夏休みは旅の季節。
初めて空の旅をしたのは、忘れもしない高校2年生の夏だった。当時、クラブ活動で放送局に所属していた。その大会・NHKコンクールで、ラッキーにも全国大会出場の栄誉をえての東京遠征だった。アナウンサーだったわりに、地の会話では北海道弁を出して赤面したこと、そしてあご足つきの旅だったことを記憶している。スポンサーは学校だったはずだが、公立高校があご足のお金を本当に支出してくれたのか。当時の物価感覚では、安い行ではなかったと思うのだが、そのへんの記憶は定かでない。今は昔、の話である。
さて、その空の旅。そのとき以来、昔も今も、私は、離着陸の時に不思議な感覚にとらわれる。旋回して傾いた機体の窓から、加速度を感じつつ、見下ろす緑の大地や都市。文字どおりの俯瞰の時であるが、このとき私は、体の浮遊感とともに、ふわっとした心で、自分の日常生活をも俯瞰する。その感覚は未分化で形容しがたい。地面から解き放たれる小さな自由の感覚なので、心に溜まった諸々の拘泥をリセットする瞬間と感じている。身体的物理的にこういう状況でないと、心を切り替えられないというのは、非経済的でなんとも修行不足なことだが、これはあくまで旅の副産物である。
手術・検査・顕微鏡・書類書き。手の届く距離のなかで行われる外科医としての日常。デジタルカメラでいうならマクロモードに浸っているようなもので、私のブレッドアンドバターは精神的にも近視眼なのである。それを高所から眺めるのは、日常と非日常とのスイッチングの瞬間なのだとおもう。何かを悟るような重大なことではないが、立ち位置を見直し価値観を整理する瞬間は貴重である。
我が家では優待券を定期便でもらう体制をとってから空の旅はお手頃なものとなった。家族旅行のみならず、妻や私の学会出張ですら、ややもすると一家の大移動の体(てい)となる。日常化が旅の空気を犯しつつあるのかもしれない。しかし、子供の世話をしたり、機内誌に目を走らせながらも、小さな秘密・俯瞰の感覚は忘れないようにしている。
今も昔も、の話である。
(2007/08/30記す) |