構造物の中に工夫がたくさんあった。


(1)田原用水石の懸樋解説(旧赤磐郡熊山町役場パンフレットより)

 所在地 赤磐市徳富

いわゆる「石の懸樋」で灌漑用水を通すための「水の橋」として江戸時代に造られた貴重な文化遺産です。この「石の懸樋」が造られたのは今から約三百年以上前の、元禄六〜七年(1693〜1694)頃、小野田川の流れをまたいで吉井川の遊水地や古くからあつた溝なども利用しながら貫通させた第一期水路開削は、池田忠雄の治世の寛永五年(1628)のこと。小野田川に注いでいました。
  最初の工事から数十年を経た元禄年間、岡山藩の重臣・津田永忠が第二期工事の際、第一期の田原用水の末端から約800メートル上流のところから新しく西へ水路を開削し、小野田川の上に用水を通すことを計画。大阪から岡山藩が招聰した石工・河内屋治兵衛に、石造の水路造りにあたらせました。
 ところで石造の水路橘としては、熊本県にある通潤橋(国重文)などが有名です。それらの水路橘がブロック状の石材を積み上げた石造単アーチ橋なのに比べ、「石の懸樋は四角柱の花崗岩石材を縦横に組み上げた構架式の構造を採用。橋の規模こそ小さいものの、その構造と技法が非常に高度なことで高く評価されています。
 まず、小野田川の両岸に石垣を、川床に松板を用いて枡枠をつくり、一つ一つの枠に石をつめ、その上に栗の古材を敷き、ずれないように杭を打ち込み、その上部に松の厚板を敷いたうえで礎石を据え、そこへ二基の橋脚を立てるという入念で強固な基礎工事を実施。その後、通水用の石樋本体を組んでいくという手のこんだ工法を採用。石樋の底部分には十九本の石柱を前後に敷き並べ、側壁として二十二本の石柱を三段に積み重ねています。ただ石柱を並べるだけでは水が漏れてしまうため、
石と石のすき問に特殊な漆喰を塗りこめて漏水の防止をしていました。
  昭和五十七年(1982)の小野田川改修工事の際、「石の懸樋」を解体。岡山県工業技術センターで漆喰の成分を化学分析したところ、素材や配合に独自の工夫が発見され、通常の漆喰より粘土分の配合率が高い灰白色の漆喰が使われていました。その特殊な漆喰が石材に粘着硬化することで、漏水を防止する性能が非常に高くなっていることが解明されました。
  さらに漏水対策ばかりでなく、水圧や地震などによる横ズレ防止対策も優れたもので、あらためて石工・河内屋治兵衛の高度な技術が再認識されました。
  また、「石の懸樋」と並ぶ難工事として後世に語り継がれているのが、"熊野の岸険"と呼ばれる岩盤の開削工事です。一説では硬い岩盤を種油で焼きながら、溝の底を開削していったとも伝えられています。岸険の長さが九十間(約百八十メートル)あったことから、その部分を「百間の石の水路」(百間の石の樋)と呼び、当時の偉業が伝えられています。
  こうして第一期工事の着工から約三十年。「石の懸樋」や「百間の石の水路」(百間の石の樋)など、いくつもの難関を克服し、元禄十年(1697)田原上で吉井川の水を取水した瀬戸町の砂川と合流する延長十八キロメートルの田原用水が全面通水。
  資料によれば用水の完成によって、吉井川右岸の二十六カ村を灌概することが可能になり、新たに米八〇〇〇石が増産できるようになった。
  なお「石の懸樋」は、解体後、現在の記念公園に移転され復元。現在の田原用水は、サイフォン式によって小野田川の下を通水しています。

難工事1難工事2


(2)「石匠河内屋治兵衛と備前の国」より

  治兵衛の技術は単なる模倣ではない

           

「県農業土木史」の第二篇「備前の新田開発と用水」に石屋治兵衛を取り上げた項があり、それによれば延宝五年(1677)十二月二十九日に米三拾俵を賞賜された「留帳」の内容を紹介している。

「是先年京都御普請(御所造営)之節参御用実儀に仕、当春邑久・御野・児嶋三郡の石樋積上ヶ之通御銀被遣侯処、作廻能仕、一貫目余差上申侯。此度も、不被仰付侯処二石樋之積リ木樋同前之御物入に支度と積上ケ侯。奇特に思召御褒美に被下る」

備前で暮らすようになった治兵衛は、火災で焼失した京都御所の再建工事に藩御用として参加するなど、その優れた石細工師としての本来の仕事の他に、溜池や河川の樋門・汐留樋門などを手がけるようになり、しかも木造に等しいような経費で仕上げたというので、農民、庄屋、藩役人に喜ばれたり感謝されたり表彰を受けたりしている。

そのことは延宝四、五、六年の「御留帳」に詳細に記されており、それらの構築物が、何年経っても少しも狂わないということで、藩内諸郡の木樋を石樋に切り替えるべきだという評定も行われており、治兵衛は備前岡山藩の水利事業に深く関わるようになった。

そして江戸時代に藩が津田永忠によって実現した大型新田開発と、それに伴う水利と治水事業を大成功に導く技術的問題の解決に大きな役割を果たしたのである。

技術の問題になると話が少し堅苦しいかもしれないが、柱を一本作るとして、木材と石材では加工に要する時間がはるかに違う。

即ち労力に大きな差がある。表面を仕上げるにしても、溝を彫るにしても石材の方に手間がかかる。にもかかわらず同様の経費で納めるというのは、材料費の違いだけで結論づけれる問題ではなくて、河内屋治兵衛の、技術職人としての誇りや意地、或いはものの考え方とか生き方といった、人間性によるところが大きいのではないかと私は考えている。

技術が確かなだけでなく、津田永忠が見込んで大坂から招き、備前に留まらせた訳がその辺にあったのではないだろうか。

樋門を造る、橋を架ける、塔を建てるときに、木材と石材ではその形が同じようでも、技術に多くの違いがある。木と石のもっている特性の各々の長所と短所を心得て、意図する構造物を組み上げる、それは互いに模傲で出来ることではなく、技術のぶつかり合いであり、真剣勝負であると感じている。

即ち樋門にしても橋梁にしても、その本体構造より付帯構造の施工法に、木造と石造による違いがあり、それぞれの経験と知恵を積み重ねた技術が大いに発揮されるところである。例えば堤防などの周辺部分と本体との接合ヵ所の施工法とか、本体構造の基盤や基礎の施工法などにそれらを見ることができる。

石材は重く振動に弱い、腐食しないが脆い、土に馴染まないなど木造に比べて難問がいっぱいある。木は糊(もち米を蒸してよく練ったもの)で接合できるが、石はそれができなかった。

その接合剤を作り出し下図のように石材を組合わせて、用水路の「大型石造懸け樋」をわが国で初めて造ったのが河内屋治兵衛である。

だが初代河内屋が残した最後の仕事として目にすることができるのは、この熊山町に現存する田原用水「石の懸け樋」以外、恐らく存在しない。(以下略)

(出典 東備歴史研究協議会会誌第十一号「石匠河内屋治兵衛と備前の国」

        政田孝氏 論文より抜粋)



     石の懸樋(小さな橋の博物館より)


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作成者 藤本典夫



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