神戸事件

岡山市御津金川  滝善三郎義烈碑


 1868年(慶応4年)1月10日兵庫県明石に宿泊していた岡山藩の家老日置氏の軍勢
約450名及び大砲方を率いた一軍は、11日午後2時ごろ、 一行が神戸の三宮神社に差しかかった
とき事件は起こった。








明治元年新政府の最大の外交問題となった。


この事件について    「赤磐郡誌より引用」

瀧 善三郎

(一)
 徳川氏譜代の大名尼崎藩主松平遠江守に備へる爲め、慶応三年十二月下句、
備前藩主池田備前守(茂政)に、西宮警備を命ぜられ、翌四年(明治元年)正月
元日出動を命ぜられ、同5日迄に.総軍二千人を繰り出した。
 此の中軍の内・兵力約四百五十及び大砲方を率いた一軍は、津高郡金川(御
津郡)在住の老臣、日置帯刀忠尚の軍勢で、陸路をとり、正月十日明石に宿営し
.翌早朝出発して兵庫に入り、正午本陣に着いて昼食をとり、尚ほ進んで、三宮の
森林にさしかかろうとした、時に午後二時。突如として先頭に叱咤の声が起つた。
これは第一砲隊を横切らんとした、佛國二水兵を抑止する声であつた。
 叉濱側より来た一名の米國水兵は、第二砲隊と第三砲隊との間をぬけ去つた。
是れと殆ど同時に、山手より来た英國一水兵、手に拳銃をとつて.第三砲隊の
先頭に現れて、威嚇の態度を見せた。
隊士は怒つて「斬り伏せよ。」の命令と共に、長槍を振つて.共の腹部を突いた。
外人は狼狽して民家に逃げ込み、尚ほ逃れ先頭を迂回して海岸に走つた。

沖に停泊せる外國軍艦よりは、陸戦隊を上陸させ、以つて神戸居留地附近の市街
を占領し、神戸港にある、雄藩六隻の船舶を拿捕し、以つて交渉に移らうとした。
彼等の暴状、我が統治者を缺げるに乗じて爲せる行爲に対し忍ぶ可らざるを忍ん
だ、當時の日本人の賢明さは、吾人の忘れ得ぬ処である。

(二)
一、日本官憲は、各國公使に謝罪の意を表すること。
二、今後再び、此の如きこと無きを保証すべき言明を爲すこと。
三、責任者は、公使館附士官の立會の上にて、死罪に処すべきこと。

是れぱ、正月十六日、列國公使の会議の結果、我が国に通達された要求である。
越えて二月二日、備前藩に断罪の御沙汰書が下り、翌三日、家老池田靱負より、
左の御請書を奉つた。

一、一軍の統率者、日置帯刀は謹愼。
二、発砲號令の者は割腹を命じ、五日間内に罪科人を兵庫に送致すること。
扱て斯くの如く事は極まつたが、仲々罪科人は極まらない。
岩倉具視の手紙に
『可惜、家臣をして過渡期の犠牲たらしむるは、藩主の忍び得ざる所、外人の無礼
を問ふ能はざる此場合の苦衷は洵に察するにあまりあり。』
 藩主の御沙汰書に、『馬前の討死に勝り、一人不憫(ふびん)に思ひ入る。」此の
恩遇に感激した日置帯刀は、遂に意を決し、責任者として.当時第三砲隊長であつた
瀧善三郎正信を呼び出し、右の旨を告げた。
善三郎は大に喜んで、主命に服する事になつた。


(三)
慶応四年二月九日の夕刻。定められた時は來た。正信は、『きのふみし夢は今更
引かへて、神戸がうらに名をやあげなむ』
辞世一首を残し、多くの武士に護られて、兵庫南仲町なる永幅寺に着いた。各関
係者.立禽人.外國武官等、続々來つて控室に入り、一同固唾をのんで、時の到る
を待つた。

(四)
定めの席に着いたのば、午後十時四十五分であつた。切腹の場所は.佛壇の前板
の間を隔て上、青畳を積み重ね、共の上に赤い毛氈が敷かれて居る。
向つて右側には、本藩及び目置の家臣七名が居並ぴ、左側には、外國武官七名
が席を列ね、伊藤俊輔.中島作太郎・薩長爾藩の隊長・宇和鳥侯使者等七名は、
廊下に近く右側に着座した。間もなく入り來つたのは瀧正信で、堂々たる体格に
白装束をまとひ、日置の家臣に護られて位置に着く。
介錯人は共の左に坐した。
室内は寂として声底く、外にば木枯が、ヒューと音を立てて過ぎ去った。
少時すると、正信ぱ恭しく一同に敬礼し、静かに口を開き、『過ぐる時、発砲號令せる
は、不肖正信である。公法によって御処置となり、此処に罪を謝せんがため切腹する。
宜しく篤と御検証相なりたい。』と荘重に宣言した。
同僚篠岡八介は、白絹で巻いた短刀を三宝にのせ、恭しく持ち来り、之れを前に据
ゑる。」
正信は双肌腕いで押し下げ、袖を巻いて膝に敷き、静かに短刀を取り、につこと打ち
笑み、左脇腹にざつくと突き立て、右へ員一文字に引き廻し.更に今度は上に引き、
腹十文字にかき切つて、両手を膝にをき、首を前に差しのべた、此の間正信泰然と
して微動だもしなかつた。
 是れと見た、介錯宮崎愼之輔、つと立ち上り、備前の業物抜く手も見せす、一度素
振りを見せたかと思ふ間もなく、正信の首は骸を離れ、切先餘つて土壇に達した。
俊輔は、つと立つて、切腹の終った事を外人に皆げた。
外人は頭をそむけたまま退場する。時に午後十一時三十分であった。

(五)
封建時代の最後の悲劇は、外人の初めて見た、驚くべきハラキリによつて閉ざされた。


四十九才 瀧源六郎 七十三才 母 千か
四十五才 妻 まき
三十二才 瀧善三郎 ニ十八才 妻 はつ
四才 伜 成太郎
ニ才 娘 いり
介添人 坂口吉之介。
跡片付心得 笹岡八介 角田讐
介錯 宮崎槇之輔
医師 江村東庵

一子成太郎は、本籍に召し出されて.五百石を賜ひ、長女は養子正明を迎へて日置家に仕へ、百石をいただいた。
正信の遺骸は茶毘に附し、森村の共同墓地に埋め、尚ほ分骨した。
 京都妙心寺(日置家の墓地)大光院分骨。岡山市門田墓地 誠厳院忠良居士。神戸永福寺(位牌)瀧泉院善誉正信居士。



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作成者 藤本典夫