米国滞在中、オーロラを見た。
住んでいたアーカンソー州でもオーロラ目撃は理論的には年1回ぐらいは可能だそうだが、現実には不可能だろう。ところはアラスカ・フェアバンクスだった。現地滞在中の3晩ともオーロラ・ボレアリスに祝福された我々は、無謀でもあったが、ラッキーだった。2004年の1月のことだった。
米国での研究生活も2年が過ぎたある秋の日、貯まっていた有給休暇とアメリカン航空のマイレージとの消化を妻が思い立った。入国時に取得したビザの期限が切れていたので、米国の外に出ると再入国が面倒だった。でもせっかくのマイレージ消化(ロハ)だからなるべく遠くに行きたい。それで、ハワイかアラスカかプエルトリコを候補にした。クリスマス休暇の予定は決まっていたので、1月が候補となった。妻は兼ねてからオーロラを見たがっていた。それでアラスカに決まった。1月の厳冬期ならオーロラも綺麗に見えることだろうってなわけである。北海道からきている我々には望むところだった。
ちなみに、後で学習したことだが、『オーロラ=冬』という先入観は完璧に間違いだった。オーロラの出現率から見れば3月9月が良いそうで、なにもマイナス40度の世界に、クリスマス後休暇中のサンタクロースに会いに行く必要などなかった。滞在中の3晩ともオーロラ・ボレアリスに祝福された我々は、無謀でもあったが、ラッキーだった。
オーロラ遠征企画は、航空券の手配からから始まった。日程の最終決定をふくめ、3路線(2回の乗り継ぎ)の予約を妻がこなした。私はボスの機嫌の良いときに、有給休暇のサインを取り付ける係。耐寒装備の調達には苦労した。南部・アーカンソーの安売り店にはアラスカ用の装備など在庫はなく、格安のジャケットは、結局、車で5時間かかるダラスのモールで手に入れた。もちろんついでの用事のダラス遠征である。フェアバンクスの宿もネットで手配できた。さすがに混んではいなかった。いつもなら、事前に観光ポイントの洗い出しもするのだが、今回は夜空を見上げるだけのことなので、ガイドブックも見なかった。だからオーロラのベストシーズンに気づかなかったのだ。
一日がかりの往路。接続が悪くて乗り継ぎの待ち時間はたっぷり。シアトルではコーヒーを飲みに町まで出る時間もあった。当然フェアバンクス到着は夜だった。昼ならマッキンリー(娘の親友の名前がマッキンリーだった)が見えるのではないかと、娘にいわれたが、飛行機の窓からは暗闇しか見えなかった。それでも、目を凝らしていると、夜空に白い煙のような発光体が流れていた。疲労のたまった目で山火事の煙でも見ているのかと思ったが、どうやらそれがオーロラらしかった。妻子にささやく。『はっきりしないが、あれ、オーロラじゃないか?』よく見ると薄緑の極光だった。地の果てまでやってきたという実感で、疲れが興奮に変わる。
荷物を受け取って空港を出る。子供達の冬装備の確認は怠らない。外はマイナス32度だった。タクシーに乗る。運転手さんに早速確認を入れる。
『あれ、オーロラですよね?』
『そうだよ、あんた達、運がいいね』
そんな会話だった。
ホテルのチェックインをすますと、もうホテルのレストランも閉まろうという時間だった。トナカイのソーセージと、地物のハリバット(事務机くらいの面積のヒラメ??がとれるそうだ)をなどを頼んだ。
翌朝、地平線にへばりつくだけの太陽が上がった。朝の気温はマイナス45度。寒そう。。オーロラが目的だったので昼間はすることがない事に気がついた。ホテル備え付けの観光パンフや地図をチェックする。アラスカ大学のオーロラ研究所、ノースポール(北極点)という隣町、アラスカパイプライン、100マイル離れたケナ温泉が観光ポイントと判明した。まずは、空港に出向きレンタカーを借りた。観光ポイントの話をすると、マイナス40度以下では遠出はお勧めしないと忠告された。凍り付いたタイヤは破裂の危険があり、故障すなわち凍死の危険もあるとのこと。さらに、2時間以上エンジンを冷やしてはイケナイともいわれた。駐車場のレンタカーは、ボンネットから電気コードが出ていて道ばたの電気コンセントに繋がっていた。電熱でオイル凍結を防いでいるのだった。なんたる世界。遠出する気持ちをくじかれて、昼時間を持て余した我々は、仕方なく映画を見ることにした。映画館駐車場のコンセントに車をつなぎ、封切り中のラスト・サムライ(トムクルーズ主演)を観た。真冬のフェアバンクスで映画館に入り、サムライ映画を観る日本人はそうたくさんはいないだろう。。。映画が終わっても時間は余っていた。そこで隣町・ノースポールにある、『サンタの家』(土産物店)に行くことにした。おそるおそる車を走らせる。店の外には、しょぼい身なり?のトナカイが一頭飼われていた。
『トナカイさん、クリスマスにたくさん働いて、ボロボロになったんだね』
娘の夢は壊せない。
店内には世界中の子ども達からの手紙が飾ってある。サンタの格好をした爺さんが記念写真のモデルを引き受けてくれた。ホテルに戻り、用意を整え直し、夜郊外の道をあてもなく走った。空を見上げたいのなら、暗い場所を探せばいいからだった。その日のオーロラは白色だった、前日と違い流れるように変化した。街頭のない夜道に車を止めて5分もするとカラダが冷えてくる。通りがかった車のドライバーは必ず声をかけてくれた。
『おい、故障か?』
『大丈夫、空を観ているだけさ、声をかけてくれてありがとう』
翌日はアラスカ大学のオーロラ研究所を見学した。そこで、オーロラの勉強や、アラスカの自然や民俗の知識を得た。さらにアラスカパイプラインを見物した後、2晩予約のホテルを中途キャンセルして、100マイル東のケナ温泉にドライブ遠征を敢行した。アメリカには珍しい温泉である、行ってみない手はない。温泉は一本道の行き止まりにあるので、迷子にはならないはずだったが、故障イコール凍死という世界を160キロ、夕暮れにドライブするのは勇気がいった。本当に道のはずれ、地の果てであった。氷のホテルも組み立て中だったが、普通の部屋に泊まることで十分満足した。温泉は水着着用だが、な、なんと、マイナス40度の世界に露天風呂もあった。内湯で充分にカラダを温め、露天風呂に走る、足の裏が寒さで痛くなる。凍結した床がすべって思うようには走れない。なんとか、湯船にたどりつく。体は温まるが耳は冷たい。ほっとして周りをみると、居合わせた人は皆、髪の毛で湯気が凍り付き真っ白・バリバリになっていた。湯気ののぼる夜空を見上げ、ためいきをつく。『思えば遠くへ来たもんだ。。』 ちなみにこのホテルには日本人ツアー客がいて、日本語で話していたのには驚いた。話してみると、フェアバンクスとカナダのイエローナイフはオーロラ観光で日本人に人気のスポットだったのだそうだ。我々以外に日本人など来ているはずはないと思っていたのだが、残念。しかしまあ、この日も我々はオーロラに祝福された。
翌日、氷のホテルを見学した。氷のホテルはスカンジナビアとここケナにしか無いのだそうな。全て氷で出来ており、米軍の極地装備のシュラフで寝るのだそうな。ちなみに宿泊料金は一般の部屋より割高とのこと。建設にいそしむオーナーと握手して記念撮影し、フェアバンクスに戻った。この日は犬ぞり体験ツアーを予約していたのだった。実は、あまりの寒さのために、一日目、二日目は予約を断られてしまっていたのだ。マイナス40度以下では、子供達がアイスキャンディー(ポプシコーという)になるとの忠告であった。断られると是非にも体験したいのが人情。滞在最終日、その日も寒かったが、妻が電話越しに、なんとか業者を拝み倒して、犬ぞりに乗せてもらうことができた。2週間がかりのツアーもあるのだそうだが、親までポプシコーになっては大変なので2マイルの旅にしてもらった。犬ぞりの説明をきき、さらなる耐寒装備を貸していただき、6頭立ての犬ぞりの荷物になってみた。まずは娘と私、そして息子と妻、1回に二人を運ぶというわけだ。マッシャー(御者)のおばさんのかけ声で、良く訓練されたワンコ達がへーへーいいながらひっぱってくれた。たったの2マイルだったが、オオカミやカリブーもでるというコース。頬が寒さでこわばった。その一方、完走したワンコ達は汗だく??になるらしく、雪にカラダをこすりつけて冷やしていた。事後、家族4人とも、勇気の証明書をマッシャーのおばさんから頂いた。
旅行から戻って、息子が学校で『週末にアラスカに行ってきた』と言ったら、祥は変人ということでかたづけられたとのこと。アラスカに行ったことのあるアーカンソー人は少ないらしい。なにはともあれ、行き当たりばったりの旅行だっかが、現地の人の温かさに触れたり、お勉強したり、温泉に入ったり、そしてなにより滞在の3晩ともオーロラ・ボレアリスに祝福された我々は、無謀でもあったが、ラッキーだった。子供達の目に焼き付いた極光はいつまでも色褪せないことだろう。
(2005/02/12記す) |