場には、革命前に持ち込まれた、1950年代流線形のシボレーと、革命以降ソ連から持ち込まれた箱型国民車ラダが何事でもないかのように仲良く並んでいる。
勝手ながら、キューバ映画祭
1日目
オープニングは、「ハバナ」(1990年 シドニー・ポラック)だ。
「ゲバラ! 」(1969年 リチャード・フライシャー)
「ゴッドファーザーPART II」(1974年 フランシス・フォード・コッポラ )
「ポワゾン」(2001年 マイケル・クリストファー)
「バッドボーイズ 2バッド 」(2003年 マイケル・ベイ)
「ダンシング・ハバナ」(2004年 ガイ・ファーランド)
と続く。
これら、脈絡ない作品群は、キューバを舞台とした映画。ただし、キューバ・ロケしているものは一つもない。(IMDb Filming Locationより。以下同) アメリカとキューバが国交断絶して以来、キューバらしさをめざした、いわば想像のキューバを舞台としたアメリカ映画たちだ。
「ハバナ」は、「カサブランカ」(マイケル・カーティス)をキューバ革命時のハバナに、いっぱつ持ってきた巨匠作。デイブ・グルーシンの音楽をはじめ、映画の魅力がいっぱい詰め込まれている。ロバート・レッドフォードのギャンブラー、ジャック・ウェイル、(「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが演じたニック役) 朝っぱらからバーでオーダーするのが「アホネとコーヒー!」 コーヒーをチェイサーにラム、だ。キューバにはこんな飲み方があるのか、いっぺんキューバに行ってみたい、この映画を初めてみたときに思ったものだ。これが、ドミニカ・ロケで撮られた映画とは露知らず。
ちなみに、「ゴッドファーザーPART II」は同じくドミニカ・ロケ。「ゲバラ! 」「バッドボーイズ 2バッド 」 「ダンシング・ハバナ」はプエルトリコ、「ポワゾン」はメキシコ・ロケらしい。「ゴッドファーザーPART II」」「ダンシング・ハバナ」は、「ハバナ」と同じく革命の節目の日、つまり1958年12月31日、親米政権バティスタ大統領辞任演説の日、が場面として選ばれている。ドラマチックな歴史の場面、なんとかそれっぽい場所で映画で再現、としたい題材だったのだろう。「ゴッドファーザーPART II」では、史実かどうかわからないが、イタリアン・マフィアが、革命前のバティスタ政権に取り入ってキューバ進出していたようすが描かれている。ハバナに集うアメリカ資本の代表者たち。「ゼネラル・フーズ」「アメリカ電電」「パンアメリカン鉱業」「南米製糖」と、いかにもの名前が並んでおもしろい。なお、アル・パチーノのマイケル・コルレオーネは、「旅行・レジャー協会」代表ということになっている。
アメリカ以外の製作国でも、想像のキューバを撮り続けていた。「グアンタナモ、僕達が見た真実」(2006年 マイケル・ウィンターボトム イギリス)はイラン・ロケ。 「チェ(28歳の革命 / 39歳 別れの手紙)(2008年 スティーヴン・ソダーバーグ アメリカ、スペイン、フランス)はプエルトリコ他ロケ。「007ダイ・アナザー・デイ」(2002年 リ-・タマホリ イギリス、アメリカ)は スペイン・ロケ、という具合だ。
2日目
映画祭2日目に用意するのは、お待たせしました、ちゃんとキューバ・ロケした外国資本映画たち。
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999年 ヴィム・ヴェンダース ドイツ、アメリカ、フランス、キューバ)
「コマンダンテ」 (2003年 オリバー・ストーン アメリカ、スペイン)
「CASTRO」 (2003年 フィリップ・セルカーク ドイツ)
「ミュージック・クバーナ」 (2004年 ヘルマン・クラル ドイツ、日本、キューバ)
「カリブの白い薔薇」 (2006年 マヌエル・グティエレス・アラゴン スペイン、キューバ)
「7デイズ・イン・ハバナ」 (2012年 ベニチオ・デル・トロ、パブロ・トラペロ、フリオ・メデム、エリア・スレイマン、ギャスパー・ノエ、フアン・カルロス・タビオ、ローラン・カンテ フランス、スペイン)
「消えた声が、その名を呼ぶ」 (2014年 ファティ・アキン ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・ポーランド・カナダ・トルコ・ヨルダン)
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」で世界は、ホンモノのハバナに出会うことができた。海沿いのマレコン通り、クラシックカーに、降りかかる波しぶき。同じ楽曲が、ハバナの街での演奏とアムステルダム・カッレ劇場公演を切れ目なく往還する。キューバに行ってみたい。世界中の人にそう思わせたにちがいない。と同時に、外国映画でもキューバロケ、その機会が増えたきっかけになったものかもしれない。キューバ当局のロケ許可の変遷は知れないが、これらの映画みる限りでは、政治と無関係か、政治に関係するとすれば当局意向踏まえるか、のどちらかが外国資本の映画の機会であったようにもみえる。「カリブの白い薔薇」では、アメリカ影響下の1930年代キューバで、アメリカに渡航させると船に乗せておいてそのへんの島に置き去りにする、びっくり非道のインチキ商売がでてきたりするが、革命前のキューバであれば当局も描き方に目くじらたてなかったのだろう。
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」から遡ること30年、「キューバの恋人」(1969年 黒木和雄 日本、キューバ)は特殊な位置づけかもしれない1本。これも2日目、ラストにもってきておこう。革命から10年経って、脈々とその精神が受け継がれていることを、日本人船員アキラ(津川雅彦)が目の当たりにする。10年経っても革命映画だ。キューバ映画の専門家 寺島佐知子「『アキラの恋人』から見た『キューバの恋人』」(立教大学ラテンアメリカ研究所報 第41 号)によると、この映画は、日本、キューバ合作とされるが、厳密には、「ICAICが必要なサービス(人材、移動手段、撮影機材、宿泊施設と食事など)を無償で提供することによって製作を援助する「コラボレーション(協力)」に分類される合作とされる。 ICAIC、キューバ国立の映画芸術産業庁が直接関わっているのだから、外国資本映画といっても、キューバが日本に撮らせた映画ともいえるかもしれない。
3日目(最終日)
キューバから国賓を迎える、映画祭最終日。製作国キューバ、キューバ人監督による作品群。日本でみる機会がなかなかない映画たちだ。上映順を現代から革命直後へ遡ることで、映画祭最大の見せ場を、革命直後にしたい。
「永遠のハバナ」(2003年 フェルナンド・ペレス スペイン、キューバ)
「苺とチョコレート」(1993年 トマス・グティエレス・アレア キューバ、スペイン、メキシコ)
「低開発の記憶」(1968年 トマス・グティエレス・アレア キューバ)
「ルシア」(1968年 ウンベルト・ソラス キューバ)
「ある官僚の死」(1966年 トマス・グティエレス・アレア キューバ)
「12の椅子」キューバ(1962年 トマス・グティエレス・アレア キューバ)
革命からずいぶん年月が経った頃撮られた「CASTRO」などのドキュメンタリ-でも、キューバ革命が熱狂のうちに遂げられ、続けられてきただけではないところが伝わってくるが、革命直後につくられた映画に、娯楽性とともに革命へのアイロニーがちらちら仕込まれていることに驚かされる。キューバの意外なほどの懐深さだ。リードしたのは、トマス・グティエレス・アレア。キューバでの傑出した仕事ぶり、ベルリン国際映画祭審査員特別賞で世界に知られた「苺とチョコレート」だけでなく、革命直後作に満ち溢れているところ、この映画祭のハイライトだ。中でも、「12の椅子」はとんでもなく楽しい。
「財産回収省」が12脚の椅子を「国有化」する、という物語の起点が、もう革命のカリカチュアだ。12脚の中に宝石が隠された1脚があることから、欲の張った連中の、街から街への探し回り競争が始まる。街角で売られるのは「レボルシオン紙」、「侵略者に死を」のポスターがそこかしこ貼られている。子供たちが歌うのは革命ソング。こうした革命の高揚感の表裏、反革命を旗印にした資金集めとか、アイゼンハワー大統領団扇をいまだもったままのアメリカ贔屓とか、はたまた、強欲神父は、椅子を12脚借りる理由を説明するに、キリスト劇の12人の使徒役用、ユダにも椅子がいる、革命的キリスト劇だから、となんだかよくわからぬ革命便乗トーク。物語の結末、宝石は鉄道組合の立派な建物となりました、めでたしめでたし、という革命的大団円。革命も反革命もぜんぶいっしょくたの笑い飛ばし、爽快極まりない。
「12の椅子」を嚆矢とした1960年代が、「キューバ映画祭2009」(こちらは、実在の映画祭)パンフレット に書かれているとおり、「キューバ映画の黄金時代」と数作でも実感できる3日目だ。「キューバ革命と映画」(「映画とネイション 映画学叢書」ミネルヴァ書房越川芳明)でも、「フィデル・カストロは革命政府の文化部門としてキューバ映画芸術産業庁ICAICを創設し、映画製作に特別な意味づけを付与した」との件りがある。革命の文化として、このくらいのアイロニーを認め、むしろ後押していたとするならば、ICAICの「文化」への見識の高さ、見上げるほどだ。
3日目(番外)
キューバ革命前には、アメリカ映画はバティスタ政権のもと、自由にキューバ・ロケで映画をとることができていたようだ。
「老人と海」(1958年 ジョン・スタージェス アメリカ)
「Affair in Havana 」 (1957年 ラズロ・ベネディク アメリカ)
「老人と海」は原作どおり、ハバナ近郊のコヒマルのロケで、スペンサー・トレイシー主演で撮られている。「Affair in Havana 」 はタイトルどおりのよろめきドラマの舞台としてハバナが選ばれ、ジョン・カサベテス主演で撮られている。このようなハリウッド作品がそれなりの数あるようだが、今日本でみられる機会はなく、ひとまとまりとしての意味があるようにも思えない、番外編だ。
さらなる番外編は、オバマ政権下の束の間の国交回復でうまれた、たまたまのアメリカ映画のキューバロケ作。調べた限りでは、メジャー作品はこの2作ではないか。
「Papa: Hemingway in Cuba」(2015年 ボブ・ヤーリ アメリカ)
「ワイルド・スピード ICE BREAK」(2017年 F・ゲイリー・グレイ アメリカ)
1959年の革命後、1961年からアメリカと国交断絶、半世紀を経て、オバマ政権で2015年7月外交関係再開し、8月には定期航路も再開された矢先、トランプ政権で、2017年6月渡航、取引制裁が始まってしまった。11月に定期航路も停止し、今に至っている。このわずかな雪解けの間に、ロケされたようだ。「ワイルド・スピード ICE BREAK」は、ハバナロケの必然、というよりロケしたくてハバナを選んだのでは、というカーアクション物だが、ハバナ オールドシティの空撮まで行われているのはびっくりだ。
アメリカとの関係をはじめとする政治の情勢はキューバにとって抜き差しならないもののようにも思う一方で、そんなものはもともと何事でもないような気がする日常風景が、映画の中でも満ち満ちている。
例えば、二階や三階にものを運ぶのに、通りからカゴやバケツで吊り上げる、というもの。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」では買い物袋を縄で吊り上げていた。「ワイルド・スピード ICE BREAK」では、かごにはいったパンだ。軽いものばかりでない。 「消えた声が、その名を呼ぶ」では、石炭の運び上げに吊るしたバケツ。「7デイズ・イン・ハバナ」ではレンガを運び上げるのにも吊り上げだった。建物の中には階段があるのに、なぜ吊り上げなのか。ハバナで実際にその光景をみかけて、ああこれこれ、となんだかうれしくなってしまったが、謎は解けない。二階、三階から降りてきて運び上げればいいものを、なんだか横着にもみえる。ただのものぐさか、そのへんにヒマそうな人がいるので成立する共同作業か、社会主義サービスでは至らないサービスを埋め合わせているのか、何であったとしても、楽しげにやっているようにみえる。僕が泊まったホテルのレストランは朝食時刻になっても開店せず、鼻歌まじりにだらだら準備していたが、その鼻歌がやたら楽しげで美しいのだった。「永遠のハバナ」で、医者でありながらピエロとか、家の修理をしながらバレエダンサーとか、一人がいくつもの役割をもつハバナの人が多くでてきていたので、この人、レストランで働きながら夜になるとステージに立ったりするのでは、という空想が膨らんだりした。
この国の人たちにしてみれば、アメリカとの関係にしても、さらにいうと、革命であってもなくても、あまり何事でもないのかもしれない。
1960年代後半、歌と踊り
オンラインDVDレンタルを利用しているため、登録しておいたリストから空いた順に送られてくる映画をみていると、たまたま隣どおしのように並んで、そのつもりもないのに比べてみてしまうことが起こる。同じ1960年代後半、「ロシュフォールの恋人たち」(1967年 ジャック・ドミー)と「日本一のゴリガン男」(1966年 古澤憲吾) はともに、歌と踊り満載の作品だ。
1960年代後半といえば、映画の撮り方として、カメラワークが高度化して、ミュージカルシークェンスでも俯瞰ショットとか多用された時期、また、市場がグローバル化しはじめ、広告宣伝も高度化、拡大した時期、そういう目でこの二つの映画をみてみると楽しさ10倍だ。
「ロシュフォールの恋人たち」は、Pont Transbordeur(運搬橋)からコルベール広場へ移動しながら踊る、ジョージ・チャキリスとカトリーヌ・ドヌーヴらのダンス。スキャットとブラスが絡まるテーマは「キャラバンの到着」Arrivée des camionneurs(ミシェル・ルグラン)。バーズ・アイのカメラがダンスを花のようにみせる。彼らのキャラバンは、オートバイのHONDAがスポンサーの宣伝イベントであることが後からわかったりする。
「日本一のゴリガン男」の舞台は、船橋ヘルスセンターの宴会会場、取引先をもてなすため植木等と人見明が歌って踊るのは「シビレ節」(宮川泰)、「おてもやん」だ。俯瞰ショットがもりあげる。宴会のスポンサーは、無理強いでビールやジュースを宣伝代として、ただでふるまうハメになるサントリーだ。
2つの映画はおなじ時代につくられたというだけで何の関係もないが、ジョージ・チャキリスとカトリーヌ・ドヌーヴに対して、植木等と人見明、と思うだけで、楽しさ10倍だ。
あとがき
ぼくが今年みた映画の中の、勝手な映画祭。ホンモノのキューバ映画祭2009 のおかげ、それにあわせたDVD発売があって、9年後に、勝手仮想キューバ祭を企てることができた。レアなDVDをライブラリーしてくれていた公共図書館のおかげでもある。しかし、まとまったコレクション状態のところはなく、東京の2つの区、2つの市の図書館でお世話になることになった。
キューバ関係の映画を26本程みてキューバ映画通になった気持ちでいたが、キューバ映画報道協会というところが2009年に発表した「キューバ映画ベスト・テン」にはいっている映画でみることができたのは、映画祭3日目に用意した、「低開発の記憶」「ルシア」「苺とチョコレート」「ある官僚の死」の4作だけ。残り6作はなかなかご縁を持てそうにない。わずか半世紀余り歴史で、映画も、地層の断面のように見える街と同じような美しさであることを思うと、どんな作品群なのか、いつかめぐりあうのが楽しみだ。
2017年
1960年代から1970年代にかけてのイタリア映画をだらだらみかえしているうちにすっぽり嵌るのが、アルマンド・トロヴァヨーリの音楽。「昨日・今日・明日」(1963年) 「あゝ結婚」(1964年)といったヴィットリオ・デ・シーカ作も、「黄金の七人」三部作(「黄金の七人」「続・黄金の七人/レインボー作戦(ともに1965年 マルコ・ヴィカリオ)「新・黄金の七人 7×7」(1968年 ミケーレ・ルーポ)も、トロヴァヨーリの代表作。「女性上位時代」(1968年 パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ)で、同じモチーフ、ワルツのメイン・タイトルを、ピアノソロ、ヴォーカル、ボサノバ、アレンジ変えて繰り返されてしまうと、それだけでもう1960年代、上等舶来だ。映画の中だけでは足りなくてCDを買ってしまった程。戦後復興から高度経済成長を遂げ、1970年代末「鉛の時代Anni di piombo」と呼ばれる政情不安になる前まで、長くはない間の、極東の島国から改めて仰ぎ見る、先進国イタリアの眩さ。
フェリーニの、ロケなのに特撮
1.「ボッカチオ’70 アントニオ博士の誘惑」
オムニバス映画「ボッカチオ’70」(マリオ・モニチェリ、フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、ヴィットリオ・デ・シーカ 1962年)の中の1篇「アントニオ博士の誘惑」は、スタジオ・セットでなく、ホンモノの街を舞台にしたロケで、わざわざ特撮をおこなっているという点で、フェリーニの数多ある幻想シーンの中でも、特別な印象が残る。現代のデカメロンだ。
「ボッカチオ’70」の後、ローマの街の交通渋滞でも(「フェリーニのローマ」)、ヴェネチアの運河やリアルト橋でも(「カサノバ」)、故郷リミニの海でも(「女の都」)、ロケで撮ることもできるのに、なんでもセットでつくってしまうフェリーニが、「アントニオ博士の誘惑」でロケ地に選んだのが、ローマ郊外のエウル(E.U.R. Esposizione Universale di Roma ローマ万国博覧会)だ。ファシズムのプロパガンダのために計画され、1942年に開催される予定が戦争のため頓挫した万博会場、特別な意図でつくられた人工の街、いわばセットまがいの「ホンモノの街」だ。その「ホンモノの街」でわざわざロケをしているのに、巨大美女を闊歩させるためには特撮だ。セットのようなリアルな街エウルで、リアルなアニタ・エクバーグを現実離れした巨大さで登場させて、アントニオ博士が従前のモラルや教条に縛られているさまを笑い飛ばす。縛られているものが立派であったとしても、巨大美女にかかっては、おろおろするばかりで手も足も出ない。その縛られているさま、新古典主義といわれるエウルの建築群にも重なってもみえる。かつてのプロパガンダの街では、牛乳の宣伝に、アニタ・エクバーグだ。ニーノ・ロータのコマーシャル・ソング「Bevete più latte」(もっと牛乳を飲みましょう)が、針が飛ぶソノシートのように、延々と繰り返される。馬鹿馬鹿しいような思いつきを大真面目に形にしつづけたフェリーニのファンタジアが、この作には凝縮しているようで、何度見ても楽しい。
フェリーニ監督作は全23作。今年、未見だった「寄席の脚光」「結婚相談所」なども、少し探すとレンタルVHSや中古セルVHSなどでみることができ、まあなんとかぎりぎり普通に全作みられるようす、さすが、今も人気の映像作家だ。
1950年 「寄席の脚光」
1652年 「白い酋長」
1953年 「青春群像」
1953年 「結婚相談所」(オムニバス「街の恋」)
1954年 「道」
1955年 「崖」
1957年 「カビリアの夜」
1959年 「甘い生活」
1962年 「アントニオ博士の誘惑」(オムニバス「ボッカチオ’70」)
1963年 「8 1/2」
1964年 「魂のジュリエッタ」
1968年 「悪魔の首飾り」(オムニバス「世にも怪奇な物語」)
1969年 「サテリコン」
1970年 「道化師」
1972年 「ローマ」
1973年 「アマルコルド」
1976年 「カサノバ」
1979年 「オーケストラ・リハーサル」
1980年 「女の都」
1983年 「そして船は行く」
1985年 「ジンジャーとフレッド」
1987年 「インテルビスタ」
1990年 「ボイス・オブ・ムーン」
2.いわば、ロケ・ファンタジア
「カビリアの夜」を最後に、ネオ・レアリズモと評される作風から、寓喩的な作風に転じ、「8 1/2」のロケット発射台とか、「サテリコン」の奴隷船とか、「女の都」の女性遍歴追憶の電飾滑り台とか、ロケでは撮りえない、つくりものへとひた走ったフェリーニのフィルモグラフィ、「8 1/2」以降を「セット・ファンタジア」とすると、「甘い生活」と「ボッカチオ’70 アントニオ博士の誘惑」は、ネオ・レアリズモとの境にあたる、「ロケ・ファンタジア」の時期だったかもしれない。
「甘い生活」で、アニタ・エクバーグ演じる外国人女優シルヴィアがドレスのまま「トレヴィの泉」にはいっていくふるまいを、不品行なのに典雅に、悲しいほど美しくみせたのは、ホンモノ・トレヴィの泉だからこそ。「セット・ファンタジア」とは別の想像の力が働いた技だ。トレヴィの泉はどんな場所だろうか。ローマ市内のあまたある噴水・泉の一つ、バロック建築の最後期18世紀のものの一つ。コロッセオ、パンテオンといったローマ帝国のヘリテージがごろごろしているローマ市内の中では、まあ「最近の部類」の建築、コイン投げ入れなどの言い伝えが重なることで、観光スポットのスターダムに押し上げられてしまったような場ではないだろうか。今や観光シーズンは、歩く観光客で渋滞するほどの人気の場所なのでイメージしにくいところがあるが、「甘い生活」でも「ローマの休日」(ウィリアム・ワイラー 1953年)でもそうであったように、路地に迷い込んでうちに忽然と現れるような、ドラマティックな立地が、伝説につながっていったのではと思える。押し上げられ、できあがってしまった伝説。シルヴィアの造型はトレヴィの泉に重なってみえる。泉のシーンの後、シルヴィアの奔放と桎梏の表と裏が仕込まれていることがわかってきて、美しい印象が後追いしてくる。
「アントニオ博士の誘惑」でフェリーニが借りてきたのは、古代ロ―マからの連なりを意図した国威発揚の場のはずだったエウルが、20年経たないうちに、ただの現代社会の象徴のような郊外新都市になっているという歴史のようだ。ファシズムのプロパガンダは、20年の後に牛乳の宣伝にとって代わる。カトリシズムの歴史を背負ったかのような、アントニオ博士の厳格な教条主義も、巨大アニタ・エクバーグのお色気コマーシャリズムの前に骨抜きになる。2千年も20年も同じ歴史に変わりないとでもいいたげな借景だ。
巨大美女がアントニオ博士をからかいながら歩く、エウルの通りViale della Civilta del Lavoroは、イタリア労働文明館(Palazzo della Civiltà Italiana)と会議堂(Palazzo dei Congressi)をむすぶ目抜き通りだ。シンメトリの建物が並び、街並みそのものもシンメトリに構成される。厳格なルールに基づいているようすだ。「四角いコロッセオ」とも呼ばれるイタリア労働文明館は、構造と無関係に連続アーチで埋め尽くされて尋常でない佇まい。おまけに、アーチにはローマ時代を顕彰する彫像が立ち並び、ムッソリーニの演説から採られたという文字(詩人の、芸術家の、英雄の、聖人の、思想家の、科学者の、航海者の、移民の国)が刻まれている。ホンモノで描く幻想は、セット以上に、借りてくるものの力で、表裏の差異が際立つ。
「甘い生活」でも、エウルがロケ地として選ばれている。マルチェロ・マストロヤンニの主人公マルチェロは友人ステイナー(アラン・キュニー)に再会する。幸せそのものの最中にいるようなその友人が突然無理心中を遂げ、マルチェロが家の窓の外を茫然として眺めると、郊外新都市エウルを代表する景色の一つ、「パラロット・マティカ」(体育館)「イル・ファンゴ」(展望レストラン)が遠くにちらりみえる。また、フェリーニが脚本として参加した「無防備都市」(1945年 ロベルト・ロッセリーニ)には、出来たばかりであろうイタリア労働文明館が丘の上にぽつねんと建っているところがでてくる。第二次世界大戦末、イタリアが同盟国であったドイツ軍に占領されていた時期、捕らえられていたレジスタンスが脱走する場面、歴史の皮肉を丘の上からイタリア労働文明館が静かにみつめているというような構図。ロッセリーニが示した、フェリーニもきっとみていたであろう、ロケのホンモノの力。ホンモノの場が担うものの塩梅を知るからこそ、「8 1/2」以降のセット・ファンタジアの花は、ホンモノに負けじと咲き誇ったのかもしれない。
フェリーニ23作40年を改めてみてみると、作風や表現の方法は大きく変遷しているが、ネオ・レアリズモの時代も、ロケの時代もセットの時代も、底に流れる一貫したものがみえてくるようだ。例えば、誠実と打算、信心と破廉恥、豊穣と退廃、奔放と桎梏、此岸と彼岸、といったことどもの、どちらかを表わしたくてどちらかを伴わせるという関係にしないこと、主従の関係にしないこと。いつも何であっても、表であり裏でもあるといったような、表出のポリフォニー。捉えようによっては、メッセージとしてははっきりしない、どっちつかずともとれる。そうそう、フェリーニがマルチェロ・マストロヤンニに繰り返し投影してきた優柔不断男のような。しかし、表や裏で語らないと決めて、イタリアという国、20世紀という時代に臨んできたとすると、優柔不断というより一種の覚悟といっていいのかもしれない。
3.映画の中のエウル
評論家の井上章一はエウルを「ファシスト革命の20周年を記念する劇場都市」(「夢と魅惑の全体主義」)と表し、建築意匠の専門家である鵜沢隆は、エウルを「畸形のモダニズム」空間(「世界の街並ガイド イタリア/ギリシア」)と呼んだ。そして、「ボッカチオ’70」を「EURの建設に潜む「映画的」な虚構性を最大限に活用した映画」(『建築文化』1997年3月)と評している。また、飯島洋一は(1997年のこのアニュアルの中でも紹介した著書)「映画の中の現代建築」で、「ボッカチオ’70」について、「1930年代から40年代のイタリア・ファシズム期の〈空虚さ〉を表わしているといえないだろうか」と重ねている。これらの批評が示すとおり、エウルはファシズムと都市の関係を直接今に伝える街として、取り上げられつづけている。そして、モダン、裏腹な絵空事の感じを漂わせる郊外新都市として、数々の映画のロケに選ばれ続けているようだ。
同じ時代のイタリア映画、「太陽はひとりぼっち」(ミケランジェロ・アントニオーニ1962年)のモニカ・ヴィティが男と破局を迎える冒頭シーン、男の部屋から見えるイル・ファンゴでそこがエウルとわかる。 「暗殺の森」(ベルナルド・ベルトルッチ1970年) では、ジャン・ルイ・トランティニアンの父親の精神病院として、会議堂が使われていた。イタリア労働文明館やイル・ファンゴが、なんと近未来のアメリカの郊外の景色として登場する、「地球最後の男」(ウバルド・ラゴーナ1964年) というSF映画もある。
最近は、近未来的なモダンな街の役よりも、ファシズムの記憶留まる、邪な街の役が多いようだ。特にイタリア労働文明館を代表として、エウルはしばしば映画に登場している。「ハドソン・ホーク」(マイケル・レーマン1991年)の、悪の一味の本拠地とか、「タイタス」(ジュリー・テイモア 1999年)(2001年のここでも触れた)における、ローマ皇帝後継者選びの骨肉の争いとなる舞台とか、「建築家の腹」(ピーター・グリナウェイ1987年)の、死に向かう情事の場とかだ。権威的なシンメトリは、エウルで事欠かない。シンメトリ映像作家ともいうべきピーター・グリナウェイにとって、どこにカメラを向けても、よくもわるくもシンメトリに撮れてしまう場所だ。狙いのとおり、邪悪な香り漲る作になっている。
「ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア」(ハインリッヒ・ブレロアー 2005年)で描かれているように、イタリアに限らずファシズムに、権威を示すための計画都市やそのための建築はつきものだったようだが、独裁者の意向を受けた都市や建築は、ローマ時代をリバイバルさせたかのようなシンメトリ、彫像の群れ、建物へのプロパガンダの文字の刻印、といったものにしないといけない束縛があったのだろうか。かたや、同じイタリア、同じファシズムの時代に、北部を拠点にグルッポ7という建築家集団をつくり、例えば「カサ・デル・ファッショ」(ファシスト党コモ地方本部)といった建築を、今もみてもみずみずしいモダニズム建築として残した建築家ジュゼッペ・テラーニのような例をみると、抗うことができない意匠だったのだろうかというきもちが少し湧く。3年前にコモを訪れた時、カサ・デル・ファッショが向かいのコモ大聖堂と軸線を接しながら、斜めの奥ゆかしげな関係を保っているのをみて、たまたま施主がファシスト党だっただけなのでは、という印象を持ったほどだった。
半世紀以上リアルであり続けているのに虚構っぽい、けったいな街、エウルに、今年の夏、ローマ旅行の際行ってみた。巨大アニタ・エクバーグが歩いた通りViale della Civilta del Lavoroを歩く。イタリア労働文明館などの建物の階高とか、ヒューマンスケールとかけ離れたものであることが実感できる。車はたくさん走っているが歩いている人はみかけない。心地よく感じないのはそのせいだ。エウルを舞台とした最も新しい映画の一つであろう「ミ-ナ ローマの夏休み」(エリザ・フクサス 2012年)は、これまでの舞台の使われ方と違って、イタリア労働文明館の前で、体操したり日光浴したり、バカンス中で閑散とした街ののどかな印象につなげていた。ぼくがイタリア労働文明館に行ったときは、ちょうど3年前の2014年にFENDIの本社がこの中に移転したせいか、建物は無粋なコンクリート・フェンスに取り囲まれ、近づくことすらできない。閑散とした街はこの映画と同じだったが、のどかさはなかった。
ヒューマンスケールの逸脱。そのことと巨大美女の思いつきは、フェリーニの中でつながっているかもしれない。そもそもこの街は人間サイズにできていない、そうならば人間だって勝手なサイズで歩いたっていいだろう、人間はそうそう教条どおりにはいかない、不品行でけしからん、でもそこが魅力的だったりするし、いっそのこと、そのような存在をデフォルメして、博士のような頭の固い輩を笑い飛ばしてやろう、大真面目な都市計画でつくられた虚構の街で。そんな連想が働いたのではないか。
ローマ帝国やカトリック総本山の栄光の歴史、それらの威光を借りたファシズムの歴史、こういったコンテキストの中から絵空事をひねり出す、フェリーニの得意技の起点に、「ボッカチオ’70 アントニオ博士の誘惑」はある。フェリーニの拵える絵空事の中では、理想主義だろうと現実主義だろうと、カトリシズムだろうとコマーシャリズムだろうと、そんな名のつくものなんぞ、おおよそ、人間の表か裏のどちらかにすぎない。アントニオ博士も巨大女も、たまさかの表と裏。フェリーニの夜伽話のデカメロンは、ここで終わらない。
あとがき
1960-1970年代、先進国イタリアは、音楽だけではない。ポンティ、ジウジアーロ、ソットサス、などなど、工業デザインでも数世代に亘って先を行っていた感がある。「ボッカチオ’70」の第一話「レンツォとルチアーナ」(マリオ・モニチェリ)は 1960年代イタリアン・ヴィークルが大活躍する映画でもある。職場結婚を秘密にするため、知らん顔で工場を後にする若い二人。バスに乗ったルチアーナを追うレンツォは、PIAGGIOのオート三輪 Ape-Cだ。乗り換えた彼女を結婚式に運ぶのはフィアット・チンクエチェントのワゴンタイプのジャルディ・ニエラ。PIAGGIOのApeはVespaなどともに、今も生産を続ける現役らしい。
そういえば、今年4月オープンしたGINZA SIXの一番目立つ場所に、FENDIの旗艦店FENDI GINZAができたが、ファサードのデザインは、連続アーチ。ローマ・エウルのFENDI本社、イタリア労働文明館からもってきたものらしい。FENDI本社移転時のCEOのコメント「イタリアの文化遺産に注目し、誰もがそこにアクセスできるようにする」(Fashionsnap.comより)は、本社ではなかなかそうはいかないようすだったが、GINZA SIXは誰でも出入りできるところで、よかったよかった。
2016年
アラン・レネが「愛して飲んで歌って」(2014年)で、ベルリン国際映画祭アルフレッド・バウアー賞という、若手監督に贈られることが多いらしい賞を受賞、その直後、91歳で逝去した、というニュースは2年前のこと、話題になったものだったのかもしれないのに気づきもしなくて申し訳なかったが、今年レンタルでみて、このアニュアルの冒頭、今年のふりかえりというに恐縮な、間の抜けたふりかえりをしたくなるほどおもしろさツボに嵌って、アラン・レネといえば、「夜と霧」(1955年)、「二十四時間の情事」(1959年)、「去年マリエンバートで」(1961年)、アウシュヴィッツの当時と今、戦争という見えない線上にある広島とフランスの田舎町ヌベール、現実と幻想、ふたつの間を激しく往還する骨太な構成の出世作群と、「恋するシャンソン」 (1997年)「巴里の恋愛協奏曲」(2003年)など、オペレッタやらフレンチ・ポップスやらちょっと苦味を効かせた軽妙洒脱な後期作群との味わいわけができるほどの長いキャリア、「愛して飲んで歌って」はその後期の頂点とみえるに理由があって、余命わずかということになったらしい友人ジュルジュをめぐる3組の熟年夫婦のやきもきは、袖を奥に置いた舞台のようなカット、袖に捌けたものはみえないお約束をことさら強調するような設えで、舞台はいつも、みえているものなどごく一部、齢重ねていろいろなものがみえているようでも、みえているものなどごく一部という、ものの喩えに重なって、友人ジュルジュ、隅におけない、その具合がだんだんわかってくるにつれ、どんな奴だろう、そこばかりが気になっていく展開、袖にひっこんだまま最後まで出てこない役と知るのに、ラストシーンまで待たないといけないというしかけになっている、というものだから、アルフレッド・バウアー賞もおどろきがあっていいけれど、ジュルジュという演ずる役者のいないキャラクターに、授けることのできる賞はないものかしら、主演男優賞というわけにはいかないので。
映画にみる、建築というおこない
実物をみる前に事前勉強でもしておこうと、昨年末公開されたドキュメンタリー映画「創造と神秘のサグラダ・ファミリア」(ステファン・ハウプト)を2月のおわりにみにいった。映画の「未完の建築プロジェクト」というキャッチ、「アントニ・ガウディが構想し、1882年の着工から133年経った現在に至るまでいまだ完成していない建築プロジェクト」という説明にそそられた。誰もが思い浮かべる、尖塔と張り合うかのように林立するクレーンが一体となった聖堂の姿が、実は同じ姿のものは二つとなく、きっと、その時その場限りのけしき、になっているというふうに思うと、いっそう興味を掻き立てられた。
かたや、フライヤーの中に「いかにして2026年完成予定となったのか」とも書かれていて、映画をみる段になってはじめて、サグラダ・ファミリアに完成予定があることを知って、ちょっと迂闊だった。調べてみると、2013年にそのニュースは流れ、完成3DCG映像までつくられていることもわかった。完成してしまうなんて残念、もったいない、妙な思いにとらわれる。
完成に300年かかるといわれていた聖堂が、その半分くらいで出来上がることになったらしい。実はこれ、創造でも神秘でもなく、最近の技術開発と財政に拠るところらしい。一人29ユーロのチケットをネットで買って赴いたぼくも、工期短縮にほんのちょっとは貢献しているかもしれない。
さて、「創造と神秘のサグラダ・ファミリア」 全編から伝わってくるのは、建築に関わっている人たちの、完成などまるきりゴールとしていない使命感。10年後とかが遠すぎるということでなく、完成するとかしないとか、関係なさげなのだ。映画の中で、例えば、サグラダ・ファミリア主任彫刻家の外尾悦郎は、「ガウディが欲したものを常に問い続けている」と語る。ガウディのメッセージをいかに形にして伝えていくか、皆それぞれに語る。メッセージの伝播、伝承に、ゴールはない。そこには、なるほど、「創造と神秘」のけはいがたちこめる。そこにしかないものをどこでもいつもあるかのようにしていこうとするようなけはい。ドキュメンタリー映画としての狙いはここか。出来上がる聖堂そのものよりも、聖堂づくりというおこないのほうがずっと大切、という思いの律動を伝える。
5月、年間300万人超といわれる観光名所へ、TOP VIEWSという塔に登るチケットを握って、世界中から集まった多くの観光客の一人として足を踏み入れた。観光客でごったがえす足元の地下聖堂では、普通に厳かな礼拝がおこなわれているのが垣間見えた。工事は観光客の安全配慮はしているもののそこかしこでずっと続いている。聖堂づくりの只中であることが実感できる。礼拝する人、工事する人、案内をする人、観光する人、それぞれが、サグラダ・ファミリアにそれぞれの役割を持って集っている、というような感覚にとらわれる場所だった。
そんな特別な場所の建築というおこないを撮りとどめたドキュメンタリーの力、完成後にこそ、ぼくらは改めて知ることになるのではないか。めざされていたのは完成そのものではなかった、ということ、それが「意外」にならないような完成のしかたを願う気持ちがきゅっと動く。
「建築というおこない」で真っ先に想起されるのは、伊勢神宮だ。ドキュメンタリー映画「うみやまあひだ」(宮澤正明 2014年)は、2013年の式年遷宮を機会として捉えながら、20年ごと建てては建て直す、を約1300年繰り返しているといわれている伊勢神宮に、日本の自然の恵みの連なりの中で、建築というおこないをみる。辿れない程の歴史を背負ってしまっているため、特定の意図の言説、例えば、神宮は中国仏教伝来前の日本起源のデザインである、といったような言説が流布しやすい神宮を題材に、「海、山、間」という単純なフレームでそれら以外のものを取り払い、映画のかたちで「建築というおこない」を伝える。
ここでは「完成してしまうなんて残念」と思う必要はない。20年後には建て替えられるのだから。出来上がった神宮というモノより、建てる、建て替える、建て替え続ける、という行為に重きが置かれること自体、サグラダ・ファミリアと、メッセージの伝播、伝承という点で、不思議に通い合うようにも思える。
「うみやまあひだ」では、神宮は主役ではない。神宮を抱く森の恵み、海の恵み、それらをつなげる人の営み、に焦点があてられている。遷宮に使われる檜を育てる林を紹介する場面がある。幹に二重のペンキで印が付けられた檜、この印は200年後に1メートルの幹になることを想定して今育てているもの、という平然とした説明に、びっくりさせられる。このような林、伊勢だけでなく木曽でも守られているエピソードが続く。20年後の次の遷宮のためだけでなく、その次、さらに次の百年二百年先のために、檜を育てているという人がいる。自然の時間軸の中で、人の営みはとても一人では完結しない、同じ世代でも完結しない。伊勢の森だけでも完結しない。メッセージの伝播、伝承が必要、ということだろう。
7月、伊勢神宮を訪れた。昔ながらのお伊勢参りを再現した、おかげ横丁の食べ歩きのにぎわいと、鳥居の一礼ごとに深まるかのような厳かさが急傾斜しておもしろい。そのわりに、目指している正宮正殿は決してみることができない、ということになっていて、ありがたみがいっそう増すようになっているようすだ。その代わり、といっていいのかどうか、同様の造りの別宮で、遷宮からまだ3年の、においたつような檜の素木をみることができるようになっていた。ますますおもしろい。別宮には、正宮と同じように、古殿地(建て替えのための空き地)がミニサイズで付いていて、そこには、心御柱を守っているとされる覆屋がミニサイズで鎮座しているのもみえる。映画の中で、20年で建て替えとはなんて勿体無いことを(とはじめの頃思った)という棟梁のことばがあって頷きながら聞いていたが、建物が20年持つのかとかなぜ20年なのかとかの疑問は、きっと意味を持たない。神宮は、建築物というより建築というおこないの謂だからだ。
ドキュメンタリー映画は時間の経過とともに、二度とみることができないことと出会えたりするものだが、同時代のもの、実物がそこにあって、メディアではわからないとしてもそこに行けば伝わるような状況の中のドキュメンタリー映画は、どのあたりにポジショニングするのか。「創造と神秘のサグラダ・ファミリア」でも「うみやまあひだ」でも満載されていた、一般の人には機会がない、非公開となっているような部分の映像、もちろん大きな意義。それ以上に、同時代の関わる人たちのことばや表情、すがたを集め、メッセージに紡ぐところに大きな役まわりがあるのではないか。同時代のドキュメンタリー映像体験は実体験と高め合う。
知らない国の「馬々と人間たち」
映画に動物がでてくると、それだけで期待感でどきどきする。人間のキャストに対しては、指示することでそのとおりに動いたりしゃべったりして、映画は撮られていくのだろうが、動物はそうはいかない。鍛え抜かれたハリウッドスターのようなものは動物の埒外として、どんなに言い聞かせておいたとしても、動物というもの、そこで寝転んでしまうかもしれないし、画面から勝手に出ていくこともあるだろう。粗相だってしかねない。なので、映画をみる多くの人からすると、動物がでてきただけでその瞬間、引き締まっていた画面が急にゆるくなってしまうようにもみえ、映画の緊密な設計が台無しとも受け止められるものであろう。しかし一部の作り手には、そもそも、眼の前のことどもをまるごと映像に収めるという自体、収める情報の多さからして、設計しきれるものでもないといった、一種開き直りに近い覚悟もあるのではないか。ちょっとした覚悟のもとに動物を登場させる、手を放した感じがどきどきしておもしろい。エミール・クストリッツァ映画でも、オタール・イオセリアーニ映画でも、動物場面、うれしくてしかたない。「馬々と人間たち」(ベネディクト・エルリングソン 2013年)も、そこに連なるような場面があった。
「馬々と人間たち」(原題 アイスランド語 Hross í oss 英語で Of horses and men ということらしい) この邦題で、みる前から動物場面への期待は高まった。「馬たちと人間たち」でなくてほっとする。「うまうま」と読ませるのか、とかネーミングを巡って議論があったかもしれない。ぼくはレンタルDVDでみたので発音する機会はなかったが、映画館窓口でチケットを買う人は、「うまうまとにんげんたち、大人1枚」とかいっていたのだろうか。人々とか山々とか神々とかいう言葉はあるが、馬々とは何事か。複数形のhorsesを正しく表そうとするというよりは、どんなに言い聞かせておいたとしても、という対象として馬を人間と分けて表示したものではないか。だとすると素晴らしい。映画をみおえてみれば、「馬どもといい、人間どもといい、」と同じ括りで語りたくなるあんばいにもなっていて、さらに素晴らしいことが、後からわかる。
荒野を車で走るおやじ、その辺の馬をひっつかまえて乗る。車より馬のほうがいい理由は思い当たらない。と思っていたら、馬に乗ったまま、海にはいっていくではないか。そして馬を泳がせ船を追い始める。これはたしかに車では無理だ。ロシア船にようやく追いついて、首尾よくウォッカを手に入れたおやじ。だが、ウォッカと思っていた酒は、メチルアルコールか密造酒か、得体のしれないものだったらしく、しこたま飲んでしあわせのうちに死んでしまう。馬、関係ない。このくだりがあることでこの映画、ちょっと贔屓にしたくなってしまった。「馬どもといい、人間どもといい、」といいたくなって、おもしろさが馬々ということばの響きとともに後に引く。
アイスランド映画であること、みたときには知らず後で知った。いったいどこの国だろうとずっと気になりながらみていた。世界にはまだまだ知らない国がたくさんある、世界が大きくなったようでうれしくなる。アイスランドでは馬々は野生なのか、おやじがひっつかまえた馬はおやじのものなのかそうでないのか。アイスランドのおやじはウォッカを手に入れるのがそんなに大変なのか。わからないことだらけが楽しい映画鑑賞。
アイスランド、日本からの距離だけでなく、縁遠い国だ。映画は少しは外国を近くする。アイスランド映画といえば、最近「春にして君を想う」(フリドリック・トール・フリドリクソン 1991年)というのをみたことがあったし、「LIFE!」(ベン・スティラー 2013年)で主人公がスケボーで駆け抜けたアイスランドの場面の爽快感は記憶に新しい。「007 ダイ・アナザー・デイ」(リー・タマホリ 2002年)ではアイスランド舞台で氷結した湖でのカーチェイスがあった。調べてみると、最近アイスランドは映画のロケ地としてよく登場しているようだ。(「ノア 約束の舟」、ダーレン・アロノフスキー 2014年)「インターステラー」(クリストファー・ノーラン2014年)「バッドマン・ビギンズ」(クリストファー・ノーラン 2002年)など、手つかずの自然、荒涼たる氷原みたいな場面でよく使われているようだ。でもロケ地だけだとお国柄は見えない。僕の記憶の中では、レイキャビク・サミットがニュースになったのが1986年、火山(エイヤフィヤトラヨークトル火山というらしい)噴火でヨーロッパ中の飛行機が止まったのが2010年、10年に一度もニュースにならない国、お国柄に触れに、いつかいってみたいもの。馬々にも会えるかもしれない。
「フィールド・オブ・ドリームス」の四半世紀
「フィールド・オブ・ドリームス」(フィル・アンデン・ロビンソン 1989年)の舞台、とうもろこし畑の中の野球場、映画ロケの後もアイオワ州ダイアーズビルという町で野球場として今なお使われ続けているという。そんな素敵な記事をたまたま読んだ。四半世紀ぶりの再見。
例えば、これまで数年おきにみつづけていてこのアニュアルにも何度か取り上げてきた、「冒険者たち」(ロベール・アンリコ) とか「スミス都へ行く」(フランク・キャプラ)とかと違って、間が空きすぎたか。映画はちっとも変わらない、みる側も大して変わらない、と思い込んでいただけにちょっと不覚をとった。四半世紀も閲すると、自分の年齢はもちろん、家族構成も変わるし、役に立つ立たない、邪魔になるならないに関わらず経験や知識も増えたりする。映画をみるにそんなものは、と思っていたがそうでもなさそうだ。
“If you build it, he will come.”の声が聞こえるか、聞こえた時に耳を傾けるか。さらにそれを行動に移すか。自分はどうか。四半世紀前に、おそらく多くの人もそうだろう、そんな立ち位置でみていた気がする。今回、その声を聞いたレイ・キャンセラ(ケヴィン・コスナー 当時34歳)に突き動かされるテレンス・マン(ジェームズ・アール・ジョーンズ 当時59歳)に存外に気持ちが寄ってしまった。その声は聞こえなくとも、声が聞こえたという人を信じることができるか。自分の年齢がレイ・キャンセラよりテレンス・マンに近づいたからだろうか、それが因果でそういうふうに映画のみかたが変わっていくのだとすると、弱ったことだ。年齢や世代に関わらず、この映画のメッセージは変わらないはず、それがあの美しい車列のヘッドライトのエンディングに凝縮している。と自分にいい聞かせても、想像が次に向かう。次また四半世紀後にみるときには、ドクことムーンライト・グラハム(バート・ランカスター 当時76歳)に気持ちが寄るということだろうか。次の次の四半世紀後には。。ひょっとするとこの映画の登場人物たちは、そういう構造になっているのだろうか。
公開時にみたときには、ぼくはまだアイオワに行った経験もなく、地平まで続くとうもろこし畑もみていなかった。フィールドに現れたホワイト・ソックスのチームメイトがとうもろこし畑へ消えていくときにおどけていう ”I’m melting” が「オズの魔法使い」の中の有名な台詞とは知らなかった。映画の中の“If you build it, he will come.”の声の伏線、レイの娘カリンがテレビでみていた映画、他の人に見えないものを信じることをテーマとした「ハーヴェイ」(ヘンリー・コスタ)もまだみていなかった。自分の父親も健在だった。これら経験やら知識やらは映画を楽しむのに特段役立つとも邪魔をするともいえないものばかりだが、こんなことどもでも年月とともに勝手に積み重なっていくことで、声が聞こえたという人を信じる力のほうに気持ちが寄ったのだとすると、次の次の四半世紀後に、鬼籍シューレス・ジャクソンの気持ちに寄ることも、まあ悪くないかもと思えてくる。
あとがき
ミニシアターの閉館は、どうやら時代の流れ、渋谷のシネマライズも今年1月閉館してしまった。フォルカー・シュレンドルフ「ボイジャー」、シャルル・ベルモン「うたかたの日々」、K.S. ラヴィクマール「ムトゥ 踊るマハラジャ」などなど、ここでみた映画を思い出す。シネヴィヴァン六本木、シネスイッチ銀座、ユーロスペースなどとともに、映画館と映画がセットで記憶になる場所だった。シネマライズは、建物(RISE 北川原温)のインパクトで、どこの映画館よりも記憶に残りやすかった。メタルのドレープがかかったチケット売り場は、スペイン坂に現れた異界の入口。迷い込んだらもう出てこられない。かくなるもの、あらまほし。
2015年
ピコン・ビールを飲みたい。「冬の猿」(アンリ・ヴェルヌイユ 1962年)で、ジャン・ポール・ベルモンドが飲んでいたビールだ。映画の影響に抗う力が昔からからきし弱くて困ったものだ。
映画は目から耳から情報が圧倒的に押し寄せてきて、映画が終わっても残像や残響があったりするものだが、味や香り、手触り、といったものはそうはいかない。もどかしい。昨年書いた「グランド・ブダペスト・ホテル」(ウェス・アンダーソン)の、「MENDL’Sのケーキのクリーム」「香水ル・パナシュ」 それらが架空のものであっても、なおもどかしい。そういえば、ジャン・ピエール・ジュネ「アメリ」をみたあとは、主人公アメリ(オドレイ・トトゥ)が豆の山に手を突っ込む場面の、想像上の触感が映画をみおえてもどかしくて、どこにいったら、これ、できるだろうと、ちょっと考えたりした。
今年、たまたまみた「冬の猿」で、ピコン・ビール、リキュールのアメール・ピコンのビール割だ。ビールの味は飲まないとわからない。スペインの美しく苦い思い出に囚われているらしく全然前へ進めない、ふらふらしているだけのガブリエル(ジャン・ポール・ベルモンド)。 アルコール度数をまっすぐに高め、ただ酔っぱらうための混ぜ物の風情、間違ってもビア・カクテルを味わうといった筋合いのものでない、ひたすらの、がぶ飲みだ。
メニューを載せている店を調べてみるがなかなかない。やっとみつけたバーに電話してみると「メニューにはもうないが、アメール・ピコンはあるので」といわれて駆けつけた。タップから注ぐビールに、アメール・ピコンを足して、またタップから泡で蓋してもらう。ガブリエルみたいに半々で割っていたらピコンの甘みが勝ちすぎ、きっとうまいものとはいえないだろう。味ではない、度をあげるためのもの、まちがいない。よし、ぼくも、囚われるような美しく苦い思い出などなくとも、ひたすらのがぶ飲みだ。
イオセリアーニ、韜晦の術
オタール・イオセリアーニに出会って、「月曜日に乾杯!」(2002年) 「ここに幸あり」(2006年)を続けてみたとき、なんだか暮らしぶりに文化の奥行がある、フランスらしい映画だと思った。日常の軛からの軽やかな逃走、工場で働く溶接工も、失脚した大臣も(両作ともに、主人公の名前はヴァンサンだ)大差なく、舫いを解けば、煙草と酒、そして、お気に入りの音楽や絵画に囲まれて、だらだら楽しげだ。溶接工のヴァンサンは心置きなくヴェネチアで絵筆をとる。元大臣のヴァンサンはお気に入りの絵を飾って、ギターにピアノだ。また、元大臣は公邸を追われても母親に頼めばアパートがあるし、溶接工の母親はアルファロメオのカブリオレで墓参り、父親は外遊してこいとリラを束で渡すし、タダモノではなさげな素性も、奥行のけしきの一つにみえた。ジャック・タチを思わせる映像ボキャブラリも思い込みを後押しした。溶接工ヴァンサンの働く工場では、妙な音がキャスティングされ、立ち込める煙は赤と白、ホースからの水は青、緑、赤。「ぼくの伯父さん」の工場と同じ工場のようだ。元大臣ヴァンサンは女性に窓から花を投げ入れる。溶接工ヴァンサンは工場の女性に溶接の造花のプレゼント。「プレイタイム」でユロ氏がアメリカ人女性に贈るスカーフとスズランの造花を思い出した。年齢や風采によらずフランス人、おしゃれなことするもんだ、と。
イオセリアーニがグルジア出身、フランスに移住した映像作家と知ったのは、「汽車はふたたび故郷へ」(2010年)をみたときだ。フランスで撮った映画の中で、そのルーツの主張が埋め込まれていたことも後になって知った。例えば、「月曜日に乾杯!」「ここに幸あり」に共通して何度も登場する、ドラゴンを征伐する聖人。「ここに幸あり」で元大臣ヴァンサンがインラインスケートで走る場面で出会う路上絵描きの絵、「月曜日に乾杯!」で、溶接工ヴァンサンが、「パパが昔描いた」と次男にいわれるスライドの絵、それを下絵にして長男が描く教会壁画、次男がホンモノのワニをドラゴンにみたてて撮る写真。繰り返し登場するのは何のアイコンだろう。調べてみたらすぐわかった。グルジアの国名由来にもなっている聖ゲオルギオス(英語で聖ジョージ、フランス語で聖ジョルジュ)だ。さらに調べると、元大臣ヴァンサンが大臣室から大事に持ち帰る絵は、グルジアの国民的画家ピロスマニの作品だったりということが知れた。なんて深々と埋め込まれた主張だろう。遠く故国の人に目配せするだけの韜晦か。そこで、なんだグルジアかと合点がゆくならまだマシだが、地図上の位置さえ思い浮かばない。文化の奥行なんぞてんでわかってなかったということ。今年、国名呼称が「グルジア」から「ジョージア」に変更になったという日本の法改正ニュースも、イオセリアーニを知らなければ素通りしていたかもしれない。
畢竟、素性タダモノではなかったのは、イオセリアーニ自身だ。日本において、2004年ビターズ・エンド配給で特集上映、あわせてエスクァイア・マガジン・ジャパンから「イオセリアーニに乾杯!」が発刊されて多くのことが紹介されているが、故国との関係はわからないことが多い。略歴に「79年パリに移住」としか書かれていないからだ。1962年「四月」公開禁止、1966年「落葉」公開禁止、1968年「ゲオルギアの古歌」公開禁止、1975年「田園詩」公開禁止 こんな経歴の後の「パリに移住」だ。(「イオセリアーニに乾杯!」の略歴より) アンドレイ・タルコフスキーやアナトール・リトヴァクといった旧ソ連からの亡命映像作家の系譜に位置づけたくもなる。でも用心しないといけない。1996年、ソ連崩壊、グルジア独立後に撮られた「群盗、第七章」をみて思った。中世トルコ支配時代の国王、20世紀末内戦下の浮浪者、社会主義時代の特権階層、アミラン・アミラナシヴィリ三役で重ねて描くアイロニー。斬られて横たわる国王の姿、そのまま内戦時代の浮浪者になる。 密告によって地位を追われ留置所で横たわる特権階層の姿、そのまま中世の国王になる。社会主義時代の粛清、中世の拷問と変わりないという、おそらくソ連時代にはできなかったであろう告発に注目してしまうが、その時代が終わって現代になったとしても、内戦で私腹を肥やす、「粛清」されてしかるべき連中がいるというところまで描かれている。表現にとっての、社会主義の不具合だけが描かれているわけではない。「社会主義国からの亡命」はメッセージではないのかもしれない。この映画の製作国、イオセリーニ本人の意志がはいるものかどうか知れないが、「フランス、スイス、イタリア、ロシア、グルジア」と仲良く国名が連ねられている。ソ連がなくなりロシア語読みのグルジアを廃してジョージアになろうという現代だからこその、おおらかな並びともみえるが、そもそも、製作国がどこであるかなんぞより、表現の縛りがある国・社会制度に与さないことのほうがずっと関心事、そんなメッセージが伝わってくるようだ。「汽車はふたたび故郷へ」では、資本主義国フランスでの映画づくりの不自由を社会主義国のそれと並べている手つきもあった。イオセリアーニとしては、表現の自由を求めてのフラン亡命ではなく、やはりフランス移住なのだ。フランスの文化に埋め込んだ故国への目配せ、それが韜晦なのではなく、フランスだろうとグルジアだろうとジョージアだろうと、表現したいこと表現できればそれでよし、韜晦の術があるとするとそこではないか。
たまたまの出自が旧ソ連のグルジアであったというだけ、最初の長編作「四月」は、表現にとって何が制約で何がそうでないか、など意に介さないみずみずしさで驚かせる。言葉、色、音楽、表現を豊かにしてきた映像の要素を、ぎりぎり削ぎ落とすだけ落とした現代の寓話だ。口をついて出る言葉のほとんどは効果音に置き換わり、街中で途切れることない家具の運び出し、運び入れ作業はシュールな群舞になる。何もなかった若いカップルの部屋、椅子が一つはいったことをきっかけにたちまち家具だらけ。二人の部屋の中に増殖していったものとは何だろう、そのことで二人が失ったものは何だろう。二人の部屋だけではない、集合住宅の窓ごとに繰り返されている増殖と喪失とは何だろう。国家の主義などおおよそ無関係の投げかけがある。この映画が製作時公開禁止だったとは、よくある社会主義国ジョークの一つのようにしか思えないエピソードだ。
最近の数作、俳優のイオセリアーニも大活躍だ。「素敵な舟と歌はゆく」(1999年)では窮屈な城館から逃走する当主役、「月曜日に乾杯!」ではスノビズムまるだしのイタリアの侯爵役、「ここに幸あり」では主人公友人の酔っぱらい庭師役。きもちよさげに演ずる一方で、存在感、俳優イオセリアーニ以上の動物キャストを登場させている。「素敵な舟と歌はゆく」では、城館の当主以上に「本当の主」然としているコウノトリ(マラブー)、「月曜日に乾杯!」では後任大臣のペットのチーター、「ここに幸あり」ではドラゴンにみたてられるワニだ。旧ソ連、グルジア時代の作品をみたあとだと、「フランスに移住」したイオセリアーニ監督は、むしろ、これら寄る辺ない動物の姿とも重なってみえる。故国から離れて、なぜこんなところにいるのだろうと自問しながらも、意外な心地よさを享受してじっとしている。でも、遠い故国のこと忘れないよう、時々、翼を広げてみたり、歩き回ったりしてみて、自分はそうだったと確かめている。
視線の先、空の高み
今年公開の話題作「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 2014年) のラストシーン。 病室にバードマンの父の姿がなくて、窓に向かった娘サマンサの視線、バードマンとなって飛んでいる父をみるかのように、空の高みに向かう。
人にはどんなときでも奥の手がある。第三者がそれをまぼろしと呼ぶとしても。「バードマン」のエンディングをみたとき、「ヘヴン」(2002年)を思い出しながら、そう思った。クシシュトフ・キェシロフスキがダンテ「神曲」をもとに書き遺した脚本「天国編」を、トム・ティクヴァが映画化したもの。夫の復讐をしようとした爆弾犯(ケイト・ブランシェット)と逃亡を幇助する憲兵隊員(ジョヴァンニ・リビシ)、絶望的な逃亡の末のラスト、警察のヘリコプターを奪った二人は、空の高みに消えてゆく。どういう消え方であったとしても、逃亡が始まったときからそれが定まっていたかのようにもみえるラストだ。
さらに思い出した。「ミラノの奇蹟」(ヴィットリオ・デ・シーカ 1953年)のラストシーン。敗戦後のイタリア・ミラノ、バラック街をつくって暮らしていたトトと仲間たち。資本家や官憲によってバラック街から締め出され、さらに捉えられそうになる。トトは住人たちを率いて、ドゥオーモ前の清掃人の箒を次々に拝借、それにまたがるや、ドゥオーモを越え、理想が叶う空の高みをめざしていっさんに飛んでいく。
映像というものは、そもそも、文章や音楽と違ってまぼろしの余地を残すのが難しい。これらの映画はそこをしっかり越えて、空の高みに向かっている。
Referenced in 「オズの魔法使い」
今年みた新しい映画でも、「オズの魔法使い」の引用、参照はひっきりなしだ。「ジャージー・ボーイズ」(クリント・イーストウッド 2014年) でも、 "(Toto, I've a feeling) We're not in Kansas anymore."のバリエーション “Hey, Toto, watch your mouth, you’re not in Newark anymore.” という台詞がでてくる。フランキー・ヴァリとボブ・ゴーディオがニューヨーク、ブリル・ビルディングのスタジオへデモ・テープの売り込みに行ったとき、再会したプロデューサー・ボブ・クリューに声をかけられる場面。冷たくあしらわれ続けフランキーが悪態をついていると、ボブ・クリューに ここは地元ニューアークではないんだよ、というニュアンスで、窘められつつ歓迎される場面だ。Follow me, boys. Destiny awaits. プロデューサーの予告どおり、ここから「ジャージー・ボーイズ」即ち「フォー・シーズンズ」の運が徐々に回り出す。住み慣れた場所、出身地・地元の代表として、Kansasでない使い方。Hey, Toto,がなければ「オズの魔法使い」の引用とは気づきにくい、神出鬼没のバリエーションだ。
映画の中の神出鬼没を詳らかにできないか。そういうときのIMDb。 WEBの世界の知の集積は進化し続けている。「オズの魔法使い」 の”Referenced in” 項目をあたると夥しい参照が出てくる。その中で、(Game、TV episode、Shortなど除いて)長編映画だけ抜き出してみた。1939年から2015年の406作(どういうreferenceかのコメントがあるもの)対象に、どんな参照が多いものか、コメントの中のキーワード、キーフレーズの頻出度を調べてみた。
キャラタクター名で一番は、やはり”Dorothy”、42票。続くのは、”Munchkins” 32票。”Toto” “Tin-Man” ,”Scarecrow”, “Lion” “Witch of the west” をおさえての2位だ。なるほど。”The man behind the curtain” というのも3票で、”Glinda” “Flying Monkeys”と変わらない。渋い。でも、これは映画みていても、気づかなさそうだ。
フレーズは、予想どおり、「ジャージー・ボーイズ」のようなバリエーションも含め "We're not in Kansas anymore."そして”There is no place like home.” の定番好一対が、28票24票で他と大きな差で1位2位だった。続くのは、”Lions and tigers and bears , oh my! ” 11票。”I’m melting.”7票。ここからだんだん意外なものがランクインする。”Click your heels.” に”Ding Dong, the witch is dead.” が5票で並ぶ。”Follow the yellow brick road.” や”If I had a heart (brain),”と並んで ”I’ll get you, my pretty.” (Witch of the westがDorothyを脅す台詞)がともに3票でくる。
大まじめに取り組んでみたものの、神出鬼没が詳らかにできた感じもあまりしない。が、映画をみながら妙なことにいちいち反応している人がたくさんいることがわかった。ちょっとうれしくなったりした。そもそも、こんな調べ事なぞしなくとも、だらだらみていてたまたま気づく、で十分楽しい。例えば今年初めてみた「ピース・ピープル」(バリー・レヴィンソン 2000年)に「オズの魔法使い」がでてくる。舞台は1980年代、北アイルランド、ベルファスト。火炎瓶よけの防護ネットを巡らせた家、というオープニング3分で、きな臭さがいっぱいに立ちこめる。IRA対英国軍、カトリック対プロテスタント、という構図の中でコメディを撮ってしまう(政治的メッセージ持ちようのない、アメリカ人)バリー・レヴィンソン面目躍如の作。カトリックのコルムとプロテスタントのジョージは病院内の理容室の理容師。初対面でぎこちない二人が、脚韻踏んだ会話で意気投合するきっかけの話題 コルムのおばあさんが詩人で、「オズの魔法使い」をテーマにしていたという。
コルム ”It was something to do with your woman from The Wizard of Oz.”
ジョージ ”Judy Garland ?”
コルム ”I love her”.
ジョージ ”Aye,her”
大西洋を越え、対立構造を越える、「オズの魔法使い」ネタ。すばらしい。
あとがき
グルジアのピロスマニを知るやいなや、今年、映画「放浪の画家ピロニマニ」(ゲオルギ・シェンゲラヤ 1969年)が「デジタルリマスター&グルジア語オリジナル版で37年ぶりに劇場公開」だ。何のマジックだろう、すぐに岩波ホールにみにいった。絵画の世界を映像で再現するような、わざとの平板なカメラが、ピロスマニの、そのもののようでちょっとそのものでない絵、首がちょっと短いキリンとか、テーブルを囲んでいるけれどいつも手前の席がない食卓とか、わざとのような絵と重なってくる映画だった。「ちょっとそのものでもない」というずれ加減が繰り返されているうちに、自分の思い違いで「キリンはそうだったかもしれない」と思えてくる、そんなピロスマニのマジックにかかってしまう映画だった。
若きピロスマニが、酪農品店をはじめたがうまく行かず、自棄のように閉店時にこどもたちに商品をふるまう場面がある。「手をだしてごらん」と木皿の蜂蜜をこどもの手のひらにあふれさせる、なんともシアワセな感じ。手のひらに、「アメリ」のときのような「想像上の触感」がしばらく残った。
2014年
相も変わらず古い映画ばかりみているものの、同時代の現役の映像作家、出ればみる、という何人かがいる。コーエン兄弟、スパイク・リー、ウェス・アンダーソン ホウ・シャオシェン、エミール・クストリッツァ……。今年はウェス・アンダーソン新作「グランド・ブダペスト・ホテル」を、6月公開後程なくみにいった。劇場公開いつまで続くかと心配しながら駆け付けたのに、新宿シネマカリテ、満席で席がとれず、びっくり。同日、別の映画館のプレミア・シートでみることになってしまった。「ウェス・アンダーソンをプレミア・シートで」、なんだかすわりのわるい響きだ。
「グランド・ブダペスト・ホテル」のアイコン
1時間40分、シートのことなど忘れて没入した。映画のスティルにもなっている、ホテルのエレベーターの真っ赤な内装に紫色の制服、ケーキ店MENDL’Sのピンクのパッケージ、といったデザインワーク。壮麗なセットであるのに、ティルト、パン、ズームを多用することでわざわざ書割っぽくみせるカメラワーク。などなど、いかにも、のそれらしさ満載。本当の「それ」は実際には違う確信に満ちたツクリモノで、またまた私小説世界を展開してみせた。失われた帝国文化の虚栄を嗤うかにみえながら、文化や生活の伝統への憧憬のまなざしが存外な殊勝さで注がれている。
殺し屋(ウィレム・デフォー)は刑務所の床に落ちていたケーキの箱のクリームの味で「MENDL’Sだ」とわかってしまうし、軍警察のヘンケルス(エドワード・ノートン)は、グスタフ(レイフ・ファインズ)が列車にさっきまで乗っていたことを「ル・パナシュ」の残り香で知ったりする。文化とか生活とかに最も縁のなさげな連中の妙な活躍だ。グスタフがまくしたてる、コンシェルジュ仲間がいるからこそ実現してきたもてなしの数々、「オペラ・トスカーナの初日の最前列席」「ロイヤル・サクソン・ギャラリーのタペストリー・コレクションの貸し切り」「シェ・ドミニクの木曜の隅のテーブル」 これら全部、架空の国ズブロフカ共和国なんだもの、架空の文化アイコンだ。架空の文化へ憧憬のまなざし。手の込んだことをしてみせるものだ。
そしてまた、アンダーソン作品恒例、楽屋落ちのような常連キャスティング。いちいち反応するのもどうかと我ながら思うが、ウィレム・デフォーで、もううれしくなってきて、ビル・マーレイのコンシェルジュ仲間で相当盛り上がってきて、とうとう、オーウェン・ウィルソンだ。進駐軍がグランド・ブダペスト・ホテル支配するや、ホテルのコンシェルジュにちゃっかり収まっているという役、これは何の役でもない。なのに登場しただけで、プレミア・シートにそぐわない大笑いをしてしまった。すわりのわるいのは、ウェス・アンダーソンでなく、ウェス・アンダーソン・ファンの自分だったと気づいた。
クリトリッツァ中毒
「出ればみる、という何人か」については、全作品みてきているつもりでいても、名を馳せる前のデビュー作あたり、なかなかみる機会がなかったりする。コーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」も普通にみる機会なく、定価の倍以上のプレミアムついたレーザーディスクを買ってみた記憶がある。スパイク・リーの「ジョーズ・バーバーショップ」、ホウ・シャオシェン「ステキな彼女」も、後になって、けっこうあくせく探してレンタルでみた。エミール・クストリッツァの「Do you remember Dolly Bell ?」( Sjecas li se, Dolly Bell ?)も手強かった。そういえばみてなかったと今年思いついたもので、オオゴトになってしまった。難易度が高いほどファイトしてしまう、いつものいけない癖。
日本未公開、日本ではVHSやDVDも出たことがない。YouTubeに全編アップされているのがわかったが、セルビア-クロアチア語で、どうにもならない。ネットで、英語字幕版DVDの自主上映会がかつてあったと知り、DVD英語字幕版を探すことにした。DVDだからリージョンコードがある。リージョンコード2、ヨーロッパの英語字幕版である必要があった。Amazonでフランスから [Import anglais] 版DVDの取り寄せだ。フランスの切手が貼られた郵便がリヨンから届いたのは、1か月後だった。
エミール・クストリッツァ フィルモグラフィ
「Do you remember Dolly Bell ?」 Sjecas li se Dolly Bell ? (1981)
「パパは、出張中!」 Otac na sluzbenom putu (1985)
「ジプシーのとき」 Dom za vesanje (1989)
「アリゾナ・ドリーム」 Arizona Dream (1992)
「アンダーグラウンド」 Underground (1995)
「黒猫・白猫」 Crna macka, beli macor (1998)
「SUPER 8」 Super 8 Stories (2001)
「ライフ・イズ・ミラクル」 Zivot je cudo (2004)
「ブルー・ジプシー」 Blue Gypsy オムニバス『それでも生きる子供たちへ』 (2005)
「ウェディング・ベルを鳴らせ!」 Zavet (2007)
「マラドーナ」 Maradona by Kusturica (2008)
1997年のCinemannualに、「アンダーグラウンド」について、「ユーゴスラビアのことだって、あれだけ全世界的に内戦が報道され、ニュース番組で何度となく色わけされた国土をみたにもかかわらず、よくわかってない。」と書いてから15年以上が経った。「ライフ・イズ・ミラクル」で、「”誰かの”戦争」 と語られていた戦乱は、過去のものになりつつあるのだろうか。
最近目にするようになった、海外パッケージツアーで人気のクロアチア、スロベニアなどは、ひょっとすると、旧ユーゴスラビアというイメージすらないかもしれない。調べてみると、旧ユーゴスラビア6か国(セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、スロベニア、モンテネグロ)の日本からの渡航者数は、2011年の統計で20万人規模。10年前の10倍という。(JATA 日本旅行業協会HP「海外旅行者の旅行先」より ※コソボは統計なし) この15年の間、国の分離・独立、細分化が進んだことで、何らか収まりがついていっているものなのだろうか。やはり、よくわかっていない。
フィルモグラフィを辿るたった30年余の中でも目まぐるしく変わる、国そのものの情勢。国のありよう、よくわかってなくともそれに関わらず、クストリッツァ映画は癖になりやすい。クストリッツァ映画にはおおよそ3つの中毒性の成分が含まれている。
◆ローテク・ヴィークルたち
ベッドも飛ぶ。(ライフ・イズ・ミラクル) 救急車も飛ぶ。(アリゾナ・ドリーム) 飛行機はなかなか飛ばず、陸上を転げまわる。(アリゾナ・ドリーム) 空想のシーンでなんでも空に飛ばすクストリッツァだが、陸上ヴィークルは、ローテクのぽんこつだ。
「黒猫・白猫」で、花嫁を運ぶスペシャルな役回りで登場するのは、車後ろ半分の馬車。形状からすると「ベン・ハー」(ウィリアム・ワイラー)に登場する戦闘用チャリオットに似ているともいえるが、そんな上等のものでない。近所の解体工場で拾ってきたテイだ。同じく「黒猫・白猫」で、”ゴッドファーザー”(サブリ・スレジマニ)が乗るのは、エンジンつきの車椅子ベッド。こいつには扇風機まで装備されている。「ライフ・イズ・ミラクル」では、線路上を走るトロッコ・カー(?)だ。前後にしか動けない不自由の象徴のようなヴィークル。前はセルビア、後はボスニア、前後でないとしても不自由の類い、さらに雨が降ると屋根がないので傘をささないといけない。
◆シネマディクトたち
2003年のCinemannualの「映画の中のシネマディクトたち」で書いたが、クストリッツァは「アリゾナ・ドリーム」のときから、シネマディクトを登場させてきた。
「アリゾナ・ドリーム」では、「北北西に進路をとれ」(アルフレッド・ヒッチコック)、「レイジング・ブル」(マーチン・スコセッシ)、「ゴッドファーザー PartⅡ」(フランシス・フォード・コッポラ)の3作の台詞を諳んじるシマネディクト”ポール”(ヴィンセント・ギャロ)を登場させた。また、「黒猫・白猫」では、”ゴッドファーザー”の、「カサブランカ」(マイケル・カーティス)への偏愛が挿入される。“Louis, I think this is the beginning of a beautiful friendship.” クロード・レインズのルイと、ハンフリー・ボガートのリック、立場を越え限られた言葉で理解し合う名場面だ。シネマディクトをたびたび登場させるくらいだから、実は本人がいちばんのシネマディクト。ドキュメンタリー「SUPER 8」の中のクリトリッツァは、この台詞をコンサートの中、インタビューの前、3回も呟いている。
デビュー作から、映画のちらみせを、映画館、テレビ、繰り返す。特段、その映画が挿入される理由などあるなしに関わらず登場する。「ウェディング・ベルを鳴らせ」の中では主人公たちがみるテレビ映画は「タクシー・ドライバー」(マーチン・スコセッシ) 「マラドーナ」の中では「レイジング・ブル」の話題で、ブエノスアイレスとサラエボ、辺境の二人が心通わせる。「Do you remember Dolly Bell ?」でも、1960年のイタリア映画「ヨーロッパの夜」(アレッサンドロ・ブラゼッティ)が、社会主義国の、ちょっと背伸びしたいこどもたちに、オトナなインパクトを与えている顚末がある。「ジプシーのとき」でも、映画館の場面で「ちょっと背伸び」の映画だ。(IMdbの、”Connections” ”References”によると、「ジプシーの唄をきいた」(Skupljaci perja 1967年 アレクサンドル・ペトロビッチ)という作品のようだ。(Quite a few scenes and motives are taken from this film in an hommage to the grand master Petrovic.) これら、「映画でちょっと背伸び」は、クストリッツァ自身の思春期体験によるものなかもしれない。
「マラドーナ」では、「Do you remember Dolly Bell ?」「パパは出張中!」「黒猫・白猫」「ライフ・イズ・ミラクル」 自作をコラージュしてみせたクストリッツァ。このドキュメンタリーそのものがマラドーナのコラージュだ。貼り付けていった数多のピースに囲まれた、マラドーナでもない、アルゼンチンでもない、貼られていないものの形に、強いメッセージが込められているようだ。
◆度し難い動物たち
冒頭5分で夥しい数の動物が登場するクストリッツァ映画。「黒猫・白猫」では鳩、鵞鳥、犬、猫、鼠。「アンダーグラウンド」では、馬、鯰、鸚鵡、鵞鳥、虎。ドキュメンタリーの「SUPER 8」であっても、バンドのツアーの列車の中に山羊がでてきたり、サックスとともに鳴く犬がでてきたりする。だからといって、動物愛めいたものがそこにあるわけではない。家畜がたまさか愛玩されているだけ、「ウェディング・ベルを鳴らせ!」の牛”ツヴェトカ”、 「Do you remember Dolly Bell ?」の兎”ペロ”は、名前までついているのにあっさり売り飛ばされるし、「ジプシーのとき」で主人公がかわいがる七面鳥はあっけなく鍋になる。
「そのへんになんだかやたらいる、度し難いもの」がクストリッツァ映画の動物たちだ。人間の生態のメタファーとか、何かの象徴とか、そんな役回りにはおおよそ無縁の輩だ。注意深くみると、もっといるいる。
「アリゾナ・ドリーム」の映画館の犬。ステージが上がって投影を遮る邪魔など顧みず、俺の台詞だとばかり、「レイジング・ブル」の台詞をなぞるは、ヴィンセント・ギャロの”ポール”なのだが、彼がそこに立つ前に、所在なげにステージに立っている犬を見逃してはいけない。なぜそんなところに犬が立っているのだろう。「黒猫・白猫」の、道端の廃車を齧る豚。何かの見間違いか。誰もが思うが、時間が経ってから再度でてきたときには、車の柔らかそうなところをあらかた貪りつくしてしまっているのだ。なぜ豚は車を齧るのか。答えなどない。
ローテク・ヴィークルたち、シネマディクトたち、度し難い動物たち。これら三つの成分にはまるともう、立派なクストリッツァ中毒だ。 なぜそんなところに犬が立っているのか、なぜ豚は車を齧るのか、答えなどなくて当然。「そのへんになんだかやたらいる、度し難いもの」だからだ。 しかし、さらに注意深くみると、動物に限ったことでない。そのへんの猫をふん捕まえて靴磨きにする”クロ”(「アンダーグラウンド」 ラザル・リストフスキー)、肥溜めに落ちた体を鵞鳥で拭う”ダダン”(「黒猫・白猫」 スルジャン・トドロヴィッチ) 動物など雑巾代わり、度し難さで上を行く人間たちがいる。
そのうち、空から大きな手が降りてきて、むんずと掴まれて雑巾代わりにされるかわからない、と思わせるものがクストリッツァ映画にはある。その手にかかっては、人間も動物も大差ない。「”誰かの”戦争」が、上を行く度し難さである限り、旧ユーゴスラビアのありようはきっと、過去のものではなく、また、何の収まりもついていない、ということだろう。
古い邦画の不思議
日本人でも日本のこと知らないことだらけ、と古い邦画をみて思う。だから、楽しい。
「上意討ち、拝領妻始末」(小林正樹 1967年) タダゴトでない雰囲気のタイトル。封建制の理不尽は理解できても、「お上」を屋敷に迎え討つにあたり、畳を全部裏返し、というのは理解できなかった。三船敏郎の”笹原伊三郎”の台詞「血糊で滑らんようにな」 死闘を予告する凄絶な台詞で理解はしたが、そんな知恵、どこでつけるものなのだろう。
邦画にも、「座頭市」(北野武)のようにタップダンスをフィーチャーした作があるのも知っていたし、邦画、洋画問わず、映画の中のタップダンスはいろいろみてきたが、「キクとイサム」(今井正 1959年)のタップダンスはみたこともない不思議。黒ん坊と差別を受けるキク(高橋恵美子)が赤子を背負ったまま踊るタップダンス、「お富さん」だ。”粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪” この時代、歌詞の意味もわからずに歌うこどもたちだらけだったろうが、「お富さん」でタップダンスとは、不思議で群を抜く。
今年、「裸の島」(新藤兼人1960年)の舞台、宿彌島が競売にかけられ、新藤兼人の遺族が買い取り三原市に寄贈へ、と、小さなニュースになったが、この映画も不思議がいっぱいだった。タイトルバックで、「耕して天に至る」「乾いた土」「限られた土地」 と丁寧に説明されていたにも関わらず、水を桶にいれて黙々と運ぶ作業、何をしているのか掴めない。島に渡り、天秤棒で桶を担ぎあげるのをみて、生活のための飲み水を運んでいるんだ、と仰天していたら、島の斜面の畑に撒く水も、桶で天秤棒で舟で運んでいるとわかってきて、さらにのけぞってしまう。イラン映画とかみていて出会う不思議に似た感覚。
高度成長時代の日本だからこその、海水淡水化技術とかパイプラインとかを持ち出さなくとも、せめて井戸を掘るとか、雨水を貯めるとかなかったのか、とかいった邪な考え、不思議にしっかり向き合うに、さっさと捨てないといけない。そもそもこんな島になぜ住まないといけないのか、という思料に辿りつくや、この家族だけが特別ではないことに気づくからだ。自分では気づけないだけ、誰もが不思議な「裸の島」に住んでいて、毎日何かを運んでいる。
あとがき
プレミア・シート一人大笑いでちょっと恥ずかしかったが、新年早々のIMAXでの「ゼロ・グラビティ」(アルフォンソ・キュアロン)では、あまりもの没入感で、スペース・デブリが飛んでくる場面で反射的に右に左に顔をよけたり、映画館でた後もなお、しばらく水に浸かっていたかのように体が重たくて思うように歩けなかったりしたのも、たいそう恥ずかしかった。
「Do you remember Dolly Bell ?」がそうであったように、毎年のように一本の映画をみるためにオオゴトになっている。オオゴトによって発見することもある。図書館で映像資料としてみる方法もそうだった。今年は、レアもの専門レンタルVHS店。今更のVHSだ。十数年前にみたときには普通にレンタルビデオでみることができた「ジプシーのとき」、再びみようとするとそうはいかない。DVD化されずVHSのみ。オークション出品もないレア度で、中古の市場ではとんでもない値がついている。諦めかかっていたところ、レアもの専門レンタルVHS店を発見、さっそく借りてみることができた。セル65000円、それに対応するかのような、レンタル3000円、一種の「需要と供給の法則」。本やCDの復刻・復刊が市場になりつつあるのに対して、映画は権利関係とか一筋縄ではいかなくて、こんな、セル-レンタル需給バランスの価格になるのだろうか。おもしろい。一時代前まで映画館でかかるしか方法がなかったことを思うと、所有することもないがいっぺんどうしてもみたいという「ロングテール」なニーズ、そのうち叶えられる気もする。それまでは、将来の昔語りを楽しみに、毎年楽しく、オオゴトしていこう。
「今年のNo.1」が一年のはじめに自分の中で決まってしまうことが時々ある。うれしさ余ってたたらを踏んで、ただ自分で勝手に決めてしまったということにすぎないのだが、年末になってやはり「今年のNo.1」だったとふりかえることは、ほっとするような、がっかりするような、複雑なきもちだ。今年2月早々に「今年のNo.1」に、今年の話題作「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」(アン・リー)が決まってしまって年末、1年に1本出会えるかどうかというのに出会えてよかった、cinemannualの書き甲斐もできたかもという「ほっ」と、これを凌ぐ映画にはその後10か月100本以上みつづけていて出会えなかったという「がっかり」とが混ざり合う、へんなきもちのこと。 へんであっても、例年、時代を遡るほうへ関心が行きがちなところ、その年の封切映画で新しい魅力に出会うことができると、きもちが時代の前へ向かうことができて、他愛なくうれしくなる。
「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」 漂流のはじまり
フィクションという船に乗り航海に出て、2、3時間後にまた元の港に戻り、地に足の着いた確かな時間、あるいは、明日をおおよそ予想できるようなありふれた時間に戻るのが映画をみることとすれば、この映画は港には戻らない。映画の中の漂流は227日で終わっても、区切りのない時間へ、漂流をはじめてしまう。
シグナルは映画の中に巧みに配置されていた。しまった、うろたえる前に、途中で気づけばよかった。
①信じられないような情景の連続。発光クラゲと跳び上がるクジラ、トビウオを打ち落として食らうトラ、ミーアキャットの大群で埋めつくされ島。信じられない「ような」と思った瞬間、もう信じてしまっている。
②主人公は、子どもの頃、同時に複数の宗教、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教を信じ、漂流の最中にも、どの神か知れぬが、神を罵倒したり感謝奉ったりする。宗教というのは元来自由なもの、信じる、信じない、はいつも自由だ、などと合点しているだけで、漂流する、しない、というような、選ぶ自由がないもの、との表裏の関係に、このときには気づけない。
③そもそも映画の構成として、「パイ」その人は、インタビューに答えているという前提がある。ストーリーテリングという枠、語り部がいて語っていること自体で、もうこれはフィクションなのだ。その話を信じるかどうかは、聞き手に委ねられている。
選択できるのは、信じるか、信じないか、だけ。第三者の聞き手である保険調査員は、小説家は、その難しい選択を迫られたわけだが、どちらを選ぶのも自由だ。フィクションも宗教も、信じる自由において同じ。かたや、当人には選択ができないものがあった。
映像美に引き込まれ続けまごまごしているうちに、途中のシグナルにも気付けず保険調査員が別の話をきく段になって、うろたえる自分がいる。確かな時間だろうと、ありふれた時間だろうと、選択できないものがときにある。何を信じるか、しか選択できない。選択できない不自由のことを漂流と呼ぶのであれば、それは227日では終わらない。
西川美和が置く「微苦笑」
「微苦笑と云ふのは、私の成語で、微やかな苦笑と云ふ意味ではない。微笑にして同時に苦笑であるの謂である。そして私のやうやく三十而立し得た、生活及藝術上の一種の態度である。是を悟道と云ふには餘りに平俗、是を心境と云ふには、稍々心外の感なきを得ない。」(久米正雄「微苦笑藝術」感想小品叢書Ⅲ 大正13年 新潮社) 西川美和「ディア・ドクター」のラスト、八千草薫演ずる未亡人鳥飼かづ子の表情をみて、この古い言葉を思い出した。なんだか大袈裟でいばっているふうな古い文章を持ち出したのは、人の気持ちを表現しようとするときの、ことばというものの不如意を合わせて思ったからだ。気持ちが渦巻きすぎて、微笑とも苦笑ともいえる表情。
2002年 「蛇イチゴ」
2005年 「female」(オムニバス中「女神のかかと」)
2006年 「ゆれる」
2007年 「ユメ十夜」(オムニバス中「第9話」)
2009年 「ディア・ドクター」
2012年 「夢売るふたり」
デビュー作「蛇イチゴ」から最新作の「夢売るふたり」まで、西川美和が映画の中に置いてきた表情は、ことばでは表せないものが詰め込まれているようすだ。一見、例えば善と悪といったわかりやすげな軸を用意しながら、その軸のどこにも位置しないものをぽんと置いて去っていく、西川美和の手つきにはそんなものが感じられる。例えば「蛇イチゴ」の兄(宮迫博之)は、家族を救うのか壊すのか、そんな軸をみせながら、少なくとも兄の言ったことは嘘ではなかったというラスト、主人公(つみきみほ)の表情は、その軸の上にはない。「ゆれる」でも「夢売るふたり」でも、その兄弟が、そのカップルが、映画のラストの後、こう進むのだろうという予見や余韻を拒んで、よりどころのなさだけを表情の中に残すかのようだ。 「ディア・ドクター」で、予見や余韻の置きどころを失って途方に暮れていられない、なんとかことばにして、軸なり座標なりを据えて、おさまりどころを持たなければ、と差し迫るきもちになるのは、「私」「家族」に閉じずに「社会」により開かれたテーマを扱っているためだろうか。
無医村を救うドクター伊野治(笑福亭鶴瓶)はニセモノ。ニセモノながら立派にホンモノ・ドクターの役割を果たし、そのついでに、娘に癌を悟られまいとする鳥飼かづ子の片棒を担ぐ。 ニセモノ、ホンモノの二極の軸とみせかけながら、ニセモノ=悪、ホンモノ=善、あるいはその逆といった意味づけからずれていく。二極の間を往還するトリックスターであれば、ニセモノであり、かつ、ホンモノであることをもっと説明するだろう。伊野は何も語らない。すたこら逃げるばかりだ。もともときっと、確信的なニセモノではなく、行きがかり上のニセモノだからだろう。伊野の逃亡はニセモノからのそれではなく、ニセモノ、ホンモノという意味づけの軸からのものだったのかもしれない。逃げおおせたとしても伊野は語らない。鳥飼かづ子も語らない。語るのはまわりばかりだ。例えば、研修医相馬(瑛太)に、「病を診て人を見ず」になりがちな医療の矛盾や課題について声高に語らせることで、伊野の寡黙が強調されるようだ。それがかえって、ことばというものの限界を示しているようにもみえる。ときに、ことばが追いつけなくともモノをいうのが、人の表情であり、それを伝える映像であることを、この映像の作り手は確信しているのではないか。
映画のラストシーン、伊野と目が合った鳥飼の表情、気持ちの渦巻き背景にあるであろう、「私」「家族」の普遍的なもの、「社会」の今日的なことについて、なんとかことばで詳らかにしておさまりをつけたい、でものろますぎて間に合わない。降参。引導を渡される、そんなインパクトだった。
久米正雄は、前世紀、ことばの力を信じて「微苦笑藝術」を著した。西川美和は、映像の力を信じて「ディア・ドクター」を撮った。久米正雄はそのとき33歳。 西川美和も同年代でこれらを撮っているが、昔の知識人の老成を考えあわせると、現代日本のとんでもなく成熟した「生活及藝術上の一種の態度」をみるようでもある。
半世紀前の先進国、ソ連
エイゼンシュテインやタルコフスキーでは、ソ連時代のロシアの人の暮らし、わかりづらい。どうやらソ連映画は現代日本では人気がないらしく、なかなかみる機会がない。国民的人気映画といわれているらしい「モスクワは涙を流さない」(ウラジミール・メニショフ 1979年)もずいぶん探し回った。レンタルのVHSを発見、舞台の1958年のソ連、やっとみることができた。
女子労働者寮の三人娘、「働いて、お金ためて、テレビ買って、なんて人生、つまらない」なとどぼやく。 同時代の日本と大差ないのでは、などとうっかり聞き流してはいけない。1958年のモスクワ市民の彼女たち、週末にはダーチャといわれる郊外の別荘へ向かう。乗っていくのは男友だちの自家用車だ。ダーチャでは庭のテーブルにサモワール。モスクワに戻り、大学教授の伯父さんの家を訪ねて上るは、20階超の高層マンションのエレベーター、下るは宮殿のような豪華絢爛地下鉄駅のエスカレーターだ。
1958年の前年には、スプートニク2号でアメリカより早く、犬を宇宙に運んだソ連は、本物の先進国だった。1958年GDPの国際比較(購買力平価 国際GKドル比較 アンガス・マディソン)によると、総額でも一人当たりでも、ソ連は日本の上だった。なお、1970年大阪万博のソ連館でソユーズにみとれていたぼくは、その時の日本が1960年代の高度成長によってソ連をはるかに凌いでいたことなど、もちろん知らなかったのだが。 映画は、戦争も政治も関わりなく、ふつうの市民の、20年越し、等身大のシアワセが描かれる。冷戦下、「西側」には、ソ連の市民のふつうの暮らしぶりが伝わってこなかっただけのことで、「西側」が期待したり身構えたりするようなソ連らしさとは無関係に、このような娯楽映画がたくさん撮られていたのだろう。
今年の夏モスクワを訪れて、赤の広場前のグム百貨店の食堂で、ロシアの清涼飲料クバスをビンで飲みながら、20余年前ソ連時代に、街中でタンク車のそれをのんだことを思い出した。この映画の中の、食卓を囲む乾杯シーン。大人に混ざった、赤スカーフの少年は、「こどもはクワス(クバス)でね」といわれて乾杯していた。国政にも国制にも国勢にも関わらず、クバスはなんだかソ連の味がする。
ロケ地の勝利
SF映画のメイキングムービーとして静かに始まる「ことの次第」(ヴィム・ヴェンダース 1982年)の舞台、海辺のホテル。荒れ果て廃墟手前だが、ロケ隊が宿泊に使う。海に面したプールは破壊されていて、荒波が直接打ち寄せる。シュールなのにリアルなこんな景色、どうやって撮ったのだろう、と調べてみて驚いた。これは実在のリゾートホテルHotel Arribas (シントラ、ポルトガル)で、壊れていたのも現実、1979年の嵐で損壊していたらしい。今このホテルは何事もなかったかのようにちゃんと営業しているようだ。この時、ここでなければ撮りえなかった映像。
この映画をとるために、セットにするかロケにするかロケならどこにするか、と決めたのではなく、この風景があるからこの映画を撮ろうとしたといわれても、頷けるくらい。ヴェンダースの、その時そこでの気持ちそのものが景色になっている感じがした。滞る撮影の、いつまで続くかわからない無聊の美しさ、そこに組み合わされる、捨て鉢のような唐突な結末。そもそも破綻している、この映画の象徴のように焼き付く景色だった。
原節子、全速力
終戦後の華族の凋落を描いた「安城家の舞踏会」(吉村公三郎) 安城家長男、放蕩息子の正彦(森雅之)の咥え煙草の灰が、手を出している使用人女性の肩に落ちかかる。音がしたかと思った。ワンカットで示される、華族の傲慢。映像の切れ味に、きゅきゅと期待が高まる映画だ。落ちぶれようとも、屋敷をとられようとも、かつての使用人に頭を下げようとも、家族の崩壊をとどめようとする、次女敦子(原節子)が、その期待にしっかり応えてくれる。父である安城家当主忠彦(滝沢修)の静かな自暴自棄に、華族でなく家族の危機を察した敦子の、咄嗟の全速力ダッシュ、そしてそのままスマザータックル。父を倒して家族を救う。原節子、アクションスターばりの切れ味。
素晴らしい国会図書館
ソ連時代のロシアの人の暮らしを映画にみるためにもう一つ探しまわってみたのが、「運命の皮肉」(エリダール・リャザーノフ 1975年) これも、ロシアの国民的人気映画で、製作から35年以上たった今でも、大晦日に毎年テレビ放映される定番らしい。計画経済のもと「第3建設者通り25号館12号室」があちこちの街にあったことから起こった大晦日の奇跡、といったお話。冒頭、主人公の住む「第3建設者通り25号館12号室」に向かう友人がいう、「どこに行っても標準型の街、標準型の店、標準型の映画館、……」 台詞は自嘲気味だが、社会主義の一つの到達の姿として受けとめられてきたものだろう。その姿、現代日本の資本主義の到達の姿とそっくりなこと。「懐かしい社会主義」などと笑えないかもしれない。
ロシアの国民的人気映画であっても、現代日本でみるのは容易ではない。セルもレンタルも出てこない。日本ユーラシア協会の支部でビデオの貸し出しをしていることを知って問い合わせしてみたが、在庫にない。中古DVDには大層なプレミアムがついている。迷っていたところ、国立国会図書館蔵書検索・申込システムNAL-OPACで、国会図書館の蔵書に発見した。国会図書館の音楽・映像資料室、快適なブースで、国費にて3時間の長尺、「調査・研究」することができた。なお、ここは「許可制」となっており、「調査・研究」目的を書いて申請して審査を受けないといけないことになっている。(ぼくが書いた「調査・研究目的」は恥ずかしくてここでは書けません) 永田町からの帰り道、社会主義の到達と資本主義の到達、後になってみると、なあんだいっしょじゃないか、みたいなことを思いながら、国会図書館の「日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存」という使命、「日本国内」とか「出版」とかいう範囲が、例えば10年後、どういう意味をもつものになるのか、など、不必要なことを考えたりした。
また、久米正雄の「微苦笑」の原典を辿ろうと行き着いたのも、国会図書館だった。学生時分、この図書館での待ち時間にうんざりした記憶があるので、蔵書があることがわかっただけでは腰が引けるところだったが、原典「微苦笑藝術」は、国立国会図書館デジタル化資料として、ネットで読むことができるのだった。素晴らしい国会図書館。ここは納本制度のもと発刊されたものが新刊蔵書されているものとばかり思っていたが、「微苦笑藝術」は、書き込みとかされた古本がそのままスキャンされていた。「日本国内」で「出版」されたものすべて、の収集には途方もない苦労が払われているのかもしれないと思った。また、表紙いっぱいに大きく書き込みされていたのは、落書の類でなく人物デッサンで、見入ってしまった。どんな絵心のある人が持ち主だったのだろうか、このデッサンはこの本とともに、国の二つとない資産として保存されていることを、描いたご本人はきっと知らないだろう、などなど、不必要な想像が膨らんでしまった。
あとがき
時代の前へ向かうきもち、例えば、西川美和のような新進の映像の作り手との出会いもそうだ。他にも例えば、西川美和つながりでみた「ユメ十夜」の中の「第六夜/運慶」(松尾スズキ)も、きもちを盛り上げる一品だった。ダンスと彫刻の組み合わせ、映像に被せる日本語変換タイピング文字列、目へ耳へ、新しい映像体験が押し寄せてきて、後を引く快さだった。
きもちの向かい先のせいか、夏休みの国際線の機内VODで、国内未公開最新作をみるのも悪くないと積極的にチョイスしていたら、1回のフライトで、ぶっつづけ未公開作4作になってしまった。
2012年
単館封切日、しかも初回にみにいくというのは、なんだか気恥ずかしいものがある。国内封切前に試写もあるだろうし、海外で先んじてみる人も少なくないであろうことから、特別なことでもないのだろうが、初日初回というのは、どれだけ張り切って来たのだろうと、ちょっと大袈裟だが、他のお客さんと顔を合わせにくい、伏し目がちになる感じ。新宿K'S CINEMA、9月15日にみにいった「ル・コルビュジエの家」(ガストン・ドゥブラット、マリアノ・コーン 2009年 アルゼンチン)
単館封切「ル・コルビュジエの家」の窓
この映画の舞台、ル・コルビュジエの「クルチェット邸」 せっかく映画も公開されることだし、ちょっくら見に行くか、と、映画封切のちょうどひと月前に、ブエノスアイレス郊外のラ・プラタへ行ってきたところだった。というのは嘘で、ラ・プラタ「クルチェット邸」へは、何年も前から計画して、今夏、それこそ「張り切って」行ってきたところだった。地球の反対側まで行くとすると、1週間くらいの例年並みな夏休みでは行きにくい。少し長めの休暇がとれる機会を狙っての、何年か越しの実現だった。邦題がつく前から「El Hombre De Al Lado 」はクルチェット邸が舞台ということで気になっていたが、封切が決まって逆に、よくまあ、こんな地味な映画が日本で上映されることになったものだと余計な感心。「クルチェット邸」は、世界遺産の暫定リスト「ル・コルビュジエの建築と都市計画」に名を連ねている建築の1つなので、世界遺産登録のニュースと重なったりすれば話題性もあったかもしれないが、昨年登録見送りになったばかり。 興業的にはル・コルビュジエに寄りかかるわけにもいかない状況の中の、封切日初回、席の半分も埋まっていないようすをみて、ぼくはけっこう「張り切って」来たほうだとわかって、さらに気恥ずかしくなったりした。
ちなみに、「クルチェット邸」訪問のぼくの「張り切り」はたいそうなもので、出国前には、ここを管理している建築家協会に見学予約を何度も確認をし、ブエノスアイレスでは奮発してガイドと車をチャーターし早々に出発、開館の1時間も前に到着して、外観をみてまわりながらそわそわ開くのを待っていたほどだった。また、時間がきて中にはいるや、建築家協会の人からばつ悪げに、「雨漏りしたので、床のウッドパネルを乾かしている最中で、すいません」といわれても、不具合にきちんと手がいれられ大事に管理されているのだと、却ってうれしくなったほどだった。(後でみると、2階の三角形の部屋、映画の中でデザイナーのオフィスになっていた部屋に、濡れたパネルがぞろり、並べられていた) そのくらい「張り切って」訪問して、実物を隈なくみてまわったにも関わらず、ひと月後この映画をみたとたん、クルチェット邸のほんの一部しかみてこなかった、と急に映画が羨ましくなってしまった。当たり前だが、ロケは季節、時間、天候をしっかり選んで、この家に溢れる光や風をたっぷり撮りとどめている。南半球の真冬、雨上がりの半日しかなかったぼくには、どうやってもほんの一部。例えば、ブリーズ・ソレイユ(日除け)ごしに2階に差し込む朝陽。例えば1階のスロープ脇から家をぶち抜いて空へ向かう大樹の葉を揺らす風。 これらはこの映画がなければ出会えなかったものだった。こんな家に住んだら、どんなに気持ちいいだろう、映画の中のクルチェット邸をつぶさにみることだけで胸いっぱいみたいなところもあったのが、みているうちに、映画としてのおもしろさが後追いできた。お隣との間の「窓」、これが効いている。
最初は壁。お隣だけでないかもしれない、成功したデザイナーが隔てているものすべてが、壁の向こう。そこに何があるか関心もつ必要さえなかった。そこに窓。窓が開いたら、覗かれてしまうではないか、お隣への抗議からこの映画は始まった。しかし、窓という穴があくことによって、お隣の視線や関心がやってくるものと思いきや、実は、穴から出て行ったものは、デザイナー家のほうからで、成功とは裏腹な、ぎくしゃくした家族関係であったり、家族とお隣との板挟みの末の嘘八百であったり、前衛音楽と騒音の区別もつかないスノビズムであったり、という些か格好の悪いものだった。そして、窓はシートがかけられて、幕間のショーのような隣人コミュニケーションの場になる。窓越しの会話、さらには、窓を舞台とした指人形のダンスショー。シートのかかった窓は、隣人どおしがちょっと心通わせる舞台となったりもする。
自分では隔てている意識はなくとも、知らず知らず異なるものとの境として立てている壁。そこに窓ができてしまえば、違うものも同じものも、行ったり来たりして、違和感に苛立ったり、存外に心通ったりする。デザイナーが取り囲ませている、名建築やPlacentero Chair をはじめとするインテリアの、内なる調和の美しさが際立つほど、異なるものを隔てる壁に囲まれていることが強く意識される仕掛けになっている。「ル・コルビュジエの家」が屋外との壁を感じさせない、光や風との一体感を実現したモダニズム建築であることが、この皮肉を強くしているようだ。
そういえば、クルチェット邸の最上階、一番奥まった壁に、この映画のポスターがひっそり貼ってあった。今思うと、その壁もいつ穴が開き窓になるかもしれない。どこの壁に次、突然窓ができるのか、誰も知らない。それが、ぼくの目の前にある壁であっても不思議ではない。
1930年代、ぴかぴかフロア
フレッド・アステアのミュージカル映画は全部で33作ということらしい。(「アステア ザ・ダンサー」 ボブ・トーマス 新潮社より) このアニュアルの中でも、2000年に、「フィニアンの虹」(フランシス・フォード・コッポラ 1968年)をレンタルでみつけて書き、また2007年に、「ロバータ」(ウィリアム・A・サイター 1935年)の初DVD化でみて書き、いつ終わるともしれぬ、気長なカウントダウンをしていた。今年、「ヨランダと盗賊」(ヴィンセント・ミネリ 1945年)が初DVD化されてみたついでに、「Let's Dance」(ノーマン・Z・マクラウド 1950年)をVHSで入手してみて、全33作に辿りついた。「インポート版レンタル落ちVHS」という方法、そろそろ最後かもしれないが間に合ってよかった。(そのうちあっさりDVD化されそうでもあるが)
ちょうど今年公開された「アーティスト」(ミシェル・アザナヴィシウス)が、1920年代から1930年代のアメリカ、大恐慌をはさんで、サイレントからトーキーに変わっていく時代を描いていた。落ちぶれたサイレント映画のスター、ジョージ(ジャン・デュジャルダン)と、トーキーの新星、ペピー(ベレニス・ベジョ)の再会の場面、ペピーがジョージの耳元で囁く台詞「いいアイデアがあるの」 同時に、次のダンス・シークエンスを先回りして、ドラムの音が号砲のように響く。ぴかぴかのフロアで踊る二人、ここからミュージカル全盛時代がはじまることを二人はまだ知らない、などという余韻に浸ることができるのは、たまたまぼくらが、映画の歴史で、大恐慌のあとの暗い時代から始まる、1930年代のミュージカル映画の豊穣を知っているからだ。 映画はここで終わったとしても、磨きこまれたベークライトの床に、二人の明るい未来の約束がある。
1930年代、映画の歴史によると、ワーナー・ブラザースでは、バスビー・バークレーの手による、カメラアングルに凝ったコレオグラフィでファンタジーが紡がれ、RKOでは、巷のダンスのお手本に、とでもいうかのように、「全身、固定カメラ」による、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのダンスで、夢が追いかけられた。「全身、固定カメラ」は、ダンスをごまかしなく撮る一方で、自ずと広い視野をもつことになり、大セット全体をとらえるものになっていた。浮世離れしたセットはRKOミュージカルに欠かせないもの。特にその中でも、ぴかぴかのフロア、なぜにここまでぴかぴかなのだろう、というほどのフロアは、その象徴のようにみえる。
きっと、映画づくりとしてセットは、ダンスと同じくらい重きを置かれていたにちがいない。映画の舞台というたまさかの豪華は、キッチュとの背中合わせも運命づけられるものだったのかもしれない。ダンスとはりあっていたはずの豪華セットは、今見るとすっかり陳腐化し、笑いをもらしてしまいそうなものとなって、ダンスの引き立て役にまわっているようにもみえる。「映画にみる近代建築」(ドナルド・アルブレヒト 鹿島出版会)では、この時代の映画づくりの空気が伝えられている。「このつやのある表面をいつも同じ状態で保つことは、建築に使った場合と同じくらいに映画の場合も難しいことがわかった。 RKOでは、カメラ・リハーサルのあいだ、ベークライトのフロアを段ボールで覆った。それぞれの撮影は掻き傷をエナージンで取り除くのに時間がかかり、個々のショットに長い間があいた。アステアとロジャースは、決して地面には触れずに、薄い空気のクッションの上を滑るように踊っているかのごとく見えなければならなかったから」 どうだろう、この使命感。
ダンス・シークエンスの引き立て役にまわったセットをもう一度みてみよう。YouTubeで当たり始めたが、残念ながら、有名ナンバーのみに偏っているし、画質もひどい。何年ぶりかで動くかどうか心配しながらレーザーディスクをひっぱりだして、1930年代ミュージカルを辿ってみた。
「コンチネンタル」(マーク・サンドリッチ 1934年) 「The Continental」 のセットは、ダンス・シークエンスの間、ホール背後の回転扉がずっとまわりっぱなし、なんだかよくわからないけれど尋常でないゴージャスな感じ。名曲「Night and Day」ではバルコニーの向こうに月明かりの海だもの。ちゃんと波が押し寄せている。「トップハット」(マーク・サンドリッチ 1935年) 「Dancing Cheek to Cheek」 なんでもないダンスフロアにみえて、カメラが引くとわかる、中二階が屋外にまで続く大セット。「艦隊を追って」(マーク・サンドリッチ 1936年)の「Let's Face the Music and Dance」、街の灯りを遠望する、客船のデッキを模したステージには、流線形とグリッドを組み合わせた、これぞアール・デコの巨大ぼんぼり。「有頂天時代」(ジョージ・スティーヴンス 1936年) 「Never Gonna Dance」 ナイトクラブ「シルバー・サンダル」にはもう誰もいない。33段のサーキュラー階段を踊りながらのぼると、そこはまた光るフロア。おまけに、 窓の外は満天の(疑似)星空。踊るしかない。
これらに代表されるゴージャスなセットは、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのダンスをもちろん盛り上げてやまないのだが、見直してみると、そんなセットもなく、これ以上にないというような衣装もなく、さらには、ここぞというプロットもなく、はいダンス、という場面でもぜんぶもっていってしまうのが、フレッド・アステア。2007年にも書いたが、「ロバータ」昔のコンビの再会 「I'll be hard to handle」が代表例。他にも、「有頂天時代」のダンススクール「Pick Yourself Up」 「踊らん哉」(マーク・サンドリッチ 1937年)のセントラルパークでのローラースケート「Let's Call the Whole Thing Off 」 などなどだ。 アール・デコ調豪華セットは映画においても短命に終わったかもしれないが、ダンスそのものの魅力はセットに関わりなく、きっと伝わり続けるにちがいない。
ところでぴかぴかフロアはその後どうなってしまうのか。どこまでぴかぴかになっていったのだろう。1940年代半ばからはカラー映画の時代。 アステア最初のカラー映画「ヨランダと盗賊」(収録年では「ジーグフェルド・フォーリーズ」1946年が先らしい)の群舞「Coffee Time」は、波型模様のモノクロのフロア、ダンサーたちは原色の衣装、ズーミング、スポットライト、移動カメラ、ハイアングル。そういう時代になっていく。「全身、固定カメラ」や豪華セットを一気に過去のものとするかのように。ぼくの知る限り、ぴかぴかフロアの頂点は、「踊るニューヨーク」(ノーマン・タウログ 1940年)だ。エレノア・パウエルとフレッド・アステア「Begin the Beguine」 磨きこまれたフロアは星粒のような照明を映しこむだけでない。奥行のある背景に鏡が置かれているのだが、この鏡にうつる二人の後ろ姿、その反転した像までフロアには映りこんでいる。最後の、最高のぴかぴかだ。
3000作目のイラン映画
年明け早々にみた「彼女が消えた浜辺」(アスガー・ファルハディ)が、ぼくにとってちょうど3000作目。節目に、最近なんだか元気のいいイラン映画にあたって、元気のお裾分けをしてもらうようだった。イラン映画、ということで、いきなりタイトルバックが全部ペルシャ文字だったり、コーランっぽいのがずっと流れていたり、「駱駝の瘤にまたがつて 貧しい毛布にくるまつて かうしてはるばるやつてきた 遠い地方の国々で」(『駱駝の瘤にまたがつて』)と三好達治気分、アウェイな感じを予期すると、RV車、ブランド・バッグ、ビーチ・リゾート、なんだ、日本と変わらない、気持ちよく裏切られるのが「彼女が消えた浜辺」だった。ポップな雰囲気の舞台設定であっても、意に染まぬ婚約とか、独身女性かくあるべき、とか、イスラムの旧弊がだんだん影を落としていく。因習に縛られながらも、自分らしさをまっすぐ追いかける、イランの女性たち。彼女たちの元気がイラン映画の元気なのかもしれない。イランや中東の今を、政治的、社会的な告発という形でなく、例えば、素朴な生活感の中で、あるいは、幻想的な美しさの中で描いているのが、最近のイラン映画の成熟、成功ではないだろうか。アッバス・キアロスタミのあと、監督の名前さえ、難しい名前が多くてなかなか覚えられないけれど、惹きこまれ続けて、「彼女が消えた浜辺」に続けて15作ほどののめりこみ。
素朴な生活感の中で描いた成功例の一つ、「1票のラブレター」(ババク・パヤミ)。ここがどんな国であるかわからなくても、なんだか民主主義ということが難しそうな国に、ぐいぐい引き込まれる。島をまわりながら投票箱を持って投票を説得してまわる選挙管理委員、という姿を目の当たりにして、のけぞっているままではいけない。選挙の大切さ、投票の大切さとは、と正しいと思うことを正しく進めること、その迷いのなさがキシュ島の陽光よりも眩しい。運転手役の兵隊でなくとも、彼女に1票、入れたくなる。
幻想的な美しさの中で描いた成功例の一つ、「カンダハール」(モフセン・マフマルバフ)。これは、タイトルのとおりアフガニスタンが舞台、タリバンが強制したことで知られる「ブルカ」、イスラム女性のヴェールの中で最も顔がみえないものの一つが、この映画では、イスラム社会の一つの象徴のように、効果的に置かれている。ヴェールが醸す、奥ゆかしさと美しさのバランス。その裏側に、強いられた匿名性がちらちらする。妹を探して単身カンダハールへ、女性ゆえにいっそう困難な旅を続ける主人公、検問にさしかかり、婚礼の列に混ざって掻い潜ろうとする場面。婚礼の列をつくるのは、色鮮やかなブルカの女性たち。表情はみえない。誰が誰だかわからない。女性であるかもわからない。検問を前にして急に、それまでひとまとまりだった列が、壺を頭に乗せたグループはイランへ、籠を頭に乗せたグループはまた別の場所へ、と分かれていく。それぞれどこに向かうのか、向かう先に何があるのか、知れない。匿名の一人として検問を掻い潜ったはずのヒロインを「囚われの身」と嘆かせるものが、砂漠の中、誰も見ていない、強烈な色彩のマスゲームとして立ち上がる。蜃気楼を前に、明順応しない眼に苛立ってしまうような気持ちになった。
あとがき
今年のロンドン・オリンピックで、イスラム国含めたすべての参加国から、女性も参加するようになったという報道が記憶に新しいが、イランや中東の国々の難儀はまだまだきっと続くのだろう。そんな中、女性入場禁止のサッカースタジアムに、イランの英雄メフディ・マハダビキア選手の「お面」つけて紛れ込む女性ファン(「オフサイド・ガールズ」ジャファル・パナヒ)や、めいっぱい空気抵抗受けるチャドル姿で、家族・親類に止められてもなお走り続ける女性サイクリスト(「私が女になった日」マルズィエ・メシュキニ)には、きっと世界中の映画ファンが「1票」投ずる気持ちになっているにちがいない。
2011年
高度成長期末期の日本の政治の、べらぼうぶりを迫力満点で伝える、1970年代の山本薩夫の社会派大作がおもしろい。「華麗なる一族」(1974年)、「金環蝕」(1975年)、「不毛地帯」(1976年) 小沢栄太郎演ずる、べらぼう政治家代表選手、永田大蔵大臣(「華麗なる一族」)、貝塚官房長(「不毛地帯」)など、ホントかどうか知らないけれどあまりにもそれらしくて、出てくるだけで楽しくなる。 政治家と実業家の、庭石を賄賂の喩えにした駆け引き(「華麗なる一族」)とか、おもしろ場面やまもりで、同工異曲だとしても何作でもみたくなってくる。高度成長期末期の、と書いたが、べらぼうぶりは今も変わっていないかもしれない。有事にはよくわかる。今年、よくわかってしまったかも。やはりこれは映画の中だけにしていただきたく、なにとぞよろしくおねがいいたします。
「心中天網島」の孤高の輝き
今年は、震災によって中止や延期になりながらも、杉本博司による「杉本文楽 木偶坊 入情 曾根崎心中付り観音廻り」が上演されたり、1979年に外国人監督によって撮られたまま公開されなかったという映画「文楽 冥途の飛脚The Lovers' Exile」(マーティ・グロス)がデジタルリマスター版で32年の時を経て上映されたり、近松門左衛門に、現代の光がすこしあたった年なのかもしれない。ぼくはそれとは関係なく、「心中天網島」(篠田正浩)を初めてみて、びっくりしていた。この映画が撮られた1969年をちょっと調べてみると、映画館入場者がピークである1958年の4分の1に減少する一方、邦画封切作の数はピーク時とほぼ変わらない494本、(総務省統計局「日本の長期統計系列」より) 今みることができるこの年の封切作の顔ぶれみても、ヤクザ映画を中心に同じシリーズで年間に3、4本といった、いささか粗製乱造ではないかとみえるものが目立つ。「心中天網島」は、ぼくが知らなかっただけで、そのときから、孤高の輝きを放っていたのではないだろうか。
谷崎潤一郎が、「いわゆる痴呆の芸術について」(「新文学 昭和23年8,10月号」で、「義太夫や、それと密接に結び着いている文楽の人形浄瑠璃や歌舞伎劇中の時代狂言等が、いかに念に入った痴呆の芸術であるかということは、前からわかっていたこと」とし、「親であるわれわれが可愛がるのはよいけれども、他人に向って見せびらかすべきでなく、こっそり人のいないところで愛撫するのが本当だと思う」と断じたことに対して、ぼくはそののち、国立劇場に集う、めいっぱい着飾った親子のいそいそとした感じと、芝居のプロットの荒唐無稽とのギャップを目の当たりにしたときに、深い納得をしたものだった。
だから、映画「心中天網島」のタイトルをみたときも、「こっそり人のいないところで愛撫」というつもりだったのだが、みおえて、これは「他人に向って見せびらかす」もありではないかと思ってしまった。それは、伝統様式への向き合い方に、三百年の重みに負けないようなものが感じられたから、次の時間に耐える準備ができているように感じられたからだ。もうすでに四十年を超えているように。
「伝統様式への向き合い方」 ふたつあった。
ひとつは、セット(美術)。歌舞伎にしても文楽にしても、近松浄瑠璃がのるのは、書割や屋台で表現されるお約束舞台。 能舞台のように抽象化に向かうものでもなく、また逆に、リアリズムを追うものでもない。そこに、篠田正浩は、美術を担当したグラフィックデザイナー栗津潔は、お約束事ともリアルとも距離を置いた空間表現を持ち込んだ。遊郭という、陰翳に富むイメージがある場を、浮世絵や書をグラフィックとした壁と床で区切って光を横溢させ、今まで誰もみたことのない江戸空間、なんだか江戸っぽい空間を作り出した。この、いかにもつくりものの舞台が、ホンモノの人間(岩下志麻、二代目中村吉右衛門)の生身の部分を、際立って美しくみせる。いにしえの様式と一線を引く、という向き合い方かもしれない。
もうひとつは、黒子(黒衣)というキャスト。黒子はもちろんキャストではないのだが、この映画では「黒子の頭」役として浜村純がクレジットされているように、黒子が、小道具や衣装を変えたりする補助役ではなく、主人公たちをプロットの次へと牽引するかのような役回りを担う。どんな場面でも一切の感情も漂わせず粛々と務めを果たす黒子たちの姿は、主人公たちの動きを助けるものというより、結末までわかっていて次へと導くものというふうにみえてくる。主人公たちは、人形でもなく、重い特殊衣装に身を包んだ人でもないので、補助が必要なわけではない。最後に縊死を選ぼうと鳥居の下まで辿りついた紙屋治兵衛、黒子たちは、そのときには、帯を鳥居にかけ踏み石を置いて支度をしている。治兵衛の運命を先回りでもしているかのように。こんな黒子の置き方。いにしえの様式に新たな意味を持たせるという向き合い方かもしれない。
「命よりも面目が大切」に代表される、時代の価値観で構成されているから、近松門左衛門の世界は、木偶であったり、外連であったり、そういう様式の中であるからこそ伝わりやすい。様式から離れてふつうにドラマにすると、なぜ昔の人はそうなってしまうのか、とそこかしこで気持ちが立ち止まってしまう。だからだろうか、映画においては、「浪花の恋の物語」(1959年 原作「冥途の飛脚」)で、内田吐夢が、クライマックスの「新口村」の段(この段は近松の原作ではないらしいが)を、文楽の場面に変えて締めくくった例がある。逆に、様式に拠らない映画化はなかなか成功しにくいようだ。普遍の価値観を軸に構成しきった「近松物語」(溝口健二1954年 原作「大経師昔暦」)が、唯一くらいの例外といえるかもしれない。こんな名場面。大経師内匠の妻おさん(香川京子)と手代茂兵衛(長谷川一夫)の道行、琵琶湖に小舟で漕ぎ出た二人。これでもう最期と、おさんへの気持ちをぶつける茂兵衛、「おまえの今のひとことで死ねんようになった。死ぬのはいやや。生きていたい」と茂兵衛に縋るおさん。ここだ。止まっていた小舟が二人を乗せたまま動き始める、向かうところが定まったかのように……。普遍のメッセ-ジ「生きていたい。いっしょにいたい」を、ラストの市中引き回しまで貫いたことによる、映像ドラマ化、稀有な成功事例。 考えてみれば、元は浄瑠璃、阿木耀子と宇崎竜童の「文楽曽根崎心中ROCK」や「FLAMENCO 曽根崎心中」の例のように、むしろ、音楽や舞踏との相性が元来いいものかもしれない。そう考えると、映画「心中天網島」の「伝統様式への向き合い方」が挑戦的であることがよく理解できる。「時代の価値観での構成」をしつつ、伝統様式に乗っかるでなく避けるでなく、独自に向き合うのは、相当に挑戦的、連なる作品もない孤高の存在だ。 映画「心中天網島」が近松と今をつなぐものとして輝きを持ち続けているとすると、伝統様式と一線を引いたセット、伝統様式に新たな意味を持たせたキャスト、これらによるものにちがいない。「心中天網島」は、「時代の価値観」に左右されない、「他人に向って見せびらかす」もあり、の数限られた近松門左衛門映画の一本ではないだろうか。
学生だったぼくが「いわゆる痴呆の芸術について」を読んだ時分から、国立劇場や国立文楽劇場に行くようになるまでの間に、近松門左衛門との幸福な出会いを取り結んでくれたのも、映画だった。「文楽 曽根崎心中」(1981年 栗崎碧)だ。封切の時、名古屋のシルバー劇場でみて以来、再会の機会がなかった。「心中天網島」をみて、ぼくにとっての近松出発点である「文楽 曽根崎心中」をもう一度みたくなった。調べてみると、「文楽 曽根崎心中」は幻の映画のようにいわれているようだ。VHSが、1981年(東宝)、2004年(栗崎事務所)の二度出ているが、市販では中古も含め入手不能、オークションにかかることもないよう。 公共の図書館、国立劇場資料館にもない。ふだんならここらで断念するところ。 だが「心中天網島」の輝きが背中を押した。さらに調べてみると、大学図書館にあることがわかった。全国で8か所。しかし、なぜかすべて西日本。しかも、どこも視聴覚資料の貸出はおこなっていないという。ここで、胸の内に太棹が鳴った。
「恋風の。身にしゝ゛み川。流れてはそのうつせ貝うつゝなき」(「曽根崎心中」)
もう一度会いたい。逢瀬は難儀であればあるほど思い募るもの。そのために、ときに分別を失い常軌を逸するのも近松浄瑠璃の常。8か所中、唯一の国立大学の付属図書館にコンタクトをとり、学外者の館内閲覧の許可を取り付けたぼくは、すかさず東京から関西へ、それこそいそいそと、映画をみるために向かったのだった。
「100,000年後の安全」 祈りの場
インタビューに応じながら、驚くほど正直に、迷いをあらわす科学者たち。掘削機械は地下水でてらてら光る18億年前の岩盤を、迷いなく、先へ先へ掘り進む。機械を操っているのは人間たちなのになんだかそうみえない。フィンランド・オルキルオト、10万年の安全を保障するために建設中の、放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」、岩盤の前は、人智を越えた、祈りの場のようにうつる。
3月11日がなかったらきっと、ずっと他人事だったかもしれない、2009年の映像メッセージ。 今年世の中のみえかたの数々が変わってきた中で、ちょっと突きつけられた。「ある日、人類は新しい火を発見した。その火は強力すぎて消すことができなかった」 (監督マイケル・マドセンのナレーション) 放射能汚染や電力供給不足が自分たちのこととして立ち現われて、原子力のこととかエネルギーのこととかなんだか考えないわけにはいかなくなったが、この映画はさらにその向こうまで、引っぱる。この映画では、原子力発電の廃棄物をいかに安全に永久廃棄できるのか、原子力をコントロールできるのか、というテーマ以上の重みで、最終処分場「オンカロ」の存在をいかに10万年後まで伝達し続けていけるのかというテーマが置かれているようにみえた。そのことによって、今年相次ぎ劇場公開された、他の原発ドキュメンタリーとは、異なる印象が残った。
「放射性廃棄物 ~終わらない悪夢~」(エリック・ゲレ フランス 2009年)は、原子力利用の陰にある廃棄物処理の歴史を辿りながら、今もなお廃棄物処理の道筋がないままに進む原子力利用の実態、例えば、フランスで再利用されるはずの使用済み廃棄物はロシア・シベリア奥地に移送されているだけだったというような実態を明らかにする。このドキュメンタリーの中でも、「100,000年後の安全」と同じように、最終処分場をめぐる話題があった。フランス・ビュールにある実験施設でのインタビュー、処分場に後世まで伝わるモニュメントを置くか、好奇心で掘り出されるリスクも考えて目印なしにするかといった議論があることが紹介されているが、ここで重きを置かれているのはリスクの告発。放射性廃棄物に、原発に、原子力利用に、どう向き合うのか、考えさせられるものになっている。
「アンダー・コントロール」(フォルカー・ザッテル ドイツ 2011年)は、一切の解説なしに、原子力発電と人の風景をきりとるドキュメンタリー。例えば、ドイツにおいて、90億マルクをかけた原発を、稼働させることなく廃炉にし、さらに廃炉にとどまらず、原発施設を遊園地(Wunderland Kalkar)にコンバージョンしてしまうような現実を、映像でコラージュする。リスクを乗り越えようとする姿を淡々と伝えることで、向き合っているリスクを静かに伝える。廃炉になった冷却塔の中をせりあがっていく空中ブランコという、俄かには現実とは肯んじがたい平和的映像も、決して「アンダー・コントロール」の文脈に載っているわけではない。何をもって「アンダー・コントロール」なのだろうか、と考えさせられるものになっている。
これらに対して、「100,000年後の安全」は、「考えさせられる」と迂闊にいいにくい。たかだか4、5千年前のピラミッドの建設意図を正しく理解できているかどうかも不確かな人類が、「オンカロ」を10万年後の文明に正しく伝えることができるのか。そもそも、人類とか文明とか、冗談半分でしか使わない言葉、この映画のメッセージが「制御されていると思われていたものが実はそうでないではないかも」という投げかけにとどまっていたのなら、持ち出すこともない。この映画に引っぱられた先では、さらに、「新しい火」とは原子力のことだけではないかもしれない、と連想が拡がる。最終処分という循環の見通しがないままに走り始めた原子力と同じようなことが、生命科学とかいろいろな領域にあったりするのではないだろうか。不安な気持ちになる。ちょっと大げさかもしれないが、人類の歴史が、そのときどきのめいっぱいの英知で生活を豊かにしてきたものとすれば、20世紀以降は、めいっぱいを突き抜けて分不相応のことに踏み出すという歴史の転換が、知らない間に進行しているのではないか、などと思えてしまう。
せめて、18億年という時間が10万年より長いというだけで、安心したい。岩盤の前が祈りの場のようにみえたのは、そういう気持ちからだったかもしれない。
再会「文楽 曽根崎心中」
大学図書館での「視聴覚資料閲覧」という形での、「文楽 曽根崎心中」との再会。舞台の文楽をみたことがなかった時のまっさらな感動が湧き上がったあと、映画だからこそできたことへの感動が覆いかぶさってきた。
映画「文楽 冥途の飛脚 The Lovers' Exile」が、舞台の迫力、例えば、主遣いの眉間にとどまる抑制、大夫の額に滲む昂ぶり、三味線の手首に宿る揚力、などなどを忠実に再現した「文楽の映画」であるとすれば、「文楽 曽根崎心中」は映画でしか表現できない文楽、文楽を知る「親であるわれわれ」が例外なく唸ってしまうような、いわば「映画の文楽」になっている。覆いかぶさってきたものは、人形の、吹き込まれた命を撮る、その一点のための取捨。取ったもの、生玉神社の陽射しと風、観音廻りの蝋燭の炎、天神の森の揺れる水紋などの、人形を引き立てる屋外ロケ、そして、舞台から解き放たれた「自由なカメラ」。 捨てたもの、主遣いの出遣い(吉田玉男と吉田簑助が、なんと黒衣)、大夫と三味線の姿。取るにしても捨てるにしても、伝統芸能、重要無形文化財の世界、容易に実現できるとは思えない。これを、当時長編二作目、きっと女優南佐斗子としての知名度のほうが高かったであろう栗崎碧監督が果たすことができたのは、奇跡のようなことかもしれない。 それをおこした、吹き込まれた命を撮るひたぶるこころが、全編に漲っている。
「自由なカメラ」には、引き込まれ続けた。「生玉神社の場」、出茶屋の場面、ズームで強調する、徳兵衛を案ずるお初の心。翻って、手前に徳兵衛、向こうの窓際にお初、絞り開いて奥行でとらえる二人の心の遠近。「蜆川新地天満屋の場」、お初が徳兵衛を中に引き入れる場面、格子越しの移動カメラが追ったのは、もう他は関係ないとばかり走り出す、帰路のない二人だけの世界。「道行」、天神の森の闇に二人を残すズームアウトは、「未来成仏、疑ひなき恋の手本」という以外ないのか、という非業の余韻。カメラ宮川一夫の至芸だった。
あとがき
震災から間もなかったので、六本木ヒルズもTOHOシネマズ六本木も、週末というのにがらがらだった。ジャック・タチ遺作脚本によるアニメーション映画「イリュージョニスト」(シルヴァン・ショメ)。出世作「ベルヴィル・ランデブー」で、ベルヴィル・トリプレットが自宅で大笑いするテレビに「のんき大将」(ジャック・タチ 1947年)を登場させたショメ。この作では、「ぼくの伯父さん」(ジャック・タチ 1958年)を、主人公タチシェフ(タチ・ファンにはお馴染みのユロ氏のキャラクター)が逃げ込むようにはいった映画館で登場させた。実写のユロとアニメのタチシェフの50年を隔てたご対面場面、まばらな客席からくすくす笑いが拡がった気配がした。ジャック・タチへのオマージュ、よくわかっている人ばかり。
映画館で6本、全部で140本、並みな2011年。
ブルーレイを買った。今年から、映画がのるメディアがまた増えてしまった。ハードのほうがなかなか達者なもので、VHS、レーザーディスク、DVDが皆現役。 手持ちのソフトがあるせいで、ハードはしぶとく徳俵で残っている。ブルーレイでみたら、どうだろうか。まっさきに選んだのは、「ブレードランナー」(リドリー・スコット) 「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック) 映像美については、天然以上に人工、という記憶になっているらしい。だからといってみえないものがみえたりするわけでもなく、ふつうのテレビでみる限りは、光がつぶつぶしていてきれい程度の感じようで、ブルーレイにも「ブレードランナー」「2001年宇宙の旅」 にもなんだか申し訳なかった。
毎年のことながら、ぼくの知っている今年は本当に今年なのだろうか、いつも訝しい気持ちだが、今年は、かなり、3D映画の年だったのではないか。「アバター」(ジェームズ・キャメロン)で、プラス300円支払って3Dメガネをかけて席についてまわりをみわたしたら、同じメガネをしている人だらけ、当たり前のことではあるが、3Dの専用設備、専用コンテンツであるIMAXの「特別が当たり前」と違って、当たり前が大変不思議な光景にみえた。メディアにのっかる「コンテンツ」でなく「興業」として、映画のもりかえしが始まるのだろうか、とも思った。
映画館でみなくてはと足を運んだのが年の始め。 しかし、1年たたないうちに3Dは映画の話ではなくなって、家庭にはいりはじめる。夏にパソコンをWindows7機に買い替えたとき、すでにメーカーのラインアップには3D対応パソコンがあったし、年末商戦の家電量販店の折込チラシをみると3Dテレビがテレビ全体の4分の1くらいのスペースを占めるまでになっている。ハードだけに目を向けるのであれば、1年の間で、なぜ3D、というような理由はなくなってしまったかのようだ。トーキーでない映画をサイレント映画といったり、カラーでない映画をモノクロ映画といったりするように、2D映画みたいないいかたもふつうになったりするのだろうか。それともたまさかの3Dの流行に終わるのだろうか。
二代目中村鴈治郎の所作
1957年からの10年間ほど続いたらしい、上方歌舞伎の混迷は、映画界にすてきな成果を残したようだ。二代目中村鴈治郎。そのまま歌舞伎役者でいたら、中村鴈治郎の所作を、誰も半世紀後に見返すことはできなかった。
1957年から10年間、中村鴈治郎の出演作は80本。特に前半は日本映画の最盛期といわれる時期らしいフィルモグラフィ、辿るのは難儀だが、DVDで中村鴈治郎の芸を楽しむことができる。15本ほど辿ってみた。
1957年 どん底(黒澤明)
1958年 忠臣蔵(渡辺邦男) 炎上(市川崑)
1959年 浮草(小津安二郎) 鍵(市川崑)
1960年 女経(増村保造 市川崑 吉村公三郎) 女が階段を上る時(成瀬巳喜男) ぼんち(市川崑)
1961年 小早川家の秋(小津安二郎) 続・悪名(田中徳三)
1962年 雁の寺(川島雄三) 破戒(市川崑) 殺陣師段平(瑞穂春海)
1963年 雪之丞変化(市川崑) 女系家族(三隅研次)
一筋縄ではいかない、人の二面性、例えば、情と非情、表と裏といったものを体現するような役回りが多かったようだ。例えば、私利私欲ないまじめ一徹にみえて、裏では強欲、矢島家大番頭「宇市」役(「女系家族」)がその代表作だろう。人間の欲の底なしの淵をみせた、当家の長女藤代(京マチ子)との欲のはりあいが映画をもりあげた。
そのような二面性を突き抜けたところにある軽みが、最高の持ち味のようにみえる。したたかさ、あくの強さの一方で、人のよさ丸出しであるとか、えらそうにしているわりにまるきりこどもみたいであるとか、そんな役どころで光を放つ。「殺陣師段平」の中で、「おおきなややこ」といわれたとおりだ。「小早川家の秋」の造り酒屋の当主・小早川万兵衛や、「浮草」旅芸人一座の座長・嵐駒一郎、ともに「いい歳して、昔の女のもとにいそいそと通う、しょうがないやつ」といった役で、余人をもって代えがたい輝き。それを支えているのは、典雅なまでの所作ではないか。
「小早川家の秋」をみてみよう。
シーンその1。和服に足袋、下駄で、左手に合切袋、右手に扇子をぱたぱたさせながら、足早に歩くだけで、なんだか特別な印象がある。 重心が低く、上体が揺るがない。武道か何かの所作のようにも見える。でも、そうして向かうのが、昔の女・佐々木つね(浪花千栄子)の素人旅館だ。
シーンその2。再び本宅、大急ぎで着替え。歩きながら、後ろ手に帯を締める。流れるような所作、そうして出かけていく先も同じだ。到着するや、扇子をみもせず片手で畳みその瞬間に袂にいれる。着物の裾を帯にたくしあげる。嬉々として始めるのは、旅館の廊下の雑巾がけだ。
シーンその3。身上潰して好き放題やってきた小早川万兵衛も年貢の納め時か、心臓発作で倒れ、家族が集まって心配している中、ふらふら起き出してくる。頭に手ぬぐい、持っていた団扇を首後ろにさして、端唄を口に、小用だ。
現代日本では、団扇は使ったとしても首後ろにさして小用する人はいない。開いていた扇子をワンアクションで畳んで懐に入れ、瞬きする間に雑巾に持ち換える手品をする人はいない。
中村鴈治郎の美しい所作に、また美しい所作が合いの手のようにはいる。浪花千栄子(佐々木つね)の、相手に団扇で風を送る所作。この映画の中で、新珠三千代(長女・小早川文子)も、原節子(長男の嫁・小早川秋子)もみせている。浪花千栄子の佐々木つねは、さらに、最期を看取ってもなお、万兵衛に風を送りつづける。なんと美しい所作だろう。
中村鴈治郎の出演作は、この時代の日本映画が撮りとどめた、日本人の美しい所作のアーカイブになっているかもしれない。
Specialty ニコラス・ブラザース
10年前のアニュアルに、”「ザッツ(ダンシング)」の中でしか知らないニコラス・ブラザースが突然ブームになってリバイバルしてくれないものか” と書いた。10年経ってもその気配もないので、自分で兄弟のフィルモグラフィを辿ることにしたのだが、少し辿ってみて、ニコラス・ブラザースは、回顧リバイバルされたり、DVD-BOXが出たりするものでないことが、すぐわかった。なぜなら、彼らは空前絶後のSpecialty Dancerだったからだ。
兄弟がキャストとしてクレジットされている、Specialty Dancer、Dance Specialty、あるいはSpecialtiesとは何だろうか。「特殊芸」みたいなニュアンスか。幅があるようにも思うが、いずれにしても役名なしということでもある。ダンサーとしての名声をとっくに獲得したであろう時代であっても、Themselvesでもない。人種差別が根強く残る時代背景なのだろう、敬意がこもった感じがしないクレジットだ。しかし、兄弟にとってはSpecialtyだろうとuncredited だろうと一切関係ない。持ち場の3分間、最高パフォーマンスするだけだ。
この3分間がすごい。 ダンスがもちろんすごいのだが、それ以上に、映画の文脈からそのシークェンスになる不連続がすごい。Specialty Dancerに回顧リバイバルもDVD-BOXもありえないのは、なぜそこに彼らがでてくるのか、わからない映画だらけだからである。逆に、今やその出演作は、貴重なダンス・シークェンスを未来に語り継ぐ容れ物になっている。
今辿れるフィルモグラフィ、せいぜい以下5作くらい。
「遥かなるアルゼンチン」 Down Argentine Way アーヴィング・カミングス (1940)
「銀嶺セレナーデ」 Sun Valley Serenade H・ブルース・ハンバーストン (1941)
「オーケストラの妻たち」 Orchestra Wives アーチー・L・メイヨ (1942)
「ストーミー・ウェザー」 Stormy Weather アンドリュー・ストーン (1943)
「踊る海賊」 The Pirate ヴィンセント・ミネリ (1948)
今年ぶっつづけでみてしあわせな気持ち。「ストーミー・ウェザー」はレンタルでもセルでもなかったので、Amazonマーケットプレイスで、アメリカのレンタル落ち中古VHSでやっとみることができた。
もし「踊る海賊」が最も知られた出演作だとすると、兄弟にとっては不幸なことだ。巨匠監督のもとでジーン・ケリーと共演は名誉なことだったかもしれないが、ここでは型にはめられたパフォーマンスをこなしているだけ、エンディングのジーン・ケリーとジュディ・ガーランドのナンバー「Be a Clown」がいいだけに、これの引き立て役かというようにしかみえない。彼らには3分の時間だけを与えればよい。型は要らない。その時間の中だけで、映画の筋書きとは無関係に起承転結をつくってしまう。例えば、「ストーミー・ウェザー」 キャブ・キャロウェイのステージ「Jumpin Jive」の最中、兄弟が闖入する3分間。
「起」 キャロウェイの掛け合いに引き込まれるように、突然、客席にいた兄弟がテーブルの上に乗り、ステージに降り立つ。ふつうに出てきてもいいものだが、キャロウェイに負けないテンションをいきなり漲らせている。いつもの燕尾服、スワローテイル舞う、タップダンスの幕開けだ。
「承」 ホールでタップを刻んでいたかと思うや、演奏中のバンドの中を飛び回る。ホーンをまたぎ、ピアノの上で、二人は跳ね回る。どういう練習をすれば危険を避けながらこんなダンスができるのか、など考える者はいない。
「転」 ステージ横の階段、膝くらい高いステップを、重力などない宇宙空間のように飛び回る。飛び上がっては開脚で着地、体操技のような十八番が炸裂する。見ている方の股ぐらが痛くなるほどだ。
「結」 スロープを滑り降りてエンディング、一礼して、去っていく。そのときには誰もがもう、キャブ・キャロウェイのことも忘れ拍手喝采、何の映画をみていたかすら、忘れるしくみになっている。
爆発的なアクロバティックなダンスでありながらも、ぎりぎりのところで欠くことない、ダンスのエレガンス。そして、それぞれが勝手に踊っても動きがどうしてもシンクロしてしまうのです、というふうにみえる息の合い方。どういう時代背景であったにしても、映画のクレジットに、このダンスデュオの価値を左右する力などない。
思い出し笑いの場面場面
◆「ニギリ飛行機」印の鍋
映画でみる、戦後の日本には、いろいろな不思議がある。「億万長者」(1954年市川崑)をDVDでみていて、思わずリモコンを手にとり戻って見返してしまった、「ニギリ飛行機」印のアルマイト鍋。
アルマイト会社社長未亡人(北林谷栄)が路頭で鍋を売るシーン。売っているのが、「ニギリ飛行機」印のアルマイト鍋だ。「ごらんになってください、この厚さ、この色、この軽さ。はじいてごらんください、いい音がするでしょう、まじりっけのない証拠、マークは有名なニギリ飛行機印、一流メーカー」と歌うような口上。後ろには、飛行機の胴体を、どこからきたのか巨大な手が鷲掴みという「ニギリ飛行機」印のポスター。
ちょっとWEBで調べてみると、鍋には、「ツルマル」印や「象」印のようなメジャーどころだけでなく、今やもう生産されていないものもふくめ、「仔犬」印、「亀」印、「ニギリヤ」印、「星タカ」印 とかのブランドがうじゃうじゃしていたようす。マークの意匠を凝らしかたも、ただごとではなかった領域かもしれない。「ニギリ飛行機」のマークも、ひょっとすると、映画の中の冗談といえない雰囲気がある。
誰を信用していいのやら途方に暮れるような時代がこの映画の舞台だ。アルマイト会社社長未亡人は税務署員(木村功)に現金を握らせて脱税をしようとする。そもそも、子育てのため汚職に余念がないのが税務署長(加藤嘉)だったりする。脱税をゆすりのネタにしようと税務署員を唆す芸者(山田五十鈴)とか、なぜかニコヨンしながら原爆づくりに勤しむ女(久我美子)とか、登場人物が一人残らず胡散臭い。そんな時代だからこそ、いろいろなコモディティが、トレードマークでもって、必死に信用を得ようとしていた時代だったのかもしれない。
◆泥棒映画の正統
泥棒映画は、苦労の末盗み出したものが、金塊でも札束でもヤマと積まれる、価値とは直接的な関係がない、ひたすらの堆さの中に、快感がある。どんな巨額であっても、スイスの銀行口座に振り込み、ではだめだ。「ダイヤモンド・ラッシュ」(マイケル・ラドフォード)は、ビジネスの場で陽の目をみない立場の二人(デミ・ムーアとマイケル・ケイン)が復讐のため泥棒するという、社会派映画の設えであるが、下水道に流し込んだダイヤモンドが堆いヤマとなる点において、正統派泥棒映画と認定される。マイケル・ラドフォード、よくわかっている。
あとがき
冒頭の区分で今年みた映画を数えると、トーキー131本、サイレント0本、カラー98本、モノクロ33本、3D1本、2D130本、映画館でみたのは2本だけ。とみると、ぼくの今年は、トーキーではあるがちょうどモノクロからカラーへ移行期くらいの状況で、全然3Dではないし、興業のもりかえしもなくて、つまり、やはり「今年」的ではなかったということだ。
変化の時代に、十年一日のような行動習慣が多くて困ったもの、相変わらず「映画の中の、オズの魔法使い」を意識していたら、「アバター」でパンドラ星に着いた海兵隊員を迎えるセリフ「(You’re) not in Kansas anymore」(ドロシーが、竜巻に飛ばされて着いた「オズの国」で愛犬トトにいう最初のセリフ)が耳に止まったりする、こういう十年一日は仮によしとするとしても、アニュアルをのせるのはブログでなく「ホームペ-ジ」で、すでにこの言葉は死語に分類されつつあると思われ、手持ちのソフトで「レーザーディスク」と書いたがこれも去年製造中止になって死語へまっしぐら、「ストーミー・ウェザー」を入手した「レンタル落ち」の「レンタル」(ビデオ、DVD)も VODに置き換わり、死語への道半ば、気がつくと、死語に囲まれつつある、これではいけない、と、今年twitterをはじめたのだが、「なう」でつぶやくようなことも特段ないため、過去のことだらけで情けない。
大急ぎの最速「なう」が、この夏、アメリカ・フォートワースでの経験。 「なう」から1週間後に書いた。映画「マイ・アーキテクト」(ナサニエル・カーン)の記憶と、映画の舞台となった生の光景が、4年を間にはさんで交差する経験。建築家ルイス・カーンの足跡を建築で辿る息子の旅、その映画の場面と、それを辿ってきたぼくの旅の中の、目の前の建築、140文字で表現するのは難しい。リアルタイムで書くのはもっと難しい。
“華氏104度(摂氏40度)は、風が吹くと却って暑い。樹々の影は濃く外壁にはりついたままだ。ランチタイムが終わった、誰もいないレストランでようやく、映画「マイ・アーキテクト」で風とともに駆け抜けた「歓喜の歌」が響いてきた。キンベル美術館。”
というか、twitterのそんな使い方を理解されるのが最も難しい。
2009年
「ビートルズ 全33曲書き下ろしミュージカル!」と思い込んでみると百倍贅沢な気分になれる、「アクロス・ザ・ユニバース」(ジュリー・テイモア) ビートルズの詞を切り貼りしてプロットをつくるという、これ以上ないオマージュ。Jude、Lucy、聞いたことある名前の登場人物、「その歌」はいつでてくるかの期待でひっぱられてから聴く「Hey Jude」「Lucy in the Sky with Diamond」………、新しいビートルズ経験だ。
今年の話題のつもりだったが、製作2007年、公開2008年の作とのこと。あいかわらず、すいません。
「ザ・フォール 落日の王国」の相似形
見上げると象が泳いでいる。人もいっしょに泳いでいる。一昨年、写真展「グレゴリー・コルベール ashes and snow」(お台場・ノマディック美術館)でみた写真。世の中は、やっぱりみたこともないものだらけだと、こどものようにうれしくなってしまった。すごい、美しい、びっくり、というだけでなんだか、目が、膝蓋腱反射で跳ね上がった膝になったきもち。グレゴリー・コルベールが繰り広げる写真は、動物と人の姿、例えば、象や豹と心合わせる瞑想、鯨といっしょのシンクロナイズドスイミング、オラウータンと寄り添うまどろみといった、自然にはありえない、作りこまれた設定、いわばフィクション。 だけどそこにいる動物たちも人も見えているままの本物。作られたホンモノ。だからこそ届く、祈りのようなメッセージ。人と自然はこうあってほしいというような。
ターセム「ザ・フォール 落日の王国」に、バタフライ・リーフを泳ぐ象がでてきたとき、グレゴリー・コルベールを思い出した。そして再び、膝蓋腱反射だ。「世の中みたこともないものだらけ」の喜び。「世界24か国ロケ」みたいな触れ込みは決して侮れない。どんなにグローバル化し、メディアが発達した現代でも、みたこともない景色景観は尽きることがない。そう思えるだけでうれしくなる。
見えているままのホンモノの景色に、映像曼荼羅絵師ターセムが埋め込んだのは、いつの時代ともどの国ともつかない衣装に身を包んだ五人衆の活劇というフィクション。映画黎明期のアメリカ、生きることに絶望した、重傷で入院中のスタントマン・ロイ(リー・ペイス)が、同じ病院に入院中の少女アレクサンドリア(カティンカ・アンタルー)を相手に紡ぐフェアリテイルだ。登場人物は、病院の看護士だったり氷配達人だったりするが、物語の中では、姫であり勇者だったりする。アイオワの農夫ハンクがスケアクロウだったりした「オズの魔法使い」と同じ。
退屈しのぎのようにはじまった「An epic tale of love and revenge」は、語り手と受け手の想像の干渉で、飛躍したり屈曲したりしながら紡がれていく。例えば、五人衆の一人「黒山賊」は、亡くなったアレクサンドリアの父親だったのが、仮面をとるやロイに変わる。五人衆の絶体絶命の危機は、「黒山賊2号」(アレクサンドリア!)が突然登場して救う。その裏側では、大人の現実、ロイが自殺するためにアレクサンドリアを利用しようとする企みによって、この物語は、語り手と受け手の現実と交わることのない、悲劇のエンディングへひた走っていたのだ。
物語は悲劇では終わらなかった。ロイに利用されて大怪我を負ってもなお騙されたと気づかないアレクサンドリアが悲劇を拒んだからだ。そんな彼女をみてロイは自らを苛み、ちがうエンディングを決意する。現実と物語はここでようやく行き合い、黒山賊はめでたく復讐を遂げる。そして、病院の皆で、ロイがスタントで登場する映画を楽しむ上映会の大団円。しかし、ここから、とってつけたような後日談に、この映画の非凡が爆発する。
退院して元の生活に戻ったアレクサンドリアは、スタントマンのロイを、映画の中でみつける。「I saw him!」 そこから、1分数十秒、サイレント映画のスタントシーン、怒濤のビデオクリップだ。サイレント映画の花、スタントシーンを支えてきた、一人の「彼」でなく、大勢の有名無名の「彼」たち。このとき、「すごい、美しい、びっくり」みえているままのホンモノの景色とその中のフィクション、サイレント映画というフィクションとその中のスタントというホンモノが、相似をなす。作られたホンモノがもつ、メッセージを伝える力の形、この映画の非凡の曼荼羅絵だった。
67年ぶりの、リーフェンシュタール
レニ・リーフェンシュタールを、100歳を越えてリリースした最後の作「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」(2002年)から遡る、そんなみかたになってしまったのは、たまたまだ。1934年のニュルンベルクでのナチスの全国党大会を記録したプロパガンダ映画で、いまだ本国ドイツでは上映禁止らしい「意志の勝利」(1935年)が、日本で今年67年ぶりに上映されることになった。その新聞広告をみたのがきっかけで、たまたま、そのときレンタルできてみてみたのが、「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」だった。そしてそこから、1938年ベルリン・オリンピックの記録映画オリンピア2部作「民族の祭典」「美の祭典」も含め、70年近い時間を2週間で遡ることとなった。ナチスを描いた「意志の勝利」も、自然を描いた「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」も、なんだか同じようにみえたのは、そんなみかたをしたせいかだろうか。レニ・リーフェンシュタールの手にかかると、ナチスの行進も、水泳競技「飛び込み」の選手の躍動も、知られざる珊瑚礁の魚も、それぞれ同じショーケースにはいってしまう。背景や文脈から切り離された、美しいものたちのアクアリウムだ。
レニ・リーフェンシュタールのフィルモグラフィ(長編監督作のみ)
青の光 1932年
信念の勝利 1933年
意志の勝利 1935年
オリンピア第一部 民族の祭典 1938年
オリンピア第二部 美の祭典 1938年
低地 1954年
ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海 2002年
100歳のレニ・リーフェンシュタール自身に、「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」の冒頭、「解説はいっさいありません」と解説されていたにも関わらず、海の中の美しさだけがメッセージというドキュメンタリーのつくり方には驚かされた。次から次と出てくる珍奇で美しい生き物たちの姿、それだけで映画一本が終わってしまう。助けた亀に連れられて行って見た竜宮城の、絵にも描けない美しさ。かたや、この豊かさを支えている生態系に一瞥もくれない不思議。70年前ならまだしも、地球温暖化を背景に各地それぞれの理由で珊瑚礁の海が危機に瀕している今、なぜだろう。このドキュメンタリーで描かれている海は、モルディブ、セイシェル、紅海、カリブ海など全世界に及んでいるらしいが、映画の中では、どれがどの海かわからない。この、美しいものを抽出する手つき、シアターN渋谷のモーニングショーで、またでくわすことになる。
「意志の勝利」はDVDでもビデオでも出回っているので本国ドイツでももちろんみることに不自由はないだろうが、「上映」となると別なのだろう。それは日本も同じ、間違ってもファシズムの喧伝ととらえられないように、映画の始まる前の注意から、広告の中の文言まで神経が払われている。「今回の上映は、封印された本作の存在を人々に知らしめ、(中略)二度とあのような歴史を繰り返してはならないという現代社会への警鐘を人々に鳴らすきっかけにしたいと強く希望し、また改めて平和への想いを再認識したいと考えております」 (ブロッシャより) そういう一種のものものしさは、逆に興行のギミックとして効いていたのかもしれない。モーニングショーなのに満員だ。
表現の、時の権力、政治やイデオロギーからの独立や自由を、矜持をもって描いてきた映画は少なくない。国や時代を越え、そういう映画をみるたびに、権力の庇護のもとでの表現から、そこを離れた自由な表現が豊かさを獲得してきた歴史を学ばされる気持ちになる。例えば、チェン・カイコー「さらば、わが愛 覇王別姫」 例えば、ティム・ロビンス「クレイドル・ウィル・ロック」。
「さらば、わが愛 覇王別姫」において、表現の自由を阻む者は、中国20世紀、めまぐるしく変わる為政者だ。国民軍の支配、日本軍の支配の中をかろうじて生きながらえた京劇は、共産党支配下「文化大革命」において根絶やしになるような弾圧を受ける。伝統的芸能というだけで、革命的ではないというだけで、表現が制限されるにとどまらず、表現者であることだけで死に追いやられていく。チェン・カイコーは、この時代の奔流の中に、「覇王別姫」の役「虞姫」を演じることのみがわが生と、虚実の境を失った女形・程蝶衣(レスリー・チャン)という表現者を置くことによって、表現とは生きること、というメッセージを響かせる。このメッセージには仕上げが必要だったようだ。最終章は11年後に飛ぶ。時代は変わり、段小樓(チャン・フォンイー)と蝶衣は、昔と同じように「覇王別姫」を舞う。舞いながら蝶衣は、虞姫の役がそうであるように、自害する。これが蝶衣にとっての表現の完成だったのだろう。弾圧で殺されかねない時代では、できなかった表現の自由の極北。この場面は、自由を得るために要した時間の長さを示したものかもしれない。あるいは、その先の将来に向けた、蝶衣の祈りを幻想にしたものかもしれない。
「クレイドル・ウィル・ロック」において、表現の自由を阻む者は、国家であったり、資本家であったり、さらには表現の担い手である演劇関係者の労働組合であったりする。この映画では、ニューディール時代のアメリカ、失業対策の国家事業としての劇場という特殊な舞台を用意することによって、表現を庇護する者が、あるいは表現者そのものが、ときにその自由を脅かすものになることをさらりとみせながら、メッセージの核に、国家による弾圧や組合の規制などに抗って、表現の自由を貫くことへの高らかな礼賛を置く。「アカ」の嫌疑をきっかけとした国による劇場封鎖、掻い潜った急ごしらえの劇場。組合によるストライキのため残された上演手段が、非組合員作曲家による自作自演だ。それをストライキのため致しかたなく眺めるしかない客席の役者たち。しかし、芝居が始まるや座ってなどいられない、一人また一人立ち上がっては加わり、表現を全うしていく。一方で、表裏に描かれるのは、表現の自由の葬送だ。表現の理解者を自認する資本家ネルソン・ロックフェラーによって、ディエゴ・リヴェラの、政治的メッセージが込められた壁画は取り壊されていく。労働歌「Internationale」を歌う腹話術人形は自ら舞台を降り、棺桶で運ばれていく。運ばれた先は、「表現の自由」が受け継がれているはずの、現代のアメリカ、壁画のあったロックフェラーセンタービルにも程近い、ブロードウェイ。葬列が半世紀以上の長きにわたることが暗示されるラストだ。
そういう映画作品の系譜を知った上で、レニ・リーフェンシュタールの、時の権力との距離感をみるとき、それが利用したものにしてもされたものにしても、生涯、批判にさらされつづけたことは、いたしかたないことに思える。戦後上梓した、アフリカのヌバ族の写真集に、ナチスの美学を関連づけられてしまうようなことも含めてだ。
レニ・リーフェンシュタールが特権的な位置にあったことは映画そのものからも伝わってくる。「民族の祭典」「美の祭典」での、映画に収めるために競技があるかのように、競技の邪魔ぎりぎりのカメラ位置にもあらわれているが、 「意志の勝利」ではもっと特別だ。ニュンベルクにはいるヒトラーを熱狂的に歓迎する群衆を映すカメラは、ヒトラーの後姿を前景にしている。いい映像をとるための位置どりとしては自然なのかもしれないが、時の権力者がすぐ背後に人を置かせているという点で、尋常でない、特別な印象がある。
しかし、リーフェンシュタールの本質はそこにない。党大会でも、オリンピックでも、美しいものの剔出において、冴えわたる彼女のカメラは、特権的なカメラの位置どりのあるなしなど超越する。 「意志の勝利」の一場面、ルイトポルト・アリーナを埋め尽くす、数十万人の突撃隊と親衛隊が見守る中、献花のために部下を左右に従えて、ただ延々と歩くヒトラー。ひしめきあっているのに動かない力と、点のような小さな整然とした動きのコントラスト。蹲う美しさ。オリンピア第二部「美の祭典」 最後に置かれた「飛び込み」の場面、どの国のどの選手がという説明が消え、勝ちも負けも知れず、どうやら最早競技というものではなくなって、さらに、めまぐるしく動くカメラ、どちらが上でどちらが下か、重力のベクトルからもはずれ、飛び込む姿そのものもシルエットになっていく。暴走する美しさ。いずれも、党大会における行進とかオリンピックにおける競技とかいう、背景や文脈から切り出されたものたちが、フィルムの矩形に嵌めこまれているのだ。これがそのまま、70年たっても色褪せないショーケースになっている。
リーフェンシュタール自身、ただ美しいものを美しく撮るだけのアーティストとみなされることを望んでいたようだ。取材と論証を積み上げて書かれた評伝「レニ・リーフェンシュタール 美の誘惑者」(ライナー・ローター著 瀬川裕司訳 青土社)の中にも、「彼女は自分自身を、与えられた内容(党大会、伝説、スポーツイヴェントあるいは通俗小説)に適切な形式を与えようと努力しただけの、映画の美文家と考えていた」という記述がみられる。「映画の美文家」として、目の前の光景の背景や文脈に目をくれない撮り方は、湧き上がる美の表出と、自身の戦争への関わりへの弁明の間で、ゆれ惑い続けた証しだったのかもしれない。
あとがき
レニ・リーフェンシュタール監督作ついでに、出演作もみてみた。ドイツ映画史に残る(らしい)、アーノルト・ファンク監督による一連の山岳映画だ。「聖山」(1926年) 「死の銀嶺」 (1929年)までサイレント映画だったもの(注1)が、「モンブランの嵐」(1930年 注2)からトーキーになる。トーキーを記念する、この映画の最初の会話が、モンブランの測候所の所員と、プロペラ機のパイロットの会話。プロペラ機上から山頂にいる所員に直接話しかけようとするパイロットがとった方法は、上空飛びながらエンジンを切って爆音が途切れた瞬間を狙って叫ぶというもの。実際できうるものかどうかなどさておき、このお茶目度、まいった。ついでに、この映画には、遠方の仲間と呼び交わしに使われるホンモノのヨーデルが登場する。トーキーだからそれとわかるが、サイレント映画時代にはヨーデルはどう字幕にしていたのだろう、などと余計な心配をしてしまった。
注1 厳密には、「死の銀嶺」にはぼくがみたサイレント版のほかにトーキー版があるらしい。
注2 ドイツ映画初のトーキー映画といわれる、ジョセフ・フォン・スタンバーグ「嘆きの天使」と同じ1930年。
今年映画の話題といえば、「おくりびと」(滝田洋二郎)「つみきのいえ」(加藤久仁生)のアカデミー賞受賞だったりするのだろうが、1930年のドイツですいません。1年間に123本みても、公開作3本「ホルテンさんのはじめての冒険」(ベント・ハーメル)、「スラムドッグ・ミリオネア」(ダニー・ボイル)、「セント・アンナの奇跡」(スパイク・リー)では、その年のことは語れない。もう18年も繰り返しているけれど。
オンラインDVDレンタルを、今年使い始めてみた。借りたいタイトルをまとめて登録しておく。順々に、2タイトルずつ郵送されてくる。便利。便利だけでなく、適当に登録しているので自分が登録したことをすっかり忘れていて、好みに合わせて「お任せ」で送ってくれているような錯覚にとらわれてくるのが楽しい。フリッツ・ラングのアメリカ時代特集、ジュールズ・ダッシンのアメリカ時代特集、ダグラス・サーク特集、みたいなものが、忘れていても次々やってくる不思議。
適当だから、拾い物に出会える。例えば、ジュールズ・ダッシンの「深夜復讐便」(1949年 日本未公開)。 AmazonでのDVD販売の惹句 「トラック野郎の怒り炸裂 父と友の復讐を胸に、深夜のハイウェイを失踪する男一匹。名匠ジュールズ・ダッシンが重厚の演出で魅せる、傑作フィルム・ノワール!! 出演: リチャード・コンテ, ヴァレンティナ・コルテーゼ」 これでは申し訳ないが、積極的にみたいと思わせない。ジュールズ・ダッシン一揃いというように借りるので混ざってくるのだ。混ざってきたものは、果物を市場に運ぶことに命懸けになる男たち、という理解し難いストーリーだ。ハワード・ホークスの「赤い河」で、アメリカでは生産地と消費地の距離が生き死にの問題であったことをちゃんと学んだぼくでも、農園から1箱1ドルで仕入れるリンゴ、でもいくらで売れる保証もない、市場は36時間ぶっとおし運転の先、という商いは、わけわからない。二人の男はいちかばちかで市場に持ち込んで6.5ドルに化けさせようとする。が、男のうちの一人はトラックの事故で命を落とす。崖を転がり落ちるトラック、荷台から飛び散るリンゴ。 この場面の鮮烈さは、欲とか復讐とかいう言葉では、説明がつかない。アメリカという国、戦争直後という時代、背景を足しても不十分。いつでもどこにでもいる、何かに駆りたてられるかのように、前へ前へ進むことしかない動物や昆虫と見紛う人間たち、とでも表現すれば納まるだろうか。ジュールズ・ダッシンのリアリズムは、わけのわからないものをわけのわからないものとして描いてしまうところに突き抜ける。
映画の時間、空間
もうひとつ、今年初めての新たな映画のみかた? 「You Tube」。雑誌で読んで探していた映画「パワーズ・オブ・テン」(チャールズ&レイ・イームズ 1977年)がみつかったのがここだった。建築雑誌「DETAIL JAPN」の「映画の発見!」という特集号(2008年7月号別冊)、日本のトップアーキテクトたちが選んだ「私の10本」の集計に載っていた1作だ。
1位 「ブレード・ランナー」(リドリー・スコット)
2位 「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック)
3位 「東京物語」(小津安二郎) 「ベルリン 天使の詩」(ヴィム・ヴェンダース)
5位 「軽蔑」(ジャン・リュック・ゴダール) 「パリ、テキサス」(ヴィム・ヴェンダース)
7位 「バグダッド・カフェ」(パーシー・アドロン) 「パワーズ・オブ・テン」
9位 「暗殺の森」(ベルナルド・ベルトルッチ) 「恋する惑星」(ウォン・カーウァイ) 「トーク・トゥ・ハ
ー」(ペドロ・アルモドバル) 「ニュー・シネマ・パラダイス」(ジュゼッペ・ベルトナーレ) 「ぼ
くの伯父さん」(ジャック・タチ) 「未来世紀ブラジル」(テリー・ギリアム)
ちょっと特徴のある上位ランキングやその評言から、建築家というもの、映画のスクリーンという平べったい場と2時間程度の限定された時の中に、豊かな空間と時間を探しているような人たちという感じも伝わってきておもしろかった。また、ランキングの中にみたことのないものがいくつかあった。
その一つ、「パワーズ・オブ・テン」 探してみると、DVDは売られているがレンタルにはない。たまたまみつけたところが「You Tube」 10分足らずの短編映画とはいえ、まるごと置いてあった。人間の目で捉えられることのない空間と時間の旅行の映像体験。シカゴの湖畔の公園で寛ぐカップルの姿から、カメラはぐんぐん遠ざかり、公園を空から見下ろし、さらに大気圏を突き抜けて地球を見下ろし、太陽系、銀河系へと離れていく。と思ったら、逆に急接近、カップルの姿に戻るや、今度は「ミクロの決死圏」、分子原子の世界までカメラははいりこむ。どうやって撮ったのだろう。発表当時からごく最近までの間、きっと現在とは違う受け止められ方をされただろう。今や、急速ズームイン、アウト映像は、Google Earthによって、シカゴの公園でなくても地球上の任意の1地点から、いつでも誰もがみることができるのだから。
「パワーズ・オブ・テン」をみて、映画というものが相変わらずである一方で、みる側の映像体験が、You Tube やらGoogle Earthやらでどんどん豊かになっていくことにより、受け止められ方が変わっていく可能性があることを、強く思った。トップアーキテクトが映画に寄せる空間や時間の目線も、建築というものが、例えば、時間に耐えたり、空間を区切ったりすることを必ずしも前提としなくなるような、受け手の体験の変化に向き合うことから、研ぎ澄まされているようにも感じられる。受け手の建築体験の変化、例えば、最近よくでくわすようになった、一時的な建築。今年代々木公園に出現したザハ・ハディドの「シャネル・モバイルアート」、昨年お台場に出現した坂茂の「ノマディック美術館」など、予め一時的であることが定まった建築は、流行りのように出没し、将来に向けた無制限に開放された時間軸でなく、制限のある時間で空間を区切るものとして、受け手の建築体験を大きく揺さぶるものになっている。
映像にしても建築にしても、受け手の体験の変化に敏感になることで、新たな体験を供しようという熱意がさらに新たなものを生み出していく。これは、今にはじまったことではないだろう。ランキングの中で、「パワーズ・オブ・テン」よりも少し下位にランクされていた「コヤニスカッツィ」(ゴッドフリー・レジオ 1983年)は、もう四半世紀前の作ではあるが、そういう熱意で生み出したものの一つかもしれない。タイトル”life of moral corruption and turmoil, life out of balance”の意に込められた現代社会批判の側面以上に、自在にコントロールされた時間によって描き出される映像の美しさに心奪われた。高速度撮影と低速度撮影を駆使して撮られる自然と文明は、生まれるにしても壊れるにしても、美しさという尺度で全く同列に並べられる。人類の文明は進歩しているのか、というようなメッセージがこめられた、古代壁画からロケット打ち上げに移るシーンは、「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック 1968年)での、人類の祖先が使い始めた道具である骨が、宙を舞い、そのままそれが宇宙船に変わる暗示シーン以来となるような、大きく揺さぶられる映像体験だった。受け手の体験の変化を乗り越えていく、逞しい美の表出だ。
「ダージリン急行」の主人公
三兄弟、仲違いして長いこと音信不通だったらしいのに、ダージン急行のコンパートメントに、ばらばらと集まると、旅行かばんが皆同じ。嘘くささがいきなり立ちこめる。その手は喰わぬと身構えるが、ウェス・アンダーソン世界にずるり、引き込まれる。なんだか引き込まれ続けて6作目、新宿武蔵野館。
「アンソニーのハッピーモーテル」 1996
「天才マックスの世界」 1998
「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」 2001
「ライフ・アクアティック」 2005
「ホテル・シュヴァリエ」 2007
「ダージリン急行」 2007
揃いのかばんとわかった瞬間に思い起こした。「ライフ・アクアティック」で、ベラフォンテ号のクルーたちの、揃いの赤いニット帽。 「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」で、テネンバウム家長男チャス(ベン・ステイラー)とその息子二人の、いつも三人揃いのアディダスのジャージ上下。ご丁寧に、紺の揃い、赤の揃いの色違いでもお揃いだった。こんなクルーや親子は、ウェス・アンダーソン世界を唯一例外として、いるわけがない。そんな、わざとらしい、見え透いた嘘くささ。
フィクションをつくりごとと呼ぶとき、つくりごとだからこそ語れる真実があるからフィクションだ、といえば立派に響く。ウェス・アンダーソンはそれを避けようとしているのか、つくりごとを、身も蓋もなく嘘っぽく描くことにひたすら情熱を傾ける。登場人物しかり、セットしかり。
登場人物はまっしぐらにアイコン化する。例えば、「アンソニーのハッピーモーテル」 敢えなく御用となる間抜け泥棒(オーウェン・ウィルソン)の、いかにも泥棒プロっぽい立ち回り。「ライフ・アクアティック」で、真実であるかどうかよりいいとこ撮りに徹する海洋映像作家(ビル・マーレイ)の似非プロっぽさ。「ダージリン急行」の、弟たちの食事のオーダーを勝手にするフランシス(オーウェン・ウィルソン)の長男っぽさ。ロケに挿入されるセットはつくりものであることがわざわざ強調されるものとなる。例えば、「ライフ・アクアティック」のベラフォンテ号の艦内は、それがセットであることがわかるように撮られ、その手つきは、「ダージン急行」のエンディング近く、列車のコンパートメントひとつひとつに世界中の関係者がそれぞれ集う、カーテンコールのような場面のそれと同じであったりする。さて、今回はどんな嘘が仕込まれているのか、インドの旅が始まる。
この旅行かばん、兄弟の趣味がたまたま同じとかいうわけではなかった。かばんに刻まれたJ.L.W.のイニシャルで、彼らの父の遺品であることがわかってくる。遺品はそれだけではない。長男が後生大事にしてきたベルトも、かばんと同じ、特注のアニマル柄。 「ホテル・シュヴァリエ」でベッドサイドに鎮座していたトランクも、同じ柄だったことをすぐ思い出せるほど、強烈なデザインだ。ルイ・ヴィトンのデザイナー、マーク・ジェイコブスによる、この映画用のオリジナルとのことだが、登場人物がみな霞むほどの存在感だ。ただ、このかばんはスーツケース、ショルダー、ボストン、ガーメント、アタッシェ、やけにいろいろ種類や大きさがあって、自分で持ち運ぶたびにはそぐわない。波乱続きの旅、持ち運びに難儀する。毒蛇や芥子スプレー騒ぎを起こしてダージリン急行から下車させられて歩く。 農村で葬式にパジャマで参列したのちバスで移動する。最寄の空港で旅を終わらせようとしたが翻意して、ヒマラヤに馬で母を訪ねる。旅を続けるにつれ、兄弟の手かせ足かせ、重荷になってくる。
ヒマラヤでは、母親(アンジェリカ・ヒューストン)と気持ちがつながっていないことの確認に終わる。弟たちの食事を勝手にオーダーする長男っぽさは、母親譲りだったことの確認のおまけはあったが、父も母もいないなら、つながるのは兄弟どおししかない、そんな確認をするかのような儀式をもって、彼らの「心の旅」は終章を迎える。
旅の終わりはヒマラヤ麓のザワール駅。乗り遅れそうになる列車に追いすがる兄弟たち、かばんを担いだままだと乗り損ねそうになるや、「親父のかばんは無理だ!」(Dad’s bags aren’t gonna make it !) ここまで大事に大事に運んできたかばんを放り出す。スローモーションで強調されるシーン、わざわざ放り出す必要もなさそうな小ぶりのかばんまできれいさっぱり。そして三人は揃って列車に飛び乗って旅を終えるのだ。自分自身の大切なものと思って、重荷と思っても担いできたもの、それは父親そのもの。 重荷を打ち捨てることは、亡き父親からの訣別、そしてそれは三兄弟がつながることだった。冒頭、次男のピーター(エイドリアン・ブロディ)が飛び乗るときに列車に投げ込まれてから、打て捨てられるエンディングまで、回想シーンを含め一度も登場することのない父親J.L.W.成り代わりのかばんが、この映画の本当の主人公かもしれない。
映像の私小説家、ウェス・アンダーソンは、つくりもの(フィクション)の器に、「自分自身の大切なものと思って、重荷と思っても担いできたもの、それは父親そのものだった」という転換を仕込んだ上で嘘くささをみそくそに盛りつけて、父子、兄弟といった普遍的なテーマに迫ってみせた。この「転換」、なんだかみた記憶がある。大正から昭和初期の私小説家、牧野信一。 「父を売る子」に代表される自虐的な私小説から、「ゼーロン」のようなギリシアや中世ヨーロッパ風ファンタジアへ翼をひろげた。代表作「ゼーロン」(1931年)に、同じ「転換」が仕込まれている。
この物語で、主人公が担いでいる重荷は、自身をモデルとしたプロンズ像「マキノ氏像」だ。新生活への旅立ちのためにすべての持ち物を処分する主人公、「賣却することを能はぬ一個のブロンズ製の胸像」の始末に迷ったあげく、像を登山袋に担ぎ、馬車挽き馬のゼーロンを駆って、難儀な山道に向かった。四苦八苦のあげく「重荷に壓しつぶされさうに」なったとき、半鐘の信号が、智恵を授けるのだった。「お前の、その背中の重荷の賣却法を敎へてやらうよ」 「生家に賣れ、R・マキノ氏像として――。寸分違はぬから疑ふ者はなからう」 R・マキノとは主人公が忌み嫌う、亡くなった父親だ。自分自身の大切な荷物と思って担いできたもの、それは父そのものでもあったというメタファー。「名案だ! 私は氣づいたが、同時に得も云はれぬ怖ろしい因果の稲妻に打たれて、私のと間違へたのであらう、ゼーロンの耳を力一杯つかんだ。そして鞍から轉落した」そして「鬼涙沼の底へ投げ込んでしまふより他に手段はないぞ」と思う結末に至る。
21世紀アメリカのウェス・アンダーソンと牧野信一に何のつながりもあるはずなく、「重荷の転換」もたまたまの類似に過ぎないけれど、私小説のファンダジア仕立て、パーソナルなテーマにわざとらしいエキセントリックな舞台をしつらえる手つき、「つくりごとだからこそ語れる真実」のいれものとしてのフィクションを避け、嘘くささをみそくそに盛りつける手つきは、同根のクリエーターのものと思えてならない。
「黄金の七人」 勤勉チームワーク
1960年代イタリアの泥棒映画の傑作シリーズ「黄金の七人」(マルコ・ヴィカリオ)、30年以上前に第1、2作をみて以来の、全4作ぶっつづけ。DVD-BOXも売られているようだが、レンタル落ち格安ビデオとオンライン中古店のおかげ、安上がりでみられた。「黄金の七人」(1965年) 「続・黄金の七人 レインボー作戦」(1966年) 「新・黄金の七人 7×7」(1968年) 「黄金の七人・1+6 エロチカ作戦」(1971年) 続、新、という邦題のつなぎかた、泥棒物でもない4作目をシリーズにしてしまう肖り商法ぶり、タイトルだけで時代の空気が伝わってくる。改めて第1作の、泥棒7人組の勤勉チームワークぶりが楽しい。高度成長時代の日本製造業のようにもみえてくる。首謀の「教授」以外は、一人一人のキャラクタを全く立てていない。悪いことしそうにない人相の男ばかりだし、生きていくための当たり前の使命のように、地味な役割分担をしっかりこなす。おまけに、銀行の地下の水道管から忍び込んだあとは、その必要もなさそうなのに、後片付けをきちんとやって帰るお行儀のよさ。この馬鹿げたすがすがしさが、映画の強烈個性。第3作では、いかにもという連中がキャラクタに合った役割を担い、泥棒として高度化し、泥棒映画として傑作の頂きにのぼりつめるが、強烈個性では第1作に到底かなわない。
あとがき
今年の公開作をみにいったのは6本、「ぜんぶ、フィデルのせい」(ジュリー・ガブラス) 「ノーカントリー」(ジョエル・コーエン イーサン・コーエン) 「ダージリン急行」「ホテル・シュバリエ」 「鳥の巣 北京のヘルツォーク&ド・ムーロン」(クリストフ・シャウブ、ミヒャエル・シントヘレム) 「イン・トゥ・ザ・ワイルド」(ショーン・ペン) ほか、全部で120本という例年並み。(過去のcinemannualを遡って計算してみたら、過去16年の平均が120本、ホントの例年並み)
「ぜんぶ、フィデルのせい」は70年代のパリが舞台。ジュリー・ガブラスは、父親コスタ・ガブラス譲りの硬派な側面もちらりとみせつつ、輝けるサヨク、困ってしまうサヨクを、9歳の娘の目から描く。主人公の少女アンナと同じ時代に日本で同じ年頃であったぼくが圧倒されたのは、アンナが身に着けるもの。オレンジのチェックのラップスカート、角ボタンの赤いニットジャケット、青いナイロンのコート……。 日本にはこんなファッションの子どもは、少なくともぼくのまわりには、一人としていなかった。もしいたとしてもテレビの中のワンサカ娘くらいだったろう。おしゃれ先進国フランスの底力。ちなみにぼくらは毎日体操服だった。
ジンジャー・ロジャース、フレッド・アステア、コンビ作の中でただひとつみることができなかった「ロバータ」(ウィリアム・A・サイター)が、今年初めてジュネス企画よりDVD化された。RKOでのコンビ作3作目のこの作品だけが、レーザーディスクにもビデオにもならなかった。理由は知れない。パイオニアから、RKOのジンジャー&フレッド物レーザーディスクが出て、飛びついて買ったのが1987年、RKOでのコンビ9作のうち「ロバータ」だけが収録されなかった。その後、I.V.C.からビデオシリーズで出たときにも収録されず、幻のような存在。20年待った。
コンビ作は次の全10作だ。
「空中レビュー時代」(1933 RKO)
「コンチネンタル」(1934 RKO)
「ロバータ」(1935 RKO)
「トップハット」(1935 RKO)
「艦隊を追って」(1936 RKO)
「有頂天時代」(1936 RKO)
「踊らん哉」(1937 RKO)
「気儘時代」(1938 RKO)
「カッスル夫妻」(1939 RKO)
「ブロードウェイのバークレー夫妻」(1949 MGM)
ここのところ、フレッド・アステアのRKO後、あるいは前の、パラマウント、コロンビア、MGMの作も初DVD化が続いていて、「ダンシング・レディ」(ロバート・Z・レオナルド)のジョーン・クロフォード、「スイング・ホテル」(マーク・サンドリッチ)のマージョリー・レイノルズ、「ブルー・スカイ」(スチュアート・ヘイスラー)のジョーン・コールフィールド、これまでみることができなかったパートナーとのダンスも今年みたが、やはり1930年代、RKO時代のジンジャー・ロジャースとのコンビ以上のものはない。1940年以降のフレッド・アステアのダンスは、成熟するミュージカル映画の中で、エレノア・パウエル、リタ・ヘイワース、シド・チャリス、大輪の花たちを引き立てるものになっていく。
「ロバータ」、他のRKO作と同様、映画などダンスのいれもの、つくりなどどうでもいいという開き直りの迫力。映画なんぞ撮ってはいない。ダンスを撮っている。みにきている観客も観客だ。ダンスだけをみにきている。ぼくがその時代を知るわけないが、次のダンスの流行を追いかけ続ける、時代の高揚が伝わってくる。ジンジャー&フレッドは、「空中レビュー時代」(ソントン・フリーランド)と同じように脇役。プロットの中心は、ひっついたり離れたり、まわりをやきもきさせる、アイリーン・ダンとランドルフ・スコット。かたわらでただ踊るだけのジンジャーとフレッド。変化をつけたセットもない。小道具もない。ダンスにいたるドラマすらない。それなのに、タップで会話までしてしまう”I’ll be hard to handle” のデュエットなど、この二人以外にないと思わせる力が、70年たった今もある。
冒険者たち、海賊たち
ボルドーの街はずれにあるサン・ジャン駅を出て、ポワトゥ・シャラント地方の港町ラ・ロシェルまで2時間。そこからパリはTGVで3時間かかる。ボルドーからまっすぐパリに向かえば3時間のところ、海沿いの遠回り、「冒険者たち」(ロベール・アンリコ 1967年)の舞台を訪れた。
映画の中で、コンゴ沖の船の中、流れ弾にあたって命を落とすレティシア(ジョアンナ・シムカス)が、直前に語った夢の舞台、ラ・ロシェル沖の海上要塞。アトリエにしたいといっていた彼女の夢を胸に、ローラン(リノ・ヴァンチュラ)は、マヌー(アラン・ドロン)といっしょにそこをホテルにする夢へと継ぐ。
雑誌「TITLE」「映画で旅するフランス」特集(2004年3月号)でこの地の記事を読んだときも、ポワトゥ・シャラントとかラ・ロシェルとかいう地名の響きからして自分に最も縁遠いもののように思えていたが、今年チャンスが来た。
Fort-Boyard(ボイヤール要塞)は、ラ・ロシェルの旧港から船に乗って行く。映画の中のマヌーのように、そのへんの漁船に、羽織っていたセーターを投げ込んでから飛び乗って、「要塞まで行ってくれ」 みたいなことができるといちばんだが、ぼくはマヌーではないのでそうもいかない。INTER-ILLESというところが、”Promenade en mer” 「海のお散歩ツアー」というのをやっている。出国前にメールで照会したところ、It is a tour without stop.(we can't go on the Fort : it's private.) と返信がきて、観光船から要塞を眺めるツアーだとわかった。潮の干満によって毎日出航予定が変わるツアー、ラ・ロシェル駅近くの観光案内所でちょうどいい時刻のチケットが買えた。港の前のレストランで、魚介ペーストをつけたバゲットをつまみにビールを飲んで出航を待っていると、そのことを忘れそうになるくらいのんびりしてしまう港町だ。
レティシアの遺品、遺産を届けに、彼女の故郷のエクス島を、ローランとマヌーは失意のまま訪れる。博物館の案内係の少年が、彼女のいとこで、相続人であることがわかった。その少年と海岸に出たローラン、少年が指差す海の上はるかに小さく要塞がみえた。ズーム、ズーム、さらにズーム。かぶさるフランソワ・ド・ルーベの口笛のテーマで、これがレティシアの言い残していった要塞とわかる。口笛のテーマはレティシアのテーマだ。
晴れたり曇ったり、雲がめまぐるしく動く。カタマランで出航。高校生くらいの女の子の大集団、家族連れ、カップル、フランス語以外の会話は耳に届かない。デッキで猛烈に波しぶきを浴びて、顔を見合わせる。会話はないが「ありゃりゃですねえ」「しかたありませんなあ」 女子高校生たちは、雲間から日が射すと、一時も無駄にできないとばかり、水着のような姿になって肌を灼く。翳ると一斉に服を羽織る。忙しい。そして、大きな波を越えるたびに雄叫びをあげながらウェーブをしはじめた。そして、皆で歌いはじめる。それはかわいらしいというよりも勇壮で、
こおおれはこれ
ノルマンデイの草原から
長舵船の櫂をそろへて
勇ましく
波を越え、また波と闘ひ
月を祝ふ国に到着した
ガスコンの後裔 (牧野信一「酒盗人」 人文書院「牧野信一全集」より)
と歌っているように聞こえる。「ノルマンディの海賊のバルヂン(戦いの唄)」を聞くうちに、要塞が見えてきた。
この要塞は、1802年、ナポレオン・ボナパルトの命でつくられたものらしい。大西洋ビスケー湾の要所に位置し、フランス、イギリスが、三銃士の時代にも、百年戦争の頃にも戦火を交え、さらに遡ればノルマンディの海賊が跋扈していた場所のようだ。重要な海港を守る航路にあたるところなのだろう、何もない海の中にこんな大層なものを建てたわけだ。それにしても、19世紀の土木建築技術で、どうやって資材を運び、そして組み立てたのだろうか。この船は、それをみるツアーだ。 要塞に近づいて始まったフランス語だけの案内放送がちんぷんかんぷんのぼくだけが、そこに「冒険者たち」の夢をのせた舞台をみていたのかもしれない。
他愛なく、夢はふくらみ、しぼむ。あれがレティシアの言っていたものかとわかったローランは要塞を買い取り、マヌーとともに、送迎ヘリポートつきレストラン、ホテルをつくる夢をふくらませる。その夢も、引き上げた財宝を狙って追ってきた一味に、レティシアと同じくマヌーが殺されて、最後にしぼんでしまう。 凱旋門をくぐる曲芸撮影飛行で一攫千金のマヌーの夢、廃車を使った前衛彫刻のレティシアの夢、自動車産業に革命をもたらす高回転の新型エンジンのローランの夢、どれもかなうことはない。かなわなくてへこむ彼らだが、また次の夢に向かう。かなうこと以上の、次があること。夢かなってコンゴ沖で引き上げる財宝も、コンゴ沖で探索を繰り返す日々の美しさに比べると、その価値がどうであるかなどどうでもいいような世界。引き上げた財宝、レティシアによる山分けは、大きいダイヤ、大きいダイヤ、小さいダイヤ、小さいダイヤ、と子どもの山分けさながらだ。この映画で一番の場面かもしれない。
船がまわりこんだオレロン島側は、要塞の船着場があるところだが、隣に海底油田基地のような足場が組まれていて工事がおこなわれていた。要塞の周りを船はゆっくりまわり、レティシアの故郷、エクス島に向かう。このまま視点がまわりながら、ふわり持ち上がらないかという思いにとらわれる。要塞を旋回、垂直移動撮影でとらえる映画のラストシーン。レティシア、マヌー、ローラン、3人のそれぞれの夢をのせた要塞は、ローランの慟哭を残して、まわりながら遠ざかる。アラン・ドロンのヴォーカルによるレティシアのテーマ。さらに遠ざかると、要塞は海の中の点になっていく。まわりながら遠ざかっていったのは、古い潜水服で葬送されたレティシアでもあった。
船はエクス島に少しだけ寄港し、さらに高くなってきた波を越えて、ラ・ロシェルに戻る。ノルマンディの海賊たちは他愛なく船酔いして、そこかしこでぐったりしていた。
テリー・ギリアム、キャスティング王
史上最低のじいさん、良識ある人々に思わせる役で、「リトル・ミスサンシャイン」(ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファレス)のアラン・アーキンは今年のオスカーをとったが、もっとひどい家族がいた。「ローズ・イン・タイドランド」の少女ローズの両親。 麻薬のやりすぎでさっさとおっ死ぬのは母親、ジェニファー・ティリー。そんな家から娘とともに逃れるように旅立つのはいいが、やはり麻薬のやりすぎでおっ死ぬ父親、ジェフ・ブリッジス。しかも死んでから剥製にされてしまう。剥製父親、ジェフ・ブリッジス。こんなキャスティングをするのは、テリー・ギリアムだ。
「未来世紀ブラジル」で、不法暖房修理人ハリーという稀代のキャラクターにロバート・デ・ニーロをあてて、キャスティング王に登りつめたテリー・ギリアムは、それ以前から、時空の旅の中ではアガメムノン王でも今なぜか消防士にショーン・コネリー(「バンデットQ」)とか、「月の王」にロビン・ウィリアムス、「火山の王Vulcan」にオリバー・リード(「バロン」)とか、馬鹿げたキャラクターを創造してはうれしいキャスティングを続けてきた。そんなテリー・ギリアムには、メイキングムービーのはずがトラブルで完成に至らなかった”アン”メイキングムービー「ロスト・イン・ラ・マンチャ」(キース・フルトン、ルイス・ペペ)の「主役」で終わらずに、「ドン・キホーテを殺した男」(The Man Who Killed Don Quixote)を、いつか完成させてほしい。再び、ジョニー・デップ、ヴァネッサ・パラディ、ジャン・ロシュフォールといったキャストを揃えることは難しいとしても。
テリー・ギリアムのフィルモグラフィ、75年監督デビュー作「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」から「ローズ・イン・タイドランド」まで12作。
「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」(1975)
「モンティ・パイソン・アンド・ナウ」(1975)
「ジャバー・ウォッキー」(1978)
「バンデットQ」(1981)
「モンティ・パイソン 人生狂騒曲」(1983)
「未来世紀ブラジル」(1985)
「バロン」(1989)
「フィッシャー・キング」(1991)
「12モンキーズ」(1995)
「ラスベガスをやっつけろ」(1998)
「ブラザーズ・グリム」(2005)
「ローズ・イン・タイドランド」(2005)
寡作のキャリアを振り返ると、「モンティ・パイソン」の時代からは、たいした出世ぶり、予算もキャストもちゃんとグレードアップしている。「モンティ・パイソン」では予算が嵩みそうなスベクタクル場面になるとアニメだったものも、「12モンキーズ」ではホンモノの象やキリンだし、仲間内でかき集めていたかのようなキャスティングも、今や、ジェニファー・ティリー、ジェフ・ブリッジスに、死ぬだけの役をあてられている。その一方で、鬼才とか名匠とか呼ばれたとしても、モンティ・パイソン時代と変わらない、同じモチーフやネタの繰り返し。好きなものを何度も繰り返す。「ホーリー・グレイル」(聖杯)のように、物語を支える重要なモチーフとして再登場(「フィッシャー・キング」)するようなものもあるが、どちらかというと、嗜好は物語を支えたりすることとは無関係、傍若無人に現われる。
たとえば巨人。いきなり顔をのぞかせる登場で度肝を抜くのが、「バロン」の月の王。「未来世紀ブラジル」にもこっそり登場する。ジョナサン・ブライスの主人公がトイカーみたいなので街に出るシーン、脈絡なく、それを覗き込む巨人が挿入されている。「バンデットQ」では、もっとびっくりさせる。旅人たちが乗っていた船ごと持ち上げられる。何事か、そこで登場する巨人、船を頭にのせたまま海から上陸する。船の帽子はもちろん模型、巨人はガタイのいいおっさんだが、アオリ一本で巨人にしてしまう。「ロスト・イン・ラ・マンチャ」でも、アオリ巨人のシーンを、繰り返し、嬉々としながら撮る監督の姿があった。
もうひとつ好きなのが、SINGING TELEGRAM。ぼくは映画の中でしかみたことがないが、今もアメリカに実在するサービス業らしい。登場するだけで映画全体がB級っぽくなるアメリカ風物だ。そのSINGING TELEGRAMを二度も登場させた監督はいない。(「未来世紀ブラジル」「フィッシャー・キング」の2作。IMDbキャラクター検索でウラをとった、ホント) しかし、キャスティング王のテリー・ギリアムもポール・オースターにはしてやられた。「ブルー・イン・ザ・フェイス」のSINGING TELEGRAMに、マドンナだ。映画史上最も有名なSINGING TELEGRAM、いまだその地位は揺らがない。騎士にパトカーとか(「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」)、騎兵隊に戦車とか(「バンデットQ」)、時代をまぜごせにするなど平気な彼だ。「ドンキホーテを殺した男」に、マドンナを超えるキャスティングをして、SINGING TELEGRAMを17世紀スペインに、アオリ巨人とともに出演させてほしいものだ。
あとがき
有楽町のイトシアにできたシネカノン有楽町2、オープニングを飾った「サディスティック・ミカ・バンド」(滝本憲吾)は、今年の再々結成コンサートを追ったドキュメンタリー。アルバム「黒船」のナンバーなど、「自分たちの演奏のコピー、けっこう大変」と加藤和彦は苦笑していたが、アレンジも変えないそのままで、30年以上前の曲であることを全く感じさせない。このバンドの個性を決めていた女性ヴォーカル「ミカ」の存在に一瞥もくれない、加藤和彦、高橋幸宏、小原礼、高中正義の未来志向が、取り囲む大きな穴をかえって強く感じさせた。
封切に行ったのは、他、「あるいは裏切りという名の犬」(オリヴィエ・マーシャル)、「不都合な真実」(デイヴィス・グッゲンハイム)、「恋愛睡眠のすすめ」(ミシェル・ゴンドリー)、「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」(シドニー・ポラック)。レンタルやらで全部で111本。
格安 セルDVD、500円。書店店頭でみかけて、雑誌を買うように、つい買ってしまった。「恋愛手帖」(サム・ウッド 1940年)。 同じジンジャー・ロジャースをみるのに、20年前には、1枚5000円も8000円もするレーザーディスクを、一つ一つコレクションに加えるような思いで買ったことを思い起こす。「恋愛手帖」はいくらで売られているのだろう。I..V.C.から3990円定価のものがでている。1500円定価の廉価版もある。Amazonマーケットプレイスの中古DVDでは、最低価格999円。一物百価の時代ではあるが、映画DVD500円は破格だ。「パブリック・ドメイン」の著作権切れの解釈を巡って裁判にもなっているようすだが、著作権切れによって定番クラシック以外の作品がぞろぞろでてくれないだろうか。
昨年末からコンビニ店頭に並んだ「48DVD」、新作映画600円という値づけで登場しながら、その後みかけない。続かなかったのだろうか。「アビエイター」(マーチン・スコセッシ)など話題作で、セルDVD、レンタルDVDの間のマーケットを狙ったのだろうが、レンタルとの比較で割高にみられたのかもしれない。デジタルの時代に、開封後48時間で化学反応によってみることができなくなるという、魔術のような技術は楽しい。今年になって「M:I:Ⅲ」(J・J・エイブラムズ)の予約特典DVDに採用されたのは、「なおこのテープは自動的に消滅する。成功を祈る」を諳んじている、ぼくのような、昔の「スパイ大作戦」ファンには、ヒットだったかもしれないが。
ドキュメンタリーの建築
渋谷Q-AXシネマのオープニングでかかった「マイ・アーキテクト」(ナサニエル・カーン)、単館、しかもレイトショー。これは見逃すと二度と機会がないかもしれない。そんな思いで、みにいった建築家ルイス・カーンのドキュメンタリー。意外にも、この作品は8か月後にはDVDになって、レンタルにも並んだ。注意してみると、他にも建築家ドキュメンタリーが立て続けにでていることがわかった。
「ミース・ファン・デル・ローエ」(ジョゼフ・ヒレル)2005年12月
「フランク・ロイド・ライト」(ケン・バーンズ、リン・ノヴィック)2004年11月
「オスカー・ニーマイヤー」(マルク・アンリ・ワジンベルグ)2003年9月
人気なのだろうか。建築作品を愛でるなら、写真集でいい。建築は動かない。建築作品がおもしろいからといって、建築家の人生がおもしろいかどうかはわからない。これらのドキュメンタリーをみる限りは、ルイス・カーンのみならず、どうも高名建築家には、ろくな家庭人はいないようすだ。でも、建築に限らず作品は作品、作者は作者、建築家の人生が家庭的であろうとなかろうと、おもしろかろうとなかろうと無関係。
しかし、そうはいかない人がいた。ルイス・カーンの息子ナサニエル・カーン、映画の中の説明を足すと、第二の愛人との間の息子だ。父親、建築家ルイス・カーンは何者だったのか、61歳も齢が離れ、生前接点が少なかったからこそ、知らずにはいられない父。その足跡を辿る旅に、ナサニエル・カーンは出る。
毀誉相半ばする家庭人の父、それらあまたの伝聞を圧倒するのが、目の前の建築。しゃべらない、動きもしないのに、これ以上の何がある、といわんばかりの存在感。しかし、ナサニエル・カーンは一方的に圧倒されてはいない。しゃべらず、動かない、でくのぼうキャストを、光、風、水を共演者にして、映像で圧倒しかえしにかかる。時間をかけた、周到な動画づくりは、「写真集でいい」なぞ暴言と決めてしまえる力を持っていた。
カリフォルニア州ラ・ホーヤ「ソーク生物学研究所」 広場の中央の水路、水が流れ落ちる向こうは太平洋。雲が次々と流れていく。細い水路が、溢れる陽光を、燃え尽きる落陽を映す。やがて沈み込んだ溝渠を左右の建物からの明かりがそっと包み込む。テキサス州フォートワース「キンベル美術館」 気だるげな光が樹々の影を建物に凭れかからせる。中にはいった瞬間に、光は弾け、第九の「歓びの歌」に変わる。アーチを駆け抜けた歌声は、水面をはね、トラバーチンの壁沿いに、空に解き放たれる。早回しで追う、時間の移ろい、光と影。建物はそれらを映すスクリーンのようだ。スクリーンから響くのは、素材がぶつかりあうアンサンブル。例えば、打放しコンクリートと木製パネル。例えば、トラバーチン(天然石材)と打放しコンクリート。なんという素材の組み合わせ。15年ほど前、ニューヨーク近代美術館で、ルイス・カーン展 ”In the Realm of Architecture” をみたときの記憶が蘇る。 最新のテクロノジーを全部並べた上で、引いて、引いて、絞り込んで最後に残った組み合わせが、古えから伝承されたもののように、響いてくる映像。
旅に出ることは簡単だ。父の足跡を探すことは、自分は何者か、何者をめざすのかを探すこと、と思いさだめればいいからだ。しかしこれだけの映像を撮るのはただごとではない。彼の熱情を支え、導いたのは、アメリカ吹奏楽団の船長の、カーンの息子と聞いたときの感極まった無言であったり、バングラデシュ国会議事堂の協働建築家の、「カーンは最貧国に民主主義を与えてくれた」というときの真っ赤に腫らした目であったりしたのだろう。が、これらに出くわすことは、旅に出る前にわかっていたことではあるまい。
何が導いたのか。映画で引用されたルイス・カーンの言葉は、息子への予告だ。「芸術作品は、歩いたり走ったりする生き物ではない。だが、生命として人に働きかける」 ナサニエル・カーンはドキュメンタリー映画で、この予告をリレーする。
不人気? ルルーシュ
「男と女」(1966年)でも「白い恋人たち」(1968年)でもなく、「流れ者」(1970年)そして「冒険また冒険」(1972年)。中学生だったぼくの、クロード・ルルーシュとの出会いはこれ以上ないものだったかもしれない。30年たって「ルルーシュをみなおしたい」という思いに駆られたのは、この2作のせいだ。
いきこんだものの、ルルーシュは知名度のわりに、フィルモグラフィを辿るのが難儀になっていることがわかった。不人気ということだろうか。「流れ者」「冒険また冒険」ともに、日本語字幕版ではみることができない。1980年代以降、ルルーシュの日本で公開されなかった新作は4割近い。それでも今年、1962年の「行きずりの二人」から、2002年の「男と女のアナザーストーリー」まで、15作ほど辿ってみると、発見いっぱい、楽しい、人気不人気関係ない。
発見その1
クロード・ルルーシュときいただけで、特定の映像、音楽のイメージが想起され、訳なく照れくさくなる。クロード・ルルーシュ、フランシス・レイ。二人並べるとその効果、いやまさる。二人は今もってコンビで映画をとっているようだ。(「愛する勇気」2005年) 二人の60年代は終わらない。たぶんそんな揶揄もされながら、第一線を走っている。
今改めてみて、ルルーシュの映像のマジックは色褪せていない。「白い恋人たち」では、雪の中を「犬は喜び、庭駆け回り」といった映像でさえ、フランシス・レイの音楽にのせてしまえば、かけがえのない思い出、のようなニュアンスとなってくる。オリンピックの非日常、スポーツの感動をルルーシュは描かない。むしろ、生活と隣り合わせのような、雪や氷、光と影ばかりをスケッチする。競技のハイライトが、文明が行き着いた退屈しのぎのようにみえ、逆に、競技の合間合間の待ち設けや語らいが、自分だけの密やかな思い出のようにみえる。誰も気にも留めない、自分だけの小さな経験がかけがえのないものにみえる。ここがマジックだ。
発見その2
そのマジックで貫かれたのが「男と女」。ルルーシュは「男と女」が大好きだ。オリジナルをどう越えるかなどそっちのけ、リメイク「続・男と女」(1977年)をとり、続篇「男と女Ⅱ」(1986年)をとる。これだけではない。あっけにとられるほど脈絡ない、自作の引用。「男と女の詩」(1973年)では、リノ・ヴァンチュラが刑務所の中の映画上映会でみる映画は「男と女」、「二人のロベール」(1978年)では、結婚パーティーで参加者が突然合唱をはじめる「男の女」のテーマ。「男と女のアナザーストーリー」(2002年)でもホテルのロビーで歌われる。「男と女Ⅱ」では前作の映像クリップ、総出演だ。大出世作に寄りかかろうというようなレベルを超えて出没する「男と女」。 頓着しない不思議は、過去の素材の使いまわしにも表れている。「男と女のアナザーストーリー」はその集大成のようだ。空想と現実が綯い交ぜになる中で登場する宝飾店泥棒の変装老人は、「男と女の詩」と同じもの。記憶喪失どおしの男と女の出会いは「ヴィバラビィ」(1984年) 遠回りの出会いは、「マイ・ラブ」(1974年) 「しあわせ」(1998年)でもくりかえされたルルーシュ十八番。同じストーリーや同じ道具立てが臆面もなくくりかえし登場する、30年に及ぶ同工異曲に、求道的なものを感じてしまうほどだ。
発見その3
みる者の、かけがえのない刹那刹那を紡ぐ映像のマジックの一方で、ルルーシュはくりかえし大河ドラマを描く。「マイ・ラブ」では、人が出会う、その一瞬のために、なんと三代にわたる人生が積み重なる。男は、戦争孤児のこそ泥から成り上がった映像作家、一方女は一代で財をなしたユダヤ人の娘、新大陸に新しい何かを求め、パリからニューヨークへ。 まったく接点のなかった男女が出会うであろう飛行機の離陸。 描かれるのは、出会いの場面そのものではなく、男と女がそれぞれチェックインのためにカウンターにもちこんだスーツケース。偶然の、同型色違いだ。2つのスーツケースは、ベルトコンベアの上を機内に向けて、寄り添うように流れていく。思わず降参、のエンディング。
かけがえのない刹那とは途方もない時間とのひきかえなのか。三代とひきかえにできる一瞬というものを確信しているというより、三代にしても一瞬にしても時間でいえば長い短いの違いだけ、むしろ、出会いや運命の不確かさをこういうエンディングに凝縮しているようにもみえる。不確かさを突き詰めるために、同じストーリーや同じ道具立て、頓着しない。そんな態度のようにも思えてくる。
人生という不確かを、時間の短い長いで描く。ルルーシュが求める道というものがあるとすればこのあたりだろうか。
ジョン・”ブルート”・ブルータスキー、再び
新入生に話しかけられて小用したままの振り返り、ブルートの登場だ。ビール缶の額潰し、女子寮覗きの梯子横っ飛びの、大技小技。樽型体躯から予想できないすばしこさ、小躍り、忍者走り。大学のカフェテリアでは、残飯の中からゴルフボールを拾って食う。食いかけを元に戻す。吐き出す。パレードをぶっ潰す魂胆で、示し合わせた突撃タイム、彼の時計だけは関係ない時刻を指している。が、狂いなく海賊となって、突撃する。頭はついているが頭脳というものの存在を感じさせない。「アニマルハウス」(ジョン・ランディス)で、ジョン・ベルーシ演じたジョン・”ブルート”・ブルータスキー。
「サタデー・ナイト・ライブ」をテレビでみることのなかった映画ファンからすると、ジョン・ベルーシは、「アニマルハウス」で登場して、猛スピードで駆け抜けて、数作、勝手にいなくなってしまった印象だ。なんだか、ぼくらの大学入学から卒業までの同じ時期、となりの大学の「デルタ・ハウス」にいた変なやつ。ジョン・ベルーシの尋常ではない駆け抜けぶり、1978年から4年間、全部で7作だ。
「アニマルハウス」(ジョン・ランディス) 1978年
「ゴーイング・サウス」(ジャック・ニコルソン) 1978年 未公開
「オールドボーイフレンズ」(ジョーン・テュークスベリー) 1979年 未公開
「1941」(スティーヴン・スパルバーグ)1979年
「ブルース・ブラザース」(ジョン・ランディス)1980年
「Oh!ベルーシ絶体絶命」(マイケル・アプテッド) 1981年
「ネイバーズ」(ジョン・G・アヴィルドセン)1981年
この翌年の3月5日に薬物中毒死。3日遅れ、日本の新聞でぼくが知ったとき、死因は不明と報じられていた。33歳。
ジョン・ベルーシには、しゃべっているという印象がまるでない。喚いているか、歌っているか。彼に台詞はあったのか。「Oh!ベルーシ絶体絶命」の動物学者と恋に落ちる新聞記者、「ネイバーズ」でダン・エイクロイドとキャシー・モリアティのお隣さんに翻弄される親父。これら、ジョン・ベルーシでなければならなかったとは思えない役に、台詞はあったかもしれないが、ジョン・ベルーシはしゃべらない。何かいいたいときは、頭でビンを割って見せたり、ジャック・ダニエルをラッパのみしたり、「トーガ!トーガ!」と叫んだりするだけだ。
ジョン・ベルーシは、永遠にブルートのまま、間違っても、ジェームズ・ディーンやリバー・フェニックスのような、夭折のハリウッドスターの系譜には決して並ばない。並ぶとしたら、しゃべることのなかったコメディスター、ハーポ・マルクスやバスター・キートンの横だ。
「アニマルハウス」のエンディングで、優等生フラタニティ「オメガ・ハウス」と「デルタ・ハウス」の連中の15年後が、キャプションされる。「デルタ」の連中も、医者、弁護士、編集長とか立派になっているのがおかしい。オチは、「ジョン・”ブルート”ブルータスキー上院議員夫妻」だ。この映画、二度劇場でみたが、二度とも、キャプションが出るや館内どっと沸いた。こんな野郎が上院議員になったりする世の中ならば、それは、おもしろい。
「アララトの聖母」の藪の中
アトム・エゴヤンは、何が真実か、でひっぱる。「スウィート・ヒアアフター」もそうだった。「エキゾチカ」 「フェリシアの旅」 そして最新作「秘密のかけら」も変わらない。「秘密のかけら」では、ルームサービス女性の死の真実。殺人を疑われる往年のエンタテイナーと、それを暴こうとして知らず知らず、殺された女の踏み跡を辿るジャーナリスト。異なる、それぞれの「真実」がめまぐるしく眼前に立ち上がる。黒澤明「羅生門」で国際的に知られた、芥川龍之介「藪の中」そのもの。真実は永遠に藪の中だ。
そうだとしても、伝えずにいられない真実、「アララトの聖母」は、そんな使命感でつくられたのだろうか。「アルメニア大虐殺」はあったのか、歴史上の真実の争点を、アルメニア人の父の抹殺はあったのか、パーソナルな真実の争点と重ねる。そして、父親の真実を求めたトルコへの旅の帰り、麻薬運搬の嫌疑がかかった未現像フィルムの缶の中身。何が真実か、がひしめきあう。このひしめきあいに注がれる作り手の目は、何が真実かより、何が真実であったとしても変わらない、人間の業のようなものに向けられているようすだ。真実が「それぎり永久に、中有の闇へ沈んでしまった」(芥川龍之介「藪の中」)としても、逃れがたいもの。小説の作り手と、同じ目だ。
あとがき
戦前邦画の能天気、「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博) テーマソング「僕はおしゃれな殿様」ディック・ミネ。貧しい時代を明るく生きる心根へのまじめなまなざしと、「僕はおしゃれな殿様」が同居する。モノクロであったはずなのに色鮮やかさが残像となる、日傘の花、花、花。 時代劇オペレッタ、そんなジャンルがあることを知らなかったぼくに、今年新装開店、渋谷ユーロスペースからの素敵なプレゼント。
今年のカウント、封切4本、「マイ・アーキテクト」、「クラッシュ」(ポール・ハギス)、「ククーシュカ」(アレキサンドル・ロゴシュキン)、「麦の穂をゆらす風」(ケン・ローチ)、全部で108本。
2005年
意表をつくキャスティングは、楽しみのひとつ。今年は、曲者のキャスティングで裏をかかれた。「バットマン・ビギンズ」(クリストファー・ノーラン) 汚職はびこるゴッサムシティで、汚職に手を染めないが告発する正義感もない、並な警官。 バットマン(クリスチャン・べ―ル)の目にたまたまとまり、ヒーロー仕事をおっかなびっくり手伝うはめになる。これをやるのは、曲者ゲイリー・オールドマン。「ライフ・アクアティック」(ウェス・アンダーソン)では、海洋映像作家スティーヴ(ビル・マーレイ)のクルー、ドイツ人エンジニア、クランツを、曲者ウィレム・デフォー。小心者のくせしてピストル持って襲撃にいくところでは、スティーヴの後ろを子どものように嬉々としてついていく。別になくてもいいくらいの脇役、ウィレム・デフォーがやるから楽しい。
曲者俳優は数多いる。例えば、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・スペイダー、ジョン・タトゥーロ。 並べただけで厭なくらいに曲者な彼らに、知られざるフツウの役回りがある。ドナルド・サザーランドは「キャッシュ・マン」(ハーバート・ロス)のブライアン、ジェームズ・スペイダーは「トゥルー・カラーズ」(ハーバート・ロス)のティム、ジョン・タトゥーロは「想い出の微笑」(ダイアン・キートン)のシド。フツウが変にみえる、肩すかしキャスティング。
「テイラー・オブ・パナマ」(ジョン・ブアマン)は、定石を逆手にとったキャスティングの成功作。007まがいと見せかけて、まじめにブラックな社会派映画。「007まがい」にあえて、5代目ジェームズ・ボンド、ピアース・ブロスナンをあてて、リスク覚悟で裏をかく、高等手段。
フランク・キャプラのガーディアン・エンジェル
キャプラ映画のヒロインたち。目の前の自分など眼中にない男に、うっとり、ぽっとなるところ、お決まりは、台詞なしの大クロースアップ。女心も知らないで、といいたくてもいえない、「プラチナ・ブロンド」のロレッタ・ヤング、「其の夜の真心」のマーナ・ロイ。 こんなヒロイン像は、「或る夜の出来事」のクローデット・コルベールで過去のものになってしまった。ここぞのクロースアップは相変わらずではあるが、ヒロインは乱暴者に進化する。
大金持ちの父親によって船に閉じ込められたお嬢様、クローデット・コルベールのエリー、テーブルを星一徹さながらぶちまけて、デッキから海に見事ダイブ、逃亡する。深窓のフラッパーぶり。「群衆」では、バーバラ・スタンウィックが逆上する。クビを言い渡された記者のアン、編集長室を出るや、ゴミ箱を蹴飛ばす。それでもおさまらず編集長室のドアのガラスをぶち割る。とんだ乱暴者だ。「素晴らしき哉、人生!」では、ちょっとそんなことしそうにないドナ・リードのメアリーも、逆上する。自宅にジェームズ・スチュワートのジョージを招き入れたのに、その心に気づかない彼に立腹、かけていたレコード、叩き割り。 楽しい楽しい。
今年、未見だった戦後作「波も涙も暖かい」をみて、キャプラの力はこんなではなかったはずと、1930年代40年代、代表作を何年かぶりのぶっつづけ。その時代に高く掲げられたものはやはり今も輝きを失っていなかった。脇役に至るまでの人物造形の巧みさにも改めて気づかされた。乱暴者ヒロインだけではない。例えば、キャプラのつくる主人公を、そっと見守る存在。 「素晴らしき哉、人生!」の絶体絶命のピンチでは、ついに2級天使クラレンスが降臨、ジョージの命を救ってベルを一回鳴らすが、クラレンスにお出ましいただくまでもなく、身近で見守ってくれる人の存在が、キャプラの理想主義の守護天使になっている。
代表は、「スミス都へ行く」のハリー・ケアリーの上院議長。厳格に議事進行を守りながらも、新人議員スミス(ジェームズ・スチュアート)が知恵をつけて、他の議員に発言を譲らなかったり、退席議員を招集したり、大演説長期戦に備えポットを取り出したり、そのたびに、ほくそえむ。中立公正、厳格な議長として、そんな顔をみられてはいかんとそのたびに、頤をさすったり、顔をなでまわす。とうとうスミスの正義が証明されて大騒ぎの議場、槌をたたき「Order, gentlemen!」と声をあげながらも、最後、満足げに、Orderなんてどうでもいいやとばかり、槌をほおりだす。こういう脇役、キャプラ映画になくてはならない。同じく「スミス都へ行く」では、政治の圧力をかけられて、御用記事を並べる新聞に対して、CBSのラジオアナウンサーは感情を抑え抑え、議会のスミスの真実を伝え続ける。「スミス」の議長の原型は、「我が家の楽園」の判事(ハリー・ダヴェンポート)にある。治安妨害と無許可花火製造の廉で、罰金刑となったバンダーホフ(ライオネル・バリモア)。一家にはそんな金はない。傍聴席で募金が始まる大騒ぎに、「Order!Order!」と制止しかけて、「いや、やめなくていい」と粋な計らい、最後には自分のポケットマネーまで投げ入れる。こんな大人がいるかと思うと、勇気がもりもり湧いてくる、ぼくももう大人なのだけれど。 「或る夜の出来事」の編集長ジョー・ゴードン(チャールズ・C・ウィルソン)もそうだ。 映画の冒頭、クラーク・ゲーブルの記者ピーターを電話で馘にするが編集長だ。 クライマックス、エリーにプロポーズするために金をつくろうと、「アンドリュー家令嬢逃避行の顛末」スクープをもちこんだピーターだが、エリーと行き違い、結果、世紀のスクープはガセネタになってしまう。怒った編集長、原稿をゴミ箱にたたきこむ。騙せなかったとワルぶってみせる、実は傷心のピーター。そんなピーターに「のみにでもいってこい」とポケットに札をねじ込むのもまた、この編集長だ。実は編集長、一度はゴミ箱にたたきこんだ原稿を、自ら拾い上げていたのだ。原稿を読む場面は描かれていないが、彼はそこからちゃんと、真実とそこでのピーターの気持ちを読み取っていたのだろう。
いつも、どこかでちゃんと見ている人がいる。そんなガーディアン・エンジェルを示しながら、キャプラは理想主義を、高く掲げ続けた。移民としてアメリカにやってきたキャプラにとって、自由の国アメリカは、そうでなければないほど、そうでなくてはならない存在だったのではなかろうか。大恐慌、戦争という時代を背景に、必ずしも現実はそうではないからこその、願いにも似た理想主義だったのかもしれない。そしてそれがキャプラを、戦中、戦争宣伝映画に向かわせていったようにもみえる。(1943年 「The Nazis Strike」 「Divide and Conquer」 「The Battle of Britain」 「Prelude to War」 「The Battle of Russia」、1944年 「The Battle of China」 「Tunisian Victory」 「毒薬と老嬢」をはさんで、1945年 「Your Job in Germany」 「Know your Enemy:Japan」 「Two Down and One to Go」 「War Comes to America」)
そんなフランク・キャプラ自身に、ガーディアン・エンジェルはいなかったのだろうか。入隊、戦争宣伝映画に没頭する前の最後の作、「群衆」には、キャプラ自身を代弁するような人物が出てくる。 「The New Bulletin」紙の編集長ヘンリー・キャネル(ジェームズ・グリーソン)だ。 バーバラ・スタンウィックの記者アンに自室の窓を割られた彼だが、アンのスクープ捏造の話にのって、ジョン・ドー(ゲイリー・クーパー)を担ぎ出すことになる。しかし、黒幕D・B・ノートン(毎度の黒幕役!エドワード・アーノルド)の策略を知り、ジョン・ドークラブが政治利用されようとするのをみていられず、自身の立場が危うくなるのも省みず、コンベンション前のジョン・ドーに告げる。バーで酔っ払ってジョン・ドーに語り続けるキャネル、「俺には急所がある。それはこの国だ」 I’m a sucker for this country. I’m a sucker for the STAR SPANGLED BANNER. I like what we got here! I like it! A guy can say what he wants and do what he wants――without having a bayonet shoved through his belly. しかしキャネルは、ジョン・ドーのガーディアン・エンジェルにも、アンのガーディアン・エンジェルにもなりきれなかった。そんな「なりきれない」不安な気持ちをキャプラはどこか持ち続けていたのではないだろうか。
名作のDVD化が進む中、昨年、キャプラの1928年サイレント作「陽気な踊り子」がDVD化された。よくもこんなDVDがでたものだ。いったい誰が見つけてきたのだろう。発掘、修復、権利関係の対応、よくぞ世にだしてくれた。キャプラというだけでうれしがる、ぼくのような人間が世界中にいるからだろうか。ロバート・リスキン脚本の饒舌な台詞まわしはないけれど、ちゃんとキャプラ映画になっていて、後年の「オペラ・ハット」の味わいがあった。
半世紀以上経った今も、フランク・キャプラは、ぼくら一人一人にガーディアン・エンジェルの存在を感じさせ、勇気づけ続けている。中には「陽気な踊り子」をうれしがったりする者もいる。きっと映画人にもたくさんいるのだろう。 「ミラクル/奇蹟」(1984年 ジャッキー・チェン) 「未来は今」(1994年 ジョエル・コーエン) 「あなたに降る夢」(1994年アンドリュー・バーグマン) 「Mr.ディーズ」(2002年 スティーヴン・ブリル) リメイクや翻案、引用が、高く掲げるものがみえにくい今日も続いている。キャプラにはガーディアン・エンジェルはいなかったのかもしれないが、今ではキャプラ自身が特級天使にでもなっていて、クラレンスが一回鳴らしたベルを、何回も何回も鳴らし続けている。
近未来の見立て
1972年の「惑星ソラリス」(アンドレイ・タルコフスキー)が東京とすれば、2003年の「コード46」(マイケル・ウィンターボトム)は上海・浦東。近未来の舞台として選ばれる都市は、時代とともに変わる。20年後には、ムンバイかリオデジャネイロかもしれない。
大掛かりなセットやCGで、どんな未来でもまことしやかに描ける今、上海・浦東に近未来をみる。輝かしい未来観が失われてからは、未来の舞台は実在の都市のリアリティが似つかわしいのだろうか。SF映画というジャンルは、「CQ」(2001年 ローマン・コッポラ)のように、カルトSF黄金期への、オマージュやカリカチュアの対象とするものとしてしか残りにくいのかもしれない。
「バーバレラ」(1967年 ロジェ・ヴァディム)や「ミクロの決死圏」(1966年 リチャード・フライシャー)などが続いたカルトSF黄金期、その時代に、ジャン・リュック・ゴダールは「アルファヴィル」(1965年)で、フランソワ・トリュフォーは「華氏451」(1966年)で、「悲しき近未来」をみていた。 ヨーロッパの普通の町を、近未来に見立てる。大掛かりなセットやCGを駆使したハリウッド映画に慣れた目には斬新。 例えば「カプリコン1」(1977年 ピーター・ハイアムズ)で、火星着陸すら地球上のセットで信じ込まされることを知っている目には、近未来、見立ての手法はおもしろい。
「アルファヴィル」、高度管理社会の中枢は、インターナショナルスタイルのビルとその中のメインフレームコンピュータ。当時の先端モダンをあてているだけかもしれない。その40年後を知る者として、磁気テープが回るようすを「フューチャー・レトロ」な景色とみることはできるが、からくりはわからないけれど確かに動いている機械の存在感、今も半端なく迫ってくる。先端モダンだからすぐ陳腐になることなど計算できただろう。計算の上で、ホンモノ機械がもつ不気味さを採ったのではないだろうか。
見立てとは受け手のイマジネーションへの挑戦だ。それらしいかどうかは、作り手ではなく、受け手が決めるからだ。いろいろな近未来が描きえた1960年代、人類がいよいよこれから月着陸しようという時代に、こんな挑戦があったこと、ジェーン・フォンダやラクエル・ウェルチの思い出だけでなく、記憶にとどめておこう。
今年、シアターイメージフォーラムのリバイバルで、さらに10年近く遡ったチェコスロバキアで、それらしさへの挑戦していたカレル・ゼマンをみた。「ほら男爵の冒険」でも「悪魔の発明」でも、アニメと実写の合成一本槍で、月面も、巨大魚の腹の中も、イスタンブールも、同じように描いてしまう。イスタンブールならロケができるかも、という発想さえ禁じ手、それであるかどうかより、それらしくみえるかどうかへの挑戦に、拍手だ。
輝かしい未来、「日本万国博覧会」
輝かしい未来はあったのか。その答えは、公式記録映画「日本万国博覧会」(谷口千吉)にある。今年、日本での35年ぶり万国博覧会、愛知万博に合わせたのだろう、初めてのソフト化DVD化だ。
開会式、作業服のおっさんが隅っこでそっと涙を拭うシーンに目がとまる。ぼくの父親の世代だ。今も昔も、どんな場でも、苦労の末の到達を確認する場というのはあるにちがいない。でも、全国民的にひとときに、ひとところで、という機会は、少なくとも日本ではこのとき以来ないのかもしれない。ハレの場のみが切り取られているドキュメンタリー映像は、裏側のドラマが封印されている分だけ、一人ひとりの、それぞれ理由の異なる気持ちの高まりが、所以なく伝わってくる。これを今、大人の目で、輝かしい未来というのであれば確かにそうだ。
35年前、万博を訪れた小学4年生のぼくにとって、そこは視界の果てまで続く輝かしい未来の窓だった。科学技術の進歩が人類をシアワセにすることにいささかの疑問もなかった。アメリカ館に2時間並び、月の石をみ、アポロをみ、ソ連館でソユーズをみ、誰もが宇宙に行ける時代がすぐそこに来ていると思った。サンヨー館では、全自動の風呂があって、近い将来、機械が体を洗ってくれて楽ちんになると思った。結局、未来はそうならなかった。でも、ぼくは、ぼくらは、前の世代が覗かせた、視界の果てまで続く輝かしい未来の続きを、次世代に垣間見させることができているだろうか。ぼくの息子はちょうど今年、小学4年生。そしてぼくは35年前の父親の年齢になっている。
ふしぎの国、日本
洋画の中の日本や日本人をみるのはおもしろい。「ライジング・サン」(1993年 フィリップ・カウフマン)の、ジャパンマネーの台頭とその裏表の不可解不気味な日本人像。「ラスト・サムライ」(2003年 エドワード・ズウィック)の「サムライ」像や「ブラック・レイン」(1989年 リドリー・スコット)や「キル・ビル」(2003年 クエンティン・タランティーノ)の「ヤクザ」像。これらから、日本映画の影響を推し量るのは楽しいが、日本人からみると、現代日本を海外からの来客はどうみるのか、観光客のような視点のほうが実はずっと楽しい。「東京画」(1985年 ヴィム・ヴェンダース)は、小津安二郎の影響力の大きさに改めて気づかされる作だが、かたや、パチンコ、ゴルフ打ちっぱなし、レストランのメニュー模型、といった日本のありふれた日常を、見つめ続けるところがおもしろい。確かに日本にしかないものかもしれない、と気づかされる。パチンコ、ゴルフ打ちっぱなしは、「ブラック・レイン」でも取り上げられていた。「MON-ZEN」(1999年 ドーリス・デリエ)では、スクランブル交差点と、携帯電話でそれぞれが話をしている人の群れに不思議の目を向けていた。中には、「東京画」でクリップされた、電車の改札口のパーカッションのような切符切りのように、今の日本では見られない日本の光景もある。自動改札しか知らない世代の日本人には、外国のように不思議な光景かもしれない。「日本万国博覧会」でも、外国のパビリオンのコンパニオン(ホスト、ホステス)にサインをねだる子どもたちの姿。知らない世代がみれば、どこの国の不思議な風習であろうかと思うかもしれない。やっていたぼくも少し恥ずかしい。
戦後を知らない世代のぼくからすると、その時代の日本は不思議だらけ。「煙突の見える場所」(1955年 五所平之助) 登場人物は、なぜ石鹸を貸し借りするのか。そもそも、キャンプでもないのに、朝起きて屋外で顔を洗うのはなぜか。食べ終えた魚にお湯を注いで飲むのはおいしいのか。
あとがき
コーエン兄弟が不調だ。「デイボース・ショー」「レディーキラーズ」 キレがない。毒がない。ジョージ・クルーニー、トム・ハンクスもいいけれど、もっといかがわしい曲者役者を並べないとだめではないか。スティーヴ・ブシェーミをだせ。ジョン・ポリトをだせ。ジョン・タトゥーロをだせ。コーエン作品の出場回数ベスト、ジョエル・コーエン夫人フランシス・マクドーマンドを除くとこの3人だ。これを思い出せ。がんばれ、コーエン兄弟
今年は全部で84作、封切は「ダブリン、上等!」(ジョン・クローリー) 「ミリオン・ダラー・ベイビー」(クリント・イーストウッド)の2作という、ぼくもがんばらないと。
「珈琲時光」(ホウ・シェオシエン)、昨年から期待していて、公開が待ち遠しかった。何も起こらない日常だけを掬う。それなのに、この時代、この国のこの町、を共有している気持ちにさせる。何の変哲もないのに、かけがえなく思える、ひととき、ひととき。日本の不思議、東京の不思議を、エキゾチズムとしてでなく、どこの国どこの町にもある日常の不思議として描こうとしているからだろうか。ふだんぼくたちが目や耳をとめることのない情景たち。忙しくどこに向かうのか、でもぶつかりもせず整然と走り抜ける、御茶ノ水の鉄道の交差。山手線、地下鉄丸の内線、都営新宿線、……どこまで続くのかこのアナウンスは、と思わせる、電車内、新宿の乗り換え案内。(小津安二郎へのトリビュートは、小津が好んで撮った、東京の電車だ、きっと) 小津映画にでてきそうな父親(小林稔侍)、だるまのようにすわりこんで、娘(一青窈)に何かいおうとしているが、いわない。日本酒を借りてきてのみはじめ、とうとう何かいおうとする。でも、いわない。なにかおこりそうで、おこらない。なにもおこらないところで、きもちだけが行き来する。それだけの映画なのに、なぜかしら元気がもこもこ湧いてくる。
「ビッグ・フィッシュ」 ファンタジーの勝ち
ティム・バートン、照れなく衒いなく、ファンタジーをホームドラマにしてみせた。父のほら話がそのまま映像になって繰りひろげられる。大時代のビザールさ、「そんなわけない」お伽噺の人生だ。ティム・バートンのおもちゃ箱から、でてくる、でてくる。 死に方をガラスの目玉に映すという魔女。大男。誰もが裸足の町。狼男のサーカス団長。シャム双生児の歌手。元詩人で突然銀行強盗でなぜかウォールストリートのブローカー。
ティム・バートンをB級フリーク・カルト系、みたいに分類するのは容易だ。きっと失礼にもあたるまい。魑魅魍魎を登場させるだけで自らわくわくしている、子ども状態。しかし、B級へのオマージュだけではないこと、10年以上前、「シザーハンズ」からしっかり示してきている。いわゆる「B級映画」を被り物にしながらの普遍のドラマ。「ビッグフィッシュ」ではそれに再び向き合ったようだ。照れや衒いを打ちやって。
父の何よりもの、自慢のほら話、「どうしても釣り上げられないビッグフィッシュ、とうとう仕留めたのは、リングの餌」 出来過ぎのオハナシに鼻白んでいた息子は、父の死を前にして、ほら話では父の真実はわからない、と、父の「真実」探しをはじめる。
みえかけた「真実」に、今際のきわ、蓋をしたのも息子だった。ナースコールという現実の解決に、手を伸ばしかけながらも選択せず、自らファンタジーのステージに立ち、魔女の目玉に映った「ぴっくりする死に方」を実現するべく、ビッグ・フィッシュを語りすぎてビッグフィッシュそのものになってしまった父を川に帰す。父の死。ファンジーはファンタジー、現実は現実という映画のエンディングに、ほら話の中にしかいないはずの住人たちを、現実の人間たちとして見事集わせる。 話に花が咲く、その声は聞こえなくても、身振り手振りで、ほら話とわかる。そのへんの「真実」よりもずっとずっと大切な。ティム・バートン、ファンタジーの勝利の瞬間だ。
「丹下左膳餘話 百萬両の壺」
申し訳ないことに、ちょんまげ、ちゃんばら、不得手な部類で、座頭市でも鞍馬天狗でも清水次郎長でも眠狂四郎でも、名前は知っていても物語は知らぬ。でも、気になるタイトルもあった。十数年前、自主上映会でみそこね、みる機会をなくしたままのちゃんばら映画たち、「血闘高田馬場」(マキノ正博、稲垣浩)、「血槍富士」(内田吐夢)、「赤西蠣太」(伊丹万作)、そして、「丹下左膳餘話 百萬両の壺」(山中貞雄)。 今日、レンタル店にもそんな「ちゃんばらコーナー」はない。増村保造や川島雄三はリバイバルされても、ちゃんばらはそうもいかないらしい。
三鷹市芸術文化センターの1月の上映会は、”戦前・戦後の名匠たち 第1回山中貞雄特集「丹下左膳餘話 百萬両の壺」「人情紙風船」”。会場は年配の人で満席。 ぼくは、ぱらぱらといた外国人を除いては会場最年少ではないか。周りがちゃんばらごっこをやり抜いてきたツワモノぞろいのように感じられた。外国人たちもタダモノではあるまい。日本人のぼくが、タイトルの日本語の横書が右から左にでてきたところで不覚をとり、本編がはじまってからは日本語のヒアリングできなくて面目をなくしていたのに、何の字幕もなしで笑ったりしている。隣に座った外国人が、「身供は……」とか話しかけてきたらどうしよう、と思ったりしていた。会場のリーフレットで、山中貞雄日活作品集DVD-BOXのリリース、リメイク版「丹下左膳 百万両の壺」(津田豊滋)の制作と半年後の公開のことを知った。山中貞雄、生誕百年といった節目でもなく、幻のフィルム発見というようなニュースがあるわけでもない。ちゃんばらブームか。いや、その気配もない。突然の山中貞雄、リバイバルだ。
半年後、ぼくはちゃんと、恵比寿ガーデンシネマ「丹下左膳 百万両の壺」に来ていた。いまだ、ちゃんばらブームもおこらず、山中貞雄再評価のうねりも特別におこらないけれど、山中貞雄のリメイクなのであればみてみるか、といった見巧者が足を運んでいるようす。そういう観客が上映期間をなんとか先へ先へ延ばしていたよう。ぼくは、この半年の間、みそこねていた映画を、俄かちゃんばらファンになって追いかけていた。封切上映に間に合った。
俄かちゃんばらファンは大変だ。そもそも言葉がわからない。山中貞雄現存3作中のもうひとつ「河内山宗俊」 封切時のキャッチは、「お數寄屋坊主の宗俊が宮の使いと僞って出雲守の上屋敷へ」だ。これで血湧き肉躍る人はきっとすばらしい。お數寄屋坊主とはどんな坊主か、宮とは誰のことか、上屋敷とは何の屋敷か、よくわからないままぼくはビデオで楽しんだが、よくわかる人はもっと楽しんだかもしれない。俄かちゃんばらファンは弱ったもの、「身供は……」といわれても、それが第一人称複数か、第二人称単数か、迷って動揺するレベル、恵比寿ガーデンシネマに山中作のリメイクと知って来ている人たちとは年季の入りかたがちがう。しかし、「丹下左膳餘話 百萬両の壺」は、主人公の隻眼隻手の理由など知らなくとも、血湧き肉躍らせることができる。
丹下左膳は異形の者。世間から打ち捨てられている。 たいしたことはやっていない。そんなアンチヒーロー、みてくれに不釣合いに人情深い。ただ、いざという時は剣の腕は半端でない。目の前の金の工面にじたばたするけれど、百万両なんぞには関心がない。どうも、いざというときがあまりやってこない丹下左膳、この異形の浪士を、人情物の真ん中にもってくるというコンセプトで、勝負ありだ。シリーズ物としてつくられた「丹下左膳」をみることは今やなかなかできないが、例えば、1958年「丹下左膳」(松田定次)は、同じ「百万両の壺」を材としていても、大友柳太郎の左膳が、ヒーローであることを予め約束されている存在。 勧善懲悪、溜飲をさげるだけでおわってしまう。多くのヒーローちゃんばら物でくりかえされてきたパターン。テレビ時代劇からはいってしまった世代からすると、ちゃんばら、ワンパターン、というすりこみに、いつのまにかつながった。それに辟易、名前は知っていても物語は知らぬ状態になってしまったのだろう。
しかし、俄かちゃんばらファンになって、「赤西蠣太」(1936年) 「血闘高田馬場」(1937年) といった1930年代ちゃんばら映画にふれて、「丹下左膳餘話 百萬両の壺」(1935年)だけが、ちゃんばら、奇跡の快作であったわけではないこと、この時代のちゃんばら映画のレベルの高さを知った。「赤西蠣太」、ショパンの「雨だれ」をバックに、垂直俯瞰のカメラを横切る蛇目傘、猫が屋敷にかけこんで、物語が始まる。クライマックスのモブシークェンスは、歌舞伎の躍動美をこれまた俯瞰で。「シェルブールの雨傘」(ジャック・ドゥミー 1964年)や「ウェストサイド物語」(ロバート・ワイズ 1961年)より30年近く前に、これだけモダンな映画が日本にあったことに、ぼくは度肝を抜かれた。おまけに、謀反を企て、歌舞伎ばりの殺陣の中心で息絶える原田甲斐役は、田舎侍赤西蠣太役と同じ片岡千恵蔵の一人二役だ。 時代物、世話物、一作でニ作分のようなキャスティングの企み。「血闘高田馬場」にしても、殺陣を歌舞伎、そしてダンスにみたてる流麗さ。ちょんまげだから、ちゃんばらだから、というような予断を許さない。
コンセプト勝負の「丹下左膳餘話 百萬両の壺」、まずは丹下左膳、隻眼隻手のみてくれで圧倒する。「あんた、出番だよ」の合図で、矢場の用心棒の登場だ。片腕しかないので、下緒を銜えるや刀を抜いて、狼藉者を追い出す仁王立ち。後ほど源三郎の道場破りで、化け物呼ばわりされる所以。みてくれだけでないことをみせつけるのは、ちょび安の仇を討つ場面、「安坊、目つぶってな、目をつぶって、十数えるんだ」 予告どおりの十数える間、そこだけだ。登場した左膳は、お藤とともに、言葉裏腹な、人のよさをまるだしにし続ける。「こんな汚い子にご飯を食べさせるなんて」と吐き捨てた次の場面で、お藤は、ちょび安にご飯を食べさせている。「寺子屋なんてだめだ、道場だ」と言い張る左膳、次の場面では寺子屋での手習いを喜んでいる。「竹馬なんて」といった次には、ちょび安の竹馬を手伝うお藤。これでもか、という繰り返し。子育てとはなれたかけ離れた印象を、次々と裏切っていく左膳、お藤の掛け合い、人情物の到達だ。
この越え難い高みは、津田豊滋版を、忠実な再現に向かわせたのだろう。衣装を中心とした美術に、リメイクでつくる個性への意志は強く感じられたが、山中作を知るからこその、無理を戒める謙虚が全体を覆っている。これなら見巧者たちからも文句は出にくいだろう。むしろ、無謀の手前で踏みとどまった、勇気ある挑戦だったのかもしれない。
百万両の壺よりも、矢場遊びができればそれでよし、の左膳と源三郎、というところで「丹下左膳餘話 百萬両の壺」は幕引きとなる。百万両で齷齪するより自由気まま、といった大様は、きな臭さ漂いはじめていたであろう1935年という時代に、どんなメッセージをもっていただろうか。ちゃんばら映画は不穏当を回避する、その器だったかもしれない。
エンディング、三鷹市芸術文化センターの会場は、拍手喝采に沸きあがった。山中貞雄が前に出て挨拶でもするかのように、いつまでも鳴り止まない。
「エデンより彼方に」の様式美
トッド・ヘインズは、いきなり、50年代ハリウッド映画様式美にぼくらを連れ去る。紅葉に包まれた郊外の町、駅舎と広場、そこで、画面いっぱいの「Far From Heaven」のタイトルだ。 カメラはさらに時計台の装飾を手前に、ツートーンカラーのワゴンが滑り込むのをとらえる。車から降り立った女性は緑のコートにオレンジのスカーフ。モノクロでこれを表現できるか、という気持ちのこもった、怒涛の色彩、天然を上回る天然色。
50年代を精緻に再現するような映画は数多あるが、50年代ハリウッド映画を様式美として再現しようというものはなかった。タイトルを画面いっぱいに出されてはじめて、そうそう、この時代のハリウッド映画はこうだった、と頷かされる。甘美きわまるストリングス、ここぞとばかりのシンバル。 目からも耳からも押し寄せる。それだけではない、人物造型も様式だ。豊かさゆえに、人たるものこうあるべき、を一身に引き受け続けているような人物、「いまどき、こんな人間いるもんか」と、自らの規範意識や倫理観を棚に上げて野次をとばしたくなる人物、続々と登場してくる。
ウェスタン、ミュージカル、ハードボイルド、SF、こうしたジャンルや特定の名作に対して、パロディにしたり、オマージュを捧げたり、という映画は山ほどあるが、「エデンより彼方に」は、誰もがこれという、フォーカスされる括りがあるようにもみえない、50年代ハリウッド映画の類型を再現することそのものに、狙いさだめているようにみえる。パロディでもオマージュでもなく、擬古様式の再現そのものが目的だから、映画のテーマである、差別や偏見の壁、成就しない熱情といったものさえ、様式再現の道具立てのひとつにすぎないようにみえるのだ。
みながら、この映画には実は1950年半ばのオリジナル版があるのではないか、と空想がめばえ、気持ちが50年代に飛んだ。
「いまどき、こんな人間いるもんか」系ヒロインの、ジュリアン・ムーアのキャシー役は、1955年オリジナルでは、迷いなくジェニファー・ジョーンズ。なにかに縛られ身もだえしながらも、想いを貫こうとするヒロインというと、1953年「終着駅」(ヴィットリオ・デ・シーカ)でモンゴメリー・クリフトとの間の悲恋を演じた、彼女しかいない。彼女から無言で立ち去っていく黒人レイモンド役(デニス・ヘイスバート)は、シドニー・ポワチエだ。「暴力教室」(リチャード・ブルックス)でデビューしたてではあるが、当代、他に考えにくい。難しいのは、キャシーの夫フランク役(デニス・クエイド)。申し分ない夫であり父である顔と、誰にもいえない秘密、心の翳を持つ男の顔と、両面を演じる男優。ここは、「第十七捕虜収容所」「麗しいサブリナ」とビリー・ワイルダー作で躍進中、ウィリアム・ホールデンをキャスティングしよう。キャシーの友達あたりの役として、「いまどき、こんな人間いるもんか」では、ジェニファー・ジョーンズに引けをとらないテレサ・ライトで、脇を固めておく。監督は、「波止場」(1954年)で社会派として地位を確立したエリア・カザンでどうか。音楽は、感情の盛り上げ、下げの増幅で定評あるディミトリ・ティオムキンで手堅く、という手もあるが、ここは新進のエルマー・バーンスティンを抜擢する。
空想は調子に乗って、後日談のオチに向かう。
そうしてできた1955年オリジナル「エデンより彼方に」 この成功により、同年、ジェニファー・ジョーンズとウィリアム・ホールデンコンビによる「慕情」(ヘンリー・キング)がつくられた。エリア・カザンがこの作と並行して撮った「エデンの東」が大ヒットしたため、日本公開が前後してしまった「Far From Heaven」は、「エデンの東」にあやかって、「エデンより彼方に」という邦題になった。また、この作で声価を定めたエルマー・バーンスティンは、映画音楽の第一人者となって、半世紀後のリメイク版「エデンより彼方に」で再び、音楽を担当する。また、…
空想の暴走をとめてくれたのは、DVDのSpecial Feature。「エデンより彼方に」には、本当に1950年代オリジナル版といえるものがあるらしい。(ダグラス・サーク All That Heaven Allows) みる機会が仮にあったとしてもみるまでもあるまい。50年代様式美の再現を、60年代も70年代も知った上で狙ったトッド・ヘインズ作以上に、50年代らしい、ということは考えにくい。
いまどきの、神の視座
「パッション」(メル・ギブソン)が注目を集めたのは、キリスト史劇がさっぱりつくられなくなった時代の、「なぜ今」のせいだろうか。例えば「奇跡」を大仕掛けで映像化というものは、とうに陳腐化してしまっていて、成功しにくいテーマ。しかし、欧米のクリスチャニティは、史劇でなくても映画の底にそこかしこ流れている。
映画の中では、普通の人が、イエス・キリストになっていく。「グリーン・マイル」(フランク・ダラボン)では無辜の死刑囚、「ぼくの神様」(ユーレク・ボコヤヴィッチ)ではイエス・キリストごっこをしていた子ども、「ことの終わり」(ニール・ジョーダン)では愛人の生と引き換えに自らの幸せを擲った人妻、「奇跡の海」(ラース・フォン・トリアー)では夫のために非業の死を遂げる妻。自らを投げ出して代償を求めない、みえないもの、手にとることができないものを信じる、そんな状態からひょっくり、そうなっていく。そして、静かに奇跡が起こる。
「奇跡の海」のラストで、天上の鐘を高らかに鳴らすことで、人間の業とその救いを、神の視座に求めて描いたラース・フォン・トリアー、新作「ドッグヴィル」では、神の視座から、辛辣な目を向けた。極端に抽象化した舞台で、人間は神から試され、欲を克服できず、殲滅させられる。みているほうが辟易するほどの人間の業、どこに救いがあるのか。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でもそうであったように、安直な救いを、ラース・フォン・トリアーは拒んでいるようにみえる。「パッション」の救い難さと共通の、難儀な時代に、ぼくたちは今いるのかもしれない。
あとがき
今年は、「珈琲時光」「ビッグ・フィッシュ」「丹下左膳 百万両の壺」ほか、「グッバイ、レーニン!」(ヴォルフガング・ベッカー)「みなさん、さよなら」(ドゥニー・アルカン)「エレファント」(ガス・ヴァン・サント)「華氏911」(マイケル・ムーア) の公開作含め146作、暇なのか、うちこんでいるのか、いや、生活習慣病みたいなもの? 生活習慣を改めて、第8回の開催をしたいと思います。
2003年
今年は、小津安二郎生誕100年ということで、NHK衛星でまとまった放映がされたり、イベントが組まれたりしたようだ。12月に行われたシンポジウムには、アッバス・キアロスタミ、ホウ・シャオシエンらが集まったとのこと。日本映画の伝統が持つ影響力だ。ほぼそれと同じ時期、たまたまある業界のセミナーに出席していたぼくは、セミナーの最後、日本を代表する映画監督の突然の登場に驚いた。新作の支援を募るためのスピーチがあった。高い志で製作、配給の仕組みを変えていこうとしていることが伝わってきたが、それは、海外にも影響を及ぼしうる日本映画が今置かれている環境の裏返しなのだろう。ふだんからのほほんと出来上がったものしかみていないもので舞台裏のプロセスなど思い及ぶこともないが、志を綴った「企画書」と題された文書を手にすると、映画もビジネスの枠組みの埒外ではないこと、改めて思う。
今年ものほほん、111作。封切に足を運んだのは「ボウリング・フォー・コロンバイン」(マイケル・ムーア) 「シカゴ」(ロブ・マーシャル)。マーケットにおける「のほほん」セグメントは、ビジネス的にはやはり重視するに値しない。
15年後の「ベルリン・天使の詩」
「ベルリン・天使の詩」(1987年 ヴィム・ヴェンダース)が、日本のミニシアターで記録的なロングランをしたのは、ベルリンの壁崩壊の前年、88年のこと。たしか「ベル天」といいかたまであった。その年、シャンテシネでみたときは、例えば紐育や桑港を古めかしく思う世代のぼくにも、ベルリンは伯林という字面ほどの遠さがあった。かつての栄華、分断の悲劇、歴史の積み重なりが、この映画の中でことさら強調されることはないのに、寒々とした街並みには何が降り積もっているのだろう、と強く惹きつけられた。
15年前には途方もなく遠かったベルリンに、この夏ぼくはとうとう手繰り寄せられた。ベルリンを舞台にした「ラン・ローラ・ラン」(トム・ティクバ)について、主人公が走り抜ける場所、「オーバーバウム橋Oberbaumbruckeは、ワルシャワ通り駅Warschauer Str.近くのシュプレー川にかかる橋」(JALと”地球の歩き方”のサイト「JAL V@CANCE」より) といった情報が、日本にいながらざくざくはいってくる距離感。ベルリンのWEB地図で場所にあたりをつけてWEBでホテルを予約。成田を出発したその日の夕方には、かつての壁のもとにぼくは立った。15年はあっけないほどベルリンを近くした。
「ベルリン・天使の詩」でヴェンダースは、空間を自由に移動できる天使には意味を持たない壁、人間にとってはどうにも超えられない壁を水平におき、かたや、天使と人という越えがたい世界を垂直にしつらえている。人間であること、それは例えば、他の人の心がわからないこと、コーヒーの熱さや傷の痛みがあること、それを選んだ瞬間に天使は二軸の交点を越え、モノクロームの自由からカラーの不自由に堕ちてくる。落下点は、人間にとってはどちら側であるかが大変なことである、壁の緩衝地帯だった。
そこにどんな悲劇が降り積もっているのか、ぼくはせいぜい、ベルリンの壁を題材にした映画、例えば「ベルリンは夜」(アンソニー・ペイジ)や「トンネル」(ローランド・ズゾ・リヒター)といったものからしか知ることができない。しかし、どれだけのものが降り積もっているとしても、それを踏み越え、湧きあがるもの、それが映画が終わっても残響する。選択をした堕天使がホントはそこかしこに数多いて、その中の一人がピーター・フォークであったりする。響きやまない素敵な空想。
残響を持って訪れた2003年のベルリン。この映画が撮られた時の、廃墟にも似た寒々とした街並みの印象を呼び起こすものはなかった。映画にも登場する、大戦の傷跡のままのカイザーヴィルヘルム教会やアンハルター旧駅舎は、打ち捨てられたものというより保存されている遺跡、かえって時の流れを感じさせた。戦前の繁栄ぶりからの変わりようを、映画の中の老人が嘆いたポツダム広場は、現代ドイツを象徴する、最先端の場所になっている。天使たちが羽を休め、人の心の声に耳を塞いだ国立図書館も、光に満ち、活気に溢れていた。そして記録的といわれた猛暑。 ブランデンブルグ門の前では、SARS、イラク、今年の世界の話題から無関係に、2006年ワールドカップサッカーのモニュメントの工事が進み、目抜き通りのウンター・デン・リンデンにはオープンカフェが並ぶ。ピーター・フォークがコーヒーで暖をとっていたスタンドIMBISSで、ぼくは滞在中、ビールばかり飲んでいた。15年間頭の中にあった、寒々とした街並みの伯林はBECK’Sの泡とともに、そっと封印された。
「憂鬱な楽園」のやれやれ
「悲情城市」(89年)以来、ホウ・シャオシエンに惹かれている。台湾のヴァナキュラに軸足を置きながら、置くからこその、地域性を越えた情感を際立たせてきた。アジアからヨーロッパから、お国ぶりとともに出立しても、アメリカでの成功に走る映像作家の例が少なくない中、台湾に立った映画をつくり続けてほしいもの。
「憂鬱な楽園」は、自伝的な4部作のあとにつくられた96年作だが、ストーリーテリングから距離を置いた、自伝的な雰囲気の作。ホウ・シャオシエンの手にかかると、不完全燃焼、未達成、不如意といった、大人、子どもの区別ない、生きていく上での「つきもの」が、なぜかしらかけがえのないものにみえてくる。「憂鬱な楽園」ではガオ(ホウ映画常連ガオ・ジェ)、鶴田浩二のようにかっこいいヤクザなのに、飲みすぎてゲロ吐いたり、とっつかまったり、ひたぶるに情けない。上海で一旗上げたいが、女についてアメリカに行くのは躊躇われる。トラブルメーカーの弟分ピィエンにふりまわされっぱなし。夜明けまで運転し続けたガオとピィエンの車が、居眠り運転でもしたのか、のろのろと道をはずれて田圃に突っ込むロングショットで、この映画は終わる。こんなやれやれみたいな場面を、こんなに美しく撮れる監督はいない。
ホウ作品を特徴づける固定カメラ、長回し。カメラが動いてその向こうにいけばみえるものを、みようとしない。居眠りしそうな退屈すれすれに、みえるものもあればみえないものもある、そう思い定めて撮っているかのようだ。そういうカメラの中に、ささくれだち、ひりつくような痛みをともなう危うさと、少年の夏休みが永遠に終わらないかのような抒情が、同居する世界。今年みた新作(といっても01年作)「ミレニアム・マンボ」でも、真冬の夕張ロケで雪降る国の人間には気づけないような、抒情的なシーンを用意したホウ・シャオシエン、次作「珈琲時光」の公開が待ち遠しい。「好男好女」(95年)で主人公の部屋のテレビに「晩春」(小津安二郎)の自転車乗りのシーンをちらり映すような、小津ファン、ホウ・シャオシエンが、どんな日本を、どんな日本人を撮るのだろうか。
リバイバル、ジャック・タチのキャスティング
89年のリバイバルも六本木だった。シネヴィヴァン。今回は、できたての六本木ヒルズ、ヴァージンシネマズ六本木のアートスクリーン。WEBで席を事前予約できる最新システム。 昨年、ぼくは勝手に盛り上がって、海外取り寄せビデオでリバイバルしてしまってはいたものの、スクリーンでみることはできないだろうと思っていた「左側に気をつけろ」や「郵便配達の学校」をみることができて、それはそれはうれしかった。上映に合わせた関連書籍やCD発刊、「フェスティバル」らしい盛り上がり。「ジャック・タチの映画的宇宙」(エスクァイアマガジンジャパン)や「ジャック・タチ映画の研究ノート」(ミシェル・シオン著 愛育社)が読めて、うれしかった。
みかえすなかで、「のんき大将」で乗り手もなく走っていく自転車、「ぼくの伯父さん」の工場で、膨らみ続けるホース、「プレイタイム」でロータリに数珠繋ぎになる車、などなど、改めてタチの、人物以外のキャスティングの妙を思ったが、就中、登場人物並みに、あるいはそれ以上に重要な役割を担っているのが建物だ。
「ぼくの伯父さん」における、アルペル氏のモダンな住宅と、ユロ伯父さんの住む下町のアパート。2つの建物は二人の対照的な人物のようにキャスティングされている。「ぼくの伯父さん」が公開された1958年というと、建築の歴史では、機能と伴走してきたモダニズムがピークを迎えた時期。 機能主義を満たすだけの技術が進んだことで、アルペル邸のようなインターナショナルスタイルが隆盛だったのだろう。いっぽうのユロの古ぼけたアパートは、増改築を繰り返したのか、ドアにたどり着くのに、階段を上ったと思ったらまた下って上ったりという、機能性とは対極の住処だ。もう一方の対極にあるはずのアルペル邸、庭の敷石パスにもったいがつけられていて、客人を迎えるのに、アルペル夫人は、あさっての方向を向きながら両手をひろげ歩み寄りながら歓迎する。こういうところにタチのキャスティングの妙がある。便利なはずのモダン住宅、どうも窮屈にみえてしかたない。夫婦がテレビをみるときの椅子も、なんだかエッグスタンドのようで座り心地がよろしくなさそうだし、ラウンド型の長椅子は、横倒しにしてユロが眠りこけるのにちょうどいい形だったりする。それでも、夫妻のご満悦が滲み出ている。「ぼくの伯父さん」のキャスティングは対置、古き良きものと現代的なものを対比させながら、どちらかというと、そこに関わる人の相変わらず具合に光があてられているようすだ。
次作「プレイタイム」でタチは、ガラスのカーテンウォールの典型的モダニズムビルをキャスティングする。「ボリューム、規則性、装飾忌避」のインターナショナルスタイル3原則(H・R・ヒッチコック、フィリップ・ジョンソン)どおりのビルだ。冒頭の空港ビルは典型的なユニバーサルスペース、そこがオフィスビルか病院かわからないくらい周到にユニバーサルに描かれる。降り立ったアメリカからの観光客は「あら、アメリカと同じよ」。旅行会社に貼られた観光ポスターでは、ロンドンもメキシコも同じビル群。無個性で美しいビルたちはこの映画の主役なのだ。
登場人物の相変わらず具合は、レストランロイヤルガーデンの酔っ払いたちや、アメリカ人観光客のバーバラにスカーフを贈ってSomeone gave this to me といわれてしまうユロに現れてはいるが、キャスティングの中心は都市空間。ユロそっくりさんがしばしば登場し人違いをおこし続けるのも、ユロというキャラクタさえ、三次元の軸に沿って動く点の一つ、空間の一部となっているからだろう。「ぼくの伯父さん」の次作としてみるときに戸惑わせるのは、揶揄の対象となっていたモダニズムが、対比もなくそれだけが唯一無二に描かれているからではないか。
1967年というと、インターナショナルスタイルの名のもとに、世界中の都市が争って均質化されていった時期であるとともに、科学技術が約束するものや機能主義の反動から、ポストモダンが芽吹いていた時期だ。建物をキャスティングの中心におき、セットでしか実現しえない無個性なビルたちだけの街の、現実離れした美しさを撮りとどめた点で、この映画はこの時代だからこそのモダニズムのモニュメントとなっている。
思い出し笑いの場面場面
◆007シリーズを10作以上続けざまにみると、頭の中がゆるんできて、一切の批判的精神からフリーになれるきもちよさ。東側の美人チェリストとともに雪山を逃げる逃げる、持っていたチェロケースを橇にして、ストラディバリウスのチェロを抱えて滑る滑る、しかし、国境ゲートが行く手を阻む、ゲート下をくぐり抜けようにもチェロが邪魔だ、と思った瞬間、ジェームズ・ボンド(ティモシー・ダルトン)はひょいとチェロを放り上げ、ゲートをくぐって、はいキャッチ、まんまと追っ手を置き去り。 「リビング・デイライツ」(ジョン・グレン) すばらしい。ねじ、ゆるゆる。
◆「ラッキー・ナンバー」(ノーラ・エフロン)で発見、映画の中の「オズの魔法使」。変装のわるだくみ相談、「Strawguyは?」とリサ・クードロー、ティム・ロスが「Strawman」と言い直すや、ジョン・トラボルタが、「それはScarecrowだ……Dorothy, Lion, Tinman, Toto, Scarecrow からかうなら間違えるな!」「どうせ漫画じゃない」「漫画じゃない、映画だ」 どっちもどっち、どっちでもいいことにムキになる、こっちまで伝染しそうな、あっぱれ、馬鹿映画。 「アフター・アワーズ」(マーティン・スコセッシ)では、ロザンナ・アークエット演ずる謎の女の夫。 シネマディクトの彼が忘我の境地で脈絡なく叫ぶ、「Surrender, Dorothy!」 なんじゃこりゃ。でもこの台詞、ドリュー・バリモアによる「オズの魔法使」続編映画のタイトルになっているらしい。
映画の中のシネマディクトたち 「クライム&ダイヤモンド」
B級なタイトル、監督クリス・バー・ヴェルって誰? でも、作り手の映画好きがほとばしる一作。シネマディクトたちは、映画好きの登場人物をつくりだし、映画の話題で盛り上げ、台詞を引用し、場面を再現し、キャストをひっぱりだす。そこでは楽屋落ちのリスクなど一瞥もされない。
1.話題で意気投合
「アウト・オブ・サイト」(スティーヴン・ソダーバーグ)では、対決するはずのFBI捜査官(ジェニファー・ロペス)と脱獄囚(ジョージ・クルーニー)が、「どうせ死ぬなら、クライドのように」という台詞きっかけに「俺たちに明日はない」(アーサー・ペン) フェイ・ダナウェイつながりで 「ネットワーク」(シドニー・ルメット) 「コンドル」(シドニー・ポラック)と話が弾む。 「ルル・オン・ザ・ブリッジ」(ポール・オースター)では、仲良しになったりすることを想像しにくい、ウィレム・デフォーとハーヴェイ・カイテルが、「雨に唄えば」(ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン)の話で盛り上がる。 「ラッキー・ブレイク」(ピーター・カッタネオ)では、ミュージカル好きの刑務所長(クリストファー・プラマー)と服役囚が、「南太平洋」(ジョシュア・ローガン)などの話から、服役囚によるミュージカル上演へ話が発展する。
2.人物再登場。
リメイク物ならではパターン、「ケープ・フィアー」(マーティン・スコセッシ)では、「恐怖の岬」(J・リー・トンプソン)の3人組、グレゴリー・ペック、ロバート・ミッチャム、マーチン・バルサムが勢ぞろい。パトリス・ル・コントは「ハーフ・ア・チャンス」で、アラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドを「ボルサリーノ」(ジャック・ドレー)以来の二枚看板担ぎ出し。ちゃんとクロード・ボランのテーマ曲も流れるし、フィリップ・ド・プロカの「男」シリーズでのベルモンドのアクションをからかう台詞もある。
3.抗原抗体反応
「アリゾナ・ドリーム」(エミール・クストリッツァ)のヴィンセント・ギャロは、映画の登場人物なりきり男。誰がみているきいている関係なし、「レイジング・ブル」(マーティン・スコセッシ) 「ゴッドファーザーPartⅡ」(フランシス・フォード・コッポラ) 「北北西に進路をとれ」(アルフレッド・ヒッチコック) やり放題。
4.好きこそものの
「ゲット・ショーティ」(バリー・ソネンフェルド)のラス(ジョン・トラボルタ)、映画プロデューサーのところに遣わされる取立屋だったのに、「黒い罠」(オーソン・ウェルズ)や「リオ・ブラボー」(ハワード・ホークス)の台詞を諳んずる映画好き、借金取立ついで、そのままプロデューサーに。この役はハーヴェイ・カイテルに、とかいう思いつきから、ホントに本人を引っ張り出してしまう。 脚本家の思いつき、タイトルバックにはフランク・シナトラの歌、そこにディートリッヒが歩いてくる、といった思いつきを片っ端から映像にする「パリで一緒に」(リチャード・クワイン)に匹敵する快感だ。 「クライム&ダイヤモンド」では殺し屋Critical Jim(ティム・アレン)。自分のプロフェッションもそっちのけで、ドラマの完成、命。成し遂げ、若い二人の門出を見届け満足した彼は、街灯にひょいと飛び乗る。かぶさる“Singing in the rain” ジーン・ケリーなりきり。 引用は他にも次から次への11作。「脱出」(ジョン・ブアマン)「ティファニーで朝食を」(ブレイク・エドワーズ)「大脱走」(ジョン・スタージェス)「レベッカ」(アルフレッド・ヒッチコック)「深夜の告白」(ビリー・ワイルダー)「ラスト・シューテイスト」(ドン・シーゲル)「天国から来たチャンピオン」(バック・ヘンリー)「愛と追憶の日々」(ジェームズ・L・ブルックス)「マルタの鷹」(ジョン・ヒューストン)「サンセット大通り」(ビリー・ワイルダー)「特攻大作戦」(ロバート・アルドリッチ) こっちも力が入ってきて、しまった、みてないのがある、という気になってしまう。
あとがき
久しぶりにみた「明日に向って撃て」(ジョージ・ロイ・ヒル)。初めてみたときに声もでないほど感動した15歳の自分、あれはいったい何者だったのか。 そんな関心で映画をみなおすことが増えていませんか。逆光の中のようによくみえないですが。第8回目「映画千夜一夜」の実現、来年こそ。
2002年
ワウの効いた、ちゃかぽこギター、すかさずブラスが絡みつく。暴れまわるベースライン。そこへ流麗なストリングスが被さる。音楽、ラロ・シフリン、ちゃかぽこちゃかぽこ、もりあがる。「セント・アイブズ」(J・リー・トンプソン 76)のタイトルバック。70年代の幸せ。ラロ・シフリンは70年代だけ活躍していたわけではないのに、不思議、70年代フラッシュバックの、即効の特効薬だ。
70年代に現を抜かしているくらいだから、家から徒歩3分のところにシネコンがあっても、あいかわらず封切には縁遠く、「みんなのしあわせ」(アレックス・デ・ラ・イグレシア) 「シャンプー台の向こうに」(パディ・ブレスナック) 「息子の部屋」(ナンニ・モレッティ) 「バーバー」(ジョエル・コーエン) 「鬼が来た」(チアン・ウェン) 「8人の女たち」(フランソワ・オゾン) 「キス・キス・バン・バン」(スチュワート・サッグ) と、チョイスにも脈絡なし。
「のんき大将 脱線の巻」
ジャック・タチの評伝「タチ “ぼくの伯父さん”ジャック・タチの真実」(マルク・トンデ)の翻訳が出版された。(国書刊行会) おそらく日本で初めての、タチの本格的評伝ではないか。映画人の評伝にありがちな、バックステージものではなく、作品論でしっかり組み立てられている。
タチは、「ぼくの伯父さん」(58)に代表されるように、ユロ氏という傑作キャラクターを生み出した。その一方でキャラクターの魅力による映画から遠ざかろうとする。「ぼくの伯父さん」の成功のあと撮った「プレイタイム」(67)では、ユロ氏のキャラクターを立てず、同じいでたちで異なる機能を与えてみせた。ユロ氏への恬淡さは、「プレイタイム」に始まったものでなく、「ぼくの伯父さんの休暇」(53)でも「ぼくの伯父さん」でも、エンディングで繰り返されてきたことだ。この評伝を読めば、「キャラクターからの訣別」を読みとることは、ごく自然なタチ理解とわかる。「ぼくの伯父さん」以降、ユロ氏を、他の監督作に出演させようとしたり、「プレイタイム」の中でも、似非ユロ氏を再三登場させたりしていること自体が、一連の「訣別」への流れになっているようだ。また、その源は、最初の長編作「のんき大将 脱線の巻」(原題訳「祭りの日」 49)に遡るらしい。8年前のリバイバル、新宿武蔵野館でみたときには気づかなかった「キャラクターからの訣別」の流れを、「のんき大将」 さらに初監督作の短編「郵便配達の学校」(47) まで遡って確認したくなった。
日本語版では、ビデオ、DVD、LD、いずれも流通していない。「プレイタイム」のときのように、ウェブで英語字幕版をあたるが、「のんき大将 脱線の巻」英語字幕版はない。困った。みつかったのは中古、「WEST COAST VIDEO」というアメリカのレンタル店の、「WEEKLY RENTAL 7 DAY- 6 NIGHT RENTAL」というシールが貼られたままのもの。「郵便配達の学校」も大変。「TATI SHORTS」という短編3作が収められた英語字幕版ビデオが、イギリスのCONNOISSEUR VIDEOというところから出ていることがわかり、amazon.co.ukで購入。しかし、イギリスのPAL方式のビデオは日本では再生できない。またウェブで変換専門店をみつけ変換、ようやくみることができた。
「のんき大将」 8年ぶりの大笑い。郵便配達人フランソワが、村にメリーゴーランドとともにやってきたシネマ小屋で、初めて目にするアメリカ式郵便配達。最初は確かにそれらしいニュース映像だが、落下傘部隊やバイク曲乗り、そしてボディビルデイング大会と続く映像に、ナレーションは郵便配達のアメリカンメソッドと興奮気味。マルクス兄弟の「我輩はカモである」(レオ・マッケリー)の戦争援軍映像と同類の、その辺から拾ってきた映像クリップ。しかし、酔っ払いフランソワは、真に受けてアメリカ式猛烈配達を実践しはじめる。猛烈配達映像のほとんどは、実はその前の短編「郵便配達の学校」で用意されていたもの。「郵便配達の学校」のスラプスティックにフランソワというキャラクターを与えたのもこの作なら、そのキャラクターを封印したのもこの作である。
猛烈配達人フランソワは、川にもんどりうって落ちたあげく、何事もなかったように、元の農作業に戻る。いつの間にか、彼の帽子とかばんを身につけた子どもがスキップして次の村に向かっている。誰もフランソワなど意に介していないかのようにカメラは一瞥もしない。「ぼく伯父さん」のエンディング、空港に向かったユロに見向きもしないのと同じだ。 「タチ “ぼくの伯父さん”ジャック・タチの真実」によると、「いわく、『郵便配達人、結婚す』 『郵便配達人、大臣に』 『郵便配達人、アメリカへ』 ……」「同じ時期に、銀幕では主人公が大成功を収め、企画がひっきりなしに持ちこまれていた」時期に、今後の予定を取材にきた記者に対してタチは、「フランソワは、おしまいです。次の作では別の人物が主人公になるはずです」ときっぱり伝えたという。訣別は、そのときからのさだめであったようだ。
都へ行ったか、スミスたち
映画の手練れをみたい。ビリー・ワイルダー、アルフレッド・ヒッチコックときて、今年のチョイスはちょっとスペシャル、フランク・キャプラ 「スミス都へ行く」
最初にみたのはちょうど20年前。NHK教育でかかったのを、大学4年生だったぼくらは、たまたまあちらこちらの下宿でみていた。当時、テレビを持っているやつは限られていて、テレビで映画がかかると、時間になるとそこへ勝手に集まってきたり、下宿の主がいなければ勝手に入ってみたり、女友達が来ていた場合は仕方ないのでテレビを借りて、同じアパートの別の友人の部屋に勝手にテレビを担ぎこんでみたり、だいたいそういうようになっていた。
「スミス」の日もぼくはいつものように友人の下宿に行ってみたのだが、ふだん映画の話などしない下宿の主も感動のあまり、円らな目をさらにまるくしてしまい、ぼくも帰りの自転車、ペダルを踏む足にかつてない力が溢れ、わけもなく全速力になって、どんな車でも追い抜いていった。円らな目の友人やぼくだけではない。後になって「みたか、みたか」と話題、下宿から飛び出して走り回ったやつ、大酒のんだやつ。 社会にでる前のぼくらは勝手に、これからスミスになって都へ行くかのような高揚した気分になった。
20年たっても、この映画の魔法は変わらない。ジーン・アーサーのクラリッサ・サンダースやハリー・ケリーの議長のような人間がそのへんにいるとは思っていないが、自転車3分間全速力くらいの元気はでる。また、20年にわたってみつづけていれば、以前には心に留まらなかったものが、残像をむすぶようになってきたりもする。 例えば、クロード・レインズのペイン議員、政界からスミスを葬り去ろうとするときの「手加減してやってくれ、いい青年なんだ」という台詞、板挟みになる苦さ。 例えば、ドライで大人にみえたサンダース、スミスを誘惑する、ペインの娘スーザンへの嫉妬心、存外な子どもっぽさ。
今年DVDで6回目をみた。策略にはまり打ちひしがれて故郷に逃げ帰ろうとするスミス。そこにサンダースが不意に現れ、説得して翻意させる、暗がりの場面。帽子を目深に被った彼女は表情もみえない。囁くような声だけが響くのを聞きながら、これは幻影ではないか、という気がした。スミスのもうひとつの気持ちが生んだ幻影。 サンダースや議長が全部幻であったとしても、たぶんぼくらはそれぞれの自転車のペダルを踏み続けなければならないから、そう感じたのかもしれない。
スミスを傀儡に立てた後、父親のフルネームを耳にした時に初めて、ペインはジェフ・スミスが亡き友の息子と気づく。ありふれた名前、スミス。その名の遍在が、この映画が「理想主義」の文脈だけで語られないことを、最初から約束しているにちがいない。
チョイ役ヘストン
チャールトン・ヘストンというと、最近は俳優としてより全米ライフル協会会長としての伝聞が多い。昨年リメイクされた「PLANET OF THE APES 猿の惑星」(ティム・バートン)でも、その肩書だからこその皮肉な役ということだろうか、猿の武闘派将軍の父親を、ノークレジットで演じて話題になったようだ。
オリジナルの「猿の惑星」(フランクリン・J・シャフナー)は、「パットン大戦車軍団」「パピヨン」などシャフナー作と同様、当時のテレビ映画番組の人気作で、よく放映されていた。ぼくも、テレビでみて仰天した沢山の子どものうちの一人だった。仰天の背景に、チャールトン・ヘストンに固定したイメージがあったのだろうと今改めて思う。「十戒」(セシル・B・デミル 57)や「ベンハー」(ウィリアム・ワイラー 59)をみてきたファンからすると、ヘストン演じる宇宙飛行士が猿に乱暴されるなんて、全人類の尊厳が痛めつけられるようなもの。今でも、リメイク作とはいえ、ヘストンが猿か? というくらいのものはある。
50年代、大スクリーンで見栄え一等賞のヘストン、デビューから「ベンハー」の頂点まで、人類尊厳代表の名に恥じない一直線。今みかえすと、そうである一方で、「地上最大のショウ」(セシル・B・デミル 52)に代表されるように、意固地、狷介、意思の人みたいな役柄に本領発揮があった。
ぼくが封切でみだした70年代、日本でも当時ヘストンはたいそうな人気男優で、芳賀書店「シネアルバム」シリーズ(どうやら90年代で絶版になったようだ) 男優では、アラン・ドロン、ジェームズ・ディーン、スティーヴ・マックィーン、ゲーリー・クーパー、ダスティン・ホフマン/ロバート・レッドフォード、ジュリアーノ・ジェンマ、クリント・イーストウッドに次いで9人目という人気ぶりだ。それにしても、ヘストンの「シネアルバム」、買うのはどんなファンなんだろう。中をみると、「チャールトン・ヘストン メモ」というページがあって、生年月日からはじまって、「親友=オーソン・ウェルズ ローレンス・オリヴィエ」「車=ジャガー4.2リッターのEタイプ(緑色)」「酒=スコッチ専門」とか書かれている。映画スターに関する情報が映画雑誌以外からはいらなかった時代だったろうが、こんな情報、だれが欲しがっていたのだろう。ついでに、このシリーズのサブタイトルはなかなかキャッチー、アラン・ドロンは「孤独と背徳のバラード」 ジェーン・フォンダは「美と闘争の神話」と、なんだか70年代がぐっとくる。偉大なるヘストンは「スペクタクルの輝ける勇者」だ。
偉大すぎて、60年代にはスクリーンからホントにはみ出してしまう。そして、70年代、大型映画の復活で「ハイジャック」(ジョン・ギラーミン 72) 「エアポート75」(ジャック・スマイト 74) 「大地震」(マーク・ロブソン 74) など、立て続け主役をはる。しかし、この年代では、リチャード・レスターの「三銃士」(73)「四銃士」(75)でのいじわる宰相リシュリュー役など、むしろ脇にまわったものに新たな個性の輝きがあった。つまり、60年代以降、たまさかの大スクリーン時代を少し挟むが、主役のヘストンはもう求められなくなっていたのだろう。
そのヘストンを最近ちょろちょろチョイ役で見かける。「ハムレット」(ケネス・ブラナー 96)の劇中劇の王の役とか、「トゥルーライズ」(ジェームズ・キャメロン 94)での政府諜報機関のアイパッチ偉いさんとか、「エニイ・ギブン・サンデイ」(オリヴァー・ストーン 99)のコミッショナー役とか、妙にそれらしい役でちょろちょろしている。往時であれば、ちょろちょろなどとは失敬千万な表現かもしれぬが、それらはちょろちょろというにふさわしい。おじいさんなのに、背筋がぴんとした巨躯。「エニイ・ギブン・サンデイ」のコミッショナーも、この人にNOといわれたら後がないと思わせるもの。でも、ちょっとだけの役。最近の出演作リストをみると、とても追いきれないちょろちょろだ。
なぜぼくは、オードリー・ヘプバーンでもブリジット・バルドーでもなく、「シネアルバム チャールトン・ヘストン」を買ったのだろうか。「ジャガー4.2リッターのEタイプ(緑色)」と知ってうれしかったのだろうか。変な中学生だ。さらにはファンレターをだして、サインいりブロマイドまでもらっている。 「ミッドウェイ」(ジャック・スマイト)のときのもの。滅多なことでは笑みなどをみせぬ、男が皆、苦みばしっていた時代の顔だ。仮に笑うことがあるとしても、目は笑わない。人類の尊厳を背負っているのだから当然のことだ。尊厳とか正義とかをひとりの役者が体現するような時代はもうない。だから、どんなにちょろちょろしていても、ヘストンは今も全人類代表なのだ。
ドットコム、映画の中のオズ
毎年恒例、映画の中のオズ。今年の気づき、まずは「ベティ・サイズモア」(ニール・ラビュート) カンザスというだけで、オズの予感。レニー・ゼルウィガーのベティが、カンザスの田舎を飛び出して入ったドライブインでの会話。 「私の世界はカンザスだけよ」 とぼやくベティに店の女主人 ”I should call you Dorothy” カンザスといえばドロシー。 「母の眠り」(カール・フランクリン) メリル・ストリープの母親、パーティの仮装は、赤いヒールのドロシー。それをみたレニー・ゼルウィガーの娘、”If I only have a brain, a heart, … “と歌いだす。母は”There’s no place like home”と受ける。幸せ一杯だったときの一家の象徴的な場面。 「A.I.」(スティーヴン・スピルバーグ)は設定そのものが、オズ。母を求めて三千里、母の居場所を知っているのは、Rouge CityのDr.Know。 これはおそらく、Emerald CityのThe Wizard of Oz のアナロジー。
こんなことを毎年書いていたら、オズの魔法使いのサイトをやっている人から突然のメール。“様々な映画に登場する「オズの魔法使い」”というページへの掲載の申入だった。http://w2.avis.ne.jp/~yoichi/marina/oz/cite.html
こんなニッチなことに打ち込んでいる人がいることなど考えもしなかったが、遭遇体験を集めていくという点で、これは確かにネット向き。逆にぼくが未見のものをそのサイトのリストでみてみることもできた。「17歳のカルテ」(ジェームズ・マンゴールド)はその一つ。アンビバレンス、例えば、病院の中にいたい、外に出たい、相反する感情を抱えて揺れる17歳。 精神科病院という特殊な境遇にある彼女たちと、どこにでもいる17歳とがつながっていることを描くのに、オズが効果的に使われている。
最初は、スザンナ(ウィノナ・ライダー)のルームメイトとの場面。 ルームメイトの愛読書がオズ、いい歳としてオズかという異なものの象徴として。そして、最後には、リビングのテレビ、映画「オズの魔法使い」を皆でみる場面、オズの終章近くをみて涙する。ここではないどこか、という考えを捨て、足元を見つめなおす決意の象徴として。ここで引用されたのが、“…and it‘s that if I ever go looking for my heart’s desire again,I won‘t look any further than my own backyard; because if it isn’t there, I never really lost it to begin with!“ というドロシーの台詞。「本当の自分探し、身近にないならどこにもない」。 オズの二つの側面、子ども向けの教訓めいたお伽噺の側面、自分探しの旅、探し物は自分の中にしかないことを知るという巣立ちの物語という側面が、映画の主題に沿うように引用されている。
思いだし笑いの場面場面
◆マット・ディロンはせっかくマーロン・ブランド再来ともいわれていたのに、最近の役柄は間抜けを専門としている。「ジュエルに気をつけろ」(ハラルド・ズワルト)では、母親土産のスノードームを後生大事にしているダメ男、やばいことに巻き込まれマシンガンで撃たれまくり、部屋が羽毛のスノードームになってしまう。スノードームといえば、「トゥルーライズ」でも、娘に即座にうち捨てられる出張スイス土産、西洋の、困ったもんだ土産の代表のよう。スノードームとマット・ディロン。
◆何度みても、キャシー・モリアティのやる気なさで笑える「マチネー」(ジョー・ダンテ) 劇中劇「MANT!」の中では、ジャネット・リーばりの恐怖シーン、ばかばかしいといいたげに厭々演技しているし、映画館の仕掛けとしての看護婦役もばかばかしいといいたげに厭々やっている。厭々美人女優ナンバーワン。
あとがき
今年116本目の「キス・キス・バン・バン」がちょうど通算2000作目。毎年そこそこみていてもアニュアルらしさに近づけず。その年の大ヒット作と世相とか書いてみようという殊勝な気持ちをもったこともあったのだが。こんな調子だと、将来のアニュアルを書きためることもできそう。そんなことより中断したままの第8回目実現をぜひ。
2001年
今年は人との出会いがあって、借り物で貴重な映画をみる機会に恵まれてありがたかった。ビリー・ワイルダーファンの方のおかげで、そのコレクションの中から、「少佐と少女」「地獄の英雄」といった珍品にもめぐり会えた。「少佐と少女」では、少女になりすました大人の女性を、ジンジャー・ロジャースが、ファニーに、そしてせつなく演じている。ワイルダーもお得意の「なりすまし」のドラマ性、シェイクスピアの昔から「ハムレット」でも「十二夜」でも表現されてきたもの。「少佐と少女」では設定は吹き出しものでも、心に届くものがあった。
今年は、大規模リバイバル「増村保造レトロスペクティブ」があり、代表作10作もみることができた。触発されて、十数年ぶりくらいにたくさん邦画をみた。(といっても今年みた135作中31作だが) 邦画は、原作に親しんでいたりすることがあるし、歴史的、文化的な背景も日本人だから理解ができるところもある。十数年前見逃して以来いつかは、と念じていた川島雄三「幕末太陽傳」を今年やっとみたときに、背景理解の違い、改めて感じた。「旦那、侍にしとくにはもったいないねえ」 石原裕次郎の高杉晋作に、フランキー堺の居残り佐平次が呟く、この台詞に込められたものを受けとめられるだけで、日本人でよかったと思う。かたや、邦画でできる背景理解が、普段よくみる外国映画ではきっと、全然できてないにちがいないと思った。今年みた中で、例えば「グリーンマイル」(フランク・ダラボン)の下敷が聖書であることには気づけるとしても、例えば「タイタス」(ジュリー・テイモア)の時空をこえた舞台設定、せいぜい、ローマ皇帝後継者選びの舞台に、ムッソリーニ時代のEURイタリア文明館が選ばれていたのが、ファシズムに似た恐慌政治の予兆としたメッセージか、というくらいで、大半の背景、うかがいしれないものがあった。
増村保造リバイバルにせっせと映画館に通ったものの、封切でみたものといえば、「キャラバン」(エリック・ヴァリ) 「テルミン」(スティーヴ・M・マーチン) 「オー・ブラザー!」(ジョエル・コーエン)だけ。でも、借り物ビデオで、ズルリーニをみたり、川島雄三をみたりできて、たいへん幸せな年だった。
日本人でよかった、「刺青」
増村保造「刺青」の美しさに酔えて、日本人でよかった。彫り上がった女郎蜘蛛の蠢く様、刺されてのたうつ様の鮮烈な映像のことだけではない。道行で通りかかった橋の上に舞う雪、お座敷帰り、置屋前の川の薄明かり、旗本の屋敷から逃げ込んだ藪、陰翳に富む場面の、次の刹那にはもうないかもしれない移ろいやすさ、そこはかとなさ。宮川一夫のカメラにすっかり酔ってしまった。
美しすぎるもの、何らかの代償、何らかの犠牲。日本文学の中でも繰り返されてきたモチーフである。男の亡骸、佇む女、その脇に咲く桜。徳兵衛の家で、若尾文子のお艶が無理矢理見せられる掛け軸の絵が、その象徴だ。美と死の接近は、新古今和歌集の時代から表現されてきたようだ。その時代の地獄絵に、この映画で示されたものと同じ意匠のものをみたことがある。(聖衆来迎寺「十界図」の中の「人道不浄相図」) そして近代、谷崎潤一郎が「刺青」で、「画面の中央に、若い女が桜の幹に身を寄せて、足下に累々と倒れている多くの男たちの屍骸を見つめて居る」と予告をし、梶井基次郎が、「櫻の樹の下には」で「櫻の樹の下には屍体が埋まっている」と透視し、三島由紀夫が「金閣寺」で、「つぎつぎと悲報が届いて来る戦争の暗い状態を餌にして、一そういきいきと輝いているよう」と想像した。
美と死の接近は日本独特のものだろうか。例えば、フランス象徴派詩人ボードレール「巴里の憂鬱」あたりに登場するモチーフではある。散文詩「射撃場と墓地と」に、「酔いどれの太陽は、腐肉のために肥えふとった華麗な花々の絨毯の上に、伸々と寝転がっている」(福永武彦訳)というような表現もあり、近代の日本の文学者たちに影響を与えたことも想像に難くない。しかし、注意して読み解けば、日本における美と死の接近は、キリスト教の背景をもつ西洋のそれとは異なるものに見えてくる。「生」が「神」とわかちがたくむすびついているドグマをもつ西洋とちがい、日本の場合は無常観が支配してきた、と考えることで、違いが理解できる気がする。美しいものが、代償や犠牲の上に成り立っているとしても、その美しいものも久しからず、はかなく運命づけられているということである。日本独特の美学というのがあるとすればこのあたりではないだろうか。お艶が次々と男を食い物にしてさらに美しくなっていく。そのお艶もはかない死を迎える。金閣寺にはやがて焼亡する運命、桜花には散るさだめが待っているように。
映画「刺青」が美しいのは、きっと、はかなさが鮮烈さと、何でもなくいっしょに並んでいるからだろう。橋の上の雪、川の薄明かりの移ろう美しさ、はかなさに抗うべく永遠の刻印のように彫られた刺青の美しさ、このふたつが、美しすぎるものが代償や犠牲を強いるとしても、ともに移ろいゆくもの、やがて消えゆくものとして描かれているからにちがいない。
ドキュメンタリの虚実
昨年見そこなっていた「ブエナ・ビスタ・ソーシャルクラブ」(ヴィム・ヴェンダース) 音楽映画としてだけでなくドキュメンタリとしても極上。撮る側、撮られる側両方の、音楽を愛してやまない気持ちが途切れることなく伝わってくる。再結成、そしてカーネギーホールでのコンサートまで、街中弾き語りとスタジオ録音の場面、音楽繋ぎ目なしの行き来で表現される、陽があたろうとあたるまいと関係なし、音楽が好きなだけ、けれんなしの一直線。ドキュメンタリだからこその爽快感だ。ジャンルは違うが、中国天安門広場式?青空英会話学校「クレイジー・イングリッシュ」(チャン・ユアン)にも共通する。作り手が登場するしないとは別、作り手の手つきをみせずに、映像のもつ膨大な情報量を味方にする、ドキュメンタリの王道だ。
それを逆手にとった傑作に、「金日成のパレード」(アンジェイ・フィディック)がある。北朝鮮の建国40周年記念式典に招待されたオフィシャルレポート、つまり、北朝鮮から許されたものだけで構成して国情を伝えたドキュメンタリだ。100万人一糸乱れぬ主体思想パレード、「敬愛する首領様 金日成同志」の誕生日や生地をそらんじる子どもたち。こういう映像だけで構成されることで、かえってその映像の向こうにあるものが透けるように浮かび上がってくる。このポーランド人監督は計算ずくで、忠実なレポータとしてパレードの美しさを伝えきった。
今年みた「テルミン」 製作から8年たっての公開に拍手したい珍品。「ブエナ・ビスタ・ソーシャルクラブ」と同様、忘れ去られていたものに再び光、過去との往還。世界最初の電子楽器テルミンだけでなく、リズミコンだの、テルミニクスだの、テルミンダンサーだの、大まじめにぞろぞろでてくるところ、最高潮。現代に直接つながっていないために忘れ去られるはずだった歴史が、何というかインカ文明発掘みたいに掘り返される、わくわくもののドキュメンタリ。しかし、途切れていた糸をつなぐフィニッシュのお膳立て、テルミン奏者クララ・ロックモアとテルミン博士の再会場面はそうはいかなかった。膨大な情報量の映像が嘘偽りなく伝えてしまったのは、再会の喜びというより、失われた時間、テルミン博士がKGBに拉致された、取り返しのつかない時間の酷さ。少なくともぼくにはそう感じられた。映画の惹句のようなロマンチックな再会とは違ったように思う。作り手の狙いとは別に、映像に語られてしまう、ドキュメンタリの特性がここにあるように改めて思った。
ドキュメンタリ王道ではないが、事実を浮かび上がらせる斬新な作り方を、ドキュメンタリ作家原一男が「全身小説家」でみせている。それは、フィクションとノンフィクションの入れ子構造ともいうべきものだ。小説家井上光晴、フィクションを生業とする者の時代の証言。それに作り事が混ざっていることがだんだん判明していく。文学伝習所で小説家が語る「自分の体験した真実の部分部分を組み合わせるのがフィクション」ということを、自分の一生でもって表現しようとしていることが伝わると同時に、それを撮っているこのドキュメンタリそのものも、同列に並んでくる。表現しようとする意志に対して、フィクションとノンフィクションの違いなど些末なことにみえてくる。原一男のドキュメンタリはそこで井上光晴の小説世界とシンクロするのだ。
どうやら、この入れ子構造は、フィクションの世界でも頻繁に使われているようすだ。今年みた中では「ワンダーボーイズ」(カーティス・ハンソン) 虚構づくりに苦しむ小説家の先生が、虚構の中に閉じこもった虚言癖の学生と皮肉な対峙、虚言とわかるたびに、自分にとって大切なことはなにかを見つめ直していく。ほかにもエンタテインメント一級品群。コメディでは、ジョー・ダンテの「マチネー」 ここでは、映画館の外で緊張高まるキューバ危機と、館内の蟻人間(Mant!)映画の競い合い。現実の重みに負けまいとするフィクションへの賛歌だ。サスペンスでは、ジョン・フランケンハイマー「イヤー・オブ・ザ・ガン」 赤い旅団テロを題材にしたフィクションがルポとみなされることによって、ジャーナリストに迫る危機、作りものがあぶり出す真実だ。
この構造は、フィクション、ノンフィクションの可能性を大きく広げているように思えるが、元をたどると劇中劇といった、いにしえの手法かもしれない。
「泥棒成金」のべらぼう
映画の手練れをみたい、今年のチョイスは、アルフレッド・ヒッチコック「泥棒成金」。これで4回目をみることになるぼくは、真犯人は誰か、そんなこと承知の上で、なおうれしい。美しいロケ、美男美女、しゃれた会話、映画とはそれだけで十分、という説得力。
カーチェイスの空撮で、南仏の海岸美をたっぷり。市場でのチェイス、画面いっぱい、ぶちまけられる花屋の花。夜は、これでもか、リヴィエラの花火。絵はがき的だろうと構いはしない、ありがたい総天然色。そして、グレース・ケリーのフランシーとケーリー・グラントのロビーの会話。例えば、海沿いの道、カブリオレの中、フランシーに連れ去られるロビーが尋ねる「何を期待してる?」フランシー「あなたの期待以上のものよ」。例えば、花火の最中、ロビーを泥棒と決め込んで自分の首飾でけしかけるフランシーに、「イミテーションだ」と見抜くロビー、すかさずフランシー「私は、ちがうわ」。ホンモノ、グレース・ケリーのべらぼうな美しさ。だいたい、こんな会話は映画の中でしかありえない、なんて憤ってもだめだめ、浮き世離れのべらぼうぶりが、この映画のお約束なのだ。
思いだし笑いの場面場面
◆同じ顔で、同じこといって、顔みあわせる双子。そんな双子、映画の中にしかいない。フランク・キャプラあたりでよく登場していたが、今日にもしっかり引き継がれている。「ウェールズの山」(クリストァー・マンガー)にもいた。「トゥルーマンショー」(ピーター・ウィアー)にもいた。クレジットもされないくらいの役であっても、出てくるだけでうれしくなるキャラクター。
◆双子といえば、「ツインズ」(アイヴァン・ライトマン) アーノルド・シュワルツェネッガーの力持ちキャラクター。彼が漕ぐボートは、モーターボート並みに船首を上げて進む進む。「サムソンとデリラ」(セシル・B・デミル)のヴィクター・マチュアのサムソンの、人投げ飛ばしに匹敵する力技。シュワルツェネッガーは「ラストアクションヒーロー」(ジョン・マクティアナン)では、スクリーンの中のヒーローを気持ちよさげに演じている。マフィアの家に乗り込んだヒーロー、誰だ?ときかれ“The Tin man"とふざけると、"Well, supposed to hit the bricks."とくる。 マフィアも知っている「オズの魔法使い」。
◆シュワルツェネッガーもすごいが、女もすごい。「泥棒成金」 フランシーの母親、こっそりすごい。たばこを消そうとさまよわせた手、ためらうことなく、ルームサービスの目玉焼きの半熟部分へ。男も負けていない。「アフリクション」(ポール・シュレイダー)のニック・ノルティ、虫歯が痛くて痛くて我慢できず、自分でペンチで抜いて血だらけ。真似をしないでください。
真似したい、「冒険者たち」
何年かごとに見返す「冒険者たち」(ロベール・アンリコ)。テレビ、劇場、ビデオといろいろみてきて、今年DVD版を初めてみたら、エンディングのアラン・ドロンの歌がない。なぜ? どうでもいいディテイルが気になるほど、十代の頃から繰り返し、憧れをもってみてきた。ジョアンナ・シムカスのピーコート、アラン・ドロンのエスパドリーユ、社会人になってすぐ、真似したくて買ったくらいだ。ピーコートは、絞り開放のカメラが追う、廃車置場を訪れるレティシア(ジョアンナ・シムカス)が着ていた。エスパドリーユはコンゴの海、船の上のマヌー(アラン・ドロン)だ。ピーコートもエスパドリーユもやっぱりフランス製、と何の根拠もなく思いこんで、探し回って買ったことがある。ラ・ロッシェルに舞い戻ったマヌーが、ロランを探して島に渡るときの、タイをはずしたシャツに羽織ったセーター。セーターを着ないでこんなふうにするのか、と記憶に留めたりもした。40歳を過ぎてなお憧れるのが、例えばリノ・ヴァンチュラ(当時48歳!)の、港で荷物を積み込む場面、素肌に着てボタン全部はずしたピンクのシャツ。(断じて真似はできません) もひとつ、いつぞや真似してみたいのが、リノ・ヴァンチュラがしゃべるときの、両手を胸の前で下から上にくるくる回す仕種。屑鉄を売ってと粘るレティシア(ジョアンナ・シムカス)に、売り物ではないし、今忙しい、と諭すように言うときのロラン(リノ・ヴァンチュラ)の仕種だ。ぼくは、フランス人は皆そうやって話すものだとばかりずっと思っていて、今年初めてフランスに行ってみたのだが、そうやって話す人はいなかった。
シネサロンの暇潰し
引っ越しで荷物の整理をしていたら、学生のときに通っていた、世界で一番小さな劇場「シネサロン」のパンフがいっぱいでてきた。ホントかどうか今もって知らないが「世界で一番小さな劇場」と、パンフの表紙にちゃんと書いてある。記録によると、ここで4年間で51本もみている。5年間で65回通った自主上映会を別とすると、これだけ通い詰めた映画館はぼくには他にない。小さいことより、入場料300円がぼくらにとっては重要だった。ここで、どれだけいい映画にめぐりあっただろう。その頃封切だった「グッバイガール」(ハーバート・ロス)、「アニー・ホール」(ウディ・アレン)、「アニマルハウス」(ジョン・ランディス)といった珠玉の作の、二番館のような上映もあり、またリバイバルで、「暗黒街の弾痕」(フリッツ・ラング)、「逃走迷路」(アルフレッド・ヒッチコック)といった、渋いところもかかった。デ・シーカもかかる、ヴィスコンティもかかる、ベルイマンも、トリュフォーも、ポランスキーも。一方、「ラストコンサート」(ルイジ・コッツィ)とか「アイスキャッスル」(ドナルド・ライ)とか、今や誰も知らないような、すぐ忘れられてしまう映画もたくさんかかった。特集というほどのものも殆どなく、脈絡なく次から次、特集といえば、「アメリカンシネマフェスティバル」と銘打って、「ファイブ・イージー・ピーセス」(ボブ・ラフェルソン)、「ラストショー」(ピーター・ボグダノビッチ)などがかかるのはありがたかったものの、「もう一度じっくり見直そう週間」とか「夏休みフェスティバル」とか、何が特集だかよくわからんものもあった。暇潰しとしかいいようのない映画館通い、幸か不幸か、30席ほどの館なので常連の誰かに出くわすことが多く、幸か不幸か、出くわしたついでにそのままいっしょにのみに行ってしまって、一晩ものの暇潰しになったりした。
あとがき
今更という気もしますが、復元されたロンドン・グローブ座をこの夏訪れたこともあって、シェイクスピアの天才に改めて目を向けるきっかけができました。「なりすまし」とか「劇中劇」とか、ドラマの骨組みとなる手法の数々、ここに遡るものの多さに気づかされた次第です。Cinemannualもいつのまにか10年目。東京転勤で、少しは第8回千夜一夜の開催が実現しやすくなりました。ぜひ。
2000年
「海の上のピアニスト」(ジュゼッペ・トルナトーレ) 「遠い空の向こうに」(ジョー・ジョンストン) 「アメリカン・ビューティ」(サム・メンデス) 「サイダーハウス・ルール」(ラッセ・ハレストレム) 「ボーイズ・ドント・クライ」(キンバリー・ピアース) 「クレイジー・イングリッシュ」(チャン・ユアン) 「マルコヴィッチの穴」(スパイク・ジョーンズ) 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(ラース・フォン・トリアー) 「クレイドル・ウィル・ロック」(ティム・ロビンス) 今年みた封切作は以上。ビデオと合わせて107本。引っ越しのおかげで、新たなレンタル店にて待ちわびた出会い、「フィニアンの虹」(フランシス・F・コッポラ) 「ジプシーのとき」(エミール・クリトリッツァ) などに恵まれた。また、新作ビデオでみた中では「クッキー・フォーチュン」がよかった。ロバート・アルトマン特有のシニシズムが影を潜め、ブラックながらもほんわか笑える。アルトマンばりの、複数人間関係同時進行形のスピード感で、イデオロギーから独立した芸術活動を貫く熱さを伝えた「クレイドル・ウィル・ロック」を、年末滑り込みで今年のNo.1にあげたい。政治の取引にも利用されかねないものの代表として葬られる腹話術人形、その葬列が向かう先が、恐慌もない戦争もない現代というエンディングに、ティム・ロビンスの、芸術活動を貫いてきた先輩たちへ捧げる気持ちが、じわり伝わってきた。
役者でいうと、「マルコヴィッチの穴」のキャスリーン・キーナー。曲者ぶりは、曲者大先輩ジョン・マルコビッチもほとんど内股すかし、というくらいの見事さ。そしてもう一人、「アルマゲドン」(マイケル・ベイ)のピーター・ストーメア。コーエン兄弟もの一連の、「ファーゴ」のぷっつりいくと何するかわからない野郎や「ビッグ・リボウスキー」“ニヒリスト”をしのぐ役回りは彼にあるのか、と思わせていたが、不似合いな娯楽大作で、頼りになるのかならないのか、いったいどっちなんだ、ちんぷんかんぷんロシア人アストロノーツ役で全世界的拍手喝采だった。
Lovable Nonsense
フレッド・アステアのミュージカル映画でまだみていなかった数作のうちの一つ「フィニアンの虹」に、ようやくのめぐりあい。コッポラの手によるアステア最後のミュージカル、というだけでそそられていた。69歳、踊るアステアの、やたら大きくて、あいかわらずひらひらする手をみていたら、ミュージカル映画を無性にみたくなって、「ザッツ・エンタテインメント」の1,2,3 「ザッツ・ダンシング」 (順に、ジャック・ヘイリーJr.、ジーン・ケリー、バド・フリージェン/マイケル・J・シェリダン、ジャック・ヘイリーJr.) ぶっ続け。治まるかと思ったら、逆に「ザッツ」で登場する作を片っ端からみたくなって困ったもの。ミュージカル映画は癖になりやすい。
これら「ザッツ」ものは選りすぐりのミュージカルシーン、ダンスシーン集だから、ついつい忘れがちになるが、ミュージカル映画というのは、だいたいでいうとお粗末だ。ストーリーは荒っぽい、セリフも練られていない、カメラは工夫がない。でも、ちっとも腹が立たない。ひとつふたつ、すばらしいダンスシーンがあったら、うれしくなってしまうもので。 「ザッツ・エンタテインメント」の最初のナレーター、フランク・シナトラが、ミュージカル映画をさしていみじくもいう、Lovable Nonsense。傑作もあまたあれど、そうとしかいいようのないシロモノたち。承知の上のお楽しみだ。RKO時代のフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースものなど、映画としての造りが杜撰であればあるほど、ダンスシーンが輝いてみえるほどだ。よしや杜撰だろうと構わない、「ザッツ」の中でしか知らないニコラス・ブラザースが、突然ブームになってリバイバルしてくれないものか。エレノア・パウエル生誕記念か何かでDVD「エレノア・パウエルBOX」とか登場してくれないものか。誰もそうしてくれないもので、ぼくはこつこつと、例えば、「ザッツ」の中でしか知らなかったエスター・ウィリアムスも、出会うたびのレンタルビデオでみるのだった。そしてみるたびに思う。映画そのものがどうであってもいい、この世のものとは思えないペイジェントに出会えるだけで。一大絵巻を支えるセット、セット、セット。「百万弗の人魚2000」をCGでつくるのは容易かもしれないが、Lovable Nonsenseを体現することはできまい。
「フィニアンの虹」は不思議だ。1968年というと、アメリカンニューシネマ、真っ直中。「ゴッドファーザー」をとる4年前、どういう経緯で、こんな古式床しいスタイルのミュージカルをとったのか知らないが、アステアを固定全身カメラで、というフォーミュラは活かされている。床しさを表現したものかどうかも、この作からはうかがいしれない。コッポラの古式床しき映画ファンぶりをしっかと見届けられるのは、その後の「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982年)だ。18年前封切日にみて以来今年3回目みて、改めて感心。フレデリック・フォレスト、テリー・ガー、ラウル・ジュリア、ナスターシャ・キンスキー、ぼくにはきら星としかいいようがないキャスティング、トム・ウェイツとクリスタル・ゲイルのデュエットによる語り部、そしてなによりも、つくりものに、先人の砕いた心伝わるセット。砂漠もラスベガスのイルミネーションも。夢のようなミュージカルシークェンス、あこがれのボラボラ島。もちろんセット。RKOミュージカルを思わせる、きっと本物よりも人々のイマジネーションに忠実なセットだ。21世紀を迎えるぼくらは、本物のボラボラ島もラスベガスも知っているかもしれないが、知らないものに焦がれるきもちが、かえって眩しく思える。ダンスシーンの向こうに、コッポラの描きたかったものがみえかくれするようだ。ついでに、コッポラの、年季のはいったミュージカルファンぶりがわかる発見ひとつ、ラウル・ジュリアのレイが部屋でかけるレコードのナンバー、「カリオカ」 ジンジャー・ロジャース、フレッド・アステアコンビのデビュー作「空中レヴュー時代」(ソントン・フリーランド 1933年RKO)のヒットナンバーだ。
フレッド・アステアは、セットの中だからこそ表現できた夢の世界のスターだった。「フィニアンの虹」の時代には、ロケによるミュージカル映画も歴史を重ねていたし、セットでないとどうしても表現できないというものも発掘されていなかった。しかし本人にとってはあまり関係ないようすだ。セットであれロケであれ、大きな手をひらひらさせて踊るだけだから。ハリウッド、マンズチャイニーズシアター前に行ったときに、真っ先にアステアを探したことを思い出す。細くて華奢な足型に比べて手型は不釣り合いに大きくて、今にもひらひらしそうだった。
てんこ盛り、「昼下がりの情事」
映画の手練れをみたい、味があまりしないような映画続きで思い立ったとき、このたびのチョイスは、ビリー・ワイルダー、11年前銀座文化でみて以来の「昼下がりの情事」 恋のまちパリを語るモーリス・シュバリエのナレーションがはじまると、彼がカフェオレにクロワッサンをどっと浸す、何でもない場面で、どっと沸いた館内を思い出した。うれしくなる場面てんこ盛りのこの映画、またみるとまたうれしくて、うれしさ書ききれない。例えば冒頭、"They do it anytime anyplace." 語りに被さる、睦みのさなかのアベックは、散水車が来るのも気づかない、このままでは濡れてしまう、とだれもが思った瞬間、そのままあっけなく濡れてしまう。ゲイリー・クーパーとオードリー・ヘプバーンの出逢いのあと、またパリのまち、さっきのアベックは揺るぎなく継続中だ。そこへ散水車が戻ってくる。このままではまただ、と思ったら、やっぱりまただ。でも全然意に介さない二人。Love in the afternoon、異なもののプレリュードだ。もうひとつあげると、ヘプバーンがクーパーを手玉にとる、池の畔の場面。チェロケースにぶらさがっていたチェーンのアンクレットと、ありもしない男自慢で翻弄する彼女、「いってくれれば、はずしたのに」とアンクレットを池に投げ捨てる。その波紋がゆっくり拡がる水面、ティルトアップしたカメラに、二人の乗ったボート、池の畔にいたはずの二人のボートがすべりこんでくる。そして、追ってすべりこむのは「魅惑のワルツ」楽団の乗ったボートだ。実に、映画の味がするではないか。
マルクス兄弟は好きですか?
キートン、大好きです、といえても、マルクス兄弟は好きですか? と聞かれたら、たじろぐ瞬間があるのはなぜか。そのわりに、85年のリバイバル以降、「マルクス兄弟 オペラは踊る」(サム・ウッド)をはじめ繰り返しみていたり、今年レンタルビデオで「ルームサーヴィス」(ウィリアム・A・サイター)をみつけて、これで全13作中10作目だとか指折ったりしているところをみると、案外ファンなのかもしれない。ファンだとしても、マルクス兄弟には全然笑えないものも数多あって、はい好きです、といいにくいものがある。
ヒットした一連のシリーズは、「マルクス兄弟 オペラは踊る」の爽快感から始まっている。財政的危機に貧したオペラを、サーカスを、デパートを、大騒動に巻き込みながらも結果的に救う。結果はめでたしめでたしだが、彼らにしてみれば、いばっているやつ、権威あるものがただ気にくわなくてコケにしたりしているだけ、彼らには元来いささかの批判的精神などない。条件反射といってよい。かたや、困っている人を助けるのも結果であって、そこには彼らがそうする理由も、高く掲げるなにものもない。あの爽快きわまりない「ブルース・ブラザース」(ジョン・ランディス)でさえ、なぜ彼らが孤児院を救うか、の理由くらいはある。マルクス兄弟には、きっぱりとない。それでも、一連のシリーズには、危機脱出のハッピーエンドと、お為ごかしに無縁の3兄弟の大騒動、という定番の楽しみがあった。それがあったから興行的にも成功しシリーズになったのだろうが、「オペラ」の前作、「我が輩はカモである」(レオ・マッケリー)には、それもない。全然笑えない。ナンセンスギャグの極北だ。みているうちに、笑える、笑えないというような尺度が意味ないようにさえ思え、ここはもう、たじろぎつづけるしかない。
舞台となる架空の国フリドニア、とうとう隣国と戦争になる。ここで、大集団によるWarの歌とダンス。それがまた、ばらばらで見苦しく、ダンスというより宗教儀式のようにもみえ、そんな中、どこからみてもまともにしかみえないゼッポが3兄弟に混じって、War!と絶叫している。おいおい、おまえまでそこで何やってんだ、と兄弟の親がみたらきっと嘆くだろう。親が嘆いたとしても戦争は続く。フリドニア軍兵士はタイムレコーダおして出動したりしていて、どうも劣勢だ。挽回すべく援軍が呼ばれる。そこに駆けつけるのはなぜか、消防車、バイクの警官たち、これはどういうことだ、続くは、陸上選手やレガッタ、水泳選手の群れだ。ただのニュースやスポーツの映像クリッピングではないか。さらには、猿や象の大群、イルカまで群れなしてやってくる。これもどこかの映像資料室で拾ってきたらしい。断じて、コラージュといった上等の手法ではない。援軍と聞いたときのハーポの頭の中身という程度のものだ。映画をみるにあたっての、思い切り笑いたい、泣きたいとか、何かを得たいとか、有意義に2時間を過ごしたいとか、そんな真っ当な期待を全部打ち捨てたとき初めて、「我が輩はカモである」という映像体験は、たじろぎを超えて享受できる。
思いだし笑いの場面場面
◆今年みかけた映像のポエトリー、「海の上のピアニスト」 嵐の中、客船のホール。キャスターのストッパーをはずしたピアノ。弾きながらホールを滑り回る様は、遊園地のコーヒーカップのようだった。部屋からでて奏でられるピアノは、いつもなんだか自由の象徴だ。浜辺のピアノ、「ピアノレッスン」(ジェーン・カンピオン) トラックの荷台のピアノ、「ファイブ・イージー・ピーセス」(ボブ・ラフェルソン)
◆RKOミュージカルにしても、マルクス兄弟に代表されるコメディにしても、映画館を一歩外に出たら、大恐慌や戦争というシリアスな現実がある時代だったからこそ花開いた、というみかたはきっとあるだろう。一種の現実逃避。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は、一つの映画の中で、逃避的な空想を美しいミュージカルシークェンスにしてみせた。ここで捧げられる想いは、チェコのダンサー「オルドリッチ・ノヴィ」 ジョエル・グレイ(ボブ・フォッシーの「キャバレー」の狂言回しだ)が見事なタップ、うれしかったが、Oldrich Novy その人、何者かしれない。 IMDbで調べると1922年から80年にかけて31作を撮っているスターのようだ。チェコか。ミュージカルも奥が深そうだ。
恒例、映画の中の「オズの魔法使」
7年前からなぜか突然始まった、映画の中の「オズ」、今年は2作で気がついた。一つは「隣人は静かに笑う」(マーク・ペリントン) ティム・ロビンスの「隣人ラング」が出身地の話で、“We're not in Kansas anymore, Toto.” とおどけていう場面があるが、これは、竜巻で飛ばされたDorothyが愛犬トトにいう台詞。ここでは、Kansas =アメリカの田舎の代表のようなニュアンスが出されている。もう一つ「リトルヴォイス」(マーク・ハーマン)は、主人公エルヴィが、ジュディ・ガーランドのファンというだけで、でてきそうだと予感したが、イギリスでも「オズ」はでるでる、自宅が火事になって錯乱するエルヴィが口走るのは全部「オズ」の台詞だ。 “Run! Toto, Run !” から始まって、“Because, Because, Because, Because, Because,” Munchkinの“Follow the yellow brick road.”の歌、気味悪い森を抜ける場面での、日本語でいうと、抜き足差し足忍び足、といった名調子の掛け合い “Lions and tigers and bears! Oh, my!” さらに“I'm frightened, Aunt Em” 最後は “There's no place like home” で締めくくり。映画では、この homeを失って、巣立っていくエルヴィが描かれるが、その前の不安定なきもちが「オズ」の台詞で語られるというのはおもしろい。
たまたま「オズ」だと気づくごとにピックアップしているだけだからか、それらを並べてみて、どういう引用、受容のされかたであるか、というような話には全然なりそうにない。そのくらい神出鬼没。台詞、映像、キャラクター、映画そのもの、断片的であっても伝わるというだけ、オズが、アメリカで人口に膾炙しているということなのだろう。
「スローターハウス5」(ジョージ・ロイ・ヒル 72年 米)
プレゼントを渡す場面の台詞、黄色のリボンをbrick roadに見立てて“Follow the yellow brick road.”
「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」(スパイク・リー 85年 米)
同じくプレゼントを渡す場面、願かけの“There's no place like home”をいってごらん、という台詞
「ジュマンジ」(ジョー・ジョンストン 95年 米)
ジャングルから飛び出した猿たちが、店頭ビデオで「オズ」のバッドウィッチ手下の猿をみて、興奮、大暴れ。
「タンク・ガール」(レイチェル・タラレイ 95年 米)
悪の帝王が溶けながら死ぬ場面、「オズ」のバッドウィッチの最期の台詞“I'm melting.”連発、劇画挿入。
「ツイスター」(ヤン・デ・ボン 96年 米)
オズといえば竜巻。だからか、竜巻の計測器の愛称Dorothy。機械には、ジュディ・ガーランドの絵つき。
「トゥリーズ・ラウンジ」(スティーヴ・ブシェーミ 96年 米)
ぱっとしないが売り物のスティーヴ・ブシェーミの、ぱっとしない芸、誰でもできそうなMunchkinの物真似。
「素晴らしき日」(マイケル・ホフマン 97年 米)
6歳と4歳の子どもを大人しくさせるためのホームビデオとして「オズの魔法使」
「スフィア」(バリー・レビンソン 98年 米)
Munchkin物真似も、減圧室のヘリウムガスで声がわりするところだと迫真、サミュエル・L・ジャクソン。
「隣人は静かに笑う」(マーク・ペリントン 98年 米)
カンザス出身をおどけて伝える台詞。“We're not in Kansas anymore, Toto.”
「リトル・ヴォイス」(マーク・ハーマン 98年 英)
火事で取り乱したジュディ・ガーランドファンの口から次々にでる、「オズ」の台詞のオンパレード。
あとがき
延期のままの第8回千夜一夜、来年こそは実現を、ぜひ。2,3年分のネタをためておいてください。
1999年
今年みにいった公開作は11本、「ラストゲーム」(スパイク・リー) 「セントラル・ステーション」(ヴァルテル・サレス) 「シンレッドライン」(テレンス・マリック) 「恋におちたシェイクスピア」(ジョン・マッデン) 「ライフイズビューティフル」(ロベルト・ベニーニ) 「レッド・バイオリン」(フランソワ・ジラール) 「バッファロー‘66」(ヴィンセント・ギャロ) 「クンドゥン」(マーチン・スコセッシ) 「ウェイクアップ!ネッド」(カーク・ジョーンズ) 「運動靴と赤い金魚」(マジッド・マジディ) 「ラン・ローラ・ラン」(トム・ティクヴァ)。毎年申し訳のように「今年のナンバー1」を考えてはいるが、特に今年みた137本の大半は古い映画なのでいよいよ申し訳ない。
ひょっとしたら戦闘シーンが出てこないのではと思わせた「シンレッドライン」や、シェイクスピアをコラージュした「恋におちたシェイクスピア」、時間と空間を贅沢三昧、縦横に使った「レッド・バイオリン」 などそれぞれ魅力的だったが、1本というと、「ウェイクアップ!ネッド」。
宝籤当選でショック死したネッド・ディバインのうれしげな死に顔だけでも十分ブラックで笑えるのに、その顔を普通の顔に戻そうと悪戦苦闘するブラックさ。さらに、村の嫌われ者リジーの最期、村ぐるみの大インチキをリークしようと彼女が入った電話ボックスが車に撥ね飛ばされ海に落ちて行くときの「誰もがこれを待ってたでしょ」といいだけな壮麗な放物線。おまけに撥ねたのは村に赴任してきた神父という落ち。こういうブラックなたたみかけとアイルランドの美しい海岸線を愛でるカメラ、映画の企みにぼくはまんまとはまった。
それはそうと、映画の中で走る人をみるだけで、息苦しくなったり力がはいったりするのはぼくだけだろうか。今年封切で「運動靴と赤い金魚」 「ラン・ローラ・ラン」を続けてみたときは、全力疾走したあとのような気分だった。映画の中の走る人については、「is」No.64「特集 走る人」 (1994年 ポーラ文化研究所) の中の加藤幹郎「映画史を走り抜け」に、カメラワークを軸とした秀逸な考察があるが、俯瞰で撮っていても移動で撮っていても、がんばれがんばれと思って見ている限り、息苦しさは変わらない。さらに悪いことに映画を見終えたあと、全力疾走した気分にもかかわらずこっちまで走りたくなったりもする。シネスイッチ銀座前の道の真ん中に溝があって水が流れていたら、ぼくはきっと「運動靴と赤い金魚」のアリになって妹に運動靴をリレーすべく、溝を右に左にまたぎ全力で走ったことだろう。
念願の“Someone”になったユロ氏
「痛快奇妙」?
「プレイタイム」(ジャック・タチ 1967年)が日本公開されたのは今からちょうど30年前の1969年。ジャック・タチの頂点ともいわれるこの作は今、日本ではビデオ、LD、DVDともにでていないようだし、興行権も切れているのか、89年あたりでのリバイバルの後上映もされていないようだ。何年かごとジャック・タチのことを書くたびに、もう一度みたいと思いながら機会をみつけられずにいたが、amazon.com で英語字幕版ビデオを入手してようやく再会することができた。
30年前の日本で、この独創的なコメディはどんなふうに受け止められたのだろうか。そんなことに興味を持ったのは、今年ちょうど「E/Mブック ジャック・タチ」(エスクァイア マガジン ジャパン)が発刊され、その中にジャック・タチ関連文献リストが掲載されたのがきっかけだった。
そのリストによると、1969年「プレイタイム」公開時の批評は、「キネマ旬報」(キネマ旬報社)に掲載された2つだけ、淀川長治「タチ・タッチの見事な芸術」(1969年499号)と 林玉樹「プレイタイム」(501号)である。とりわけ話題になったというようすではない。公開時のパンフレットをみてみると、どうやらフランス映画史上3作目の70ミリとかフランス映画史上最大の1200万$の制作費とかいう惹句が先行しがち。「鑑賞メモ」の中で野口久光は「パント・マイムコメディとスラップ・スティックスの精神を見事に自分の血肉とし、それをモダンなフランス的感覚で一連の作品を作ってきたジャック・タチ。(中略)そのタチが事もあろうに70ミリ・ワイド・スクリーンと取組んで新作を物したのだから大へんである。」と、コメディ大作にややとまどっているかのような書き方だ。林玉樹も「確かに珍奇・特異な70ミリ」(「プレイタイム」)という。淀川長治はパンフ短評の中で「大まぢめな顔しておなかの皮がよじれるほど笑ってごらん。これはそんな痛快奇妙な映画」としている。「タチ・タッチの見事な芸術」の中では、「このタチのゆったりとしたゼニカネ忘れた製作欲に、その製作態度にはあきれるばかりであるが、あきれるというよりもその芸術への信念、その執念に脱帽してしまう」と前置きした上で、「児童絵本の、あの町あり電車ありバスあり、おまわりさんあり、人があちこちいっぱいの、あの群衆絵画の児童画の楽しさ」「ストーリーをわざと避けたタチの大胆さ」というような賛辞で締めくくっている。「痛快奇妙」という不思議な評言に代表されるように、この映画にはこれまでの尺度にはまらない感じを多くの人が抱きながら、どこがどうなのか公開時には言い及ばれることがなかったようだ。
それから30年。この間、1989年のリバイバル時に発刊された「VISAGE “ジャック・タチ特集”」(Mens BIGI Magazine) カラー版「のんき大将」が公開された1995年の「エスクァイア日本版 “特集 不思議の国のジャック・タチ”」(エスクァイア マガジン ジャパン) とジャック・タチ再評価の機会は少なくなかったが、「プレイタイム」に特別にフォーカスされることはない。「ぼくの伯父さん」が定評を得ているようすなのに対し、どうも「プレイタイム」は毀誉褒貶の中にあるようすだ。けんもほろろにいうは小林信彦、「こういう映画を70ミリ、カラーで撮るというのはどういう神経なのか」(「世界の喜劇人」第三部第五章 新潮社) かたやほめちぎり、いとうせいこう、「人類史上最高の喜劇映画」(「BRUTUS CINEMA」1993年 マガジンハウス) この振幅の大きさ。30年前、林玉樹が「徹頭徹尾ほめるか、けなすか、二つしかないような気がする」(同上)と書いたとおり、公開時も今もそれは変わっていないのかもしれない。
「バレェのようなニュアンス」?
ほめるにしてもそうでないにしても、読み解かないといけないようなことはこの映画にはない。タチ自身がフランス公開時「カイエ・ドュ・シネマ」のインタビューで、「バレェのようなニュアンスで書かれたものを絵にしてみせたもの」(パンフより)としているくらいで、ギャグをバレエのように楽しめばいい。淀川長治流にいうと児童画のように楽しめばいい。
フランスに到着したアメリカ人観光客が、あらアメリカといっしょよ、という、その直感のとおり、行き急ぐ時代は、なんだか似たものをたくさん産み出している。パリの街でも、Royal Garden, Drug Storeといった英語のネオンサインがあふれ、ガラスのドアにちらりと映るエッフェル塔や凱旋門が、パリ観光だったりする。パリだけではない。観光ポスターの世界の都市には同じようなビルが並んでいる。皮肉なことに、こういう都市空間が妙に美しかったりする。無個性化は都市空間だけではない。アパートの部屋や家具、規格化は人の立ち居振舞いのそばまできている。例えば、へこんで妙な音をたてる黒い椅子。会社の待合室、展示会場、戦友の自宅とくりかえし登場する。
そういう空間の中、どこか居心地わるげ、歩調がどうも合わない人たちがいる。時代が先を急ごうとも、相変わらずなのだろう。代表が、レストラン「ロイヤル・ガーデン」の酔っぱらいたちだ。他人事のような気がしない。ぼくも酔っぱらうと、アメリカ人のおじさんみたいに、こわれかかったレストランの片隅を仕切ったりしかねないし、さらに酩酊が進むと、地図で場所を教えてもらいながら、地図と大理石の柱の模様との区別がつかなくなるということはしばしば起こる。さらに度を越すと、店の玄関の矢印にふらふらと招き入れられたりしてたいへんなことになる。
無個性化を急ぐ都市空間と、それとどうも間が合いそうにない相変わらずな人間たち。揶揄しながらもタチのまなざしは慈しみに満ちている。そういう中でユロ氏はどういう位置に立っているのだろうか。「ぼくの伯父さんの休暇」(1953年)「ぼくの伯父さん」(1958年)のユロ氏と同じ名前、いでたちも寸分違わずそうだが、なんだかちがう。無個性で美しい空間の中の一部、点景のようでもあり、相変わらずな人間たちの右代表のようでもあり、それらの案内役のようでもある。そこに触れた批評の抜粋に、たまたまサー
チエンジンで「プレイタイム」を検索していてぶつかった。建築家鵜沢隆は言い切る。「敢えて言うなら、この作品の主人公は建築や都市といった〈空間〉なのである」「ユロ氏は、さまざまな空間を登場させるための「狂言回し」にすぎない。(中略)さまざまな空間の中で、映画の進行役を引き受けるのはそれぞれの空間の〈使用者〉である」(「ユロ氏の空間放浪」「連載 空間のシネマトグラフィ」より) 全文が掲載されている「建築文化」1997年5月号(彰国社)をすぐ買って読んだのは、読み解きが「プレイタイム」にあるとすれば、こういう角度からのものだろうと思ったからだ。前2作のユロ氏を、こういう伯父さんが自分にいるといいなあ、などと思ったままの目でみていると、この読み解きからは遠ざかっていく。
キャラクターからの訣別?
「プレイタイム」でのユロ氏は、うっかりお騒がせの中心から外れ、無個性な美しさに向かう都市空間と、それとどうも間合いのずれる相変わらずな人間たちの引き立て役にまわっている。映画全体ではユロ氏という不世出のキャラクターに寄り掛かるところがない。公開時、多くの人を戸惑わせたのはそのせいにちがいない。
しかし、これはタチにとって、ユロ氏というキャラクターからの訣別を意味しているのだろうか。「こういう伯父さんが自分にいるといいなあ」と誰もに思われるキャラクターという意味合いではそうかもしれない。結果として誰もが「こういう伯父さんが自分にいるといいなあ」と思っているにしても、前2作をみる限り、タチが狙って作ってきたのは、万人にとって必ずいてほしい人というよりは、いてもいなくてもいい存在(だけどある人たちにとってはとてもいてほしい)というキャラクターと思えてならない。「ぼくの伯父さんの休暇」では、休暇をともに過ごした人たちと握手しようとして空振りにおわるのがユロ氏であったし、「ぼくの伯父さん」では、ジェラールとアルペル氏が父子の握手をしっかりするのを見届ける間もなくさっさとパリを離れどこかにいってしまうのがユロ氏であった。「ノベライズの例外」(Cinemannual1996年)で書いたことを繰り返すと「ユロは何だったんだ、そんなのろまなことを考えているやつはいないはずだ、といわんばかり」である。
キャラクターからの訣別をするのなら、ユロ氏を登場させないという選択もあったかもしれない。三度目の登場させた理由は、キャラクターからの訣別というよりも、キャラクターの完成をめざしたもののように思える。「だけどある人たち」は、「ぼくの伯父さんの休暇」では、初老の散歩する人やイギリス婦人やドイツ人の子どもであったし、「ぼくの伯父さん」では下宿の管理人の娘や甥のジェラールであったが、「プレイタイム」ではとうとうぼくらだけになってしまう。「プレイタイム」の中でユロ氏は、念願の「いてもいなくてもいい存在」 だれでもないだれかになる。
キャラクターの完成は、「プレイタイム」のラストに凝縮されている。アメリカ人観光客のバーバラに、スカーフを贈るしゃれ心を発揮したユロ氏だが、結局直接渡せない。人伝手になんとか渡したものの、彼女はバスの中、「Someone gave this to me」だ。彼女はそれがユロ氏とは気づいてないようすだ。その後彼女の乗ったバスとユロ氏は町中ですれ違うのだが、お互い気づくはずがない。かくしてユロ氏のキャラクターは完成する。と同時に、都市空間の映像ポエトリー、たたみかけのエンディング、至福の数分間だ。ロータリーは渋滞した車のメリーゴーランド。パーキングメーターがそのスイッチだ。ビルの窓ガラスが掃除のため角度がかわるたび、そこに映るバスの席はジェットコースター。上下するたびにどよめきの声が上がる。バスの中ではバーバラがスカーフの包みを開ける。そこからスカーフとともに造花のすずらんがでてくる。バーバラがなにげなく車の外に目を転ずると、そのすずらんと同じ形のハイウェイのライト。そしてそれがひとつずつ点いていく。
(余談) 期待されるものからの訣別
訣別しようとしたものは、ユロ氏というキャラクターというより、「期待されるもの」からではないだろうか。知らず知らず期待値を持つファンと、直接的に期待されるものにあえて背を向け、乗り越えようとする作り手との間の摩擦熱が、新しいものを産み出してきたという歴史は、どんなジャンルにもあるにちがいない。音楽のジャンルで同時代の事例がある。ビーチボーイズの1966年のアルバム「ペットサウンズ」だ。(日本版についた山下達郎のライナーノーツに従っていうと、ブライアン・ウィルソンの「ペットサウンズ」) 海もサーフィンもホットロッドもでてこないアルバム、そのライナーノーツには、リリース時のファンのとまどいや毀誉褒貶ぶりが伝えられている。
「期待されるものからの訣別」を果たそうという点で、同時代の「プレイタイム」と「ペットサウンズ」を並べてみると、もう一点この二つには共通点がある。両方とも商業的には大きく失敗した(評価を高めたのは後年になってから)ということだ。「期待されるものからの訣別」とは、そういうリスクを孕んでいる。「プレイタイム」の興行的失敗で新作の製作に制約を受けたタチが、 年後に撮った「トラフィック」では、「ぼくの伯父さん」的ユロ氏が復活しているが、「プレイタイム」で「キャラクターの完成」をみた後のタチにとっては不本意な部分もあったのではなかろうか。「プレイタイム」を自ら「最高傑作」と言い続けていたという伝聞が、そう思わせずにいられない。
武市好古が、石川淳を(何を、ではなく)「どう表現するかに深くかかわっている」(注)としてフレッド・アステアになぞらえた顰にならっていうと、「どう、期待されるものに訣別するか」で、ブライアン・ウィルソンとジャック・タチという全く関係のない二人は、今ぼくの中でなんだか並んでいる。
(注)すばる1988年4月臨時増刊号石川淳追悼記念号「石川淳はぼくの生涯のアイドルだったのに……」より。
余談ついでに、武市好古はこの中で、「1899年は石川淳とフレッド・アステアの生年である。そしてこのふたりの偉大な人物は奇しくも同じ年にこの世を去った」と指摘している。1999年は二人の生誕100年だった。
思い出し笑いの場面場面
◆マルクス兄弟13作中の最終作「ラブ・ハッピー」(デイヴィッド・ミラー) ハーポが追手からビルの屋上から屋上へと逃げ回る。ハーポはネオンサインの中に逃げ込み、ぐるぐると回る(ように見える)ネオンサインにつかまってビルのあちらからこちらへ、点滅するネオンサインの馬にまたがって、今度はこっちだ次はあっちだ、神出鬼没。ネオンが動くようにみえるのはその一つ一つが順々に点いたり消えたりするからだというような大人の分別なんぞ蹴飛ばす大活躍。「プレイタイム」でジャック・タチが発見した、ロータリーの車のメリーゴーランド、掃除中の傾くガラスの映るバスのジェットコースターに通じる映像ポエトリーだ。
◆リバイバルされた「黒い十人の女」(市川崑) 船越英二のテレビプロデューサーが局に行って言う「今日おれ、何するんだっけ?」 これ、一度でいいから会社で言ってみたい。
◆「ゲーム」(デイヴィッド・フィンチャー) 黒幕をつきとめにマイケル・ダグラスの主人公がCRSに向かう、緊張高まる場面。 I don't care about money. I'm pulling back a certain. I wanna meet a wizard. 映画の中の「オズの魔法使い」を追いかけていると、こういうのも「オズ」が下敷きだと思ってしまうのですが、いかがでしょうか。
◆建築家鵜沢隆を初めて知ったのは、「西洋温泉事情」(池内紀編著 鹿島出版会)という本。共同執筆者の一人だった。この本、どういう人が買うのだろうと余計な心配しながら読んで、初めてぼくは西洋にも温泉を楽しむ文化があることを知ったのだが、西洋の映画では療養以外の場面ではみないなあと思っていた矢先、マクシミリアン・シェル版TV映画「オペラ座の怪人」(ロバート・マコーウィッツ)で、ブタペスト舞台にマイケル・ヨークが温泉を楽しむ場面があった。西洋温泉お楽しみ場面、ほかにもあるだろうか。
あとがき
今年、古い映画ばかりみていたのは、市立図書館で映画のビデオやレーザーディスクを借りられることを知ったから。これがなかなかオールドファンを嬉しがらせるライブラリーで、ぼくは一人で「エレノア・パーカー大会」とか「50年代エリザベス・テイラー大会」とかやっていました。「30年代ミュージカル大会」では、「ビッグ・リボウスキー」(ジョエル・コーエン)の不埒な夢として再現されていた、「四十二番街」(ロイド・ベーコン)でのバズビー・バークレー股くぐりシークェンスの確認ができましたし、「ハロルド・ロイド大会」では、「スミス都へ行く」(フランク・キャプラ)の5年前の同工異曲作「ロイドの大勝利」(サム・テイラー)の発見もできました。
延期になっていました第8回千夜一夜、開くためには北海道から九州までという形になってしまいましたが、実現をめざしたいと思います。
「ブラス!」(マーク・ハーマン) 「タンゴ・レッスン」(サリー・ポッター) 「トゥデイズ」(ジョン・ハーツフェルド) 「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(ジャン・ジャック・アノー) 「ゲット・オン・ザ・バス」(スパイク・リー) 「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン) 「革命の子どもたち」(ピーター・ダンカン) 「フル・モンティ」(ピーター・カッタネオ) 「シューティング・フィッシュ」(ステファン・シュワルツ) 「パーフェクト・サークル」(アデミル・ケノヴィッチ) 「ムトゥ 踊るマハラジャ」(K・S・ラヴィクマール) 「ボンベイ」(マニ・ラトナム) 「ディープ・インパクト」(ミミ・レダー) 「プライベート・ライアン」(スティーヴン・スピルバーグ) 「ピョンヤン・ダイアリー」(スールン・ホアス) 「相続人」(ロバート・アルトマン) 「トゥルーマンショー」(ピーター・ウィアー) 「ビッグ・リボウスキ」(ジョエル・コーエン) 並べてみてもやっぱり、今年はこれら封切18作含めて217作もみたわりに、まとまって何かみたというようなこともない。その中で、イギリス映画の元気ぶり、なぜだかインド映画のもりあがりは印象に残った。「シューティング・フィッシュ」や「ムトゥ 踊るマハラジャ」をみて思ったのが、一種の貴種流離譚がウケる背景の、イギリスやインドの階級社会のこと。日本では水戸黄門や桃太郎侍の時代にさかのぼらないといけない。価値観が拡散してエンタテインメントが成立しにくいとみられがちな時代だからこそ、へえと思った。さらにほおと思ったのが、身分違いの恋という設定を使った、「タイタニック」の大ヒット。エンタテインメントの王道は地平まで続いているのかもしれない。封切後だいぶ経ってからぼくがみに行ったとき、一人で来ている勤め人風おじさんの姿がちらほらあった。上映前の短い時間も、いかにも所在なさげ。きっとそれはぼくの姿でもあったろう。そういうわけで、どちらかというとぼくは「ビッグ・リボウスキ」みたいな映画に自分の所在をみつけてしまうのであった。
トゥルーマンかもしれない
「トゥルーマンショー」をみおえ、映画館をでて空を見上げたとき、ぼくもけっこうトゥルーマンかもしれない、という気がしたものだから、この映画は、「人生をも操るマスコミとその受け手の物語」あるいは「書き割り人生からの訣別という自己実現の物語」だけではないように思えた。
「人生という巨大セットの物語」といってもいいかもしれない。じたばたしてもしかたがないかもしれないが、じたばたせずにはいられない。そんな、お釈迦様の手のひらのような映画だ。好きでやっているかどうかは別にして、ムキになってやっていることについて、人智を超えた何かに操られているだけかもしれない、と考えたとしても、ムキになってじたばたする以外に選択肢があるわけでない。じたばたでもいいじゃない、と、じたばた礼賛気分になるのが、「お釈迦様の手のひら」映画だ。ぼくがそんなふうに呼びたくなった最初の映画は、たぶん「砂の女」(勅使河原宏)だ。砂の穴に毎日流れ落ちてくる砂を運び上げる作業に誰もが、シーシュポスから連綿と続く人間の営為を重ねてみずにはいられないが、砂の穴をでたとしても何かに囚われているにはかわりない、砂運びも強ち悪いとは思えなくなってくるところが、なかなか「手のひら」だった。
ポール・オースター原作の「ミュージック・オブ・チャンス」(フィリップ・ハース)も、「お釈迦様の手のひら」映画の代表作だ。これはいってみれば「人生という箱庭物語」。道端でギャンブラーを拾ったことがきっかけで、お金持ちの囚われの身となり、壁づくりを手伝わされる男の話。お金持ちの家の中の箱庭のとおりに、壁をつくるはめになる。箱庭を触るお金持ちの指先が、男の労役を決める。命からがら逃げ出した道端で今度は自分がだれかに拾われていく。所詮人間の営為など箱庭どおりの壁づくり、というようなブラックな後味の向こう側に、だったとしてもいいではないかという、居直りのオプティミズム。3年前3Dコンピュータ・グラフィクス映画として話題になった「トイ・ストーリー」(ジョン・ラセッター)も、「手のひら」の要素があって見逃せない。地球を救うミッションを担ってやってきたのに、実は自分はただのおもちゃだったと気づいて落ち込んでしまう、最新式アクション人形「バズ・ライトイヤー」。これは、勘違いのペシミズムだ。どっちにしても彼らは皆、トゥルーマンと同じ手のひらにいる。「トゥルーマンショー」におけるトゥルーマンの妻にしても、夫婦危機にあたってもココアの宣伝のおつとめ、徒や疎かにできない。手のひらの上は、そこをそうだと知ってて乗っているのも知らないで乗っているのも、あるいは、好きで乗っているのもいやいや乗っているのも大差ない。
だから、「トゥルーマンショー」をみおえて映画館をでて、見上げた空のどこからか、照明か何かが落ちてきたとしても驚くことはない。ドアを開け、書き割り人生に訣別して出ていったとしてもその先は、さらに巨大なセットかもしれないわけだし。
俺もじくざくに走ってみたい
巨大セットかもしれないと思い、そこからの脱出を思いめぐらす。映画をみること自体が多分にそうなのに、それを仕組むいじわるな映画もあって、最近そういうのにカラダが反応してしまう。
自分ではない誰かに、魔がさしたかのようになってしまう「さすらいの二人」(ミケランジェロ・アントニオーニ)は、ちがう自分になったまま戻れない物語。戻れなくたっていい、という危険な誘惑に満ちた映画だった。一方、「あきれたあきれた大作戦」(アーサー・ヒラー)は、CIAと称する娘の婚約者の父親に、日常から拉致される冒険物語。最初はへんなことに関わるまいと力がはいっていたアラン・アーキンの歯科医だが、CAIとともに国家紛争に巻き込まれ、命がけの脱出。一件落着してしまうと、自分からは思いつけもしない別の世界をちょっとのぞいて、なんだか満更でもない思いで元の自分の日常に戻っていく。「ちがう自分」への冒険だ。
CIAなんて本当だろうか、と訝る暇もなく、銃撃戦に巻き込まれていく主人公、エージェントに銃弾を避けて走るコツを伝授される。「じくざぐに走れ」 歯科医は、死にものぐるいのじぐざく走りだ。思い出し笑いするたびに、カラダが反応して「俺もじぐざぐに走ってみたい」と思ってしまう。
思い出し笑いの場面場面
◆映画の人物になりきるやつ、「アリゾナ・ドリーム」(エミール・クストリッツァ)で注目したヴィンセント・ガロ。彼は映画の中と現実の区別がまだついていないようだ。「パルーカヴィル」(アラン・テイラー)は、宝石店と思って忍び込んだらパン屋だった、というまぬけな泥棒3人組の映画だが、現金輸送車強盗の計画を彼らは、映画をヒントに作る。その映画「Armored Car Robbery」(リチャード・フライシャー)で映画の中の強盗が仲間に鼻をさわって合図する場面、彼も鼻をさわって映画の中の人物に合図を返していた。
◆すごい女が登場する映画は少なくない。「ロング・キス・グッドナイト」(レニー・ハーリン)で瀕死の鹿を首をねじり折って殺してしまう主婦ジーナ・デイヴィスもすごいの一種だが、もっとすごいと思ったのが、「グロリア」(ジョン・カサヴェテス)のジーナ・ローランズ。目玉焼きをつくろうとしてこげついたりしてうまくできなくて苛立った彼女、最後にはフライパンごと、ゴミ箱にたたきこんでしまう。これ、すごい。最高すごいは、「シンシナティキッド」(ノーマン・ジュイソン)のアン・マーグレット。ジクソーパズルしてて、うまくピースがはまらなくて、ピースをナイフで削ってはめようとする。
◆「ラヂオの時間」(三谷幸喜)は、ラジオドラマのシナリオを書くことによって「巨大セット」からのかりそめの脱出をしたい主婦ライターとか、いつか満足できる番組をと思いながら妥協に徹するプロデューサーとか、ばらんばらんの価値観のぶつかりあいが、ピンボールのようにおもしろい映画だったが、その中で、藤村俊二がつくる、ラジオドラマのサウンドエフェクト「打ち上げ花火」は、みおえてから2,3時間くらい思い出し笑いできる。道具は50円玉と雑誌だけ、ことばでは説明しようがなくて困るパフォーマンス。
◆映画の中の「オズの魔法使い」 今年はあたり年。「素晴らしき日」(マイケル・ホフマン)で、大人が大人の時間を過ごすため、6歳と4歳の子どもをおとなしくさせるホームビデオとして採用、これ正しい用法。「タンクガール」(レイチェル・タラレイ)では、悪の帝王(マルコム・マクダウェル)の最期、I'm melting. I'm melting. と叫びながら溶けていく。一瞬コミックの原画が挿入されるが、これはオズのバッドウィッチの最期の台詞。「トゥリーズ・ラウンジ」(スティーヴ・ブシェーミ)では、スティーヴ・ブシェーミが、持ち味どおりぱっとしない、Munchkinsの真似の芸。同じMunchkins芸を、科学の力で迫真のものにしたのが、「スフィア」(バリー・レヴィンソン)のサミュエル・L・ジャクソン。減圧室が何かでヘリウムの部屋で、声が甲高くなるところ、すかさず彼、「follow the yellow brick road」 決めてくれました。
コーエン兄弟、説話の世界
この頃なんだか、新作を見逃せなくなってきたコーエン兄弟、最新作「ビッグ・リボウスキ」は、みた後、不思議にシアワセな気持ちになる映画だった。
ブラッド・シンプル Blood Simple 1984
赤ちゃん泥棒 Rasing Arizona 1987
ミラーズクロッシング Miller's Crossing 1990
バートンフィンク Barton Fink 1991
未来は今 The Hudsucker Proxy 1994
ファーゴ Fargo 1996
ビッグ・リボウスキ The Big Lebowski 1998
とみてきて思う、「ビッグ・リボウスキ」はコーエン兄弟の説話的世界の集大成。語り部がいて、まことしやかに伝える話だが、夢の話とごちゃまぜになったり、往々にして荒唐無稽。謎解きされない謎が放置されたりする一方で、どうでもいいようなことがしつこく描写されたりする。穿ってみれば、教訓的であったりもする。これらを考えると、コーエンの映画はハードボイルド仕立てにしてもファンタジー仕立てにしても、括って説話的、説話文学的といっていいのではないか。(注記参照)
あやしげな語り部。「ビッグ・リボウスキ」の語り部は、カウボウイハットのストレンジャー。彼もこれまでの、「ブラッド・シンプル」の私立探偵、「赤ちゃん泥棒」の前科者ハイ、「未来は今」の時計台管理人老モーゼ同様、ワケ知りっぽいくせに、ホントのことを伝えているかあやしげだ。もっとも、語り部が登場しなくたってあやしげは変わらない。「ファーゴ」のように、わざわざ冒頭に実話との由ありげな断り書きをするものもある。
唐突にでてくる夢。「ブラッド・シンプル」や「赤ちゃん泥棒」では正夢だったら勘弁してほしい夢が、現実をリードする。逆に、「未来は今」 「ビッグ・リボウスキ」では、現実ときっぱり無関係に、恥ずかしくて人に知れることだけは勘弁してほしい夢が彩りを添える。「ビッグ・リボウスキ」の夢シークェンスは、現実とのコントラストが際だっている。だらだらして役立たずなオヤジが、バズビー・バークレーばりのミュージカルの場面に登場するなどと不埒な夢。「未来は今」でティム・ロビンスが、シド・チャリスと踊るアステアにでもなったかのような夢をみるが、その続きのようなもの。オヤジだって、夢をみるのは勝手ということだ。
解かれない謎。「バートン・フィンク」で主人公が預かる謎の箱。ホテルの部屋の写真と同じ海辺。「赤ちゃん泥棒」の謎のマンハンター。「ビッグ・リボウスキ」は語り部その人が何者か知れない。
企みをはらんだ風。風でころがるタンブルウィード。「ビッグ・リボウスキ」の冒頭のシーンでまっさきに思い浮かべたのはウェスタンではなかった。「未来は今」の、意志を持っているかのように、拾うべき人のところまで風で転がる、求人欄の新聞やおもちゃ屋が打ち捨てたフラフープ、あるいは、「ミラーズ・クロッシング」のガブリエル・バーンの帽子。
どうでもいいような登場人物たち。右代表「ビッグ・リボウスキ」のスティーヴ・ブシェーミ。元サーファー「ドニー」の、何ひとついいたいこといえずじまいの死は、コーエン作品で何度となく徒死させられた彼の役回りの中でも飛び抜けて意味がない。ここまで意味がないのに葬儀シーンまである死は珍しい。薄気味悪いボウリングウェア(っていうの?)を色違いで持っていやがるジョン・タトゥーロといい、ベトナムに頭を置いてきてしまったらしいジョン・グッドマンといい、身近にいたらやだろうなと思う連中が、映画に出てくるとこんなにシアワセな気持ちになるのはなぜだろう。ぼく自身もしらずしらずオールドファッションドになっていってて、同じ酒ばかりのんだり、同じ服を色違いで持ったりする一方で、誘拐の相棒をウッドチョッパーにかけてしまうような奴(「ファーゴ」のピーター・ストーメア)にあやうく、フランシス・マクドーマンドの警察署長のように、人生価値あるものと諭したりしかねないところがあるからかもしれない。
コーエン兄弟は、映画が映画であるドラマらしさ、本当っぽさの追求を慎重によけながら、口承しか手だてがなかった時代、伝承される話が、本当の話かどうかより、おもしろいかどうかで決まっていた時代の、説話のおもしろさを、映画の世界にもちこんでいるようだ。現代の語り部として、嘘まじりのそれらしい話を、これからも頼みます。
注:説話文学とは……「説話文学事典」(東京堂出版)概説によると、「1.事実あるいは事実と信じられて語られてきたことを文学化したもの。2.文章に定着する以前に口承された過去がある。3.短編的であり、長編的な構成は採らない。4.創作ではないが、機械的な筆録でもない、一人の個性によって文学化されたもの」 また、広辞苑(岩波書店)の説話文学の項には、その要素として「叙事的、伝奇的、教訓的、寓話的、民衆的」とある。
タンゴレッスンの床
「映画と建築の専門家」のことを昨年書いてから、映画とは別の蘊蓄と映画批評とのクロスオーバーものの本を探す癖がついた。で、今年の発見は渡辺武信「銀幕の中のインテリア」(読売新聞社)。映画をお手本とする住まい方指南、といった内容の本だ。例えば「椅子」の章、「住まいの中の指定席」としての椅子のありようを数々の映画で紹介している。そういうのも悪くないがぼくが小躍りしたくなるのは、もっと専門実務家としての蘊蓄がきらめくところだ。例えば、「欧米のミステリ映画を見ると、刑事や私立探偵が鍵のかかっているドアをカンタンに開けてしまう場面によく出会う」(P.34「鍵と扉」)という文で始まる錠の話。クレジットカードで開いてしまうドアロックの構造が詳しく説明されていて、それだけで満たされた気持ちになってしまう。おまけに、理解を助けるための「モノロック錠」の構造写真。ちゃんと専門メーカー「美和ロック社」のカタログから引用されている。
すっかりうれしくなってしまったぼくは、「椅子」の章で紹介されている「赤ちゃんはトップレディがお好き」(チャールズ・シャイアー)、椅子見たさにビデオを借りてきてしまった。その椅子は、ル・コルビュジエ、ジャンヌレ、ペリアンのデザイン、ニューヨーク近代美術館永久展示品「グランコンフォール」。1脚だけで十分ステイタスシンボルになるものを、“トップレディ”(ダイアン・キートン演じる経営コンサルタント)夫妻は、一人掛け、二人掛け、三人掛けのコの字セットに組んでいるのだ。すごい部屋があるもんだと思っていたら、「ビッグ・リボウスキ」みてても、前衛芸術家モード・リボウスキ(ジュリアン・ムーア)のアトリエの片隅にも、同様の「グランコンフォール」セットがあった。
そんな具合で、特別インテリアに関心があるわけでもないのに、いろいろなものが目に留まるようになってきて困っている。「タンゴ・レッスン」みてても、白木の床とテーブル、その上の白紙という俯瞰の冒頭場面から、床が気になってしかたない。ダンスシーンのたびに表情の異なる床に目を奪われる。アルゼンチンのホテルの市松模様の床、パブロの部屋のヘリンボーンの寄せ木の床、美しさにみとれているうちに映画は終わってしまった。それからしばらく、どこにいっても床に目がいってしまって、御殿山の原美術館にいったときも、この部屋の床はパブロの部屋のと同じではないか、などと展示品に対して失敬な思いにとらわれたりしている。
★誰か教えてください
◆「ドゥ・ザ・ライト・シング」(スパイク・リー)に登場する、ラジオ・ラヒーム(ビル・ナン)、彼の両手のナックルにあったLOVEとHATEの文字、「狩人の夜」(チャールズ・ロートン)みていたら、ロバート・ミッチャムの両手の指にも書いてあった。これって何? 単なる偶然?
◆「地上最大のショー」(セシルB・デミル)の中の子象のパレード、なんだかぎこちないので、犬に着ぐるみでもつけたのか、とそのとき思って何年も忘れていた。それを「ワグ・ザ・ドック」(バリー・レヴィンソン)で、思い出してしまって気になっている。ダスティン・ホフマンのプロデューサーが、映画の予算の話をしかけて遮られ終わってしまうところ、「地上最大のショー」の象の話だった。あれはホントの象?
あとがき
◆第8回千夜一夜は残念ながら延期。次の機会にお預けになったテーマ「ぼくが映画会を開くなら」は、収拾つかなくなること必至の話題ですが、今から案を暖めておきたいと思います。今年ビデオで「サムソンとデリラ」(セシル・B・デミル)をみただけですが、ヘディ・ラマール特集とかみてみたいものです。あるいは、ハリウッドに来てからも独特の抒情性、映像美と予想つかない展開がうれしいピーター・ウィアーのオーストラリア時代特集なんてどうでしょうか。今年ビデオでオーストラリア時代の「ピクニック・at・ハンギングロック」「誓い」「危険な年」を楽しんだので、未見の「キラーカーズ パリを食べた車」「ザ・ラスト・ウェーブ」「ザ・プラマー 恐怖の訪問者」 なんだかB級なタイトル作にそそられています。
◆レーザーディスクがでてきたとき、LDでないと見られないタイトルが次々出され、これを逃したらいつチャンスがくるかわからないと、矢継ぎ早にパイオニアやNECからでたRKOミュージカルを買い集めたりしたものです。今年はDVD本格登場の年、ソフトも増え、またTSUTAYAがハードとソフトのレンタルをはじめて身近になってきました。DVDでないとみられないというのはまだないようすですが、いずれそわそわする状況にはなりそう。とりあえず今年はDVDレンタルのおかげで、8年前「ポケット一杯の幸せ」(フランク・キャプラ)をみて以来みたいと思っていた「一日だけの淑女」(フランク・キャプラ)をみることができました。
1997年
「もののけ姫」(宮崎駿)が日本興業記録を塗り替えたり、「うなぎ」(今村昌平)や「HANA-BI」(北野武)が海外の賞を受けたり、「イングリッシュペイシェント」(アンソニー・ミンゲラ)がアカデミー賞9部門で獲得したり、話題に事欠かなかった年だったようす。ビデオで映画をみる機会が多いので、話題にきっちり1,2年遅れがちだ。調べてみると、今年みた108本中、95、96年の作がちょうど半数あった。
封切では、「クラッシュ」(デヴィッド・クローネンバーグ) 「ファーゴ」(ジョエル・コーエン) 「秘密と嘘」(マイク・リー) 「太陽の少年」(チアン・ウェン) 「浮き雲」(アキ・カウリスマキ) 「ティコ・ムーン」(エンキ・ビラ) 「ウォレスとグルミット危機一髪」(ニック・パーク) 「世界中がアイラブユー」(ウディ・アレン) 「萌の朱雀」(河瀬直美) 「ブエノスアイレス」(ウォン・カーウァイ) といったところ。 どうやら、マーケットオリエンテッドなアメリカ映画に食傷したときに、いろいろな国の、お国ぶりたっぷりの映画への出会いを求めて映画館に足が向くようだ。お国ぶりなんてお気楽なこといってたら、「アンダーグラウンド」(エミール・クストリッツァ)に頭をぶつけてしまった。ユーゴスラビアの現代史をバーレスクの中におしこんでしまった力技。すっかりおしこまれてしまったぼくは、ビデオでみたのがまだ3月だったにもかかわらず今年のNo.1に決定してしまったくらいだ。
レンタルビデオ店に、アッバス・キアロスタミやクシシュトフ・キェシロフスキ、ペドロ・アルモドバルのコーナーがあったりするグローバルな時代。どこの国の資本で作られるにせよ、作り手のナショナリティが作り手の言葉の中で表現される時代だとすればすばらしくありがたい。ぼんやりしてて封切で見逃しても2年後レンタルビデオで見られるのもすばらしくありがたい。ぼくの中の「エミール・クストリッツァ コーナー」には、「アリゾナドリーム」「パパは出張中!」「アンダーグラウンド」と並んでいて、ビデオ化されてないらしい「ジプシーのとき」他何本か分、棚をあけて待っている。
だれもしらないラテンアメリカ
南米には申し訳ないが、南米映画といって思い出せるのは、「蜘蛛女のキス」(ヘクトール・バベンコ) 「王様の映画」(カルロス・ソリン) 「南東から来た男」(エリセオ・スビエア)くらい。南米を舞台、としても「黒いオルフェ」(マルセル・カミュ)「ミッシング」(コスタ・ガブラス) 「フィッツカラルド」(ベルナー・ヘルツォーク) 「ミッション」(ローランド・ジョフィ)などせいぜい思い出す程度。南米は遠く、ぼくは疎い。知らないのはぼくだけでもあるまい。ウォン・カーウァイも、香港から一番遠いところをブエノスアイレスとしたではないか。
その、遠くてだれもしらない南米を、だれもしらないことをいいことに、思う存分映画にしたのが、「ラテンアメリカ 光と影の詩」(フェルナンド・E・ソラナス)だ。少年が、本当の父親を探しにラテンアメリカを南から北へ旅をする。父親探しの旅の夢うつつを通じて、もはや父親なしでもがんばっていけるようになっていく、という物語だ。旅の起点となる、ラテンアメリカ極南の島では、凍土の解凍か何かで「傾き警報」がたまにでて、島全体が舟のように右に左に傾いてしまう。そんなとき道路を歩いていたりすると、大人も子供もあっちへふらふらこっちへふらふらだ。カメラの傾きに合わせてキャストがふらふらしているだけじゃないか、ぼくが子どもなら大声で抗議しているところだ。おまけに、ブエノスアイレスは水びたしで大統領はフィンをつけているし、ブラジルでは体が動かないくらいにベルトでぐるぐる巻きにすることが義務づけられている。ラテンアメリカのことなんてどうせだれも知るまい、という居直りの上に立ったかのようなカリカチュア。ホントにラテンアメリカのことを知らないぼくにはその毒の味がわからなくて悔しいが、それを見越しているような遊び心だ。少年がまっすぐ伸ばす手の先に、これから彼がたっぷり知ることになるもの、その前座の道化芝居だ。毒の味などおいおい知ればいい。豪快な作り話は、父から子への優しさのようだ。
「アンダーグラウンド」アレゴリーの深み
南米だけではない、ユーゴスラビアのことだって、あれだけ全世界的に内戦が報道され、ニュース番組で何度となく色わけされた国土をみたにもかかわらず、よくわかってない。しかしわかってないことが、国の50年史を笑い飛ばすこの物語を享受する妨げにはならない。
パルチザンの英雄クロ(ポパラ)からドイツ将校フランツへ、フランツからクロへ、マルコへと寝返りつづけ、チトー側近マルコ夫人におさまったあげく「真実が足りない」と不満を漏らすナタリアのちゃっかりぶりは、社会主義国家としての独立を美化して描く嘘八百映画「春は白馬にのって」のそれと同じだ。地上からのサイレンとリリー・マルレーンで、かつての同志に地下に閉じこめられたパルチザンたちは戦車の中で「同志チトー」の歌で気勢を上げ、地上では20年の時がたち流行はじめたロックンロールで踊っている。響き合うアイロニー、三層構造のアイロニー。乱痴気騒ぎが続いてこちらもしらふではいられない気分になってくるが、第3章90年代は、アレゴリーに導かれるままに酔いがさめていく。案内役はマルコの弟、動物飼育係イヴァンだ。彼とともに、ベルリンからアテネにでもベオグラードにでも行ける大地下道に迷い込む。この地下道こそユーゴのホントが世界に伝わる道であり、ユーゴのホントが世界のどこでも地上に顔を出しうることをほのめかしている。イヴァンはたまたま内戦の90年代ユーゴに顔をだし、絶望の果て縊死する。それを告げた教会の鐘は、イヴァンが地下でクロの息子の結婚祝いに作った教会模型の祝福の鐘と照応する。
アレゴリーはさらに深みに導く。エンディング、もろもろの不幸せがなかったとしたら、というやり直しウェディングパーティ。美しい自然の中でいつものばか騒ぎとなるが、パーティをしている土地ごと、陸から離れどこへともなく流れ出す。この国はどこに向かうのだろう。どこに流れ着くとしても、大地下道でつながっている。同じことだ。結局しらふではいられない。
思い出し笑いの場面場面
◆正しく「マーケットオリエンテッド」で、プロフェッショナルなエンタテインメントばかりじゃつまらない。いっぺん、ど素人はどうだ? 実際のビジネスではかなわぬことを、「ブロードウェイと銃弾」(ウディ・アレン) と「ゲットショーティ」(バリー・ソネンフェルド)は映画の中でやってくれました。「ブロードウェイと銃弾」のチャズ・パルミンテリは、ギャングの情婦の舞台女優のボディガード、「ゲットショーティ」のジョン・トラボルタは、映画プロデューサーのところに派遣される借金とりたて屋。彼らはただの門外漢ではない。年季のはいった芝居ファン、映画ファン、期待以上にやってくれました。芝居の完成度を高めるためには、ボスの情婦の女優を「始末」するのも辞さない。侮りがたい、門外漢。
◆「マーズアタック」(ティム・バートン)は、ヨーデルで火星人がぷちゅんとつぶれていくところが、エアクッションシートをぷちぷちつぶす快感さながらの、B級万歳!作品。戦いすんで日も暮れて、滅びてしまったか人類、という場面で、ティム・バートンは、穴からリスが出る、山羊も出てくる、鳩も飛ぶ、という人類無事のサインを送る。これは50-60年代史劇にあったパターンじゃないか。でもいつのどんな作品だったか、どうしても思い出せない、悔しい。
◆昔のミュージカル映画の衣装には、なんだこりゃ、というようなのも珍しくない。例えば「トップハット」(マー ク・サンドリッチ) 中のペアダンスナンバー"Cheek to Cheek"で、ジンジャー・ロジャースの着ている羽根羽根ドレス。「なんだこりゃ」があることで伝わる真実もある。緩急自在の二人のダンス、激しく舞っていた二人が、ちょうどジンジャー、のけぞりポーズのところでぴたっと停止、キメのポジション。どんなに激しく踊っていても、息ひとつ乱さない二人。羽根羽根で彼女の顔は見えない。しかし、ジンジャーの押し殺した荒い息が、羽根羽根を揺らしているのがわかる。ジンジャー・ロジャースもたいへんなんだなあ。
◆「大地震」(マーク・ロブソン)も「ミッドウェイ」(ジャック・スマイト)も劇場でみたぼくは証言する。センサラウンド方式はすごかった。本当に椅子に振動が来るんだもの。でも「ダンテズ・ピーク」(ロジャー・ロナルドソン)はもっとだった。噴火の予兆となる地震の場面で、腰が浮くほどの縦揺れ。すわ、と思いきや、急にヘッドセットの音声がとぎれ、「気流の悪いところを通過しています」 (失礼しました)
◆なんだか毎年恒例、映画の中の「オズの魔法使い」 今年もありました。「ツイスター」(ヤン・デ・ボン) ツイスターを計測するための機械につけられた愛称、ドロシー。ちゃんと絵までついてます。
美しいまで俗悪、「エビータ」
アラン・パーカーは、ほぼ同時代でみつづけている映画作家の一人だ。18歳のとき「ミッドナイトエクスプレス」をみて以来、20年間、12作全作みてきた。
ダウンタウン物語 Bugsy Malone (1976)
ミッドナイトエクスプレス Midnight Express (1978)
フェーム Fame (1980)
シュート・ザ・ムーン Shoot the Moon (1982)
ピンクフロイド/ザ・ウォール Pink Floyd - The Wall (1982)
バーディー Birdy (1984)
エンゼルハート Angel Heart (1987)
ミシシッピーバーニング Mississippi Burning (1988)
愛と哀しみの旅路 Come See the Paradise (1990)
ザ・コミットメンツ The Commitments (1991)
ケロッグ博士 The Road to Wellville (1994)
エビータ Evita (1996)
強引なくらいに力のはいった映像と音楽を駆使、シリアスドラマ、ホラー、コメディ、ミュージカル、さまざまなジャンルを撮りながら、昔の職人監督らしい手練れともちょっとちがう。次何を撮るか見当がつかない一方で、何か追っているものがあるようにもみえる。アラン・パーカー最新作「エビータ」をみた。みおえてからも余韻が歌声とともに残った。予期しなかった余韻だった。
計算高く、野心のかたまりのエビータは、大統領夫人にのぼりつめ、結果として庶民と大統領をつなぐ役割を果たすが、やっていることといえば、庶民の歓心を買うための、たまさかの夢をみさせる施し。何かにつけ彼女は真実ということばを口にするが、うさんくさい。俗悪だ。あきれてしまう。しかし、俗悪だ俗悪だと思いながらも、彼女のあまりにまっしぐらな俗悪ぶりに、俗悪のどこが悪い、という気持ちになってしまう。俗悪が突き抜けて、美しく神聖にみえてくる。そうすると、いけしゃあしゃあと歌う「Don‘t cry for me,Argentina」も、崇高な響きにかわる。俗悪から美しさへ、こちら側からあちら側へひょいと突き抜ける。こちら側にいたつもりがあちら側へ、これはどうやらアラン・パーカーで何度か経験した感覚だ。
一見、同じ連続線上にない、こちら側とあちら側。彼がしばしば描いてきた設定だ。神聖と俗悪、正気と狂気、異常と正常、約束されることとされないこと。こちらとあちらとに分かれているから、じたばたしたり、あくせくしたり、胸がはりさけたりする。しかし分かれているようにみえるこちらとあちらは往々にして同じ線上でつながっていたりする。同一線上とわかるだけで結局つながらなかったりもする。
相容れない2つの世界、というと、「ミッドナイトエクスプレス」「ミシシッピーバーニング」「愛と哀しみの旅路」あたりが物語の設定そのものでみえやすいが、同一線上のこちらとあちらということでいうと、「バーディ」そして「エンゼルハート」だ。「バーディ」のあちらとこちらは、ベトナム戦争で心を病み「鳥」になってしまい精神病棟にいれられているバーディ(マシュー・モデイン)と、なんとか彼を正気の世界に連れ戻そうとする同級生アル(ニコラス・ケイジ)だ。アルはバーティを彼が閉じこもる世界から連れ戻そうと躍起になるが、バーディは心を開かない。二人の関係が変わったのは、アルが、自分の方がバーディの世界へ行くしかないということを考えたときだった。それと同時に、バーディは病棟の屋上の手すりをひょいとのりこえ、正気の世界に戻ってくる。「エンゼルハート」では、私立探偵(ミッキー・ローク)が猟奇殺人犯を追ううちに、追っている殺人犯はひょっとすると自分かもしれないという思いにとらわれだす。追われる狂気と追う正気の入れ替わり。今までのホラーでは経験したことのない怖さだった。また、名声へのチャンスをつかもうとする者の、エネルギーのほとばしりとチャンスをつかみ損ねる苦さを描いた「フェーム」「ザ・コミットメンツ」にも、こちらとあちらがあった。将来を約束されることとされないことという「雲」と「泥」が、同一線上にあって、大した理由もなくあちらにいったりこちらにいったりする。
アラン・パーカーが「追っている」ものがあるかどうかはともかく、映像のみせかた、音や音楽の使いかただけでは語れない作品群を貫くもの、そこにちょっと目をむけるきっかけが「エビータ」の余韻の中にあった。こちらとあちらがあることで起こる、じたばたやあくせくや胸のはりさけに置かれた目線だ。
こちらへ、あちらへ、翻弄されることの期待いっぱい、次作をよろしくお願いします。
バブリーなメモリー「イントレランス」
映画をみるというのはささやかな道楽だ。お金がかからないから、景気にも無関係。それでもバブルはあった。今年レンタルビデオ1泊2日300円で「イントレランス」(D・W・グリフィス)をみかえしながら、バブリーなメモリーをたどった。
89年2月27日、日本武道館。「東芝スーパーペイジェント イントレランス」 これがその興業の名前。ぼくはその初日、8000円チケットを握って、いそいそとアリーナへ向かったのだった。会場には、淀川長治やら有名人の姿もちらほら。大友直人指揮の新日本フィルがチューニングを始める中、パンフレットを買いに行ったら、入場料と競うかような2000円。そのとき「イントレランス・タオル」とか「イントレランス・ネクタイ」とかも大まじめに売られていた。映画が始まると、オーケストラボックスに閉じこめられた新日本フィルが時折、楽譜をめくる音で生演奏を主張し、目を凝らすと大友直人が低い位置でひとり指揮棒を振っていた。ふざけてやっているようにみえたのは、楽団がみえなかったからだ。こういうのを贅沢というのかどうか当時ぼくにはわからなかったし今もわからないが、今になって、ありゃバブリーだったという気はする。
映画はおもしろかった。この映画が映画の文法、話法を編み出したからとかいった映画史上の価値のことでない。ただ、映像のスケールの大きさに圧倒された。へんだなあ、と思ったのは、主題がそのままタイトルになってたり、再三このことばが解説的にでてくるところ。そんな声高にいわなくても伝わってますってば、といいたかったくらい。しかし、これも映画というジャンルが確立してなかった時代においては、映像表現でここまでやれることの宣言だったのだろう。このタイトルの抽象性や象徴性は、文化と名のつくところにとにかくお金が集まった時代には、好都合だった。「スーパーペイジェント バビロン大決戦」ではタオルやタイは売りにくい。
映画と建築の専門家
7年くらい前「37人の建築家」という本で建築評論家飯島洋一を知った。建築評論というのは、ぼくが知る限り、一般読者にはわざと理解させないようにしているかのような世界があるが、この本は比較的ふつうの文章で書かれていて、ほっとした。彼が「映画の中の現代建築」(彰国社)という本をだした。書店の建築専門書の棚でたまたま見つけた。建築物自体が持つメッセージ性を映画がいかに利用しているか、映画のみかたをひとつ拡げる本だった。例えばウディ・アレン「マンハッタン」のせいで、グッゲンハイム美術館に行ってしまうような向きにはお薦め。建築の専門家のフランク・ロイド・ライト解釈を読んでおくことで、映画に戻ったとき、作り手の企みの新たなひとつに気づけるかもしれない。専門家がみればこうみえるのか、という発見がある。
また、雑誌Esquire別冊で、CINE-BOOKシリーズというのがでていて、Vol.1「映画でみつけるインテリア」からはじまり、「小物」「ファッション」「グルメ」と続いている。これもなかなかのもの、「映画をみながらいったい何をみてんだ」といいたくなるくらいの蘊蓄ぶりがすてきだ。ぼくには蘊蓄がないので、例えば「アメリカ映画とハートマンの旅行鞄」とか書いてみたくてしかたないが書けない。映画好きの、いろいろな領域の専門家の人、素人には気づけないこと、是っ非、じゃんじゃん書いてください。
あとがき
◆第7回千夜一夜ではたいへんお世話になりました。前回も盛り上がった「あの人は今?」(70年代のトップ俳優、そういえば最近でてないみたいだが) を次回は原稿にできるところまで盛り上げたいと思います。ジャクリーン・ビセット、キャンディス・バーゲンなどなど。 ぼくは「ラテンアメリカ 光と影の詩」で久しぶりにドミニク・サンダをみました。少年の母親役なんだから、ぼくらも齢をとるはずだ。
◆最近いろいろな国の映画がみられるようになってずいぶんグローバル時代だが、国際化はそういうことだけではないようだ。「萌の朱雀」をみにいったら、英語字幕がついていた。調べてみると、たまに国際的な話題作など、回限定でやっているようす。クライマックスの台詞 「好きやねん」は、字幕では「I love you」だった。 英語というのはなんてコトをカンタンにしてしまうことばだろう。そのとき思い出したのが、「愛と哀しみの旅路」で、日系一世のママ川村のもらした日本語。日本語字幕版ではもちろん耳できくだけだったが、「因果だねえ」とか「面目が立たない」とかいう台詞があった。英語はこれをどうカンタンにしているのだろうか。グローバル時代というのは、うんと難しいことに気づいたりする。
1996年
今年122本みたうち封切は13本。「ケロッグ博士」(アラン・パーカー) 「シクロ」(トラン・アン・ユン) 「ウォレスとグルミット」(「チーズ・ホリディ」「快適な生活」「ペンギンに気をつけろ」)(ニック・パーク) 「ブルー・イン・ザ・フェイス」(ウェイン・ワン ポール・オースター) 「リービング・ラスベガス」(マイク・フィッギス) 「眠る男」(小栗康平) 「ウェールズの山」(クリストファー・マンガー) 「シャロウ・グレイブ」(ダニー・ボイル) そして3Dの「愛と勇気の翼」(ジャン・ジャック・アノー) 「遥かなる夢 ニューヨーク物語」(ステファン・ロー) 「ブルー・オアシス」(ハワード・ホール) といったところ。
たまたま「ウォレスとグルミット」は封切日の初回だった。シネ・ラ・セットには朝早くから駆けつけたファンが列をつくっていて、ファンサービスで配られていた原画のセルを互いに見比べたりしながら、なんだかずいぶん盛り上がっていた。ぼくはニック・パークという名すら知らなくて、クレイアニメのかかった劇場というとがらがらの印象しかなかったので意外だったが、この日この時を待ちわびていたような人に囲まれてみて、幸せのお相伴にあずかるきもちになってきた。「チーズ・ホリデイ」の、月ロボットが願い叶ってスキーに興じる場面の、稲垣足穂「一千一秒物語」のような味わい。館内のくすくす笑いとともに余韻が残った。「チーズ・ホリディ」、今年のナンバー1に決定しました。
生誕100年記念キートン その1
今年みた122本のうち30本は、昨年生誕100年でどっとビデオになったキートンもの。中には、元のフィルムの状態が悪くて途中殆どみえない「ザ・ハイ・サイン」(バスター・キートン エディ・クライン)とか、途中フィルムの一部がない「ハードラック」(キートン&クライン)とか、ギャグが一切わからぬまま終わったところ、当時流行った映画のパロディでした、と字幕で説明されてしまう「北極無宿」(キートン)とか、珍品揃いで、急にマニアになった気分にさせられるビデオ化だった。
さすが歴史の重みを随所に感じさせる100年記念、公開後リバイバルを重ねてきたせいだろう、邦題ひとつとっても1作に2つも3つ別名がついていて、「キートンの栃面棒」(キートン)<「セヴン・チャンス」別名> 「キートン半殺し」(キートン&クライン)<「キートンの華麗なる一族」「猛妻一家」別名>など、今こんな邦題でリバイバルしたらすてきだなあというものも多い。ギャグの中には、例えば、服をとりかえることで役柄がかわる、というような今や古典というものもあって懐かしいが、殆どは70年の時間の経過を感じさせない。たとえ、素材は古くてもしっかり笑わせる。例えば、「キートンの悪太郎」(キートン&マル・セント・クレア) 回転矢印式のエレベーターの表示、その矢印を動かすことでエレベーターを動かしてしまうギャグ。最上階の目盛を振り切ると、エレベーターはちゃんと屋上から飛び出てしまう。性根のすわったギャグだ。こんなのもあった。行きがかり上、車にのっかってプロポーズに及んだキートン、でも気持ちを示すものがない。咄嗟に車のナットのひとつをはずして指輪に、というギャグ。<「キートンの案山子」(キートン&クライン)>。 古い「素材」の代表、昔の汽車はたいへんのろかった。汽車に石を投げつけるやつがいる。頭にきた機関士は薪を投げて応戦する。するとやつは腕いっぱいの薪を拾ってすたすたといってしまう。「荒武者キートン」(キートン)でのギャグ。これには感動。「石を投げて薪を拾う」という格言を思い出した。
今回まとめてみて、キートンを支える(脅かす?)名共演者ジョー・ロバーツの存在を知った。18作で共演している。キートンを圧倒する巨体。愛娘とキートンの結婚に反対する親父役など、よくはまる。「隣同志」(キートン)では、娘の結婚式で、結婚させじと指輪をひねりつぶしてしまう。こういう親父にはナットの準備がいる。
生誕100年記念キートン その2
キートンを初めて劇場でみたのは10年くらい前。名古屋の自主上映会、「キートンの警官」(キートン&クライン)だった。小学生の頃、ふだんぼおっとしているのに、ドッジボールをやるとこれがなかなかすばしこくて、どうしても球が当たらない、しゃがみこむ、のけぞる、とびあがる、気がつくと一人残って大喝采というやつがいたが、映画をみながらあいつはどうしてるだろうかと思った。
キートンは理不尽な目に遭って孤軍奮闘する。マイホームができたと思ったら嵐が来る。<「キートンのマイホーム」(キートン)> 蒸気船にのりこんでもなぜか脈絡もなく来る。大岩が追いかけてくることもある。<「キートンの蒸気船」(キートン&チャールズ・リースナー)「セヴンチャンス」> 自然現象だけではない。警官が、結婚志望女性が、ウンカのように大群で追いかけてくる。<「警官」「セヴンチャンス」> この嵐は、大群は、何かの象徴だろうか、などといった思いわずらい、一切不要。そういえば彼はいったい何のために何をしようとしていたのか、どうでもいい。そんな奮闘だ。
奮闘を盛り上げるは、一人一人が意志を持った人間とはとても思えない大エキストラ。警官や女性だけではない。「キートン将軍」(キートン&クライド・ブルックマン)の兵隊、「海底王」(キートン&ドナルド・クリスプ)の南の島の住人、「キートンの酋長」(キートン)のインディアン。こういうばかばかしくも力漲るモブシークエンスをみていると、映画づくりに関わるすべての人が崇高な使命を帯びてやっているように感じられてくる。ギャグだけでない。キートンはスペクタクル映画人だ。
3D映画の行く末
IMAXシアターが大阪に続いて東京にもでき、3Dがどんなエンタテインメントになっていくか、楽しみなようすになってきた。同じIMAXだが大阪と東京はちがう。ヘッドセットの形状のちがいといった些末なことではない。劇場のロケーションのちがいだ。それは体験した人は知っている。大阪・天保山は、都心に近いおしゃれなベイエリアであると同時に、観光名所でもある。観光バスのコースにIMAXシアターもちゃんとはいっていて、ご一行様が訪れる。日頃映画館とはあまり縁のなさそうなおとうさんとかおばあさんとかが団体で入ってきて「ほお、立体にみえる、みえる」とか「ようできとる」とか言い交わす。これがなかなかおもしろい。ポスターには、思わずスクリーンに向かって手を伸ばす子どもの絵とかでていて、みる前には「馬鹿な」とだれも思うのだが、例えば「愛と勇気の翼」の冒頭、雪山の上を複葉機で飛ぶ場面では、ぼくも思わず目をつぶったりのけぞったりしてしまい、もうちょっとのところで「ようできとる」といいそうになった。絵の子どもやおとうさんを笑えない。
「愛と勇気の翼」はなかなかのスタッフ、キャストのドラマで、3Dに寄りかかりすぎないようにというがんばりが感じられたが、映画としての感動にはまだまだ距離がある。字幕が使いにくい理由はわかるが、吹き替えもひどかった。しかし、家庭では味わえない映像に触れるヨロコビはある。衛星放送多チャンネル時代、ビデオ・オン・デマンドが現実味を帯びてきた時代に、ブームがあったらしい1950年代とはちがう、どんなエンタテインメント道を3Dはめざすのか、楽しみにしておこう。
思い出し笑いの場面場面
◆コーム・ミーニーを初めて知ったのは、「ザ・コミットメンツ」(アラン・パーカー)だと思う。アイルランド人で、エルヴィス・プレスリー・ファンの妙なオヤジ役だった。このオヤジが、最近「好色」という稀代なキャラクターを持ち味にしているようで、気になっている。「ウェールズの山」は、好色家の酒場のオヤジ(その名も、Morgan the Goat)、「ケロッグ博士」では、ブリジット・フォンダの人妻を誑かす、好色菜食研究家。「好色」という人物造型そのものが珍しいにちがいなく、その珍しい、何年に1役くらいしかないであろう役回りを一人で担っているのだから、第一人者といってよい(断言)。そういう彼が、何喰わぬ顔して「沈黙の戦艦」(アンドリュー・デイヴィス)とかにでているのだから、世の中わかりにくい。まじめな顔して戦艦の計器など操作しているのをみると「おいおい」とヤジをとばしたくなる。
◆映画の中の「オズの魔法使い」を発見する、人知れぬ楽しみ。今年は「ジュマンジ」(ジョー・ジョンストン)で発見。この映画は、ゾウやサイが走るのをみただけで満ち足りた気持ちになれる映画だったが、ゾウやサイに負けず劣らず猿も大暴れする。実は彼らの興奮に火をつけたのは、ビデオショップの店頭のモニターにうつった猿たち――「オズ」のバッド・ウィッチの手下の、翼を持った猿たちだった。大先輩たちの空飛ぶ活躍は、彼らの狼藉をエスカレートさせるに十分だった。「オズ」の猿の影響力。
ノベライズの例外
89年のリバイバル以来、ジャック・タチの作品をだらだら追いかけて7年。
「ジャック・タチののんき大将」1949年
「ぼくの伯父さんの休暇」1953年
「ぼくの伯父さん」1958年
「プレイタイム」1967年
「トラフィック」1971年
「パラード」1973年
以上、全6本の長編監督作のうち最後の作「パラード」だけが未見で、この1973年スウェーデン製テレビ映画は簡単にはみられないだろうと思っていたところ、今年レンタルビデオ店の新作コーナーであっけなく出会ってしまった。拍子ぬけしてしまったくらい。どうやら今年も「タチ運」はいいらしい。ちょうどそんなときに「ぼくの伯父さんの休暇」のノベライズ翻訳版を発見した。
映画の原作となる本を映画をみてから読むことはあるが、ふだん映画のノベライズというものは読む気にもならない。映画が感動的だからといってそれを小説にしても、小説の感動に近づけるあてがないから。だが例外はあるものだ。「ぼくの伯父さんの休暇」のノベライズ本は、訳者あとがきによると30年ほど前にフランスで発刊された本の翻訳で、脚本家ジャン・クロード・カリエールの、映画に忠実な小説に、ピエール・エテックスの挿し絵がついたもの。昨年11月リブロポートより出版されている。持っているだけでうれしくなってしまう瀟洒な本だ。この小説が例外であるのは、映画をみて、ついつい読んでしまった読者がまた映画に戻って、映画の中で気づきを得られるようにできているからだ。映画を知らずこの小説だけ読むという読者はいないし、この小説を読んで映画に立ち戻りたくならない読者はいないだろう。この小説は映画の「鑑賞の手引」の役割も果たしている。
悪気はないのにへまばかりしているユロは、ビーチリゾートの騒動師。バカンスの終わり、ひと夏いっしょに過ごした人たちと握手しようとしてうまくできなかったりする、ぎこちなさ。それを横目で見続けていた初老の男(英語クレジット名 Strolling man またの名を Walking man)。小説は彼の視点でスケッチされる。最初ユロのことを疎ましく思っていた彼が、だんだん気にしだし、彼の起こす騒動を楽しみはじめ、期待さえしはじめる。人には騒動にしかみえないことも、実はユロなりの表現であったりすることが彼に見えてくる。バカンスの終わりには、彼の方から握手を求めにいく。むろんユロには何が何だかわからない。ここが小説のクライマックスになっている。この小説は、初老の男のきもちの変化を通して、いてもいなくてもいい存在、どうでもいい存在のユロが、誰かにとっては、是非いてほしい存在であったりすることを軸に書かれている。誰かとは、この映画では、初老の男であり、イギリス人のミス・トッピングであり、シュミット氏の子どものレジスであり、そして読み手であるぼくらなのだ。
映画は、「騒動」にまつわるギャグ、おかしな人物造型、美しいカメラ、少ない台詞と饒舌な音楽で進行する。この伏線はみえにくい。初老の男のユロへの目線など、ぼくも1回目みたときには全く気づかなかった。いてもいなくてもいい存在であり、また誰かにとっては是非いてほしい存在。その気づきに小説は誘導する。ジャック・タチはこのメッセージをむしろ気づかせにくくしているように思える。「ぼく伯父さん」にも同じものが流れている。「ぼく伯父さん」では、さんざ「騒動」を起こしたユロが、アルペル氏に追い出されるように田舎に旅立つ。ごった返す空港に吸い込まれていくユロからカメラはあっさり離れ、心通わせられなかったアルペル氏と息子のジェラールが固く手を握り合う場面で終わる。ユロは何だったんだ、そんなのろまなことを考えているやつはいないはずだ、といわんばかりだ。気づかせにくくしているのは、ひょっとするとタチが自分の映画について、そんな存在を狙っていたからかもしれない。
タチは、この2作の後、一人ひとりいろんな癖があっておかしい人間と、その人間たちがひたすら築こうとしている「文明」とのずれやずれながら共存する美しい姿を追いかけ、そして最後の作「パラード」で、「左側に気をつけろ」(ルネ・クレマン)の短篇時代を思わせるパフォーマンスを披露しながら、みる側みられる側の垣根を取っ払うことを試みる。「こっちに来い」とタチが招くようでもあった。
インターネットの中の「ブルー・イン・ザ・フェイス」
「スモーク」と「ブルー・イン・ザ・フェイス」どっちがよかった? そういう質問を実際に耳にしたわけではないが、いかにもありそうな今年の映画の話題。「スモーク」(ウェイン・ワン)がよくできた絹ごし豆腐とするならば「ブルー・イン・ザ・フェイス」はおからの味わい、「スモーク」がドラマらしいおいしいところを全部とってしまい「ブルー」は残滓とみまがう風情だが、このしぼりとったあとの滋養がいっぱいのようすに、「ぼくは、おから」と即座に答えただろう。つぶれそうな煙草屋がつぶれずにすんだ、というだけの話なのに、マドンナの「Singing Telegram」がそのことを告げるシーンにいたって、つぶれるつぶれないなどどっちでもいいと思ってなかった自分に気づいて、いっしょに快哉を叫びたくなっている。だらだらしているくせにキャラクターがどうもただものらしからず、2回目みたら別の発見をしそうな予感に満ちている。
ちょうどインターネットをはじめたばかりで、インターネットで「ブルー」の何がわかるか、ネットの海に乗り出すことにした。まず「Internet Movie Database」 これがハイパーリンクか、という最初の感動。パソコン通信を使ったデータベースでのサーチのおごそかさも悪くないが、気の向くまま「ブルー」のキャストのリストを眺めながら、そういえばジム・ジャームッシュって最近何撮ってたっけ、といったぶらぶら歩きができるのはありがたい。そう感じるのは、もともと人間のアタマがわがままなぶらぶら歩きをするようにできているからに違いない。ぶらぶら歩きしているうちに、いろいろなものに出くわす。作品別の情報では、スタッフ、キャストだけでなく Links with other movies というのもあり、「ブルー」の中で引用された戦争映画が「A Walk in the Sun」という映画だとわかったりもする。メニューは、 Technical / Summary / Trivia / Goofs / Laserdiscs / Quotes / Literature / Ratings / Dates / Critics / HyperLinks / Official / Reviews などと盛りだくさん。Reviews だけでも20くらいリンクが張られていて読み切れないくらいだ。CNNshowbizの Reviewには、ポール・オースターのことばの引用もあった。「スモーク」と「ブルー」を“two sides of the same coin”とした上で「ブルー」のことを“romp”あるいは“a modern-day vaudeville” と表現している。また、別のReviewには“improvisational picture”(James Berardinelli)という表現もあった。Reviews も Critics も読んでみたが、さすがに「ブルー」を「おから」と看破した批評はなかった。
インターネットなのだから、マルチメディア。CNN showbizのReviewには、ハーヴェイ・カイテルの声( "It's a dinky little nothing neighborhood store. But everybody comes in here.")がはいっているし、また、Officialの Miramaxのページには、2分15秒の予告編の映像がある。マルチメディアを実感できるメニューだ。ただし、ぼくが実感できたのは、1時間くらい後の、5メガバイトのファイルをダウンロードしてからであった。
あとがき
◆第6回千夜一夜ではたいへんお世話になりました。「大作三昧」というテーマでのもりあがりはついつい懐古的になりがち。OvertureとかIntermissionとかいうことばが死語にならないよう、みる側が、よしんば「ゴッドファーザー大会」ときいたとて「よし、来い」と胸をたたける力量を持たねばならない。
◆「Internet Movie Database」のおかげで調べごとが楽ちんだ。ジョー・ロバーツのキートン共演作の数、「ぼくの伯父さんの休暇」の初老の男のクレジット名、などすぐひっぱってくることができるし、「ウェールズの山」のキャラクター"Morgan the Goat"の"XXX the Goat"がどのくらい今までの映画に登場しているか、とか、3D映画がいつどのくらい製作されているか、とか造作なく調べられる。逆に、ジョー・ロバーツがクレジットされている出演作19作中キートン物以外が1つだけあるのを発見してなんだか気になったり、どっちでもいい余計なことも増えたりもする。
◆このアニュアルも、ペーパー版とWeb版、同時発刊の時代、ペーパー版ごらんの方、Web版では、バックナンバーも含めてhttp://www2e.meshnet.or.jp/~cinemann でごらんになれます。「何だ、字ばっかじゃないか」とたいへん不評のホームページです。
1995年
「全身小説家」(原一男)「未来は今」(ジョエル・コーエン)「騎手物語」(ボリス・バルネット)「フォレスト・ガンプ」(ロバート・ゼメキス)「うたかたの日々」(シャルル・ベルモン)「エド・ウッド」(ティム・バートン) 並べてみて脈絡のないこの6作が、今年劇場封切でみたもの。今年の前半は、できごと続きで映画どころではなかった気もするが、1年を通してこれらを含め88本自分がみていることを振り返ると、かえってフィクションのがんばりを感じるほどだ。
「フォレスト・ガンプ」は、ケネディ大統領との握手など実写との合成シーンが象徴するように、アメリカ現代史に迷い込んだ男のフィクションが生々しく同時代史を甦らせた。「全身小説家」はドキュメンタリーの中に、虚実皮膜のフィクションを映像化して滑り込ませることで井上光晴の小説世界に迫った。この2作の映像の到達はそれぞれ別ものであるにしても、ともにフィクションの逞しさを実感させてくれた。今年の震災のように実際目の前で起こっているできごとを知り、「虚」と「実」の紙一重を味わうきもちの余裕をなくしてしまい、せめて「虚」と「実」の間の距離が少々あろうと猛烈反復横飛びでもするしかないと、思い鬱勃としてくる中では、尊い実感だった。
ぴたっと「フォレスト・ガンプ」
思わせぶりな羽根だ。空を飄々と舞い、ガンプの足下に落ち、彼の絵本「Curious George」の中に収まる。収まるべくして収まったのか、たまたまでくわしただけなのか、ぼんやりしてたらエンディングにまた絵本から飛び出てきた。なんだか自分の答えをださないといけない気分になる。
ガンプは軍隊に「釘のように」はまった、という。たまたまはいった軍隊という運命のくぼみにはまって大活躍。ふつうはこうはいかない。くぼみをみようとしてもみえず、みえたとしてもはまらず、という不如意をくりかえす。アメリカという国が、またこの時代が、というより誰もが不如意な中で、ひとり一途なきもちひとつで駆け抜けるフォレスト・ガンプだけが、はまり続け、フットボールごぼう抜き、ベトナム友軍勲章ものの救出、ピンポン世界制覇、エビ漁大漁とあいなる。ガンプは、時代とともに葛折を歩むジェニーの対極にあったわけだ。彼が半生を振り返り、人生というのは、あらかじめ定まっている運命に向かってあっちいったりこっちいったりしながら引き寄せられていくものなのか、あてどもなくあっちいったりこっちいったりするものなのか、思いめぐらす場面があった。羽根の思わせぶりはここらへんのメタファーのようにもみえる。だけど、どっであったからといって、何ができるわけでもない。むしろ、ハンデを背負いながらもはまり続ける、爽快きわまりない飄々と、恵まれていてもはまらないという苦い飄々の二種類しかない、と思いもうけることのほうがぴたっとくる。
羽根は絵本から飛び出し空を舞い、最後にカメラにぴたっとくる。こんな野郎が世の中かえていくのだったらしょうがない、と拍手したくなる人間をみた。このたび、「フォレスト・ガンプ」という映画にであったのは「はまり」だ。
日本初公開 「うたかたの日々」
制作されてから四半世紀もたつのに、日本未公開だったフランス映画が2本、今年公開された。「うたかたの日々」(シャルル・ベルモン 1968年)「トラフィック」(ジャック・タチ 1971年)。いずれも東京での単館ロードショーで上映開始、大阪でみる機会を狙って配給会社に何度も電話したりしてアクセクしていた。「トラフィック」は見逃してしまいあきらめかけてたら、たまたまのNHK衛星放送でみることができた。「うたかたの日々」はシネマライズ渋谷でしっかりつかまえた。「トラフィック」はここのところのジャック・タチのリバイバルの流れから初公開はわかるが、「うたかたの日々」はどういう流れなのだろう。スタッフもキャストも無名の古い映画がどういう見込みで興業できるのか。
ぷちぷちとはじける気泡、透き通ったきれいな色のカクテル。たらふくのんだら、どうやらアルコールがしこたまはいってたらしく翌日二日酔いで頭が重い。十数年前、ボリス・ヴィアンの原作「うたかたの日々」を読んだときそうだった。二日酔いだけでなく、そのときから、ぼくの中に何かがとぐろを巻いて居座りだした。そいつの正体は、この物語のヒロイン、クロエにとりついた奇病、肺に巣喰う睡蓮の花に他ならないのだが、この映画が、世の中の、とぐろ持つ人々に向けて初公開されたわけではないとすると、例えば、この映画館界隈を歩いているティーンエイジャーたち、「ピアノカクテル」でものんで生きているのかしらと思わせる、生活感が妙にうすい90年代半ばの日本の若者たちに向けて、初公開されたにちがいない。映画館に向かいながら思った。
「うたかたの日々」は、何不自由なく暮らししあわせの絶頂にあった男女が、クロエの奇病をきっかけにふしあわせへまっさかさま、という悲しい話。登場人物の誰もが生活感がなく社会的通念から自由でふわふわしている。ピアノの奏でる音でつくる「ピアノカクテル」なんぞをのんでいた彼らが、まっさかさまにおちながら、好きなことに思いつめるあまり、結果として人の死を予告してまわったり、人を殺したり、絶望に見舞われ、クロエも睡蓮にむしばまれ死に至る。うたかたのはかなさに、睡蓮の花の美と死が居合わせる。
からだに植物が巣喰い、そこから咲く睡蓮の花。こんな悩ましい幻想はどこからきたのか。古の仏教説話に、信心深い人が死んだとき、蓮の花がからだからはえて口から飛び出る、という話がある。(今昔物語巻十九讃岐國多度郡五井聞法即出家語第十四)この話は、芥川龍之介「往生絵巻」の換骨奪胎で知られている。この幻想がぼくのところにきてとぐろを巻きだしたのは、そんな昔のことではなく、何年か前の健康診断で「肺に影あり、要精密検査」のあげく、気管支が肺中にはえひろがる「気管支拡張症」という立派な病名を授かったときからだ。診断をくだされてぼくは、肺がジャングル風呂のようになっていくような息苦しさにとらわれながら十年くらい前に読んだ「うたかたの日々」を思い出し、ボリス・ヴィアンの理解者に一歩近づいたような錯覚を持った。「うたかたの日々」は、映像表現ではどうなるのか、「いやがるネクタイ」「泣き叫ぶソーセージ」(訳 伊東守男)は表現できないとしても、「ピアノカクテル」「人肌で暖めて育つ銃」といったキッチュな装置たちは登場するのだろうか、「鶏が走り回る中、象に乗って講師が登場するジャン・ソルの講演会」の場面では、ホントに鶏や象がでてくるだろうか、そんなことに気をとられながらみたのだった。
映画では、原作のオブジェの毒々しさよりも、つくりものの美しさが強調され、ピアノは美しいカクテルをつくりだしたが、鶏や象はでてこなかった。原作がはらんでいる破壊の衝動、例えば、既存の社会通念をぶちこわしたいのに結局その社会通念で守られている現実を享受している苛立たしさといった毒の部分は、当時、ココロにいろいろなとぐろ持つ人々に刺激だったのだろうが、映画では、ひたすらイメージの徒花の中の悲恋をすくい上げている。その中で、足元がなんだかふわふわしていて大地を踏みしめている実感がない中で、何だかわからないが何かに対して懸命でありたいと思っているような、恵まれているが飢えているような、そういう気分をしっかり伝えている。
みおえて映画館をでると、へそをだしたり、ジーンズの上にパンツをはみださせたりした若者たちが、携帯電話で話したりしながらぞろぞろ歩いていた。ぼくがのんだ「ピアノカクテル」とはちがう「ピアノカクテル」をのんでいるのかもしれないが、世紀末の日本だからといって特別なものではないのだろう。なぜ今「うたかたの日々」か、そんなことを考えてもしかたなさそうだ。
「冒険者たち」の3つのテーマ
「冒険者たち」(ロベール・アンリコ)の音楽は、3つのテーマで構成されている。緊張感のあるスタッカートのピアノによるテーマ、そこに交互に織り込まれるように使われる口笛によるテーマ、そしてスキャットによるテーマ。
ここ20年何度となくみているこの映画について、そんなことを今更のようにいいだすのは自分でも訝しいが、音楽と映像が単位となって、台詞もあまりなく展開していく映画が、1960年代後半から1970年初頭にかけてアメリカでもフランスでもいっぱいあったのに、最近そういう発想でつくられる映画に出会わなくなってきたからかもしれない。み終えても頭の中にテーマ音楽が響いてて、思わず映画館の帰りにサントラ盤を買ってしまう、というようなことがここのところない。ぼくが映画をみるようになった1970年代半ばはテレビでもリバイバルでも、音楽と映像のひとまとまりで紡がれるようにつくられた、いわば映像のポエトリーに出会うに事欠かない時期だった気がする。例えば「明日に向って撃て」(ジョージ・ロイ・ヒル)をリバイバルでみて、痛いほどの残響の中、バート・バカラックのサントラ盤買って帰ったのは、「冒険者たち」を初めてテレビでみたのと同じ頃。こういう映画に十代で出会ったのは冥加の至りだ。
3つのテーマにどう名前がついているのか知らないが、ピアノのスタッカートは、実はピアノ以外のバリエーションがブラス、口笛とあり「スタッカートのテーマ」としておこう。口笛のテーマは、エンディングのアラン・ドロンの歌以外はほとんど口笛なので「口笛のテーマ」と呼んでいいだろう。スキャットも実は口笛で奏でられる場面があるが「スキャットのテーマ」と名付けるとしよう。この3種類の音楽が映像と同等の位置づけで、時には映像をひっぱるように心情表現する。
例えば、「スキャットのテーマ」はレティシア(ジョアンナ・シムカス)の葬送のテーマ。潜水服姿の彼女はダンスでもしているような腕の形のまま舞うように海中に深く沈んでいく。そういう水葬シーンにずっと流れる。このテーマはそのあとしばらくして、パリの街を一人歩く失意のマヌー(アラン・ドロン)にかぶさる。水葬シーンがマヌーの頭に去来するのが伝わってくる、こういう音楽の使い方。
「スタッカートのテーマ」と「口笛によるテーマ」は、どきどきとほのぼのが交錯する場面に合わせて紡がれる。最初のマヌーの曲芸飛行の練習場面がその例。台詞がほとんどない場面の中、「口笛のテーマ」は決まってレティシアの歩みに寄り添うように、ほのぼのとでてくる。ロラン(リノ・ヴァンチュラ)のガレージにやってくるレティシアがアップになると「口笛」、またガレージにバイクで走ってやってくるレティシアにかぶさる「口笛」、この繰り返しによって、「口笛」でレティシアがわかるようになるのだ。彼女が個展のための作品をとりにトラックで来る場面では「口笛」が先に流れてきて、レティシアがかえってきた!とわかるのだ。映像をひっぱるというより映像以上に心情を表現している。この表現力がもっとも発揮されているのが、ロランとマヌーがレティシアの遺産相続人を彼女の故郷ラロシェルに探しあてた後の場面だ。ロランは、相続人である彼女のいとこの少年が指さした海の向こうの要塞島に目をやる。ここで「口笛」。この口笛によって、レティシアの、住みたいと語っていたことばが甦る。あの島だったのかと了解するロランは、この島を手にいれる決意をする。口笛は、映像にないレティシアが甦らせ、そのレティシアへの思いをたちきれないロランの気持ちをも表現している。
思い出し笑いの場面場面
◆I.V.C.というところが古い映画を片っ端からビデオにしてくれて、しかもレンタルできる。ありがたい。短編も含めたキートン特集もありがたい。「キートンの蒸気船」(バスター・キートン、チャールズ・F・リースナー)の台風の場面。この時代スプラスティック・コメディ出演の女優さんもたいへんだあ、と吹き飛ばされたり、ずぶぬれになったりするキティ(マリオン・バイロン)をみて思ったが、そういう中でも彼女はスカートの裾を押さえたりしてきちんとしている。こういうしぐさもありがたい。
◆「ジャズ・シンガー」(アラン・クロスランド)も、I.V.C.のビデオで初めてみた。トーキー第1作ということだが、トーキーは歌の部分だけ、ずいぶんいんちきだが、もう時代はトーキー、とても字幕に収まらない、そんな気持ちのほとばしりが感じられる場面。主人公がエンタティンメントの世界で初めて認められて叫ぶ「New York!」「Broadway!」「Home!」「Mother!」 ここの字幕の字は、ただものではない。ひとことひとこと巨大化していくのだ。ほとばしっている。
映画の中のオズの魔法使い
初めてアメリカにいったとき、もっともアメリカを実感したのが、会員制スーパーPrice Clubで、セメント袋大のペットフードやハンバーガー用バンズの山々に負けないくらい大山になっていた、「オズの魔法使い」のビデオ。猪俣勝人は「世界映画名作全史(戦後篇)」(社会思想社)の中で「戦争が終わり、惨憺たる飢餓感に心身共にさいなまれながら、われわれはアメリカ映画を見た。そしてその豊かさに文句なく脱帽した」と書いたが、ぼくもそのとき被っていたエンジェルスの野球帽を脱いだのだった。
子供向け映画にここまでやる。子供向けだから、かもしれない。「オズの魔法使い」の話がアメリカの生活にどうしみわたっているか、映画の中の「オズ」の有名フレーズに気づくことができればわかりそうだ。たまたま今年みた中では2作、「スローターハウス5」(ジョージ・ロイ・ヒル)と「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」(スパイク・リー)で気づいた。いずれも誕生日のプレゼントを渡す場面だったのがおもしろい。「スローターハウス5」では、家の外にあるプレゼントの車からリボンをひっぱってきて、「Follow the yellow brick road!」 「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」ではプレゼントを渡す前に「かかとを3回鳴らして“ There is no place like home.” といってごらん」という具合。こういう引用にまた出くわすのが楽しみだ。
お楽しみパンフレット
映画のパンフレットを持っていない。映画をみる前には買う気がしないし、み終えて感動すると買い忘れる。そもそも封切映画をみに行く機会が少ない。10年くらい前、リバイバルで復刻版パンフレットをよく売っていたが、今もあるのだろうか。この手のものが手元にちょっとある。B5版で、日比谷映画劇場とか東京劇場とかの名前だ。古い現物からつくっているので、表紙のシワやセロテープの跡とか残っている。大事に持っていた人のココロが偲ばれる。復刻版は読んでて飽きない。それはきっと、広告のせいだ。学生の頃、暇つぶしに毎日図書館にこもって、古い雑誌の広告ばかり眺めていたことがあったが、復刻版パンフの広告をみるとまたそそられてしまう。
「スミス都へ行く」(日比谷映画劇場 昭和29年)のパンフ広告「ゼネラルラジオ マジツクアイ付 6球スーパー」 たったこれだけでうなってしまう。「マジツクアイ」とはなんだ。「6球スーパー」とはどれだけすごいのか。考え込んでしまう。「スミス都へ行く 彼氏彼女はピータースへ ピータースレストラン」とちゃっかり広告。「熱いトタン屋根の猫」(有楽座 昭和33年) 「キスミーエアーソフト口紅一寸贅沢ですが、美しいピンク色のムードが他にかけがえのない値打です」値打ときたか。ピンク色のムードなんだから、それは確かに値打ちに相違ない。
あとがき
◆「○○をみたら、映画“観”がかわる」こんな凄みのあるアドバイスを頂戴することは稀有なこと。第5回千夜一夜をきっかけに今年「ローズ家の戦争」「ミザリー」をみることができてよかった。ぼくも人にいい映画を薦めるときの表現を逞しくしよう。
◆昨年の千夜一夜で映画をネタにした芸を開発したが、「アリゾナドリーム」をみて負けたと思った。自称役者ポール(ヴィンセント・ガロ)の映画再現パフォーマンス。映画館で「レイジング・ブル」をみながらのロバート・デ・ニーロとジョー・ペシの兄弟の諍いの台詞の完全コピーとか、「ゴッドファーザー・パート2」のアル・パチーノとジョン・カザールの兄弟の訣別シーンの再現とか、笑いがとまらない。極めつけは「北北西に進路をとれ」のケイリー・グラント。こんな激しくばかばかしいオマージュはない。
◆パソコンをリプレイスして、私的映画データベースもカード型DBからリレーショナル型DBにのせかえた。おおごとだったが晴れてWindows95上で動くようになった。ワープロも速く軽く動くようになった。しかし、16ビットから32ビットになったのはパソコンであって、ぼくの頭がかわったわけではない。当たり前のことに、この原稿書きのもたもたの中で気がついた。
1994年
世の中の映画の話題に疎いぼくが、今年カンヌ映画祭グランプリ受賞の2作「ピアノ・レッスン」(ジェーン・カンピオン)「さらば、わが愛/覇王別姫」(チェン・カイコー)を記憶にとどめていて、2作ともちゃんと封切間もなくみたのは我ながら立派な部類だが、今年みた101本のうち、この2作以外劇場封切でみたのは「日の名残り」(ジェームズ・アイヴォリー)と「心の地図」(ヴィンセント・ウォード)の2作だけという例年並み。
「さらば、わが愛」は、たまたま封切3日目に東急文化村のル・シネマ2でみた。ちょうど東京に大雪が降った翌日だった。ル・シネマ1と2の、2館時間差同時上映予約入替制。昼過ぎに行ったら「本日お席があるのは最終回だけです」、6時間の暇つぶしを余儀なくされた。実はその日の昼前、西洋美術館のバーンズコレクションでも、雪の上のずいぶんな行列にまきこまれてしまって、東京では絵をみるのも映画をみるのもたいへんなことだと気をひきしめたのだった。
「さらば、わが愛」のこれでもかこれでもか
そういうわけで、けっこう鋭意努力してみにいった話題作。(「さらば、わが愛」とは思い切った邦題をつけたもので、これはたいそう恥ずかしい。) この映画のこと、ぼくはろくすっぽ知らなかった。これもたいそう恥ずかしい。チャン・イーモウの「紅いコーリャン」を何年か前にみたことがあったが、中国の「第五世代」というのもよく知らず、スタッフやキャスト、あるいはジャンルの括りといった、映画の概要理解のために無意識に使う座標らしいものもない状態で、まっすぐに映画に向かうには、かえってほどよい具合だった。
そうしたら「さらば、わが愛」は、この際だからやりたいことは全部やっちゃう、という決意みなぎる、ただごとではない映画だった。そこらの座標にはのりそうになかった。いくつかの主題のからみあい。そのうちひとつくらい次の作品にまわしたら、といいたくなる底なしの貪欲。表現のかつえから解き放たれた「これでもか」に、映画一本の器にこれだけのもんをいれてしまう「これでもかこれでもか」に、あびせ倒されてしまった。
役は役、自身の生き方は生き方と割り切って、生きることを選びとりつづける小樓。覇王別姫の虞姫という役を、生きることそのもので全うしようとするかのような蝶衣。二人は劇中劇の構造の中で、対置されているかにみえる。が、二人の違いは、自分が役を選んでいると思うか、選べないと思うかの違いで、何かの役に殉じている、ということではかわらない。だんだん、同じ者の姿にみえてくるのだ。みえてくることで、ぼく自身この映画に入ってしまった。入ってしまったので心情表現のけれんもウェルカムになって、蝶衣のきもちの高まりの描写、文楽でいう「くりず」や「うしろぶり」のような描写を、京劇の様式美なのかどうか知らないが知らないままに陶然とうけとめていた。
映画館をでると歩道の雪が凍てつきはじめていた。滑らないように気をひきしめて歩いた。
「ファントマ」3部作再見
ぼくが10代前半の頃、時間は無尽蔵にあって、日曜日の午後などいつもテレビで映画をだらだらみていた。「ファントマ」シリーズをみたのもきっとその頃だ。15歳の時に「ファントマ 危機脱出」をみた記録が残っている。(記録といってもただのノートだ。1976年2月16日となっている。その前後では、1月30日「SF人喰いアメーバの恐怖」主演スティーヴ・マックイーン 2月7日「女ガンマン 皆殺しのメロディ」主ラクエル・ウェルチ 3月12日「ロサンゼルス警察 マフィアからの挑戦」主演ヴィック・モロー という具合のだらだらぶりだ。高校入試前だったはずなのに) 3年前、シリーズ第1作の「ファントマ 危機脱出」をレンタルでみつけて15年ぶりの再会を果たしたが、そのときには後の2作はみつからなかった。それが、今年新たに発掘したレンタルビデオショップから見事掘り出されたのだ。3作揃い。ぶっつづけでみて、すっかり「ファントマ・カルト」になってしまった僕は、ジャン・マレー演じる新聞記者ファンドールの勤務する新聞社の名が「Le Point du Jour」であることや、ファントマ登場を告げるネームカードに書かれる言葉が「近日参上(A Tres Bientot)」であることや、ルイ・ド・フュネスのジューヴ警部ののろまな部下の名が「ベルトラン」であることなど、なんでも知っているのであった。
ちなみに、3部作とは、「ファントマ 危機脱出」(1964年) 「ファントマ 電光石火」(1965年) 「ファントマ ミサイル作戦」(1967年)の3作。監督アンドレ・ユヌベル。ジャン・マレー、ルイ・ド・フュネス、ミレーヌ・ドモンジョの不動のキャスト。第1作「ファントマ 危機脱出」は出色のできばえだ。が、その後2作、3作と力が落ちていく。60年代が終わっていくのだ。
第1作「ファントマ 危機脱出」をみると、60年代のパリがなつかしい。もちろんぼくは60年代のパリを知っているわけではないが、そんなことを口走りたくなる。こののどかさはなんだか記憶にあるのだもの。「ファントマ」は、のんびり気味の経済成長の無聊が生んだピカレスクだ。「物価高騰、交通災害、汚職……」といった、経済成長の軋みによる社会現象を何者かのせいにしたいという世論から、ファントマは生まれる。悪漢をでっちあげようとする新聞に、ホンモノのファントマが怒って「近日参上」とあいなるわけだ。「悪漢願望」というところが、のどかさの所以だ。
さて、参上したファントマ、何をするか。フランス全土を恐怖に陥れるか。どうやらそうともいえず、追いつ追われつばかりやっている印象だ。大時代のチェイスを、鬼のような移動撮影が盛り上げる。追っ手がバイクを走らせたままマシンガンの両手撃ちとくれば、追われるファントマは、油を撒いてバイクを転倒させて逃げる、逃げる。車、バイク、汽車、ボート、潜水艦と乗り移る、乗り移る。男子個人メドレーの逃げっぷり、「危機脱出」。追われるファントマのシトロエンが突然ヒコーキになって飛んでいってしまう「電光石火」。追うジューヴ警部が繰り出すは、007ばりの新兵器、シガーピストル、義足マシンガン、テレパシー銃? 全篇に冴えわたるB級スピリット。
追ったり逃げたりで忙しい映画だが、ミレーヌ・ドモンジョのエレーヌはシリーズの花、みる者の心をなごませっぱなしだ。しゃべることばのほとんどに意味がない彼女は、いちおう新聞社のフォトグラファーということになっているが、記者会見でも鉛筆くわえていたりしていて人の話を全然きいてない。そのくせたまにびっくりするくらいの名言を吐く。ファントマに恋されるに値するキャラクターだ。
行き急ぐ時代に「待った」をかけるようにファントマは現れ、ひとあばれして、60年代とともに、笑い声を残して去っていった。記憶にひっかかっているなつかしい時代から、たまには90年代ののどかな日本にもやってきて、現れてほしいものだ。誰も無尽蔵の時間など持っていないけれど、現れたファントマには気づけるようにしておこう。
思いだし笑いの場面場面
◆「戦場にかける橋」(デイヴィッド・リーン)の捕虜収容所長、斎藤大佐は、大日本帝国軍人であることの矜恃を片時も忘れない、職務に忠実な男だ。彼は、部屋にあるカレンダーに毎日向き合い、遅々として進まない工事にいらついていた。このカレンダーが、実はOHIOなんとかというピンナップガールカレンダーであることを、見逃してはいけない。
◆「北国の帝王」(ロバート・アルドリッチ)の本質は、男と男の対決ではなかった。無賃乗車にノウハウがあるように無賃乗車妨害にもノウハウがあることを開陳してくれる、命がけのノウハウ対決映画だった。走っている貨車の下にもぐりこんだ無賃乗車者を妨害するとき、あなたならどうしますか? 金棒に紐をくくりつけ貨車の下に流してたたきだす。こんな方法、素人には思いつけません。
今年の出会い
ぼくにとって今年の出会いというと、スパイク・リーとコーエン兄弟。スパイク・リーは 「マルコムX」「ドゥ・ザ・ライト・シング」「ジャングル・フィーバー」「モ・ベター・ブルース」 コーエン兄弟は「バートン・フィンク」「赤ちゃん泥棒」「ミラーズ・クロッシング」を、この1年でみた。くっきりした個性の映像の作り手と出会うのはうれしい。
「ドゥ・ザ・ライト・シング」の赤い壁の前で、まっ昼間仕事もないのか、いつも無駄話している三人のおっさんたち(クレジット名、その名も「ストリートコーナートリオ」)。パトロールの警官に“What a waste!”と吐き捨てられても無関係、三人いつもいっしょでほがらかだ。意味のない無駄話場面が何度も繰り返される。スパイク・リーの映像のリズムは、こういうシークェンスの積み上げでできている。「月はどっちにでている」(崔洋一)でも、台詞の意味による展開を捨てたリズムが気持ちよかった。このリズムがぼくにはずいぶんいいらしい。なんでもない生活のリズムの中で、少しずつ少しずつズレやヒズミが蓄積されていき、最後には爆発するが、爆発したってやっぱり生活のリズムは続くのだ。なにかあったらちょっと鳴きやんでまた続く蝉しぐれみたいだ。人種のいがみあい、骨肉の争い、そういうこともしっかりした距離感で、のんきなメロディにのせてしまう。だから、狂言まわしのような「スマイリー」が、焼け落ちる「Sal’s Famouse Pizzeria」のイタリア人有名人の壁に、マーチン・ルーサー・キングJr.とマルコムXの握手の写真を貼って勝ち誇った顔をする場面を描いたとしても、レイシズムの解決策としての暴力、アリやナシや、のお安い弁証法を拒んでいられるのだ。
ジョエル・コーエンの生み出した映像は、新しいスペクタクルの領域を開いた。それは単に移動撮影の技術の領域ではない。映像と音が人の生理に働きかける力の領域、一刹那の映像が持ちうる説得力の領域だ。コーエンにかかると、タイプライターの活字が紙を打つ場面さえ、意志を持った金属の塊が、まっさらな地平に打擲を加え、後戻りのきかない刻印を残す、というような映像になってしまう。ぼくがあっと声をあげそうになったのが、一刹那の映像。「赤ちゃん泥棒」では、カタキと思っていたキッドナッパーの胸元に、自分と同じウッドペッカーの入れ墨が閃く。「バートン・フィンク」では、苦しみの執筆のさなかいつも写真でみていた海辺の光景、虚構の世界のもののようにぶらさがっていたものが、最後に実風景として眼前に現れる。足元が不意にぐにゃりとなるような一瞬だった。中身のわからないものを後生大事に抱えながらよろよろと逢着したところが、アートとかエンタテインメントとかいった区分が意味をなさない、なんだかみたことのある景色。「バートン・フィンク」における新進作家の新作「魂のレスリング」はここで終わるが、コーエン兄弟には次なる作があるらしい。「未来は今」の公開が今から楽しみだ。
役者でも、スパイク・リーとコーエン兄弟の常連が目だった。ジョン・タトゥーロとジャンカルロ・エスポジトがその代表。タトゥーロは「ミラーズ・クロッシング」が最高。「モ・ベター・ブルース」の双子の兄弟のクラブのオーナー役もよかった。ジャンカルロ・エスポジトは「ナイト・オン・ザ・プラネット」(ジム・ジャームッシュ)で東ドイツ移民のタクシー運転手に4文字言葉を教える客の役で記憶に残り、その後「ドゥ・ザ・ライト・シング」の「バキンアウト」役をひとまわりスケールアップしたかのような、「アモスとアンドリュー」(E・マックス・フライ)の扇動的な宗教家役で、異様な個性がぼくの中で決定づけられた。忘れちゃいけないのが、ビル・ナン。「心の旅」(マイク・ニコルズ)や「天使にラブ・ソングを」(エミール・アルドリーノ)でみせた誠実なキャラクターを、根こそぎぶちこわしする大男。「ドゥ・ザ・ライト・シング」のラジオ・ラヒーム役は、LOVEとHATEを自らの二つの拳に対立させる、すごい奴だった。ラジオ・ラヒームが怒ると、彼の顔にカメラは一気に引き寄せられ、しかも魚眼レンズになってしまい、最後には画面の全域を占領されることになる。カメラに映るだけで暴力だ、というくらいすごい。
そういえば、ハーヴェイ・カイテルが最近なにやら売れっ子だ。「ピアノ・レッスン」の主演ぶりなどみても、押しも押されぬたたずまいだ。「タクシー・ドライバー」(マーチン・スコセッシ)の「スピード」役のようないかがわしさが持ち味と決めつけてしまっているぼくには、最近の立派ぶりは不本意だ。確かに「テルマ&ルイーズ」の刑事役でみせたような苦労人ぶりも捨てがたいが、ハーヴェイ・カイテルらしさでいうと、最近では「アサシン」(ジョン・バダム)の掃除屋だ。持ち味いっぱいの出演を、今後ともよろしくお願い申し上げます。
邦題の不可解 その2
前号でも書いたが、最近の邦題はどうもなっとらん、と感じる。原題をそのままカタカナにして、余計わけわからんものになっていたりする。「ドゥ・ザ・ライト・シング」より「Do The Right Thing」の方がずっとわかりやすい。原題のニュアンスを日本人にわかりやすく、インパクトあるものとして、いかにメッセージするか、ということにおいては、一昔前の邦題の方が、砕いたココロが伝わってくるものが多いように思う。そうはいっても、古い邦題にも傑作駄作がある。同じように歴史に残ってきた作品なのに、邦題のセンスで損したり得したりしているようにみえることもある。もちろん公開時に歴史に残るかどうかなどわからないし、邦題にも邦題の事情があったのかもしれない。
例えば、フランク・キャプラによる人名入りタイトルの作品の中でも、邦題の出来不出来の差は大きい。これ以上ないという邦題の「スミス都へ行く」。それに比べ、「オペラ・ハット」はぴんとこないし、まして「群衆」はかわいそうなくらいだ。
「オペラ・ハット」(Mr.Deeds Goes To Town)
1936年製作、日本公開同年
「スミス都へ行く」(Mr.Smith Goes To Washington)
1939年製作、日本公開1941年
「群衆」 (Meet John Doe)
1941年製作、日本公開1951年
こうしてみると、アメリカで続けざまにつくられたものが戦争のためか公開がとんでしまっている。前作あやかりを考える以前に英語が敵国語になってしまったりでたいへんだったのかもしれない。(1942年から終戦まではドイツ、イタリア映画しか公開されてないようだ)「ディーズ街へ行く」は、次作の原題がわかっていればありえたかもしれないが、「ジョンドー時の人になる」とは事情が許さなかったかもしれない。
邦題ついてしまえば運の尽き、と思いきや、邦題がかわる、という「反則」も世の中にはある。007シリーズが有名だが、他にも最近目につく。ずいぶんぶりのリバイバルのときなど特殊だろうが、混乱しそうだ。公開時にみたわけではないので違和感はないが、「影なき狙撃者」(フランケンハイマー)が「失われた時を求めて」など、わざわざかえるほどの理由があるとも思えない。ちなみに、「ザ・プレイヤーズ」(ロバート・アルトマン)の冒頭、ハリウッドの場面、いろいろな映画のタイトルがり飛び交う会話があったが、その中に「The Manchurian Candidate」がでてくる。字幕は「影なき狙撃者」だった。邦題とはいったいだれのものなんだろうか。
クローズドキャプション、その後
うれしいことに新作レンタルビデオに、クローズドキャプション(CC)つきのものが増えてきた。ワーナーホームビデオからでる新作には全部ついているみたいだ。CCでみていて得をしたのが、「ミセス・ダウト」(クリス・コロンバス) ロビン・ウィリアムスのPLAYING VOICESの妙技に、CCは、ショーンコネリー風に、とか「レッドネック」風に、とか説明をいれてくれるので、言語文化上のギャップを持つ日本人も笑いに少しは追いつくことができた。
あとがき
第4回映画千夜一夜は、カルトクイズ大会のようで、思い出深いものになりました。また、想像お座敷映画芸という高度な遊びを考案したので、今後ますます楽しみが広がりました。想像お座敷芸は、初心者にもできる、裏声と太鼓たたき(「ブリキの太鼓」)から、梯子に乗ったままの横っ飛び(「アニマルハウス」ジョン・ベルーシ)のオオワザまで、幅広くお楽しみいただけます。寒い日に、カーテンを開けガラス窓を鼻息でさっとくもらせることにより「ジュラシックパーク」ということもできます。(本当に、カーテンを開けたり鼻を近づけたりするには及びません) なおいっそう技を磨き巧みを凝らして、怖いものベスト3である「チャイナタウン」のジョン・ヒューストン「マラソンマン」のローレンス・オリヴィエ、「1900年」のドナルド・サザーランド、という芸域まで迫れたらと思います。
来年も、芸心をくすぐるようなパフォーマンスに、いっぱい出会えますように。
1993年
ちゃんと振り返る93年
ANNUALといって書いているのだから、少しは同時代を意識したものにしなければ、とちゃんと思っている。だが今年もまた、封切映画を見てないので「私的回顧」といいわけみたいだ。今年1年でみた映画が106本。うち封切は「クライングゲーム」「ジュラシックパーク」の2本だけ。これではいかんともしがたい。
ある時、ぼそぼそ映画でもみるか、と大井武蔵野館での「砂の女」「他人の顔」(勅使河原宏)の2本立てをみにいったら、大盛況で面食らってしまったことがあった。今年の1月23日のこと。ちょうど前日、たまたま安部公房が他界したところだった。映画にとっての同時代の話題というものがそういうものだとしたら、封切2本であっても回顧のしようはあるだろう。レンタルビデオ店ににわかにできた「オードリー・ヘプバーン」コーナーみたいな回顧にはなるのだろうが。
科学の力だ、ジュラシックパーク
ぼくは昭和35年生まれで、なんというか「科学の子」だ。大阪万博で月の石をみるために2時間待ちも厭わず、夏休み前に買ってもらったポケット図鑑「岩石と鉱物」で、月の石と地球の石の比較考察をして育った。同世代の人の多くもそうだろう。科学技術の進展が人類を幸福にしてきたところをつぶさにみてきたのだ。これは本当のことだ。ときに、「人類の進歩と調和」は科学技術だけに因るものではない、などといったわかりきった主張をいっぱつ無効にする事件が今年起こった。「ジュラシックパーク」だ。「それいけアンパンマン」をとるか「ジュラシックパーク」をとるか、悶々としたり兄弟喧嘩したりしてきたような家族連れに混ざり、お盆のど真中にみにいって、そう思った。
映画の最初、ジュラシックパークに到着したらホンモノの草食竜が草を食っているのだもの。それだけで、よくぞこんな立派なテーマパークをつくったもんだ、と胸がいっぱいになってしまった。話をきいてみると、ここの恐竜たちは、蚊が吸った血の中のDNAからよみがえらせたという。このまことしやかさも科学技術の一種にちがいない。それにしてもどうやって撮ったのやら、科学技術による映像表現というのはここまできたかと思わせる。
ジュラシックパークというパークは科学の勝利だ。ジュラシックパークという映画もまた科学の勝利だ。映画のジュラシックパークは莫大な製作費に見合う興業収入をあげているだろう。(親会社をほっとさせる8.7億ドル!)科学を勝利させる社会システムの勝利でもある。かたやパークのジュラシックパークは社会システムの方がちょいとおそまつだった。おそまつだったからこそトラブルがおこり映画らしくもなるわけだ。だが、映画らしくするために主張じみたこと………例えば、Creatureを制御しようとする、あるいは売り物にしようとする人間の姿勢への警鐘というようなことを、盛り込むことはない。そんな主張ならキングコングの時代に終わっているからだ。そんな映画らしさより草食竜の食事が延々続く映像の方が「科学の子」としてはうれしいくらいだ。次の機会があるかどうかわからないが、パークのジュラシックパークには是非がんばってもらいたい。
気の毒で楽しいスパイ映画
1年刻みで語るほどの同時代性は映画にはないのだろうが、わずか数年の間の時代の移り変わりによって、時間の経過以上に古びてしまう映画があるとすればそれは気の毒なことだ。戦後のアメリカのスパイ映画の、ゾクゾクハラハラの背景には、映画みたいなことがひょっとしたら……という、時代の取り越し苦労があったにちがいない。ソ連もなくなり、ロシアもスパイどころではなさそうな今日この頃、東西緊張ものの、気の毒なスパイ映画をみるのは楽しい。
たまたま同工異曲のスパイ映画に出くわした。ジョン・フランケンハイマーの「影なき狙撃者」とドン・シーゲルの「テレフォン」だ。いずれも、「東」側の催眠術による秘密工作員がアメリカに危機をもたらす、というもの。かたやトランプのクィーンが、かたや詩の一節が催眠工作のトリガーになっており、それを引かれた男は破壊工作や暗殺工作を始めるのだ。今は昔、東西緊張時代にはありそうなこととけっこうまじめに受けとめられていたのかもしれない。そんなふうに思いながらみるとしっかりゾクゾクする。また、この手の映画はけっこう低予算でがんばっているものが多いようだ。「東」側を描くにも「レッズ」みたいな迫真セットなどなく、あるものでつくろうという気合いが感じられ、いっそう楽しい。「テレフォン」では、KGBのボルゾム大佐を、ロシア系アメリカ人チャールズ・ブロンソンが演じている。拍手。
リチャード・バートン、うっちゃり
衛星放送のおかげで、テレビで放映される映画の数も多くなってきた。ただ、ここで見損なうとちょっとみることができない、という作品はそう多くはなさそうだ。テレビでかかる映画は、たいていの場合、新聞のテレビ欄程度の事前情報しかない。11月16日NHK衛星第2で放映された「危険な旅路」(ピーター・グレンヴィル)も例外でなく、監督は知らないし、テレビ欄にはエリザベス・テーラーとリチャード・バートンの名。みる気にならないパターンだったが、たまたま始まる時刻になってザッピング中、クレジットタイトルが目にはいりリモコンの手をとめた。先の二人のほか、アレック・ギネス、ピーター・ユスチノフ、リリアン・ギッシュなどでてきた。さらに撮影監督にアンリ・ドカエの名。これは拾いものかも、という予感が、みおえて実感に。苦手な部類のR・バートン、いつもの彼の役どころだと思わせておいて、最後にやるじゃないかとうっちゃってくれる。「キャッチ22」のジョン・ヴォイトみたいなもんだ。役どころは、圧政のハイチで政府にも反乱軍にも加担しないアメリカ人のホテル支配人。ひょんなことから彼は、反乱軍に指導者として迎えられてしまう。しかも彼はしっかり反乱軍を率いてしまうのである。自分でもわからない力にずるりずるりと引っ張られ、意外にそこにはまってがんばってしまうということ、あるある。
それにしても、放映作品はどんな基準で決まるのだろうか。こんな作品の掘り起こしをやってくれるとありがたい。
思いだし笑いの場面場面
◆リメイク物を比較しながらみるというのも、ビデオのお楽しみ。J・リー・トンプソン「恐怖の岬」のリメイク版、「ケープフィアー」(マーチン・スコセッシ)は、ロバート・デ・ニーロの力みむなしくちっとも怖くない恐怖映画だったが、前作の出演者ロバート・ミッチャム、グレゴリー・ペック、マーチン・バルサムが勢ぞろいしている。途中お互い30年前を思いだして目くばせでもしているようだ。同窓会のノリで楽しい。
◆アラン・パーカーのデビュー作「ダウンタウン物語」、達者なカメラ回しに改めて感心してみた。当時14歳のジョディ・フォスターの演じる情婦タルーラが酒場で歌いながら客に色目を使う場面がある。ポケットチーフをとりあげられたり、眼鏡をはずされたりする紳士たち(もちろん子役)がまんざらでない顔をしてにやけるのだが、ほとんど子どもとは信じがたいおっさん顔だ。演技指導を想像すると何度でも笑える。
◆「プリティリーグ」(ペニー・マーシャル)は数々のアメリカ野球映画の中でも出色の一作。映画の最後は、戦時中の女性大リーガー(もちろんかなりの年輩だ)が集まってゲームをする場面だが、ここの出演者は本物だ。まちがいない。プレイが半端ではない。カメラが向けられていることなどそしらぬ顔だ。おみそれしました。
◆刑務所を舞台とする映画が刑務所の実際を描いているかどうかは知らないが、「アルカトラズからの脱出」 (ドン・シーゲル)に描かれている服役者のユニフォームは、ダンガリーシャツにワッチキャップ、ピーコート。なんだ、ぼくと同じだ。
フレデリック・フォレストの出演作
もうひとつぱっとしない風采が味わい深いF・フォレスト。「ワン・フロム・ザ・ハート」のあと、彼がダシール・ハメットを演った「ハメット」(ヴィム・ヴェンダース)をやっとみた。「ワン・フロム・ザ・ハート」のハンクが、あるいは「地獄の黙示録」のシェフが、ハードボイルドの探偵をするなんて、思い切ったキャスティングだったろう。役者にはらはらしながらみて、映画がおわってほっとする、というのも珍しい。F・フォレストの味わい深さは、「タッカー」(フランシス・F・コッポラ)にもよくでていた。主演を演じるくらいの役者は、たいてい脇役であってもきらりと光るとか脇をかためるとかするものだが、「タッカー」の彼は、光りもせず、かためもしない。主役のジェフ・ブリッジスの自動車会社で働く技師の役だから、最初から最後まできっちり出ているのに存在感が妙にない。こんなふうだから気がつかないうちに出演作をけっこうみているかもしれない。どんな作品に出演しているのだろうか。はい、こういうときのデータベース。
今年の8月、「ぴあシネマクラブ」のオンラインサービスがスタートした。年末に毎年でている本の「ぴあシネマクラブ」と同じ、1万3千件のデータベース。F・フォレストでサーチすると10作ヒットした。「MA-GILL’S SURVEY OF CINEMA」では20作。つきあわせるとこうなる。(☆は私製データベースにあった作、つまりぼくがみたことのある作だ)
「ぴあシネマクラブ」
悪魔の赤ちゃん2(未) ファミリー・マフィア血の抗争 地獄の黙示録 ハメット ファミリー(テレフィーチャー) ローズ ワン・フロム・ザ・ハート 傷だらけのキャデラック ミュージック・ボックス キャット・チェイサー
「MAGILL’S SURVEY OF CINEMA」
APOCALYPSE NOW.☆ HAMMETT.☆ THE ROSE.☆ ONE FROM THE HEART.☆ TUCKER--THE IT LIVES AGAIN.☆ THE CONVERSATION.☆ FALLING DOWN. HEARTS OF DARKNESS. RAIN WITHOUT THUNDER. THE TWO JAKES. WHEN THE LEGENDS DIE. THE GRAVY TRAIN. SEASON OF DREAMS. VALENTINO RETURNS. PERMISSION TO KILL. MUSIC BOX. WHERE ARE THE CHILDREN?. THE STONE BOY. MAN AND HIS DREAM. VALLEY GIRL.
こうしてみると、F・フォレストの名がクレジットされている作でみているのは6作にすぎない。わずか6作で風采云々いわれては本人も立場がないだろうから、出演作のせめて半分くらいみてからまたいおう。
邦題の不可解
原題のニュアンスをちゃんと理解できるわけでもないくせに、なんだあこの邦題は、などとすぐああだこうだいいたくなる。邦題のよしあしなど、評価する基準によってずいぶん異なるものだろう。そもそも邦題は何のためにあるのか、ということも考えあわせなくてはならないかもしれぬ。
何のため、というところから考えはじめると、邦題は、日本での劇場公開時に客を呼ぶためにあるにちがいない。例えば、スピルバーグの劇場映画第1作「続・激突!カージャック」(原題 The Sugarland Express)は、テレビ映画「激突!」のイメージを活用して、アテようとしたものだろう。10年ほど前に大流行した「愛と○○の××」はほとんどあやかり商法の類。もっとも今となれば、しっかりした原題を持っているのにもったいない、と思わせるものもある。
名は体を表してほしいもの。公開時だけでなくその後も他の作品とちがう「体」を表し続けることも、あったりまえの邦題の機能だ。もともと原題がそういう機能をもっていることを考えれば、原題からの距離をどうとって日本語に置き換えるかがポイントになるのだろう。例えば「レナードの朝」(Awakennings)などあたり、うまい距離のとりかただと思う。ところが、最近の邦題は、そういう努力を放擲した安易なカタカナ置き換えが目だつ。「ア・フュー・グッド・メン」とか「アザー・ピープルズ・マネー」とか、ここまでカタカナにするくらいなら原題どおりの方がむしろわかりやすい。原題の方がずっと雰囲気なのに邦題台無しというのもよくある。例えば「カナディアンエクスプレス」(Narrow Margin)など、なんともならなかったのか。興業的にはこうなるのかなあ。
体験、クローズドキャプション
映画の中で原語のニュアンスの楽しめないか。昨年からたたらを踏みそうになっているテーマだ。前号で触れた「スクリーンプレイの厄介な楽しみ」から、今年もう一歩さらなる厄介へ踏み出した。英語字幕、クローズドキャプションの活用だ。
英語字幕の楽しみかたには、すでにCINEX(ソニーピクチャーズエンタテインメント)というオープンキャプションのビデオソフトがあり、また、パイオニアが開発して力を入れはじめた「シナリオディスク」というレーザーディスクでの新方式があり、そして、海外で普及しているクローズドキャプション(ビデオ、レーザーなど)と、3つのやり方があってそれぞれ一長一短あるようだ。比較のとき最も目配りするのはソフトの環境だ。CINEXは、ハード不要の簡便さにスクリプトつきの親切さだが、ソフトが20~30タイトル。シナリオディスクは続々と出ているし、今年10月からレーザーディスクのレンタルが開始されたこともあり期待はできるものの、現在150タイトル。かたやクローズドキャプション(CC)は3000タイトルといわれている。もっとも、3000タイトルの中にはスクリプトどおりでないものもあるそうで、そこが「スクリプトどおり」というシナリオディスクとの違いらしい。(シナリオディスクは専用プレイヤーかデコーダが必要。ちなみに僕のLDプレイヤーは古くてデコーダと接続不能だ)ソフトの環境とは数だけのことでない。入手の手軽さもポイントだ。CCつきのビデオは、現在ワーナーホームビデオががんばって出している。約60タイトルのうち半数ほどはレンタルビデオにもなっていて、これが一番手軽。海外版の3000タイトルを購入するには、専門の輸入ショップから買うか、個人輸入するかだ。
CCには専用ハード(CCデコーダ)が必要で、調べてみると三洋電機、FUTEK、日本IMIなど数社からでていることがわかった。「ポーズ時に字幕が消えない機能がついた新製品」と新聞にでていた日本IMIのものを購入した。ソフトはまず個人輸入を試してみた。CompuServeに店を開いているLASER’S EDGEに、「オズの魔法使」CCつきレーザーディスクを電子メールで注文。10日後に国際郵便で届いた。かかった費用は、レーザーディスク31.45$ 発送手数料1.25$ 発送費(USポスタル)12.40$ 計45.10$ 関税、消費税はなし、1$115円として5187円だ。国内ではCCつきの「オズの魔法使」は販売されてなく、CCソフト輸入ショップで買うと11800円(税込¥12154)となる。個人輸入で手配すればけっこう手軽だ。(とはいえ、CCなしの日本語字幕のものだったら4700円で済む話だ)
さて、手間暇かけて英語字幕が楽しめるようになったわけだが、CCの思いがけない楽しみをひとつ発見。効果音や擬音につく字幕だ。CCはもともと難聴者向けシステムだから [SIREN][APPLAUSE] [LAUGHING]というような字幕が台詞の間にはいるのだが、「オズの魔法使」の場合は擬音表現が楽しい。例えば、ブリキ男は[SQUEAK]ときしみ、ライオン男は[GROWPH]とうなり、犬のTOTOは[ARF ARF]と吠える。アメリカンコミックみたいに愉快だ。
あとがき
第3回の千夜一夜は盛会のうちに終えることができた。例によって何を喋ったやら記憶にとどまっていないが、その中でリー・マービンとアーネスト・ボーグナインのぶつかりあいという話題は、しばらく笑えた。そのあとすぐNHK衛星でやった「特攻大作戦」(ロバート・アルドリッチ)でぶつかり具合をみることができた。名前をきくだけで大笑いできるという組み合わせ、来年またいっぱい発見できますように。
1992年
先日の第2回「映画千夜一夜」ではたいへんお世話になりました。次回に向け多少なりとも話題の提供でもできたら、というくらいの意味の私的な年報です。淀川長治、蓮実重彦、山田宏一の鼎談「映画千夜一夜」(中央公論社刊)にあやかれるような会になれば、と思いながらの、私的92年回顧。
おかげさま
封切映画を映画館で見るということが年々少なくなっている。今年1年間で116本の映画をみたが、その中で封切作品はわずか5本。そもそも映画を映画館で見るということががたがた減っていて、映画館でみるのは上京の折、東京でしかみれないもの、しかもビデオになりそうもないものに偏りがちだ。話題に疎い上、封切作はいずれレンタルビデオでみれるだろうととのんびりしている。ということで、レンタルビデオにはたいへんお世話になっている。こういう横着者は僕ばかりでなく、最近ぞろぞろ増えているのではなかろうか。
ビデオに対しては、画面のトリミングのこととか、字幕の出来のこととかついつい難癖をつけたくなるものだが、ビデオがハードの発達、ソフトのレンタルのしくみとともに普及して、映画をのんきに楽しめる環境が格段に拡がったのは確かだ。小津安二郎を製作年順にみてみようか、とか、イギリス時代のヒッチコックをまとめてみてみようか、とかいう思いつきを、ここ岡山でもすぐに実行に移せるのもビデオのおかげといえる。
そんな事情で、今年を振り返るといっても、今年の封切作品、リバイバル上映作品、ビデオ化LD化作品という区切りかたができにくく、僕が今年みたという意味でしかない。我ながらずいぶんと私的な回顧だ。
「プレイタイム」の話法
これはお薦め、と人にいいたくなるような作品は、1年に1本くらいだろうか。実際に薦めた数でいうとそんなものかもしれない。わざわざ薦めるということは見逃しがちだということで、単館ロードショーやレイトショーで細々とかかっているようなものが多くなる。一昨年でいうと、アンジェイ・フィディックのドキュメンタリー「金日成のパレード」 昨年はフォルカー・シュレンドルフの「ボイジャー」あたりを人に薦めた記憶がある。
今年みたものの中で、人に薦めたものは特になかったような気がするが、お薦めは?ときかれれば、ジャック・タチ「プレイタイム」あたりをあげそうだ。この作品は、89年のリバイバルで「ぼくの伯父さん」「ぼくの伯父さんの休暇」をみて以来、ずっとチャンスをまっていたもの。ようやく今年の5月シネマアルゴでみることができた。うんと期待して期待どおりというのは、期待以上というのとはちがったうれしさがある。映画の作り手の理解者にでもなったような気がちょっとするからだろう。作り手の発信するものが作品によって違うのは当然だが、発信のしかたに力こぶの作り手もいる。ジャック・タチもそうだ。独特の語りのスタイル、話法があり、それが、作り手と受け手の映像の共通言語、文章表現における「文体」にあたるようなものになっている。
実は、初めて「ぼくの伯父さん」をみたときは、話法だけにはきもちが向かわなかった。なぜなら、アルペル氏と息子のジェラールがきつく手をむすんだ大団円で、ユロ伯父さんはどこへいってしまうんだろう、股旅物のエンディングに似ながら、カメラは伯父さんを一顧だにしない。そこに感じ入ってしまったからだ。(こんなきっぱりとした股旅風エンディングは「マルクス兄弟オペラは踊る」で遭遇して以来だ)その点「プレイタイム」は、極端ないいかたをすると話法だけで成り立っている映画だ。シチュエイションギャグを点綴するだけなら、あんな巨大なセットは不要だろう。タチの話法においては、主人公のユロも、コルビュジェ風の建物も、ホワイトリボンの車も、ナイトガウンを着てかけまわる犬も、床についた足跡も、ポンコツ車やできそこないチューブがたてる妙ちきりんな音も、全部同等な映像の構成要素になってしまう。人間は人間の役でしかない。逆のいいかたをすれば、すべての登場人物は、なくて七癖だったり、カタストロフィの中でもラヴィアンローズだったり、たっぷり人間の味わいなのだ。「プレイタイム」の最後の場面では、ロータリーで渋滞する車、ガソリンスタンドで修理中の車が、メリーゴーランドみたいに躍動する。ここではずばり、車がキャスティングされている。ミュージカルの一場面のようにきれいだった。
上演不可能「ひかりごけ」
邦画では、封切で熊井啓「ひかりごけ」をみた。原作は武田泰淳。作者自身が「上演不可能の戯曲」とした作品で、学生の時分、その意味を深く考えもせず上演を試み、大いにシンギンした記憶がある。その頃の僕はちっとも知らなかったが、僕の生まれる前に、この作品はすでに浅利慶太の演出により上演されていた。不可能を可能にするからこそのシンギンだと思っていたから、ちょっとまぬけだった。
主人公の船長が語らないとテーマを詳らかにできず、逆に語れば語るほどテーマから遠ざかってしまうという求心力と遠心力のせめぎあいを、動きが極端に少ない設定の中でどうみせるかが、舞台にしても映像にしても、原作の捌きの一つのポイントだろう。黙しがちな船長に語らせる、語りすぎる船長の口を塞ぐ、このふたつの力を、船長そのものでなく船長をとりまくものの「具体化」と「抽象化」でいかに表現するか、ということだ。
熊井啓「ひかりごけ」では、第2幕の裁判所を第1幕と同じ洞窟に据えたり、死者たちを亡霊として復活させて船長と語らせたりしている。これは「具体化」の新しい映像表現ではあったが、「抽象化」の部分で映画だからこその表現をみたかった、という印象は残った。
劇団四季の舞台「ひかりごけ」は90年7月にシアターサンモールでみることができた。特に裁判所という場そのものの徹底した抽象化に、喉の奥の方でうなったものだ。だが、それが不可能を可能にした姿とも思えなかった。「ひかりごけ」という戯曲は、イカロスがめざす太陽のようなものだろうか。だとすると学生の頃の僕らは、まぬけというよりも、すぐに失速したイカロスだったのかもしれない。
ぼちぼちやっていたロシア映画
90年の「ソビエト映画祭」(銀座テアトル西友、キネカ錦糸町)で、ユーリー・マミン「泉」をみて、カザフ出身のケルババーエフ爺さんといっしょにエレベーターごとぶっとんで以来、ポチョムキンやソラリスだけがソビエト映画ではないことを知った。今年も旧ソビエト、ロシア映画はつつがなくやっていた。
ヴィクトル・クズネツォフ「さまよえるオランダ人」 アーラ・スーリコワ「カプチーノ街から来た人」タイトルからしていかがわしい。「カプチーノ街から来た人」のふれこみは、ミュージカル仕立てのソ連製西部劇。このふざけかたは、ペレストロイカとかノーボエキノ(新しい波)とかいう前からぼちぼちやっておりました、といわんばかりで、妙にきもちがいい。社会主義体制をひと事みたいにヤユしながらも、ソ連製とかアメリカ製とかいう出所など無効にしてしまうエンタテインメントだ。そのくせ、いかにも安普請のセット、ほとんど素人なのではというキャスト、などなど「ま、いいか」という案配のつくり。あきれているうちに終わってしまう映画も珍しい。
正確にはロシアではないが、セルゲイ・パラジャーノフみたいな「伝統工芸作家」もいるし、どれだけ多くの映画人が旧ソ連でぼちぼちやっていたのだろうかと思ってしまう。またいかがわしいタイトルの新しいのがかかったら、来年もみにいってしまいそうだ。
思いだし笑いの場面場面
◆しばらくぶりにジェラール・ド・パルデューを「グリーンカード」(ピーター・ウィアー)でみた。ほとんどそこにいるだけで「怪優」という迫力だが、それ以上の迫力をみせたのが、料理の場面。とりだしたにんにくを彼はあたりまえのことのように手のひらで潰してしまう。そのしぶきが飛んできたような気さえした。この場面のおかげでこの映画をみている間中、なんだかずっと楽しかった。
◆今年7作みたヒッチコックでは、「三十九夜」がよかった。手錠でつながったふたりが追われるという設定は、スタンリー・クレイマー「手錠のままの脱獄」やマーチン・ブレスト「ミッドナイトラン」でもあったが、これは男と女が手錠でつながってしまう。つながった手錠のままで、ルーシー・マンハイムがストッキングをはきかえるところなどなかなかの名場面だ。
◆「容疑者」(ピーター・イェーツ)をみてたら、シェールの官選弁護人が裁判で、証言台の被告にいきなりものを投げて利き腕でうけとめさせ、犯罪と利き腕の関係を陪審員に説明する場面があった。おや。これは、「アラバマ物語」(ロバート・マリガン)でグレゴリー・ペックがやったのと同じだ。こういうのは一種の「引用」なのだろうか。作品全体がパロディやオマージュになっているもの(そういえば最近マウリツィオ・ニケッティ「シャボン泥棒」という傑作もあった)なら気づきやすいが、気づかせることを意図しているとは思えない、こういうものは、「楽屋おち」なのかもしれない。
◆小津安二郎の映画をたてつづけにみていると、やけに日本酒がのみたくなる。登場人物が皆うまそうにのむからだ。では、うまそうなのみかたとはどんなのみかたか。「秋日和」の笠智衆をみてたらわかった。盃を口にもっていくとき、ずいぶん手前から、口がまちきれずすっかりあいてしまっている。これだ。
レンタルビデオの不思議
岡山に来て2年ちょっと。会員になっているレンタルビデオショップが7店ある。それぞれの店に特徴があって使い分けているわけではない。多少規模の差はあるが、どこも似たような店だ。見かけは同じような店でも在庫は1店1店みなちがう。同じチェーンの店でもちがう。通りがかりの店をのぞいて「めっけもの」にであったら、すぐ会員になって借りてしまう。それで7店にもなってしまった。「めっけもの」とは、例えば今年の中でいうと、マルクス兄弟の「けだもの組合」(ヴィクター・ヒールマン) これがあった店は、マルクス兄弟の代表作「カモ」とか「オペラ」とかがそろっているわけではない。なぜか「けだもの組合」だけがぽつねんと、何年も僕という借り手が現れるのを待っていたかのように棚にあった。また、岡山に来てすぐの頃、みる機会をずっと待っていたジャン・ルノアール「ゲームの規則」も、何の脈絡もなく唐突に「グレートレース」か何かの隣で発見された。「けだもの組合」にしても「ゲームの規則」にしても、その店以外に置いている店を今までみたことがない。
ビデオショップの多くは、合理的なフランチャイズシステムにのっかっているはずだ。だれがどんな基準で仕入れをしているのだろう。不思議でしかたない。もっとも、商売する側にしてみれば、こんなことで喜んだり不思議がったりしているような客などどうでもいいものなのかもしれないが。
スクリーンプレイの厄介な楽しみ
最近、洋画のスクリーンプレイが本棚で山になってきた。英語の台詞でどういういいまわしをしたのか、聞き取れなくて気になるフレーズがあったときとか、脚本があればまた楽しめると思い、買っているうちにたまってきた。4年前「フォーリン・クリエイティブ・プロダクツ」(今は「スクリーンプレイ出版」というらしい)から「E.T.」のスクリーンプレイがでて、買ったのがきっかけだった。このシリーズは今や40点ものラインアップになっている。タトル商会から「スクリーンイングリッシュシリーズ」 南雲堂から「英和対訳映画文庫」が数点ずつでているところ、今年はマガジンハウスから「シネスクリプトブックシリーズ」が第1弾「ローマの休日」ででたし、角川書店からも「スクリプトブックシリーズ」がでた。なんだかブームみたいだ。洋書でもいろいろある。イギリスの「フェイバースクリーンプレイズ」は手にいれやすいシリーズだし、書店の洋書のコーナーをうろうろしていると、シリーズもの以外に、ペーパーバックからレビューや校異のついた専門的ものまでいろいろなタイプを見つけることができる。また、「ベストアメリカンスクリーンプレイズ」といったアンソロジーにも出くわしたりする。特定のものをさがしはじめたりすると、ちょっと厄介そうなので、あることがわかっているものやたまたま見つかったものの範囲でまず楽しもうと自分にいいきかせている。
スクリーンプレイではないが、ソニーピクチャーズエンタテインメントからでている英語字幕入り洋画ビデオ「CINEX」もおもしろそうだし、エフティ商事ビデオキャプションセンターというところが扱っているクローズドキャプション対応の海外ソフトをみるためのハード「FUTEK」も、ソフトの入手方法次第では楽しみの幅が拡がりそうだ。これからは、ネイティブのように映画を楽しむための、あるいは楽しめるようになるためのものがいろいろでてきそうだ。(ついでながら、福武書店からも「銀幕英会話倶楽部」の名で一般向け英語教材として、ヴィットリオ・デ・シーカ「終着駅」 リチャード・ブルックス「雨の朝巴里に死す」 ヘンリー・キング「慕情」がでてます)
「シネスクリプトブック」を片手に、ビデオで久しぶりに(4回目かなあ) 「ローマの休日」をみた。最後の記者会見の“Rome ! By all means, Rome.” はもうわかつているせいもあって、一番の感動どころは、戻ってきた王妃が、彼女を詰問する大使にいいかえす場面だった。“Were I not completely aware of my duty to my family and my country, I would not have come back tonight.” ときっぱり。(If省略の倒置法だなんてあとで気づけばいいことだろう、たぶん)映画がおわり、その余韻の中にたゆたいながら、スクリプトがあれば字幕なんてなくても、と思いはついエスカレートしてタタラを踏みそうになる。だが、字幕なしビデオを日本で入手する方法がどうもわからないし、(パソコン通信の“CompuServe”の ELECTRIC MALL で以前は個人輸入できたはずだ ……)これまた厄介そうなので、やっぱり入手できるものの範囲で 楽しもうとまたいいきかせている。
ここんところ音楽のよかった映画4本
「五月のミル」「ロザリンとライオン」「グレートブルー」「バグダッドカフェ」
映画館のマックィーン
映画を映画館以外でこれだけみるようになるとは全然思わなかった。最近特に、一度みたことのある映画をビデオでみかえす機会が増えてきた。(5本に1本くらいはそうだ) みかえしているとき、映画館でみた一度目のときのことをふっと思いだすことがある。「タワーリングインフェルノ」(ジョン・ギラーミン)もそうだった。
中学生だった僕は、「荒野の七人」のジェームズ・コバーンをまねてナイフを投げたり、「大脱走」のスティーヴ・マックィーンをまねて自転車でウィーリーしたりする乱暴者の映画ファンだったので、マックィーンがまたどんな荒技をみせてくれるか楽しみで、“あの「ポセイドンアドベンチャー」をしのぐ、豪華キャスト、スペクタクル超大作”は、封切のずっと前から映画雑誌でちゃんとマークしておいた。そして、早々と前売券を買い、勇んでみにいったのだった。
「タワーリングインフェルノ」では、そのマックィーンがなかなかでてこない。いつまでたってもでてこない。まちくたびれているうちに、とうとう超高層ビルは火事になってしまう。ポール・ニューマンではどうも手におえそうにない。どうなってしまうんだろう、というときに、ようやく彼は姿を現わした。そのとき、それまで静まりかえっていた場内からいっせいに拍手が沸き上がったのだ。今から思うと「まってました!」と声がかかったような気さえする。
ふっと思いだすというのは、こういうことだ。
映画のデータベース
6,7年前だろうか、ジョージ・スティーヴンス「陽のあたる場所」をみながら、デジャビュみたいに、こんなエリザベス・テイラーを前にもみたなあ、と感じ入っていた。が、最後までみたときようやく、前に一度みた映画だったことを突然思いだした。このひどいモノ忘れ。二度目と知ってみるのも知らずにみるのも、さしてかわりはないはずだが、なんだか落ち着かない。それではじめたのが、自分のみた映画のデータベース。パソコンのカード型データベースソフトを使って、それまでみた映画のタイトルから、スタッフ、キャスト、みた年月日と映画館などかたっぱしから入力しはじめた。これで、映画をみる前にみたことがあるかどうか確認できるし、この監督と役者の組み合わせの映画をどれだけみたかなどというのも確認できるようになった。また、今年みた映画が何本などという計算も容易にできるようになった。こんなデータベースちょっとないだろうと、ひとり悦に入っていた。
オンラインデータベースの「Magill’s Servey of Cinema」を見つけたのはそういうときだった。これは、CompuServeのメニュー“REFERENCE” あるいは、DIALOGでアクセスできるお手軽なデータベースサービスだ。スタッフ、キャストから要約、批評掲載誌紙の履歴まで検索することができる。「Magill’s Servey」の検索は、でできるようになっている。サーチして2$、フルレコードひっぱりだしてプラス2$、データベースのアクセス料としてかかる。1902年以降の映画をカバーしているそうだから、本格的だ。
こういうものが商用データベースになるということを考えもしなかったので、そのとき僕はたいそうびっくりした。しかし、もうびっくりもしてられない。数年前には、さらにお手軽な、電子ブック用のデータベース「ぴあシネマクラブ電子ブック版」がでた。こうなってくるともはや、パーソナルデータベースなど、のろまだ。
手間暇かけてデータベースをつくっているわりには、一度みた映画と知らずに再度みる不如意を、ときたま繰り返している。記憶の半ばをデータベースに委ねてしまい、きっときもちがたるんでいるのだ。
あとがき
映画千夜一夜のANNUALなのだから、第2回の話題を少しでも残せたらいいのだが、第1回のようにテープが残っているわけでもなく、あらかた忘れてしまっている。ろくな話がなかったのかもしれない。そんな中で、アンディ・ロビンソンは「ダーティハリー」(ドン・シーゲル)においても「突破口!」(ドン・シーゲル)においても全く同じキャラクターである、という発見は収穫だった。忘れてしまっていても、そういわれればそうだ、いつぞや映画をみたとき確かにそう感じた、と深くうなずいて大喜びしたくなる発見だ。
こんな発見を、来年もいっぱいできますように。