山田方谷終焉の地

(岡山県新見市大佐小阪部 方谷園)

山田方谷:文化2年(1805)〜明治10年(1877)


新見市大佐小阪部 方谷山田先生遺蹟碑

小阪部塾跡
説明看板も何もない。
山田方谷の終焉の地である。
正面に勝海舟による「方谷山田先生遺蹟碑」の文字がある。

両側に、方谷の弟子
三島中州による「我が方谷先生は・・・・」で始まる碑文がある。


現場に行っても説明文がないので、
碑文の内容をパンフレットから掲載します。
「ここには説明版もないから」と、正面の家の方が親切に、パンフレットを持ってきていただきました。
大佐町パンフレットから

方谷山田先生遺蹟碑
訳者 金沢大学名誉教授文学博士・
山田琢先生(方谷の曽孫)昭和六十二年三月

 我が方谷先生は、備中松山藩主(板倉勝静)の富国強兵の政治を輔佐された。その完了後は引退して郷里西方村で家塾を開かれた。学徒が各地から集まリ、読書の声が山や谷にひぴいた。
暇には、祖先の遺産をまとめて更に新田を開墾し、家運は盛んになった。先生はこれで祖先の祭祀が出来るとされて、家を嗣子の明遠(山田耕蔵号は知足斎)に譲リ、刑部の山中に移住された。
刑部は先生の亡くなった母の出生地である。その西谷氏の家系が久しく絶えていた。先生は再興をはかられ、時に明治三年十月のことである。
先生に、従学する学徒はますます多く、塾舎は棟をならべて常に数百人が在塾して、寂かな村はにぎわった。先生の外祖父母の忌日には必ず墓参された。墓は小南村の金剛寺にある。先生は墓表の文を指さして、お供の童に語って言われた。これは自分の師匠の丸川松隠先生の子息慎斎が書かれたものである。これを書かれた時には八歳であった。と。そして久しく物思いにふけっておられた。
また、小庵を墓側に建てて休息所とされたが、庵に入って静坐して頭を低れて思いをこらされると、祖先の霊が在すがごとくに傷み悲しまれて、お供の童は思わず感興をおぼえた。かくして時をすごし、また一宿して帰られることもあった。
やがて年月がたち束修が多く積もったので、田地を購入して家屋を建て、新見村の林謙作の次男巻太郎を養子とし、先生の親戚小野定一郎の娘と結婚させて西谷家を継がせた。先生は定めし喜ばれたことであろう。
明治十年六月二十六日、先生は俄かに逝去された。明遠は枢を奉じて西方村に帰リ葬つた。近頃門人等が相談して、刑部の先生の学塾の傍らに石碑を建てて、遺蹟のしるしとし、私(三島中洲)に碑文を書くようにもとめた。思えば先生は藩主をよく補佐し、祖先によく奉仕して、忠と孝を兼ねて全うされたのである。後世の模範として碑の銘文を書かなければならない。
先生の名は「球」、字は「琳卿」、号は「方谷」山田氏である。その学問と事業とは、かつて詳しく記して藩祖廟(高梁市の八重離神社)の側に大碑があるので、ここでは省略する。銘の文は左のようである。
忠を説き孝を述べるのに、世の学者は多くある。しかし言葉だけで実行がともなわない。鳴呼、先生は実践躬行された。
その人柄がそのまま手本であリ、更に□で説く必要はない。後世の人々が感奮するのはもっともなことである。先生は今は亡いが、永久にその典型は存する。銘文は千古に伝わリ、忠孝の碑は滅ぴない。



明治3年、10月 山田方谷は、この地に小阪部塾を開いた。

明治10年6月26日この地で、73歳で永眠した。



新見市大佐「金剛寺境内」方谷庵
  山田方谷生誕地   山田方谷私塾を開講  備中高梁



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作成者 藤本典夫
藤本典夫