お父さんのエッセィ

『南部蒼天7』(2002/02/07)


『鎮魂』


猫の明佳音が亡くなりました。
アメリカ時間、2002年1月25日金曜日夕刻。
息絶えるもまだ暖かい明佳音を、帰宅した息子が見つけました。
玄関で家族を迎えるのが日課の彼女、
玄関まで何とか歩き、息絶えたようでした。
その朝まで、肩で呼吸していた彼女の
安らかな死顔を見て
その日、もう少し早く帰ってやれば良かったと、
そうすれば、一人きりで、逝かせることはなかったのではないかと
妻が、我々の気持ちを語っていました。。。

享年11才と約7ヶ月。
人間換算の年齢は、1次関数ではないらしいので、よく分かりませんが、
60才ぐらいだったのでしょうか。。
原疾患は乳癌、渡米前から分かっていましたが、
獣医さんと相談し、手術は見合わせました。

入国後何ヶ月生きられるか分かりませんでしたが、
長年ともに暮らした家族でしたので、
彼女をこの地に連れてくることにしたのでした。
彼女を、ビジネスシートにのせて、
海を越えてから約4ヶ月目の週末でした。

乳癌の自然史の展開で、肝転移、その腫瘍塊による摂食困難、呼吸困難です。
エネルギーも酸素も不足する、苦しい最後の時期を約2週間堪え忍んで、
ついに彼女は安らかな時間を得ました。

経過中、
何度か呼吸困難を経験し、チアノーゼにもなりました。
アメリカの食事で、肥えていた彼女も、
最後は腫瘍でふくれた上腹部以外は痩せこけていました。

食事も摂れず、歩くのも苦しいのに、
旅立つ3日前まで、彼女は気丈にトイレに通ってました。
誇り高いのが猫族です。
私の前で、初めて失禁したときの彼女の気持ちはどんなだったでしょう。
察するに余りあります。
『おとうさん、わたしもうダメかも知れない』
彼女のそんな声が、私にはたしかに聞こえました。
誇り高いのが猫族です。
それでも、隠れて失禁することはなく、
猫として尊厳を失わずに生き抜いてくれました。
息子、娘よりも余程自立し、大人だったことを、
まっすぐに生き抜いたことを、
息子、娘は果たして記憶していてくれるでしょうか。。。

私の専門はgeneral surgery。
乳癌もその範疇です。
治療法も自然史も、それら全ての知識が、私の日常の糧の一部だったのです。
しかし、彼女には、猫としての尊厳を守ってやることしかできませんでした。
私は無力感にさいなまれました。
手からこぼれていく砂を見るように、
彼女の命は、私の掌からこぼれていきました。

当初、手術も、点滴も選択枝にはありました。。
それでも、
猫らしく生きて、猫らしく死なせてやるという、道を選んだのには理由がありました。

この、私の漠然とした哲学は
10数年前に失った初代の猫(グレース)の施療経験に由来しています。
彼女も、腸閉塞→術後短腸症候群、そして約半年の点滴生活の末に、
旅立っていきました。
彼女には、外科医の私と、麻酔科医の妻の、
知識と技量と動員できる物療の全てをつぎ込みました。
それでも、術後栄養摂取困難の彼女は火が消えるように、逝ってしまいました。
良性疾患による栄養失調死です。
つまり、私はその時も、自分の専門疾患にくるしむ愛猫を助けられなかったのです。

我々が、日常診療で人間の患者さんに行っている努力も
数割は同じように水泡に帰していきます。
その中で、必ずしも全ての方々が、尊厳を持ったまま、
最期を迎えているとは言えないことを私は知っています。
動物と、人間を一緒に語って申し訳ありませんが、
愛する者の死を、どの様にむかえるか、残された日をどの様に過ごすか、
という観点で、問題は同一線にのります。
安楽死を含め、死に至る医療は、
本邦ではもう少し整備されて然るべきと
私は常々考えていました。

今回、ペットに関しては米国での有り様も、私は学びました。
それは、多くの場合、家族だったペットが
苦しむ前に獣医さんに連れて行き、good byeする事だと聞かされました。
苦しむ前ってどの時点のことでしょうか?
人間の不遜さを感ぜずにはいられませんでした。。。

これらの思いを漠然とした哲学に、なんとか昇華させて、われわれは、
最後の数週間をともに過ごす道を選びました。
明佳音の手を握り、毛皮を撫でてやり、水を口に運びました。

肩で苦しそうに呼吸をしながら、彼女は何を望んだのか?
本当のことは分かりません。
明佳音のゴロゴロ声(comfortableな時の喉音)を最後にいつ聞いたのか、、
それも定かではありません。
ただ、彼女は私の愛撫をとても好んだし、
それなしには、
『おとうさん、わたしもうダメかも知れない』
と、言わなかったでしょう。
(猫を飼っている方なら、私の発言は誇張ではないと分かるでしょう。)
とにかく、その時まで、彼女はダメではなかったはずなのです。

愛する者の命が、掌中からこぼれ落ち、消えていく現実を、
直視せざるを得ない数週間、あさはかな哲学は、揺らぎに揺らぎました。

何万語費やそうとも、
なんと言い繕おうとも、
彼女は亡くなり、
私達は悲しみ、その思いは消えはしません。

彼女が旅立った翌日の土曜日、
我々は火葬業者を訪ねて(アーカンソーには一軒しかありませんでした。)
片道1時間30分のドライブをしました。
明佳音は車が嫌いでした。
かすみ草をあしらい、箱に納めた彼女が後部座席の真ん中にいます。
少し不憫でした。
晩秋のような、早春のような暖かい陽ざしの日でした。
静かなドライブでした。

交通事故で路肩に朽ちるアライグマ、
後部座席で眠る明佳音、
静かな対照が不思議でした。

火葬業者は
ボブキャットも出没するという山奥ありました。
彼らは、動物を飼っていまして、
物静かに話す優しい奥さんは、
明佳音の三毛模様をみて、
火葬中に
三毛模様のウサギを持ってきてくれました。
あれ、明佳音、ウサギさんになったの。
長女が言いました。

明佳音を小さな木の箱に納めて、
三毛のバニーにさよならを言い、
われわれは、気が抜けたように家路につきました。
いずれ彼女を日本の我が家に連れて帰るつもりです。


明佳音が亡くなって、2週間。
リトルロックに、今シーズン初の降雪がありました。
雪の嫌いな猫でした。
冬には、暖かい場所で丸くなるのが好きな猫でした。
彼女は今も私の足下で丸くなって寝ている、、、
そんな錯覚、否、確信が、
いまも私の体感からぬけません。


(2002/02/07記す)