吉備の国探訪
| 岡山県にはかつて、巨大な島「児島」があった。
現在は本州と陸続きになっているが、瀬戸内海の交通の要衝として繁栄してきた。 その歴史をシリーズで、たどってみる。 第1節 東部地域 神武東征の高島宮(3世紀) 第2節 新熊野山 1300年の歴史(8世紀) 第3節 倉敷市藤戸町 源平合戦(12世紀) 第4節 倉敷市下津井 中世からの港町(16世紀) 第5節 常山城 戦国時代落城物語(16世紀) 第6節 玉野市八浜 毛利、宇喜多の蜂浜合戦(16世紀) 第7節 再び 新熊野山(五流尊龍院、御陵) (12世紀) 第8節 倉敷市藤戸町天城 池田藩天城陣屋(17世紀) |
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| 第1節 岡山県児島半島 東部地域
岡山から児島湾大橋を渡って、児島半島に至る。今節は、児島半島最東部の一角をドライブした。 歴史的な建造物もあまり多くなく見どころもない。晴れた秋の一日、海を見ながら、何も考えない。こんなドライブに最適。 このような中で、児島湾には、日本書紀に登場する神武天皇の神武東征の途中、3年間滞在した高島宮の候補地の1つである「高島」がある。 |
第2節 児島半島 新熊野山
倉敷市水島インターから少し東(岡山方面)へドライブすると、倉敷市林がある。ここは、熊野権現の総本山であり、開山1300年の歴史を誇る。 また、鎌倉時代、後鳥羽上皇ゆかりの地でもある。この地は備前福岡と呼ばれていた。 後鳥羽上皇の御番鍛冶になった、備前福岡一文字派 の刀工が長船町でなく、この地にいても不思議ではない雰囲気がある。 後鳥羽上皇が隠岐に流されたあとも、隠岐に出向き御番鍛冶を行ったのも、熊野権現の権力が続いていたためではないか。 そして、後鳥羽上皇がなくなられると,当地に大きな御影塔を建立している。 | |
| 第3節 倉敷市藤戸町 源平合戦の古戦場として、当時は島であった藤戸と本州との間に藤戸海峡があり、船を持たない源氏の武将が馬で海を渡るために、浅瀬を教えた地元の男を殺した。 その母の恨み、その場景が、室町時代、世阿弥によって謡曲「藤戸」として完成し、全国的に有名になった。 | 第4節倉敷市下津井 児島半島の先端に下津井はある。 かつて、下津井港は、北前船で賑わった。 また、四国に一番近い港町、金毘羅さんに参る人・四国お遍路さんの渡る港として栄えた。 いまは、四国に渡る大動脈の瀬戸大橋がすぐそこに見える。 下津井城が築かれたが、江戸時代初期、廃城になった。 | |
| 第5節 常山城(玉野市宇藤木・灘崎町迫川) 永禄9年(1566年)三村家親が宇喜多直家に暗殺された後、あとを継いだ、二男の三村元親は、あだ討ちを遂げていなかった。永禄10年の明禅寺合戦での三村氏敗北など、宇喜多氏と対立していた三村氏は、天正2年(1574年)毛利氏と宇喜多氏が同盟をしたため、毛利氏を裏切るが、攻められて備中松山城にて滅んだ。 常山城主 上野氏は、三村一族であったので、最後まで常山城で戦い、ついには落城した。その内容が備前軍記などに詳細に記載されている。 その後、天正10年(1582年)秀吉による備中高松城落城まで、数々の攻防がこの城をめぐって行われた。 | 第6節 蜂浜合戦(玉野市八浜) 天正9年2月14日宇喜多直家がこの世を去った。後継ぎの宇喜多秀家は、まだ幼く、直家の弟、忠家が後見を勤め、岡平内、戸川平右衛門、花房助兵衛が周りを固めた。 天正9年(1580年)4月毛利の児島進出に宇喜多氏は、忠家の嫡子基家を総大将に、児島八浜に派遣したが、蜂浜合戦で宇喜多与太郎基家戦死 八浜に基家を祭った与太郎神社がある。 |
| 第7節 再び 新熊野山(五流尊龍院、御陵) 承久の乱で、後鳥羽上皇が隠岐に流された。 その皇子である2人の親王が五流尊龍院「御庵室」に住まわれた。 そして、兄の宮は、頼仁親王御陵として、大切に保存されている。 五流尊龍院には、太平記で活躍した児島高徳の生誕地の大きな碑が残っている。 | 第8節 倉敷市藤戸町天城 池田藩天城陣屋 池田藩には六家の家老職がいる。その中で、藩祖池田輝政の兄を先祖とする天城池田家は、特に重要に扱われている。 家禄では、伊木氏について2番目であるが、常に筆頭に記されている。 |
吉備の国探訪
作成者 藤本典夫