お父さんのエッセィ

『南部蒼天22』(2004/06/19)


『髪結いの亭主』奇譚


奥様の名前はサマンサ、
旦那様の名前はダーリン、
ごく普通の恋をして、ごく普通の結婚をした二人、
ただ一つ違っていたことは、奥様は魔女だったのです。
本当は、魔女ではなく、魔女のように薬を使う仕事。麻酔科医でした。

手に職のある妻、ある意味で私は髪結いの亭主だったわけで、
妻には頭が上がらないこともたまにはあります。
その一つは、今回の留学でしょう。

外科医と麻酔科医、医局に所属し、命ぜられるががままに奉公し、
夫婦とも、上司たる教授に留学の希望を出し続けて何年たったことでしょう。
留学先を自分で探せばよいという、簡単なことに気づかずに
そして臨床の勉強に忙殺され、年月が流れました。
気が付けば、『おぎゃ』と産まれた子供が小学校に行き始めるくらいの時間がたっていました。

そして、いまを去ること3年半、12月のある日、ついに妻の留学が次期の決定事項になったのです。
彼女のボスの鶴の一声というヤツでした。
妻が新車を買ったことを、ボスが嫉んで留学を決めたという、まことしやかな説がありますが、
真相は、ただ単に順番がきた、ボスが気にかけていてくれた、ということでしょう。深謝。
根っからの臨床家だったはずの私なのですが、別に感慨も未練もなく外科医を休業してついていくことにしました。
髪結いの亭主ですから。。
留学中ずっとプーでもよかったのですが、
家事が上手くなると、日本で仕事(医者家業)に復帰するのが億劫になるし、
座敷ブタは体に悪いというわけで、妻は私の働き口も用意してくれました。多謝。
日本人を研究者に欲しがっていた現在の私のアメリカのボスが、たまたま、妻と会話した機会に、
私を拾ってくれることが決まったのでした。
アメリカは顔をつき合わせて話し合うと、意外な展開のある社会です。
また、日本人研究者=勤勉という概念を作り上げてくださった先達に感謝。

さて、私は
就労ビザを持っていませんでしたので、手弁当での第二の人生??のスタートをきりました。
入国は飛行機テロの半月あと、労働許可を得るには最悪の時期でした。
アメリカ人よりも仕事をこなす割りに、無給。制度の問題とはいえ厳しい現実でした。
ボスはお金はくれませんでしたが、気の毒そうな顔をしてくれました。。

そして半年後、ようやく就労許可を得て、私は生まれて初めて、公の施設に就職したのでした。
日本では、大学病院に出入りし(働い)ていましたが、公務員に任ぜられたことはありませんでしたので、
この時だけは、アメリカは日本より、ある意味公平で、私に好意的だと感動したものでした。
しかし、いざ、大学で就労手続きをするときには、
外国人の労働を扱う事務官に、『お前は、奥さんの付属物に過ぎない』と、嫌みをいわれたモノでした。
私のビザは、家族ビザでしたから、『本来、本官は貴様なぞ相手にしない』と言いたかったわけです。
こっちでも、髪結いの亭主との認識です。
また、後にも書きますが、経済的には豊かではありませんでした。
こっちの給料は、日本での稼ぎの1/5ですから。

ちなみに、日本での不安定な身分の医者の問題は、私の留学中に大きな社会問題となったようですが、
いまはどうなっているのでしょうか?知る由もありません。

話を戻しまして、とにもかくにも、必殺・脳波記録人の誕生です。
正確には中潜時聴性誘発脳波というモノをあつかっていたのですが、
カルト宗教のようなヘッドギアは使っていません。念のため。
まずはボランティア医学生の脳波。
NASAとの共同プロジェクトでした。医学生相手に英会話の勉強もできました。
つぎに鍼治療の脳波。
東洋人を見ると『必殺、仕事人』に見えるのでしょうかね。日本での東洋医学の経験が役に立ちました。
そして心を病んだ子供の脳波。脳を病んだ老人の脳波。ほかにもいくつか、未発表のモノもあります。

いっぽうで動物実験での裏付けの意味で、ネズミの脳波。
ネズミの手術なぞ一回教わっただけで苦もなく独り立ち出来たのは、
日本で人間を大勢手術した経験があったためでしょう。。
なんだか、主客転倒ですが、芸は身を助く、です。

ちなみに日本の医者は、一般には
こちら米国では医業を行う資格はありませんから、MD(medical doctor)と名乗っていますが、
医者であったことは、他にはあまり役には立ちませんでした。
役に立ったとすれば、
電話で、なにか用事を足すときに、
無礼な相手に対して『ドクター』の称号を自分で名乗って
注意を喚起したいときでしょうか。

さらに日本の医者に関して、大分後で知ったのですが、
医学系の留学生・研究者というのは、日本の商社からの派遣駐在員などの、別業種の方々に言わせると、
貧乏の代名詞らしいのです。
『メディカルは、、、』と括られて言われるのが、悲しい現実だそうです。
幸い、アーカンソーはあまりに田舎で、裕福な商社関係の方はほとんどいませんでしたので、
嫌な思いをする機会も、それほどありませんでした。

さて、話を戻しまして、
では、貧しいながらも留学を続行した理由はなにか、ということですが、
世界を見たかったとか、アメリカの研究スタイルを勉強したかったというような、格好良い理由も嘘ではありません。
目の開き方、目のつぶり方を勉強しましたから。
しかしここは、親友、北本大君言葉を引用しておきましょう。
『語学は俺達はもうだめだ。留学は子供のためと思った方がいい』
彼も私も子供に動機を押しつける人間ではありませんが、
言葉に関しては、14才の長男や6才の長女に既に遅れをとっているのが事実です。
子供にしてみれば、日本語しか知らなかったのに、
英語社会という千尋の谷に突き落とされて大した迷惑だったことでしょうが、
ライオンならぬ虎(私、寅年)の子は、谷からはい上がってきて、私の英語をバカにします。
親に世話になり、妻に世話になり、子供に英語を直されて、、、、
髪結いの亭主、三界に言えなし(家なし、が正解)??

PS
日本の医学分野は、技術力はともかくとして、英語後進の故に英語科学圏では
軽んぜられています。そのなされ方が結構な問題だと思うのですが、それはまた別の機会に。
ただひとつ、医学生の皆さん、医学知識は全て英語で頭に入れておくと、便利ですよ。
日本訛の英語に悩みながらも挑戦を続ける親父の話も、乞うご期待。
(2004/06/19記す)