今は昔、ニューヨーク世界貿易センターの飛行機テロの1月前、2001年8月、息子は研究留学の母親に連れられて、米国に渡った。ところはアーカンソー州の州都リトルロック市。日本のみなさまには、なじみ薄い田舎であるが、年輩の方にはマッカーサー元帥の出身地、近頃では、クリントン元大統領が州知事としてヒラリー夫人と暮らした地といえば、あるいは得心されるだろうか。
日本男児、小学校6年生の夏だった。盆過ぎに入国したので、落ち着くまもなく、現地の新学期が始まった。地元ジュニア・ハイ(中学校)への入学となった。日本では公文に通い、中学校3年レベルの英語を終了していたが、なまで英語を聴くことも、話すことも、初めての経験だった。日本で養った英語力など、ネイティブの前では何の役にも立たなかった。入学審査では、英語が全く出来なかったために、ほとんど阿呆という強烈な第一印象を進路指導の先生に与えたようだった。日本に理解のある校長先生のとりなしもあって、入学は許されたが、落第しても文句をいわないという誓約書を書かされた。
最初の三ヶ月は先生の話す授業内容がほとんど聞き取れず、宿題も夜遅くまでかかってようやくこなすという、防戦一方の日々だったそうだ。ただ、有り難いことに、米国での教育の内容は、一頃より高度になりつつあるとはいえ、日本で受けた教育(こちらは逆に悪名の高くなった『ゆとり教育』)にまだ一日の長があった。英語というフィルターさえなければ、授業内容自体は驚くほどモノのではなく、我が息子は苦しいながらも一年目をしのぎ通した。5月末の学年末から、米国小中学生は約3ヶ月のは長い夏休みとなる。
夏休みが終わり、新学年(二年目)が始まった。今学年は防戦一方ではない。彼はマス・カウントという課外活動に参加することにした。聞き慣れないクラブ活動だが、平たく言うと、「数学勝ち抜き選手権」ということらしかった。課外活動は、アメリカでも運動部が花形で、日本同様、多くの生徒が参加している。一方文化系の課外活動は、バンド(音楽)などは正式科目でもあるが、課外では自校のアメリカンフットボール部の応援活動をする。他には、クイズ・ボウル(一般教養勝ち抜き選手権)と、マス・カウントがあった。これらは学校内選抜のあと、地区大会・州大会・全国大会と、勝ち進むためのプロジェクトだった。
秋、週二回放課後、その数学のトレーニングが始まった。当初参加を表明した生徒は10数人だった。主立ったメンバーは、勤勉なルーマニアからの移民の娘(8年生:中学3年相当)、出席率は良くないが要領の良い白人少年スピード君(8年生)、地元有力者の御曹司ロックフェラー君(7年生)、遅刻常習犯ながらもひらめき型頭脳の白人少年マイルス君(7年生)、中国からの研究者の子リー君(7年生)、そして、阿呆のレッテルの我が日本男児(7年生)などだった。地区大会に参加人数の制限はなかったが、団体戦は一校4名だった。模擬試験が繰り返され、団体戦チームの選抜の参考にされた。ちなみに問題のレベルは、複雑な分数計算、方程式、図形問題など、日本でいえば高校入試から一部大学入試程度で、地区大会はやや簡単な問題で争われる。練習でダントツの成績は、ルーマニア嬢。全国大会出場を視野に難しい問題で修練を積んできたという彼女がキャプテンとなった。要領の良いスピード君は年長の余裕で出場枠に残れそうだった。金髪長髪のロックフェラー君は、途中でクイズ・ボウルに的を絞るため、戦線を離脱していった。遅刻少年マイルス君は意外に利発だった。中国少年リー君も健闘していた。日本男児は言葉の壁のハンデに苦しみながらも、日本で鍛えた数学能力に一日の長があり、善戦していた。その他の下位に位置したアメリカ少年達は、自分の順位が不利と知ると、次々とプロジェクトから去っていった。無駄な努力はしない、これがアメリカ流らしかった。結局チーム内順位は、キャプテン、日本男児、マイルス君、スピード君、リー君の順だった。5人の人種構成が、みごとにアメリカ社会の研究学問分野の現状を象徴しているようで、興味深かった。
年が明けて2月、地区大会が開かれた。会場は州立大学UALRの講堂だった。州都リトルロック近辺のほとんどのジュニア・ハイが選手を送り込んできて、会場は100名ほどの中学生で賑わっていた。午前中は筆記試験による個人戦予選と筆記団体戦。この個人戦予選の優秀者10名のみが午後の個人勝ち抜き戦に出場する資格を与えられる。昼、勝ち抜き戦出場者の名前が読み出された。まずキャプテン。場内に拍手がわく。順当な勝ち残りだ。他校の数人が続き、もやし体型のマイルス君も名乗りを上げた。小躍りする彼。下馬評に反し先を越され、うなだれる日本男児。9人目まで彼の名前はなかった。あと一人の出場枠。一瞬の間。静まる会場。一縷の望みに手に汗握る父兄・選手たち。コーチは思った、やはり英語が壁で日本男児は練習時の力を出せなかったのか。
そして10人目の発表。読みずらそうな司会者。間違った発音で紹介されたのは日本男児の名前だった。本人もコーチもあきらめかけていた入賞だったが、人騒がせなことに発表は成績順ではなかった。後で述べる理由で、成績順はこの段階では公表されないのだった。あとで知ったところでは日本男児は結局第5位の成績だった。
午後の勝ち抜き戦は、筆記試験の成績順位の防衛戦で、下位者が上位者に挑んでいくというスタイルだった。クイズ番組のように二人の選手がスクリーンに映される問題を早押しで答え、3問先取で勝ち残っていく。このシステムの性格上、選手の呼び出しは、成績下位から上位の順となり、対戦する二人が呼び出された瞬間に、本人も含め、会場の皆が午前中の筆記試験の順位を知るという寸法だった。ぎりぎりまで順位を伏せておくのは、演出好きのアメリカならでは仕組みらしい。
熱戦の結果、マイルス君は7位から6位に勝ち上がった。日本男児は5位を防衛。キャプテンは、他を寄せ付けずしんがりに登場し3問先取で堂々個人優勝。各校4人の選手で協力しあう団体戦(筆記)は昼前に行われていたが、こちらの結果は我がチームは3位であった。みな順当な戦果ににこやかに記念写真に収まった。個人戦10位以内の選手と団体戦3位までのチームの選手が、州大会に臨む決まりだった。彼らは州大会に駒を進めた。
2ヶ月の猛特訓を経て、州大会の日を迎えた。会場は市内のホテル。各地区予選を勝ち抜いた中学生達が、集まってきていた。しかし、田舎の地区ではさしたる競争もなく州大会進出が決まることもあるそうで、州都たる我が地区で激戦を勝ち抜いた我らが選手達が全国大会への最有力であった。競技方式は地区大会と同じだ。
午前中、筆記試験が淡々と行われた。地区大会より若干レベルの高い問題だそうだ。昼休み、余裕で筆記問題を振り返るキャプテン。彼女の解説に納得できず、ちょっと焦り気味の日本男児。付き添いの爺ちゃんと無心に昼食を食べる遅刻のマイルス君。各人各様の休息時間が過ぎていく。
午後一番、順不同で個人戦出場者の名前が発表された。我がチームから個人戦に進んだのは、キャプテン、日本男児、マイルス君、スピード君の4人だった。順当に勝ち残った選手達を見て上機嫌のコーチ。全国大会に進めるのは、個人戦の上位4人だけとのこと。今年の開催地はシカゴ。勝ち残った選手には飛行機代・ホテル代が全額補助される。
その栄誉をかけて勝ち抜き戦が始まった。まずは第10位、9位の一騎打ち。第9位の選手が順位を防衛した。彼は第8位の選手をも倒した。彼を迎え撃つのは第7位の選手。名前が呼び出された。それは、誰あろう我チームの女キャプテンだった。彼女は自他共に認める優勝最有力候補である。意外な順位に会場がざわめいた。とまどいの表情のコーチ。他校はもっとハイレベルなのか。顔を見合わせる応援席の彼女の両親。予想もしない順位に動揺しながらも対戦席に向かうキャプテン。心の整理がつかないまま席に着き、早押しボタンに手をかけた。一問目、混乱し問題を飲み込めないまま、相手に先行を許してしまった。二問目もだめ。三問目には、すでに戦意を失っていた。優勝候補を倒し小躍りする第9位の少年。キャプテンの実力を持ってすれば、4位まで挽回し、全国大会に進むことは可能なはずだったが、気持ちを立て直す余裕がなかったのだ。ドラマだった。
悲喜劇を横目に一騎打ちは続いた。スピード君は第4位で呼び出され5位に後退。この段階で呼び出されていないマイルス君、日本男児はさらに高順位にいたことがわかる。彼らの全国大会進出はこの時すでに確定していた。ただしマイルス君は第3位防衛に失敗し4位となった。第2位の呼び出しを受けたのは他校の選手だった。彼はその座を守った。そしていよいよ第1位・2位決定戦。筆記試験1位、すなわち最後に呼び出されたのは、日本男児だった。第2位発表の時点で、消去法から自動的に自らの順位を知っていた我が息子は冷静に対戦席に向かった。青いスクリーンに白い文字で問題が映し出される。司会者が読み終えるより先に、早押しする日本男児。結局、彼は圧倒的な早さで3問連取し、第一位防衛を果たしてのけた。
「イェス!」日本式発音でガッツポーズをとる彼。それを見届け、涙目で会場を去るキャプテン。複雑な表情のコーチ。
数多の年長8年生を差しおいて7年生の州大会個人優勝は大会始まって以来の快挙であった。それを成し遂げたのが、米国に来て2年目のアジア少年というのも特筆に値するだろう。日本の教育はまだまだ捨てたものではなかった。正確には公文さまさまといったところか。
ともあれ、我がチームの7年生のひょろひょろコンビ、日本男児とマイルス君が、文字通りシカゴへの「切符を手に入れた」のだった。団体戦でも今回は我がチームが優勝しており、なかなかの成果だった。
その日の夕方、テレビの地方ニュースで、マス・カウント州大会の話題が流れた。団体優勝チームの我がコーチが取材されていた。会場では浮かない表情だった彼女は、テレビでは、にこやかにインタビューに答えていた。彼女、実はなかなかのブロンド美人だったので絵になる報道だった。一方、不可解なことに、個人優勝し、特筆すべき経歴をもった日本男児には取材はなく、彼の名前すら報道されなかった。これは、髪をブロンドに染めておかなかったのが災いしたのだろうか。生徒の個人名の発表は安全上好ましくないのか。人種的な意味はないと信じたかった。
後日、知り合いの地元白人から、薄ら寒い話を聞かされた。彼女曰く、こうした大会での入賞実績は、自分のセールスポイントとして履歴書に書けるのだそうだ。それは、大学入学選抜等で有利な材料になる貴重なクレジットであり、地元の子供達には単なる入賞以上の意味があるのだそうだ。ゆえに、この新参者の日本男児さえいなければ、と嫉む地元親子が少なからずいるというのだ。気を付けよとの助言で、冗談ではないと念を押された。
学年末の5月、シカゴでの全国大会には、全米各州から4名ずつ、100人強の生徒が集まった。日本男児のさらなる冒険談は、書かぬが花、ということにして、筆を置こう。ただ、在留三年目の次年度、中学校最高学年となった我が息子は、先に書いた逆風には無頓着に、その年も州一位の座を勝ち取り、その年の全国大会の地ワシントンDCへの切符もモノにして、旅行を楽しんだことを書き添えておこう。
(2007/02/10記す) |