津田永忠が手がけたこと。

 寛永9年 (1632年)池田光政国替えで備前岡山藩が出来る。
 寛文7年 (1667年)備前市吉永町の和意谷に池田家墓所を造る
 寛文9年 (1669年)旭川の洪水対策で、放水路百間川を掘る。
    (寛文11年荒手堤、貞享3年百間川を造った資料もある。) 
 寛文10年(1670年)閑谷学校を造る
 寛文11年(1671年)5年計画で「社倉米」銀1,000貫目
             (米2万石)をため、金融業を始める。
 寛文12年(1672年)池田綱政 藩主となる。
 延宝7年 (1679年) 倉安川掘削
             用水路と吉井川から岡山城下への運河に利用
 延宝7年 (1679年)倉田新田など瀬戸内海(児島湾)干拓事業
             津田永忠が、元禄のころまでに手がけた干拓
             1,918haとも言われる
 天和2年 (1682年)津田永忠 郡代となり、
             お救米15,000石を半減し、社倉米に入れる。
             この資金を利用し、巨大プロジェクトを行う。
 天和2年 (1682年)池田光政 74歳で卒
 貞享4年 (1687年) 後楽園造営、当時は後園、御後園と呼ばれていた。
 元禄3年 (1690年)再度、後楽園改修
 元禄13年(1700年)後楽園完成  
 元禄10年(1697年) 田原用水2期工事(難工事完成)
 元禄11年(1698年)曹源寺 造営
 宝永元年(1704年)65歳で、閑谷に閑居
 宝永4年 (1707年)津田永忠、68歳で卒
             閑谷学校には屋敷跡に大きな碑がある。


津田永忠

   津田永忠(2)  

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作成者 藤本典夫