一級国道「古代山陽道」高月駅家について(岡山県赤磐市)

@ 5世紀備前最大の古墳がある。(両宮山古墳)山陽町 稚媛の里
A すぐ南に、上道郡内に朝鮮式山城「大廻山、小廻山城」遺跡がある。岡山市 小廻山遺跡
 山陽町高月地区から2kmほどのところに上り口があり、高月地区のための施設に見える。
B 奈良時代から平安前期の「瓦」の利用は、国の施設、寺院に限られ、郡役所、倉庫などは
 掘っ立て柱に茅葺であることから瓦が出土すれば、寺院との見解が多く○○廃寺等の名前がすぐ付けられる。

 逆に、瓦が出土して山陽道沿いの施設は、国家施設の可能性があることを認識する必要がある。

C岡山県内の奈良時代の郷名について


特に、旧山陽道沿いの各郡には、駅家郷があり、駅家を維持するために郷を充てていたのがわかる。

<備前国駅馬>坂長。珂磨。高月各20疋。津高14疋。
<備中国駅馬>。川邊。小田。後月各20疋。

国名 郡名 駅家名 郷名 摘要
備前国 和気郡(邑久郡) 坂長 坂長郷    
和気郡 藤野 藤野郷 788年廃止
磐梨郡 珂磨 珂磨郷 788年に新設
赤坂郡 高月 高月郷
津高郡 津高 駅家郷
備中国 窪屋郡 駅家郷
下道郡 川邊 川辺郷
小田郡 小田 駅家郷
後月郡 後月 駅家郷

多くの駅家がその専属の郷を持って、○○郡駅家郷と名乗っている。

@津高郡、窪屋郡、小田郡、後月郡については 駅家郷が駅家を維持するための郷であることがわかる。

A珂磨郷については、新しく磐梨郡を作り運営したことから、駅家を担当する郷と郡庁を運営する郷に分けていたものと思われる。
 現在、赤磐市松木地区と円光寺地区(旧熊山町)であるが、たとえば、和気郷(吉原、円光寺地区)に磐梨郡役所を置き、珂磨郷(松木及びその周辺)に珂磨駅家を置き、その周辺に兵舎などを設置すれば、便利もよい。二つの施設は、ほぼ並んだところにあったことも考えられる。
 (赤磐市松木 赤磐市役所熊山支所から山沿いの一帯で、円光寺遺跡などがある。)


B藤野郷、坂長郷については、同じ郡内に2箇所の駅家があるため駅家郷ができなかった。


B高月郷は、後日、備前国分寺が出来るなど備前の中心であるが、駅家が出来た当時、駅家郷をなぜ造らなかったのか。
 赤坂郡にあるのであれば、赤坂駅家であってもいいが、高月駅家である。赤坂郡が駅家施設より、1ランク上の施設があった可能性を示唆しているのでは。 赤坂郡に当時、備前国府、軍団などがあれば納得がつく。
 国府は、山陽道沿線にないと、役目が果たせないことから、可能性が高い。
 壬申の乱(672年)にも 近江朝廷の大友皇子側は、東国と吉備 筑紫 に兵力動員を命じる使者を派遣した。
 この吉備が備前なのか備中なのか不明である。


C河邊駅家は、下道郡にある。高月郷と同様、郡名が駅家名になっていない。
 備中の国府は、平安時代、総社市にあるが、その以前は、川の西側にあってもおかしくない。
 何らかの国家施設(国府など)があったと考えれば、高月同様に郡名(下道郡)が駅家名にならなかった理由がわかる。
 そこで兵を養い、防人として送り込んでいた。


Dその後 備中国分寺を造るのに際して、候補地を探し、川の東側に中心が移った。


(3)駅家の存在を考える上での参考資料


646年(大化二年)の詔勅に「畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)
650年(白鳳元年)に備前国司が任官したので国府は、そのときでできた。
741年(天平13年)には、聖武天皇により「国分寺・国分尼寺建立の詔」があり国分寺ができた。


(野磨駅家である根拠について)

 奈良時代から平安時代にかけて、地方でこのような礎石建ち・瓦葺の建築物が建てられるのは、官衙(役所)か寺院にほぼ限定できるのですが
@ 建物配置が、寺院の伽藍配置とは考えがたく、官衙的な建物配置であるとみられること。
A 出土している土器の中に、官衙遺跡から多く出土する「緑釉陶器」が含まれていること。
B 郡衙などの地方官衙には、瓦が使用されている例は稀であること。
C 出土している瓦は、播磨の駅家に共通で使用されている「播磨国府系瓦」と呼ばれている8世紀
  後半の瓦であり、白鳳期(7世紀後半)の瓦は使用されていない。
D 古代山陽道沿いに位置していること。
E 「おろち」の地名が遺存していること。
などから考察して、今回調査した遺跡は寺院や郡衙びような郡レベルの地方官衙とは考えがたく駅家にあたり、文献に登場する山陽道の「野磨駅家」であるとみて誤りないと思われます。
  (兵庫県上郡町教育委員会  野磨駅家跡資料から)

野磨駅家については、駅家が2箇所発見されている。

初期の駅家は、落地八反坪遺跡といい、古代山陽道沿いに掘立柱建物郡が発見され、柵に囲まれた建物群であり、瓦葺になる以前の駅家であり、少し東側に落地飯坂遺跡が新たに発見され、瓦葺の後世の駅家が出現した。駅家が時期により位置を変えていた。

新築をする場合に、すぐ近くの便利な場所に新しい施設を建設するやり方は、現在の国家施設でも、恒常的に行われているやり方で、合理的である。
<高月駅家を考察>

初期の高月駅家ができてから、同じ場所に駅家があったわけではなく、瓦葺の駅家を近くに新築した可能性がある。つまり、瓦葺の建物遺跡が近くにあれば、古代寺院とともに、高月駅家の可能性を考察する必要がある。

特に、国分寺跡から、国分尼寺跡の位置関係、国分寺の中門と仁王門・南門の接近した変形配置
など不自然な配置がある。

国分寺跡、国分尼寺跡の配置について、備中の配置は、
西の大川から、その東に国分寺があり、その東に古墳がある。
また、その東に国分尼寺があり、その東に砂川がある。
備前の場合も、西に大川があり、峠を越えて、その東に国分寺があり、またその東に両宮山古墳ある。
そしてその東に砂川がある。
備中の配置から国分尼寺の位置が両宮山古墳の東、砂川の西あたりではないか。

国分寺の重要性から、仁王門・南門がもっと南にあっても不思議ではない。
国家威信をかけた国分寺なのですから。

その仁王門・南門の前を、東西に伸びたまっすぐな古代山陽道が通過していた。

 古代山陽道の駅家の成立について


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作成者 藤本典夫