吉備の国前期古墳について


(1) 吉備の巨大古墳(全長m)

時代 備前 備中 その他
3世紀後半から4世紀前半
(古墳時代前期)
浦間茶臼山(138)砂川
備前車塚(48)旭川
操山109号(80)旭川

中山茶臼山(120)吉備の中山
尾上車山(135)吉備の中山
   
4世紀中期 花光寺(100)吉井川東
新庄天神山(?)吉井川東
牛窓天神山(90)牛窓
   
神宮寺山(150)旭川
鶴山丸山(54)吉井川東
      
4世紀後半 金蔵山(165)旭川
小盛山(108)造出し付円墳     
5世紀1期(401年から425年)
角取山(方:38)山手村
造山(360)総社の東
    
5世紀2期(426年から450年) 一本松(65)旭川 作山(286)総社南     
5世紀3期(451年から475年) 両宮山(192)砂川
朱千駄(65)砂川
                 
5世紀4期(476年から500年) 小山(53)砂川                       




(2)浦間茶臼山古墳は、箸墓古墳の2分の1モデルの古墳である。
  
岡山市浦間(岡山市の東の端、岡山から国道2号線を姫路方面に走り、吉井川の川沿いに出るあたり)
そこに、浦間茶臼山古墳がある。


この古墳の概要
  @ 国の指定史跡であること。
  A 3世紀後半から4世紀初頭に築造された古墳であること
  B 奈良の箸墓古墳と形が似ていること。
  C 3世紀末から4世紀初頭に墳丘長138mの大形前方後円墳であること。
  D 特殊器台が変化した文様のある埴輪・特殊器台形埴輪が出土


   浦間茶臼山古墳





(3)前期古墳の比較

墳全長(A) 後円部径(B) 率(B/A) 後円部高(D) 率(D/A) 前方部幅(F) 率(F/A)
岡山 矢藤治山古墳
(前方後円墳の最古の形態)
リンク
35.5m 23.5m 0.662 3m 0.085 バチ型に
開いている
  11.8m
0.33
尾上車山古墳 135m 80m 0.593 7m 0.055 60m 0.444
網浜茶臼山古墳 92m
浦間茶臼山古墳 138m 81m 0.587 13.8m 0.1 61m 0.442
中山茶臼山古墳 120m 80m 0.67 12m 0.1 40m 0.33
奈良 箸墓古墳 280m 161m 0.575 30m 0.1071 132m 0.4714
箸墓古墳の2分の一モデル 140m 80m 15m 66m
箸墓古墳の3分の一モデル 93m 53m 10m 44m
ホケノ山古墳 90m 60m 0.67 8.5m 0.094 30m 0.33
80m 55m 0.6875 1.065 0.375


浦間茶臼山古墳は、箸墓古墳の設計図で作られた2分の1の古墳と言われている。
網浜茶臼山古墳は、同じく箸墓古墳の設計図の3分の1の古墳と言われている。
(資料が不足して詳細不明)

つまり、箸墓古墳の成立年代が、直接浦間茶臼山古墳の成立年代に影響すると考えている人が多い。


ここでもう1つ注目するのは、ホノケ山古墳と中山茶臼山古墳がよく似ていることです。
墳丘墓の設計図が2つあって、埋葬される方によって使い分ける方法をとったのかな。

楯築の弥生墳丘墓 - 矢藤治山古墳
(リンク)
ホノケ山古墳 ---------- 中山茶臼山古墳 - 吉備の豪族
---- 網浜茶臼山古墳 - 箸墓古墳 - 浦間茶臼山古墳



(4)箸墓古墳・ホケノ山古墳の成立年代及び吉備との関わりについて

栃木県埋蔵文化財センター設立10周年記念講演会
「古代王陵と下野の古墳」 

明治大学名誉教授
大塚初重先生
平成14年2月10日(日)
於 栃木県立博物館講堂
 陵墓指定を受けている奈良県倭迹々日百襲姫墓(「箸墓古墳」)や衾田陵(「西殿塚古墳」)から、台風による倒木で器台や壺が出土した。これらの遺物は、岡山県楯築の弥生墳丘墓出土の器台・壺と共通性を持つことが明らかになった。
 箸墓古墳出土土器についての暦年代は、庄内式の最終時期若しくは布留0式か、研究者によって意見が分かれるところであるが、仮に布留0式(260〜280年)とすると、卑弥呼没(248年頃)後の築造となる。
 研究者の中には、箸墓古墳の築造を3世紀半ばとの意見もあり、私もその考えに賛同する。
 いずれにしても、285mの箸墓古墳には、吉備の勢力が関わっている事実は間違いない。
一方、島根県西谷〔にしたに〕3号弥生墳丘墓からは、出雲の土器とともに吉備型特殊器台や壺、更には北陸の土器も出土している。これは、出雲の埋葬儀礼に吉備と北陸の関係があったことを示している。
 日本列島における巨大前方後円墳の出現には、大和勢力と吉備勢力が同盟関係を結び、強力な体制で権力機構をつくった背景がある。そして、その最初に築造したのが箸墓古墳である。初期大和政権は、吉備との関係を持ち、吉備は出雲との関係を持つ。このように、3世紀の邪馬台国時代は、畿内・瀬戸内東部・山陰・北陸・東海を含めた広汎な地域をグラウンドにし、権力団体の構造があったことになる。それらの状況から、古代国家が成立するのは3世紀であったと考えられる。
河上邦彦氏
奈良県立橿原考古学研究所
調査研究部長

「ホケノ山古墳は3世紀中ごろと発表したが、今回の測定結果から築造も3世紀前半と見ていいだろう」  (木棺材の炭素14年代測定値の発表を受けての発言)
ホケノ山古墳
纒向遺跡の東南部に位置し、東から西へ向かってのびる段丘の残丘上に立地する前方後円墳である。
前方部を南東に向ける。
現状での墳丘規模は全長約80m、後円部計約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mである。

平成12年4月、大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会は、ホケノ山古墳の築造年代が、それまで推定されていた3世紀半ばから3世紀第2四半期(225〜250)ごろに遡ると発表した。第4次発掘調査で出土したコウヤマキ製のくりぬき式木棺(長さ5m、幅1m)の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果である。
「ホケノ山古墳」を一部復元し史跡整備

145 ホケノ山古墳 県文化財 
箸中字ホケノ山636他    平成元年3月10日指定
 箸墓古墳の東200mに位置し、纒向扇状地の南端にあたる小台地上に、前方部を南西面させる帆立貝式の前方後円墳である。全長90m、後円部径60m・高さ8.5m、前方部長30m・高さ3.5mを測る。
 墳丘上に円礫が散乱しているが、埴輪片はみられない。北及び北東側は、幅10mの水田が残っており、周濠の痕跡とみられる。大神神社にはホケノ山古墳出土と伝わる画文帯神獣鏡が保存されている。墳丘に埋置された土器は、新しくみても庄内式期であり、3世紀前半かそれ以前の最も古い古墳の1つである。
 大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している。(桜井の文化財 桜井市教育委員会、石野)

平成13年度 秋季特別展
 「纒向の古墳」

〜纒向遺跡発掘調査30周年記念〜
桜井市埋蔵文化財センター 期間:平成13年10月3日〜平成13年12月2日
10.箸墓古墳
 前方後円墳、全長約280m・後円部径約160m・前方部前面幅約147m、後円部5段築成・前方部前面4段築成、周濠幅約10m、後円部に渡り堤を付設、葺石を施し、墳頂部に底部穿孔の二重口縁壷・後円部5段付近に特殊器台形埴輪・特殊壷・特殊円筒埴輪が出土、周濠部より木製の鋤・手斧の柄等出土。
(古墳時代前期初頭)

11.ホケノ山古墳
 前方後円墳、全長約80m・後円部径約55m、後円部3段築成周濠幅約10.5〜17.5m、葺石を施す。
 前方部裾葺石の一部を取り除き、瀬戸内系の壷・東海系の壷を副葬した木棺を埋葬、主体部石積木槨(長さ約7m、幅約2.7m)・刳抜式木棺(コウヤマキ製5m)、槨内より鋼鏃60本以上・鉄鏃60本以上・素環頭大刀1口・鉄製刀剣類10口前後・加飾壷・画紋帯同向式神獣鏡、破砕鏡、鉄製農工具出土。
(古墳時代前期初頭)
河上邦彦氏
奈良県立橿原考古学研究所
調査研究部長
木棺材の炭素14年代測定により「ホケノ山の築造が三世紀前半とさらに早まり、(卑弥呼の墓説もある)  箸墓古墳の築造もこれまでの三世紀末から中ごろになる可能性がある」

箸墓古墳
箸墓古墳は纒向遺跡の南端、桜井市大字箸中に所在する全長約280m、後円部径155m、前方部長125mの前方後円墳です。前方部の周辺では過去に5回の発掘調査が行われており、茸石や周濠状の落ち込み、盛り土による堤、古墳築造時の土取り跡などが確認され、出土土器の検討により前方都が布留0式期の築造である事が確認されています。

従来言われている箸墓古墳などの巨大古墳ができて、それを見習って
吉備の国に2分の1規模、3分の1規模の古墳を作ったのでしょうか。


朝鮮半島から、出雲経由、瀬戸内経由で吉備に高度な技術者が定着した。
彼らは、弥生墳丘墓から矢藤治山古墳へ古墳を進化し、前方後円墳の形態を造った。

そして、吉備の国の高度な技術者(朝鮮半島からの高度な技術者)が、大和へ進出した.
その結果、特殊器台、円筒埴輪、古墳作成等の技術が大和に移った。

巨大古墳が作れる技術者が吉備から大和に移ったとすれば、
吉備で発生した特殊器台、円筒埴輪が飾られた前方後円墳が大和で作られることになった。
吉備の網浜茶臼山古墳などの古墳設計図でその3倍の箸墓古墳を作成したことになる。

つまり、吉備の一部の前期古墳は、箸墓古墳より古いのではないか。

浦間茶臼山古墳は、別として、児島湾に面した網浜近辺の最古の古墳群は、有力ではないでしょうか。
朝鮮半島から多くの技術者が、吉備の国の海沿いに定着し、3世紀から4世紀ごろ大和に進出していったのでしょう。

朝鮮半島にも、「298年 高句麗百済を攻める。百済・責稽王殺害」など不安定要素もあった。
また、4世紀歴史年表で、作者の仮説では、
  
  310年  百済応援に、吉備の先住民の出雲振根(百済の王子温羅)が筑紫に行った。
       その後、吉備に帰還したが、四道将軍「吉備津彦」に攻められ、殺された。
       吉備の石上神社を大和に移し、石上神宮に遷し加え祭る。


この頃、確かに技術移転が行われた。


 
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作成者 藤本典夫