3年ぶりに日本の土を踏んだ。正確には成田空港のビルのカーペットだったろうか。
日本人社会というバックアップの存在しないアメリカの片田舎で、家族4人がんばり通したという感慨が少し脳裏にあった。
長旅の疲れでボーっとしながらも、出迎える人もない静かな入国作業を留学の終焉と認識した。淡々と3年前までの生活に戻って行かねば。。。
それにしても昔ほどの喧噪がなく、成田がさびれた印象なのは、入国時間が夕方だったせいなのか。。。荷物10数個の我々には、閑散は幸いなことなのだが。。
大半の荷を宅急便にあずけた。このシステムだけは、治安と便利の良い日本の美点だ。少し身軽になり、辺りを見回す。当たり前だが、この3年間慣れていた空気とここの空気はちょっと違う。リムジンバスに乗った。首都までの道の遠いこと、コストの高いこと。物価高に怒りを覚える。眠たい頭に、未分化な違和感がふつふつと沸き上がる。
人々が小さい(アメリカ人は元来体格が良い上に3人に一人が肥満)、服装が地味、蒸し暑い、道路が狭くて混んでいる、緑が少ない、ドアを開けて待っててくれない(習慣といいますか、マナーといいますか、、、レディファーストだけが、欧米のマナーではないのだ)、一万円があっという間に消えていく(物価が高い、100ドルはもっと使いでがある)、バス・駅のアナウンスがうるさい、、、
雑感は尽きないが、帰国の感想に話をもどすとすれば、終わった、というのが全てだった。いっぽう、日本を踏みしめたという現実は我々にはまだ大した意味を為さなかった。故郷に戻り生活を立て直し、創造していかなければならないことは考えとしては分かっていたのだが。それよりも差し迫った問題は、和食への渇望を満たす作業だった。そうは言っても高級和食が食べたいのではなく、ばた臭い料理に辟易していた我々の舌に、懐かしい味の数々を思い出させたいということだった。その夜は、友人を呼び出し、まずはホテル近くの居酒屋で、旧交を温めつつ、日本のビールと肴料理で舌のリハビリが開始された。本当は高級寿司や懐石料理なんかの出番なのだろうが、留学貧乏だった。地味といえば地味な出だしであった。
翌日、3年ぶりであるから、まずは妻の実家筋の墓参のため、讃岐に飛んだ。空港を降りて一番に立ち寄ったのは、讃岐うどんの店だった。まずはうどんのリハビリ。釜揚げで稲荷もつけた。縁の墓は隣県にあったのでそのまま直行という距離ではなかった。時差調整もかねて義兄の家にお世話になった。ボーっとしながらテレビを見る。日本語が機関銃のように発射される。あまり意味のないお笑い番組が異常に多い。うるさい。CFはどれも奥行きのない映像の作りで、契約キャラクターのイメージばかりで商品のことがよく判らない。日本のマスコミの日常を見せられると、白人もバカだったが、あまり他人(他国)のことは言えそうもないと思った。ちなみに讃岐滞在中に、親切な姉夫婦の案内で近県を見て回るという貴重な体験も出来た。多謝。
数日後、故郷・旭川に入った。故郷に飾る錦は、まだ注文中で、入国同様、鳴り物のない帰郷。涼しさの他には感動はなかった。3年間空けていた我が家は、手入れの不十分な庭のために幽霊屋敷のような様相だった(そんなぼろ家に手をかけ、気にかけてくれていた親・親戚には多謝)。寒冷の故郷である。冬季の凍結のため水道管が4カ所破裂していた。ライフラインの完全復活には数日を要した。帰郷の日のうちに役所に転入手続きに行った。パスポートを持参しなかった(必要だとは知らなかった)ために、窓口で追い返されてしまった。比べたくはないが、訴訟社会アメリカの公務員の方が、はるかに市民には親切だ。翌日転入手続きを済ませた。今度は子供の学校転入手続きを窓口から命ぜられた。別のビルにむかう。教育委員会という部局だ。部屋に入る。ちらっと入り口を見るだけで応対に出ようとしない係官達。「すみませんが、私の相手をしてくれる人はいませんか?」おもわず強い調子で部屋の全員に問いかける。皆顔を上げる。うさんくさそうな目。やはり日本の公務員は嫌いだ。手続きは簡単だった。転入の書類をうけとる。今日中に学校にいけという。上意下達の勢い。荷ほどきもすんでいず、着ていく服もない、、といっても理解してはもらえまい。黙ってその場を去る。わが家の住所は決まっていたのだから、学校も調べがついていた。米国から電話で連絡を入れておいたので、学校の受け入れ担当の先生方は少しは心の準備が出来ているようだった。小学生は明日から、中学生は3日後から通学と決まった。親切な現場の先生の対応は嬉しかった。
帰郷3日目(職場に復帰する前)、昼食のため馴染みなっだラーメン屋に足を運んだ。テレビ番組にも出た有名店だが、時間が早かったせいか、その昼は客の入りがまばらだった。いつもの品を注文。今しがた入ってきた客の横顔が目に入る。夫婦連れ。旦那は髭のおじさんだ。髭。ヒゲ。あのシルエット。な、なんと、妻のボスではないか。職場挨拶の前にラーメン屋で鉢合わせしてしまうのは、ばつが悪かったが、仕方があるまい。家族で頭を下げる。お久しぶりです、教授。彼自身留学経験があるためか、彼はすばやく、場の雰囲気を読んで下さったようだった。ゆっくり生活の立ち上げをしなさいと、励まされた。
毎日そんな生活立ち上げの仕事に追わるなかで、所属の大学病院に帰郷の挨拶に出向いた。生活費は稼がねばならない。兼ねてからの打ち合わせ通り、大学で身分をあずかってもらいながら、臨床医としてのリハビリをすることを確認した。
仕事は前と同じだった。大学附属病院の外科医。ただし、日雇い契約。業務の一部としてレセコン(医療費計算用コンピューター)の端末をたたくのは心外なことだったが、独立行政法人国立大学病院機構においてはこうした奉仕活動・サービス残業が高度先進医療を支えているという状況は、以前とあまり変わっていなかった。変わったことと言えば、そうした下積みの医者の稼ぎが、少なくなったことか。身を削っても昔ほど儲からないのは、デフレとはいえ、間尺に合わないことに思えた。マスコミがバッシングするたびに医者の世界は世知辛くなる。経済原則だけで言えば、他業種転向や頭脳の海外流出は、避けられないことに思えた。ある日医者が足りなくなったときに、マスコミは何をバッシングするのだろう。たたき安いところをたたくだけでは、子供のモグラたたきゲームと大差ない。国家百年の大計に立った報道はできないものか。話を戻す。現在、リハビリの身であるから、手伝い程度の貢献しかできないのだが、今の医療を一通り指でなぞるように体験しつつある。
日常に没入できない離人症のような違和感は、日一日と薄皮を剥くように消失しつつあるが、月並みながら、浦島太郎の気分を味わうたびに、馴染みきっていない自分に気づかされる。3年ぶりに会話する戦友達。中には10年ぶりという人もいた。駆け出しだった後輩は頼もしい第一線級の外科医になっていた。当時一緒にがんばっていた看護師(看護婦という言葉は、いつの間にか差別用語に転落したらしい、、)さん達、ある者は消え、ある者は残っていた。お互いに年をとったね。僕かい?子供は二人、上の子はもう高校受験さ。などと言って過ぎ去った年月を確認しあう。後輩・同輩達に負けないように、新ネタをいくつか仕入れて来てはいたが、いたずらに馬齢を重ねたのではないかという、自己管理の甘さへの怖れが、いつも心につきまとい、私を無口にした。
(2004/08/16記す) |