新釈 備前軍記(柴田一編著)より転記
児島八浜合戦並びに七本槍の事


 天正九年(1580)四月のころ、秀吉のもとから字喜多家に使者が訪れた。
「近年の内に毛利征討を決行する。その準備として、字喜多家は児島を堅固に守備するとともに、追々備中をも制圧するように」というのである。
 直家は既に死去していたが、宇喜多側は素知らぬ体で病中と偽り、浮田与太郎元家・浮田七郎兵衛忠家が応待に出、備中制圧のことなど相談し、その作戦計画に全面的に賛成する旨を答えた。
 このことを芸州の忍びの者が聞きつけ、これを安芸に帰って報告した。
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景は評定を開き、穂田伊予守元清を大将とし、有地美作守・吉志清左衛門・村上八郎右衛門・植木出雲守・同下総守・同孫左衛門・福井孫六左衛門・津々加賀守らを児島に進出させ、八浜の西四十町ばかりの所に布陣し、麦飯山(現玉野市八浜町)に砦を築き、まず児鳥を制圧しようと計画した。
 この毛利勢の児島進出のことは、常山城から岡山へ注進されたから、岡山城では浮田与太郎元家を大将とし、戸川平右衛門・岡平内、その他の諸将を添え、大挙して渡海し、八浜の手前に布陣した。毛利、宇喜多の両軍は、互いに足軽を出して小競り合いを繰り返した。
 さて八月二十二日(一説には二十四日)の朝、岡山勢から麦飯山の城近くへ馬草を刈りに出かけた。敵方は数人の兵を出して草刈りの者たちを追い払った。そこで味方の若者五、六人が駆けつけ草刈りの者を助けた。敵方もまた十人ばかり出て渡り合ったので、味方もこれをみて、また二十人ばかりが加勢した。こうして双方共に大勢となり、大崎村(現同市大崎)の柳畑という浜辺で大合戦となった。

 この柳畑の浜辺の古戦場では、今も白骨や刀剣類を掘り出すこともあるという。
   なお古戦場は柳畑ではなく宮の森という所とする説もある。

 毛利勢の部将村上八郎右衛門は、三百余の兵を率いて船に乗り、磯辺に船を寄せ備前勢の側面を突こうと待機していたが古志清左衛門・楢崎十兵衛・有地美作守もこれと一緒になり、槍を取って備前勢に突いて掛かった。
 備前勢の大将浮田与太郎は馬に打ち乗り、敵の誘いに乗って深追いする味方を引き止めたが、勢づいた味方は留まらない。彼は傍にいた馬場重介に、「そなたはここに留まって、後より来る味方を引き留めてくれ。某は先に行って同勢をまとめて引き揚げる」と言いおいて、馬を走らせた。前進してみると、誘われた味方の兵は、毛利勢にくい止められて引き取り兼ねていた。与太郎は采配を振るって味方を引き揚げさせようと、馬を輪乗りして下知していた。そのときどこから撃った弾か、鉄砲の流れ弾が元家の兜を撃ち抜き、基家は落馬して即死した。

 一説には胸板に命中したのだと言うし、またその流れ弾は味方が撃ったものともいう。


 備前勢の大将討ち死にとみた毛利勢は、喚声をあげて襲いかかった。与太郎元家の乳母の子で三五兵衛という者がいた。彼は敵に元家の首を奪われまいと寄せ来る敵を斬り払ったが、ついに元家に抱きついて討ち死にした。岡山勢の中村宗介父子もまたここで討ち死にした。このように大将が討ち死にしたので、備前勢の先頭は総崩れとなって敗退した。
 さて馬場重介は後方に留まって、先頭に続こうとする軍勢の引き留めに努めたが、止めることはできなかった。
そこで彼もやむなく後から駆け進んだが、そのときはすでに先頭の軍勢は総崩れになっていた。彼は手の施しようも無く、馬にも乗らず殿軍して引き揚げにかかった。
 そこへ馬場重介を討ち取ろうと、敵兵三騎が追ってきた。先頭は青毛の馬、次は月毛の馬、三番目は芦毛の馬に乗った敵であった。重介はこれを突き払い突き払いし、また馬で乗りかかられないよう槍の穂先を後にし、槍の柄を脇に抱えて後退した。
 戸川平右衛門も、大将与太郎に続いて出陣したが、早くも敗け戦さとなったので力を落として後退しようとした。そのとき与太郎基家の討ち死にのことを聞いた。大将が討ち死すれば士卒統制は乱れ、敵の追手を受けて全滅する。そのとき自分ひとり生き延ぴたとて何の生き甲斐があろう。そう考えた戸川平右衛門は、共に討ち死にしようと馬首をめぐらし、敵陣に駆け出そうとした。
 そのとき能勢又五郎が、平右衛門の馬の口を捉えて、「某も一緒に御供仕る。しかしその前に、若者達の働きを御目にかけましょう」と言い、馬を引さ留めたところへ、馬場重介・岸本惣次郎・小森三郎右衛門・粟井三郎兵衛が追いついて、敵の追手を支えて戦った。
 国富源右衛門・宍甘太郎兵衛の二人は、近くの山頂からこの形勢をみて、谷を渡り峰を越えて駆けつけた。国富源右衛門は真先に進んで、追ってきた敵と槍を含わせ、敵を突き倒して、その首級を挙げた。ついで宍甘太郎兵衛も立派な鎧武者と槍を合わせた。しかし太郎兵衛は、山から走り続けてきたため草臥て、なかなか勝負をつけることができない。源右衛門はこの太郎兵衛の従弟であったが、太郎兵衛苦戦の様子をみて、「太郎兵衛、俺の方は片付いた。これから助けに行くぞ」と励まし、槍を持って駆け付けた。このとき敵は源右衛門の声に気を取られ、その方に目を移した。その隙に太郎兵衛は槍を突き入れ、また加勢の源右衛門も槍でその敵を突き倒した。そのとき太郎兵衛は力尽きたのか、「源右衛門よ、その敵の首を取ってくれ。俺はすっかり疲れ果てた」と源右衛門に声をかけた。
 そのとき、敵の首級を取り、傍の岸の上から見物していた馬場重介が声をかけた。
「太郎兵衛よ、元気を出せ。鎧武者をお前は討ち取ったのだ。このようなときは、敵に喰らい付いてもその首を取るものだ」
 老功の武士の忠告である。太郎兵衛はこれを聞くと同時に身を起こし、敵の体に乗りかかってその首級を挙げた。
 さて備前勢の七人の侍は、いずれも敵と渡り合い、勢いに乗じて攻めかかった毛利勢をここで防き止めた。そこで一度敗退した味方の士卒も、ここかしこの谷や峰から引き返し、一緒になって防戦したから、かえって追撃してきた毛利勢が浮き足立って逃げ始めた。備前勢はこれを追い討ちし、多くの敵を討ち取って引き揚げた。
 さて、馬場重介を追った敵三人の騎馬武者は、その名前を後になって聞くと、先頭の青毛の馬に乗ったのは三村孫太郎、次の月毛の馬は三村孫兵衛、三番目の芦毛の馬は石川左衛門尉で、共に備中三村一族の部将であった。

 その後相当年を経たころのことである。三村孫太郎が姫路に来たとき、重介の二男の作助が孫太郎に会い、その馬の毛色によって騎馬武者の名前を尋ねたところ、その答えは本文に記すところと同じであったという。

 さてこの合戦で殿軍を勤めた七人の勇士を、後世「八浜七本槍」と呼んだ。能勢又五郎・国富源石衛門・宍甘大郎兵衛・馬場重介・岸本惣次郎・小森三郎右衛門・粟井三郎兵衛がそれである。この「八浜七本槍」の物語は、平右衛門秀安の子戸川肥後守達安が、将軍徳川家光にも言上したことである。この本文の記述は、備中庭瀬藩主戸川肥後守が、その屋敷へ備前宰相池田忠雄を招いたときの物語の控え書と、馬場重介の覚え書によったものである。この話を聞いた池田忠雄は、国富源右衛門を呼ぴ出し謁見したという(これからすると、源右衛門は宇喜多家滅亡の後、戸川家に仕えたものであろうか。調べてみるべきである)。一説によると、この七本槍は、戸川平右衛門を加え、粟井三郎兵衛を除いている。この理由を考えるに、肥後守が池田忠雄に語ったとき、戸川平右衛門は自分の父であるから、わざとこれを除いたのか、或いは粟井の手柄が分明でなかったためなのか、或いはまた、最初これを書き留めたとき、六人の名前のみ記し、他の一人は失念と記したが、後世の人が伝間して、この失念の一人は粟井三郎兵衛であろうとて、ここに書き加えたものであろうか。なお浮田与太郎元家の墓は児鳥郡の大崎村にある。
 この合戦が済んで後、戸川平右衛門は、この形勢挽回の場に居合わせた者たちを、常山城に集め馳走を振舞い、高名手柄の者の吟味を行った。
このとき馬場重介は、「あの防戦の場所まで殿軍を勤め、味方の兵を引き揚げさせたのは某ひとりでござる。戸川殿が馬を立てられたその場に踏み留まって敵を討ち取ったのでござる」と語った。その時、寺尾孫四郎が口を挟み、「味方の先鋒が総崩れになったとき、重介殿が殿軍を勤めたといわれるが、そのような姿など頓とお見掛けしなかった」と異論を唱えた。重介は即座に、「御返はその時いずこに居られたか。某はそのとき敵三騎が追い縋ってくるのを突き払って引き取ったが、御辺はその馬の毛色を見覚えておられるか」と反論した。孫四郎は答えることができなかった。そこで重介は言葉を荒くして、「総崩れになった時、先を争って逃げた者には、追い来る敵の姿は見えないものだ」と孫四郎を叱った。その時重介は、「某が反撃して敵と槍を交えていたとき、我が槍脇で弓を射ていた者がいる。黒糸の具足を身にまとい、朱塗りの筈の弓を持った侍であったが、なにしろ騒がしい戦場のこと顔までは見なかった」と語った。そのとき鷹見伝兵衛が進み出て、「それは某でございます。只今まで証拠もございませぬこととて黙っておりました」と答えたので、伝兵衛もまた恩賞にあずかった。
 小森三郎右衛門の働きは、備前勢の側からは物陰になって目立たなかったのか、列坐の者はさほど称揚せず、高名帳にも載らなかった。しかし後に毛利家の連中が、備前勢の陣容立て直しのとき、抜群の働きをしたのは小森であると褒め賛えたので、これが証拠となって彼も七本槍の一人に加えられたという。
 この常山城での饗応のとき、平右衛門は、この時の手柄の順番に盃を差して廻ったが、一番は能勢又五郎、二番には国富源右衛門、三番は宍甘太郎兵衛、四番に馬場重介などの順序であったという。

宇喜多八郎秀家が家督の事

天正十年(1581)正月、近江国安土に赴いた岡平内は、信長から宇喜多和泉守直家の遺領、備前国・美作国及播州佐用・赤穂の両郡(一説に宍粟郡をも含め三郡という)備中の一部を従来通り嫡子八郎に安堵する旨の朱印状を頂戴し、帰国して八郎に渡したので、家臣一同安堵の胸を撫でおろした。
その御礼として、二月上句八郎の名代長船又三郎を安土城に遺わし、また浮田七郎兵衛忠家を播州姫路に送り、秀吉に礼を述べると共に、幼少の八郎の後見の程を依頼させた。そして岡山では浮田七郎兵衛が八郎の後見を勤め、戸川平右衛門・岡平内・長船又三郎が家老として国政を取り仕切った。

備中高松の城攻め並びに所々城攻めの事

天正十年の春、織田信長から毛利征討の命をうけた羽柴筑前守秀吉は、備中に兵を進めるべく三月十五日姫路を出陣した。その日、備前国三石(現備前市三石)に着き、その翌日には福岡(現長船町福岡)に進んだ。そして同月十九日福岡を発し、沼村(現岡山市沼)で昼の休息を取った。宇喜多家は、この沼城の南の山麓に新しい仮屋を設けて秀吉を色々と饗応した。宇喜多八郎はまだ幼少であったので、花房弥右衛門正成をその名代としてここに派遣し、そのもてなしに当たらせた。秀吉は大層喜び、ここを出発して岡山を過ぎ、さらに兵を西に進めた。
このとき八郎の名代として、宇喜多七郎兵衛忠家・岡平内・戸川助七郎・長船又三郎らが、総勢二万余騎の大軍を率い、秀吉軍の加勢となってその先陣をつとめた。



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作成者 藤本典夫