高梁市の見所(2)


平成15年10月 高梁市を訪ねた。
今回の訪問は、高梁市の山田方谷ゆかりの地をたずねた。
JR方谷駅、河井継之助ゆかりの「見返りの榎」、高梁市街地から方谷橋を渡った「方谷林公園」
市内に戻って、「高梁鍛冶町郵便局」、山田方谷が学頭を務めた「有終館」跡、「高梁郷土資料館」を巡った。



まず、JR方谷駅に向かった。
高梁市からだいぶ北上し、山の中の無人駅である。
場所は、高梁市長瀬で、山田方谷が開墾屋敷を造ったところ。(1859年4月に移住)

越後長岡藩の河井継之助は、備中松山に山田方谷が、財政再建を果たしたことを学ぼうと、はるばる江戸から
備中松山にやってきた。
そのとき、日記「塵壺」をこまめにつけていたため、江戸からの旅行の様子が記録として残った。
また、山田方谷から学んだことも同時に記録にとどめている。

河井継之助の日記「塵壺」によると、1859年(安政6年)7月17日山田方谷宅に宿泊した。
方谷宅の様子について、
「松山から3里のところ、昨年ここに引き移って、まだ普請も残っている。」

安政5年(1858年)は、安政の大獄が始まった年で、備中松山藩主も幕府の中枢にいて、対応に苦慮している時期である。
(藩主板倉勝静は、井伊大老に対し、安政の大獄に意見を提出、寺社奉行を罷免された。)
 そして、江戸の藩主板倉勝静から山田方谷に江戸に出府するよう要請があった。
それにあわせて、河井継之助は、9月18日備中松山を出発して、長崎などを見学し、11月3日備中松山に帰着した。
一方、山田方谷は、9月20日頃 備中松山から江戸に出発、11月28日松山に帰着した。


 河井継之助が旅行へ出発した直ぐ後に、山田方谷は江戸へ向かいます。
山田方谷の江戸行きの理由ですが、安政の大獄と関係があります。
当時備中松山藩の藩主板倉勝静は、寺社奉行を罷免させられています。
井伊直弼の行った弾圧政策(安政の大獄)に対して、山田方谷の意見に基づき、断罪は一、
二に止め、その他は不問にすべきであると申し入れたのが、大老の不興を買ったためです。
板倉勝静は方谷へ手紙を書き、大いに時勢を嘆いたといわれます。これに対して方谷は、
「進退は義を以てすべきもの。大老に意見した以上は、用いられるか、そうでないかは、拘
るべきではない」と言ったといわれています。


河井継之助を訪ねる(第2部松山遊学時代)より




見返りの榎(JR方谷駅川向)

河井継之助
翌年(1860年)3月まで、方谷のもとで学んだ。
小説「峠」でその別れのとき、何度も振り返った場所として有名



司馬遼太郎「峠」の一場面がよみがえる。




JR方谷駅のホームのすぐ近くにある。


JR方谷駅(無人駅)

山田方谷はなぜ、高梁から3里もあるこの場所に、開墾屋敷を作り居住したのか。
すでに、備中松山藩の元締として、評価も得ており、城下に屋敷を構えていてもいいと思うのだが。

方谷は、幕府の崩壊を予見して、武士に農業をさせる半農政策をとっていた。
1つの村で1町開墾を行うとの方針を出し、自ら実践している。
多くの藩士に、開墾を進めて自ら実践していた。




方谷林(方谷4歳の書を刻んでいる。山道を30分は登る。)
高梁市の町並みから方谷橋を渡って川向こうに「方谷林」がある。
公園という名前がついているが何もないところ。
林の中から、市街地が遠くに見え、急な坂を登った先にこの岩があった。
噴出す汗に、「本当に何もなかったなあ」と思いながら坂を下った。


続いて、高梁市内を散策





「有終館」跡  郵便局の正面


高梁鍛冶町郵便局 花屋跡
有終館の前にある。










方谷の像「高梁市歴史資料館にひっそりと立っている。」
銅像は威圧感のある大きなものが定番だが、意外と小さい。



方谷が長瀬塾で使っていたらしい。
高梁市歴史資料館の2Fに展示しています。


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作成者 藤本典夫