吉備の国探訪  歴史年表抜粋


    457年  大和朝廷、ワカヒメの時代赤磐市 稚媛の里 



    645年  大化の改新、朝鮮式山城の出来た時代:岡山市 小廻山遺跡



    710年  日本書紀の出来た時代:赤磐市 石上神社



    757年  平安遷都(794年)、和気清麻呂の時代:和気町 和気清麻呂



   1167年  平家物語の時代・俊乗坊重源の時代:瀬戸町 東大寺瓦窯跡



   1185年  鎌倉時代初期  瀬戸内市 備前福岡その時代の出来事



   1330年  太平記探訪<見所と歴史>



   1559年  戦国時代の備前地方:



   1632年  元禄のころ:津田永忠が手がけたこと。



   1859年  幕末勤皇の志士:和気町佐伯 豊田謙次の碑


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ワカヒメの時代赤磐市 稚媛の里                TOPに戻る


年 表

457年  日本 雄略天皇即位  太歳丁酉
460年  倭王 興 即位(宋書)
461年 百済 「昆支」が兄の蓋鹵(こうろ)王に派遣されてヤマトに来た
      有王 −− 蓋鹵王
           |- 昆支 −− 末多(東城王)
                   |− 武寧(むねい)王(ムリョンワン)
461年(雄略 5年) 百済 武寧王が日本で誕生
     百済王 筑紫の加唐島に出生す(あっと九州)
462年  倭王 興  が宋に遣使、宋の孝武帝に朝貢(宋書)
463年(雄略 7年) 百済から漢手人部、衣縫部らの献上
463年  下道臣前津屋の反乱 下道氏高梁川西に転地
463年  上道臣田狭の反乱 新羅と結ぶ
470年(雄略14年)漢媛、兄媛、弟媛 渡来
471年(雄略15年)秦氏 渡来
471年  「辛亥の年大王の宮で鉄剣を作らせた。」埼玉県行田市「稲荷山古墳」から鉄剣出土
475年  漢城は陥落 百済蓋鹵王 高句麗との戦で戦死 王子の文周南方へ
477年  百済 貴族の真桀取・木満 致らの努力によって、文周王が熊津で即位
478年  倭王 武 の上表文(宋書)
479年  筑紫の軍士500人をもって末多を護送して以来、積極的に百済復興を支援する。
479年  日本 雄略天皇崩御
479年(雄略23年)天皇後継をめぐって、「星川皇子の変」
      稚媛、星川皇子、上道国造兄君などの反乱
480年  日本 清寧天皇即位  太歳庚申(庚申480年)



注)この年表は、作者の仮説ですので、その前提でご覧ください。

歴史年表 (重なる部分が多い)



朝鮮式山城の出来た時代:岡山市 大廻小廻山遺跡                 TOPに戻る

       645年  大化改新
       663年  韓国の白村江(「ハクソンコウ」又は「はくすきのえ」)で、日本と百済が、
             新羅と唐の連合軍に大敗した。
       663年  日本に亡命した百済人によって、九州に防衛のための
             大野城、太宰府に水城などを築いた。
       664年  敗戦の兵、百済の人々の日本上陸、朝鮮半島の百済が、
             日本に移住?した形になった。
             朝廷が「甲子(かっし)の宣」を発する。
             百済の官位がそのまま日本で使えた。
       664年  唐の百済占領軍の使者が来朝 半年居座る。 
       665年  第2次使節が来朝 254人の使節
       666年ごろから 新羅が唐に抵抗、抗争を開始した。
       667年  近江遷都  ようやく政治が安定、
             対馬・瀬戸内地区に、朝鮮式山城を作り、唐の来襲に備える。
       668年  唐 倭国討伐の軍船修理
       668年  高句麗滅亡
       669年  唐の使節 2000人以上来朝
       671年  天智天皇崩御
       672年  壬申の乱

   日本が、巨大帝国「唐」に追い詰められた。
   首都を変えたり、あの手この手ではぐらかす。日本人気質が完成した?
   古代朝鮮式山城は、高地でも水が確保でき、瀬戸内海を見渡し、唐が攻めてきたとき、
   素早く連絡が出来るなど条件が厳しい。
   岡山県側の山城2つと香川県側の山城2つがちょうど対になって造られているのも
   興味がある。
   又、近くに国府があるのも、唐に対する防衛拠点であったことがうかがえる。


   この山城は、神籠石系山城として注目されている。
   築城年代も、半島から渡来人がわたってきたもっと古い時代にさかのぼる説がある。
   渡来人が、古くから製鉄など先端技術を持ち込み、定着していた地域では、防御要塞が必要であった。


神籠石系山城について
(1)神籠石(こうごいし)とは、「日本書紀・続日本紀」等に記録されない古代山城のことで、正しくは「神籠石系山城」という。
 山の中腹に、1立方メートルほどの整形した石を並べ、これを前面の基礎にして、上に土塁を築いたものである。延長は約2〜3kmにおよぶ。列石が谷を渡る部分は排水口を備えた石塁が築かれ、城門も備えている。神籠石という名は、福岡県久留米市の高良大社「縁起」にあり、これを明治31年(1898年)に小林庄次郎が、「神籠石」として列石遺構を紹介したことから、広く知られるようになった。
(2)古代山城には「神籠石系山城」と「朝鮮式山城」がある。
 いずれも古代朝鮮式山城なのだが、「日本書紀・続日本紀」等に記録のない古代山城のことを特に「神籠石系山城」といい、北部九州に10ヶ所、瀬戸内沿岸に6ヶ所(播磨城山・大廻小廻山・鬼ノ城・讃岐城山・永納山・石城山)が発見されている。

    



本書紀の出来た時代:吉井町 石上神社  (神話の時代にタイムスリップ)                 TOPに戻る
  和銅3年 (710年) 平城京遷都
  和銅5年 (712年) 古事記編纂
  和銅6年 (713年) 風土記編纂
  養老4年 (720年) 日本書紀編纂
  天平13年(741年) 国分寺建立の詔


この時代、吉備の神部と呼ばれた石上神社は、鉄の武器を生産する集団の守り神であった。


和気清麻呂の時代:和気町 和気清麻呂                     TOPに戻る
この時代には、岡山出身の吉備真備が中央で活躍していた。

 天平宝字元年(757年)藤原仲麻呂(恵美押勝)が権力を振るった。
 天平宝字8年(764年)太政大臣 恵美押勝の乱
 天平神護元年(765年)乱の平定により、吉備真備 勲2等・清麻呂 勲6等
 天平神護2年(766年)吉備真備は、1月に中納言、3月に大納言、
               10月右大臣従2位となる。
               そのときの権力者は、称徳女帝と法王道鏡、左大臣藤原永手
 神護景雲3年(769年)「宇佐八幡宮の神託」を和気清麻呂が使者となる。
               神託の内容が「道鏡を天皇にするな」という内容だったため、
               大隅国に流された。
 宝亀 元年(770年)  許されて、京に戻る。
 宝亀 6年(775年)  吉備真備、81歳で他界
 天応 元年(781年)  桓武天皇即位     
 延暦 3年(784年)  長岡宮造営功労者として叙位。
 延暦 7年(788年)  和気清麻呂が、美作、備前の国造になる。
 延暦12年(793年)  平安京造営開始、遷都の提言をしたのが、清麻呂。
 延暦13年(794年)  平安遷都        
 延暦15年(796年)  平安京造営太夫
 延暦18年(799年)  清麻呂 67歳で没



平家物語                                         TOPに戻る

俊乗坊重源の時代: 岡山市瀬戸町 東大寺瓦窯跡

その時代の出来事:

1167(仁安2)年2月 平清盛、太政大臣になる
1175(治承元)年 浄土宗(法然上人が開く)
1177(治承元)年6月 鹿ケ谷の密議
1177(治承元)年8月 大納言藤原成親 備前国に流罪・惨殺
1179(治承3)年11月 平清盛、関白基房、太政大臣師長以下
公卿・殿上人四十三人の官職を停止
1179(治承3)年11月 関白基房 備前流罪
1180(治承4)年4月 以仁王の令旨(平家追討の令旨)
1180(治承4)年5月 源頼政(宇治平等院で自害)
1180(治承4)年6月 福原遷都。
1180(治承4)年8月 源頼朝 挙兵
1180(治承4)年9月 木曽義仲 挙兵
1180(治承4)年10月 富士川の合戦 水鳥の羽音に驚き平家敗走
1180(治承4)年11月 福原より京都へ遷都
1180(治承4)年12月 平重衡、東大寺・興福寺を焼く
瀬戸町 東大寺瓦窯跡
1181(治承5)年閏2月 平清盛 没
1183(寿永2)年7月 木曽義仲 上洛
1183(寿永2)年8月 木曽義仲 「朝日将軍」の院宣を受ける
1183(寿永2)年10月 源頼朝、鎌倉にて征夷大将軍の院宣を受ける
1183(寿永2)年閏10月 木曽義仲軍 源平の水島合戦で平軍に敗る
1184(寿永3年)年1月 木曽義仲 近江の粟津で戦死
1184年(元暦元年)12月 源平 藤戸合戦
1185(元暦2年)年3月 壇の浦の戦い平氏が滅ぶ。鎌倉幕府成立
1186(文治2年) 東大寺再建を始めた
1191年 臨済宗(栄西禅師が開く)
1195(建久6年)    東大寺再建完成   
1203(建仁3年)11月 東大寺諸堂すべて完成した。


瀬戸内市長船町 備前福岡                          TOPに戻る


その時代の出来事:          1199年 源頼朝他界
         1205年 新古今和歌集編纂
         1219年 源氏が滅ぶ・北条氏の時代
         1221年 承久の変おこる


(北条仲時公の時代)                              TOPに戻る


元徳2年(1330年)12月27日、六波羅探題北方就任。
元徳3年(1331年) 9月28日、後醍醐天皇の立て篭もる笠置山を陥落させる。
        天皇を隠岐へ配流。(後醍醐天皇、岡山県通過)
正慶2年(=元弘3年、1333年)5月、足利高氏・赤松則村らが京を占拠。六波羅陥落。
仲時公は、中仙道・番場宿・蓮華寺まで敗走し、5月9日、倒幕軍に包囲され配下の将兵430余人と共に自刃して果てる。
その後、同年5月21日、新田義貞らが鎌倉奪取。北条高時以下、一門数百人が東勝寺で自刃。
 鎌倉幕府は滅亡した。


(足利尊氏の幕府成立の時代)

延元三年(1338)  北畠顕家、新田義貞 討死
延元四年(1339)  後醍醐天皇崩御
貞和五年(1349)  高師直が足利尊氏に迫って弟の足利直義を引退させる。
             直義の養子直冬が、九州の豪族 少弐頼尚の援助を受けて
             西国で挙兵
観応元年(1350)  直義党の上杉憲顕・能憲父子が関東で挙兵、直義も南朝
             に帰順して河内で挙兵する(観応の擾乱)
観応二年(1351)  直義、尊氏を破って和議が成立
             同年八月和議が破れ、直義は北陸へ逃れる。
             尊氏は南朝に降伏して直義追討の命を受ける。
             南朝が一時、京都を武力で制圧(正平一統)。
             同年十一月、直義は鎌倉に入り、翌年正月、尊氏も鎌倉に
             入って直義と和睦。翌月、直義逝去
文和元年(1352)  新田義宗・義興と脇屋義治が宗良親王を奉じて
             上野国で挙兵。(武蔵野合戦)
延文三年(1358)  尊氏没。新田義興が関東執事の畠山国清によって矢口渡で
             謀殺される。
延文四年(1359)  畠山国清が関東の諸将を率いて畿内南朝軍の制圧に
             当たるが失敗。
             仁木義長を南朝に走らせる事態を招き、失脚。
貞治六年(1367)  足利義満が将軍となり、細川頼之が管領となる。



戦国時代の備前地方:                           TOPに戻る



岡山市瀬戸町 松田元成の墓
福岡合戦
 
文明15年(1483年)11月22日から翌年正月25日まで

岡山市沼 亀山城

亀山城が栄えた時代:
   永禄2年(1559年)2月 宇喜多直家が舅である中山備中を刺殺し、城を乗っ取った。
   永禄4年(1561年)宇喜多家臣 岡清三郎 謀略で竜の口城主暗殺
   永禄5年(1562年)御津町金川城主松田氏に直家の娘を嫁がせる。
   永禄9年(1566年)備中成羽城主三村家親を久米南町興禅寺で宇喜多方が狙撃し射殺した。
   永禄9年(1566年)尼子氏滅亡
          宇喜多氏は、毛利氏を裏切り、尼子勝久と連携、その後、また毛利氏とも連携した。
   永禄9年(1566年) −−家親暗殺に対し--三村五郎兵衛70余名で弔い合戦亀山城に迫る。
   永禄10年(1567年)春 三村氏が弔い合戦のため備前に進出、備前最大の明禅寺合戦となる。
          宇喜多方5000騎、三村方20,000騎であったが宇喜多方が勝利した。
   永禄11年(1568年)7月 岡山市御津町金川城主松田氏が宇喜多直家に滅ぼされる。
   元亀元年(1570年)岡山城主金光宗高を切腹させ、岡山城を奪う。
   天正元年(1572年)秋 直家岡山城に移った。直家は、33歳から45歳まで13年間亀山城で過ごした。

戦国時代 秀吉の中国地方進出                TOPに戻る
その時代;
   元亀2年(1571年)  浦上宗景、織田信長より播州・備前・作州三国の所領朱印を受く。
   天正2年(1574年)  浦上氏の家臣であった宇喜多直家離反。浦上氏は織田方、宇喜多氏は毛利方
   天正5年(1577年) 春 宇喜多直家 西播磨進出 上月城攻略
                  5月浦上与次郎、直家により毒殺される。
                  8月10日天神山城落城
                 10月羽柴秀吉が播磨進出
   天正6年(1578年)  1月〜7月  佐用町・上月城 毛利・宇喜多6万5千、織田方 秀吉4万援軍8万
   天正6年2月      播磨の豪族別所長治(所領約24万石)が秀吉に反抗して三木城に籠城を決意した。
   天正6年3月      毛利・宇喜多連合軍上月城に進出

   天正6年7月      羽柴秀吉4万姫路に引き上げ、上月城を見捨てる。
                 上月城の尼子勝久自害、山中鹿之助降伏、高梁市で殺害された。

   天正6年9月      宇喜多直家 虎倉城主 伊賀久隆(宇喜多氏家臣、約15万石)殺害
                 宇喜多氏と毛利氏との完全な手切れ
   天正6年10月17日  秀吉の副将摂津国有岡城 荒木村重 毛利、本願寺に通じる。
   天正6年11月     毛利氏が備前に侵入
   天正7年(1579年)2月 毛利氏、三木城に兵糧を届けようとするが失敗。
                 このあともたびたび実行する
   天正7年2月 美作の城攻め
   天正7年6月13日  秀吉の参謀、軍師の竹中半兵衛 三木で病没(享年36歳)
   天正7年8月      毛利氏が備前に進入(辛川合戦)
   天正7年10月30日 宇喜多直家が織田氏の配下に入る。
   天正7年(1579年)11月  有岡城陥落

   天正8年(1580年)1月15日 三木城別所長治自害
   天正8年8月     小早川隆景が児島常山城に侵攻
   天正9年(1581年)4月   児島八浜合戦
   天正10年(1582年)春   備中高松城を攻める。(備中高松の水攻めで有名)


その時代の出来事:津田永忠が手がけたこと。                        TOPに戻る

 寛永9年(1632年) 池田光政国替えで備前岡山藩が出来る。
 寛文7年(1667年) 備前市備前市吉永町 和意谷に池田家墓所を造る
 寛文9年(1669年) 旭川の洪水対策で、放水路百間川を掘る。
    (寛文11年荒手堤、貞享3年百間川を造った資料もある。) 
 寛文10年(1670年)閑谷学校を造る
 寛文11年(1671年)5年計画で「社倉米」銀1000貫目(米2万石)をため、金融業を始める。
 寛文12年(1672年)池田綱政 藩主となる。
 延宝7年(1679年) 倉安川掘削、用水路と吉井川から岡山城下への運河に利用
 延宝7年(1679年) 倉田新田など瀬戸内海(児島湾)干拓事業
             津田永忠が、元禄のころまでに手がけた干拓1918haとも言われる
 天和2年(1682年) 津田永忠 郡代となり、お救米15,000石を半減し、社倉米に入れる。
             この資金を利用し、巨大プロジェクトを行う。
 天和2年(1682年) 池田光政 74歳で卒
 貞享4年(1687年) 後楽園造営
 元禄10年(1697年)田原用水2期工事(難工事)完成
 元禄11年(1698年)曹源寺 造営
 宝永4年(1707年) 津田永忠、68歳で卒 閑谷学校には屋敷跡に大きな碑がある。


 和気町佐伯 豊田謙次の碑                 TOPに戻る


その時代の出来事:安政6年(1859年)安政の大獄
         文久3年(1863年)
         元治元年(1864年)禁門の変、第1回長州征伐
         慶応元年(1865年)
         慶応2年(1866年)備前藩農兵隊を組織 遊奇隊として明治維新に参戦
         慶応3年(1867年)大政奉還


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