お父さんのエッセィ

『外科医の当直日誌2』(2005/12/23)


『外科医の当直日誌2』


 「マウス トゥ マウス」をご存知でしょうか?
 とっさの時、道具なしに行う「あの」口移し人工呼吸のことです。こう書けば、大抵の方はお分かりになるはず。中には訓練を受けたという方もいるかもしれません。ただ概念はポピュラーでも旦那様や彼氏以外を相手に、本来の目的でこれを行ったことのある方は、あまりいないのではないでしょうか。現在、私は救急インストラクターでもあり、医療関係者にこれを教えることもあります。その私でさえ、医学生のときにこれを習って以来二十数年、実際にこれを行使したことはたった一度しかありません。

 それは、医者になって数ヶ月後、まだまだ駆け出しの頃でした。
 私は麻酔の研修医として毎日手術室で外科系の先生方と仕事をしていました。
 私生活では、妻との婚約を前に、結納金をひねり出すために苦心していました。昼食は毎日80円のおにぎり2個のみとし食費を切りつめたりもしました。でも研修医の薄給では、なかなか思うに任せません。時には、外科系の先生が、当直のアルバイトを回してくれることもありました。
 事件?はそんな当直の時に起きました。

 その日私は麻酔の仕事を終えて、約束の病院に向かいました。
 それは、新品の建材の香り立ちこめる開業直後の老人病院でした。真夜中、詰め所から緊急コールの電話が入りました。病室に駆けつけると、やせた老人がベッドに横たわり、当直の看護婦さんが、その患者さんに点滴を刺そうとしていました。一見して「やばい」状況だとわかりました。息をしていないのです。体は少し冷たくなってきています。
 「いつからこうなの?」
 「5分ぐらい前に見回りにきたときに、息をしていないのに気がつきました。」
 「もともと、危篤だったの?」
 「いいえ」(今日まで危篤という認識はなかった。ということはご家族に心の準備はない)
 「アンビューを用意してください」
  (作者注:アンビューは、口と鼻を覆うマスクと空気を押し出すバックからなる器械で、両手だけで人工呼吸を遂行でき、麻酔の研修医には馴染みの武器である)
 看護婦さんが持ってきたアンビューは、部品欠落で、組み立て不能だった。開業直後の病院ならではの準備不足だった。どうしよう、諦めるか---しかし家族に心の準備がないのであれば、そう簡単に諦めるわけにはいかない。
 「院長と家族に連絡してください。きみは、心臓マッサージを行ってください。私は人工呼吸を行います。」

 「ふっ」とため息をついて諦観の一秒を飲み込み、鼻をつまんでプールに飛び込むように、私は冷たくなった老人に「マウス トゥ マウス」を開始した。援軍(院長)がかけつけるまで、と自分に言い聞かせた。老人の冷たい唇の感触のためにこみ上げてくる嘔気に涙しながら人工呼吸を続けた。長い長い夜だった。
 15分か20分か、永遠とも思える苦行は、息を切らせて駆け付けた院長の怒りの視線で終焉を迎えた。私は患者の横から退場させられ、彼が処置を引き継いだ。事情を説明するものの、不愉快そうな院長。その病院での初めての死亡例のようだった。えっ、私が悪いの??
  考えてみて欲しい。私が知らされたときには既に息はなかった。アンビューの部品が欠落していたのは院長の管理の問題だ。こういう亡くなり方は、老人病院なら必ず直面する宿命だろう。嘔気と戦いながら実践した「マウス トゥ マウス」は、駆け出し研修医の精一杯の誠意だった。それをにらまれては、身も蓋もない。狩ったスズメの足をくわえてきて、飼い主に怒られる猫の心境だった。当直料はもらえないかも。。。ショボンとして朝を迎えた。
 結局、当直の礼金は頂くことができた。多くもなく少なくもなく通常の料金だった。
 その秋、そうまでして貯めた100万円を握りしめて、私は妻を買いに行った(結納金を納めて婚約を成立させた)。
 皆様が私の立場だったら、どうされるでしょうか?そうまでして妻をもらいに行くかではなく、そうまでして人工呼吸をするかどうかということですが。。。



(著者注:2000年のアメリカ心臓学会のガイドラインでは、嫌なら、口移し人工呼吸はしなくて良いことになっています。また、口移しは、気持ちよくないですが、病気を移される危険性は殆どありません。私の武勇伝は20年前の出来事です。Born to be an Emergency Doctor!!)
(2005/12/23記す)