お父さんのエッセィ

『外科医の当直日誌9-ヒトという生き物を扱うことの意味-』(2008/08/30)


『外科医の当直日誌9-ヒトという生き物を扱うことの意味-』


 福島県の大野病院事件の地裁判決の直後に書いています。
 癒着胎盤の妊婦さんが帝王切開を受けた後、出血多量を主因として死にいたった不幸なケースです。官憲の対応が、日本の産科医療、さらには外科医療全般に萎縮をもたらしたため、社会的に非常に注目された裁判でした。
 しかし、社会的なことは一つの側面にすぎません。当事者にとっては一人の人間の死です。ご家族としては、最愛の方の死を納得することなど出来るはずなどありません。ご心痛を察する術もありませんが、真摯にご同情を申し上げます。それに何よりも、亡くなられた患者さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

   以下は大野病院事件とは関係なく、日常医療における雑感を記します。
 今回のことで私たちは、医療行為には、過誤(ミス)、事故、合併症、偶発症など、さまざまなリスクが隠れていることを、改めて認識しておく必要があります。また、そもそも医療は万能ではありません。万能でないからには、結果に対して無制限に責任を求めることは行き過ぎとなる場合もあります。皆さんも頭の中ではわかっている単純明快な論理です。しかし不具合が、我が身や家族に降りかかった場合、納得できるかどうかは別問題となるのも人情です。理論と感情のうずまく中、その不具合がどんな範疇のものなのか、誰かの責任を問える類のものなのか、それは非常に難しい問題です。

   私のパワーストーンの話に出てきた黒いオーラの患者さんの場合は、その不具合は術後としては通常に想定される状態でした。しかし、事前に十分な認識が出来ていなかったために、特別な不具合がおこったとの思いこみが生まれ、被害感情・医療不信にさいなまれていたものでした。これは主治医の説明努力と患者さん側の理解が釣り合っていなかった不幸な例と思われます。  私自身、慣れた手術の説明は、リスクもふくめて、立て板に水のように、まさに手慣れた口調で説明してしまいます。専門用語は用いないように気をつけますが、この慣れた口調は、実はくせ者です。聞く方は、私が手慣れていることに安心して、リスクの説明も、安心の中で聞き流してしまうことがあるのです。結果的には十分な理解が形成されません。
 ある治療で、ある確率でおこる想定範囲の不具合が発生してしまったとしましょう。一般には、事前に想定したことではあったが、不具合がおこった事実、そして今後の対処法と見通しが説明されます。私はかつて、そのような場合に、患者さんが治療に完璧を期待した思いに添えなかったという結果に対して『すまない』という気持ちを表明したことがありました。私としては不可抗力に対する同情の念でした。動転している患者さんは、これを文脈ぬきにお詫びとして捕らえ、『詫びた=ミスがあった』と誤解しました。体の具合の悪いときです。本人としては理不尽としか言いようのない結果への戸惑いと怒りのなかで、誤解は深く心に定着したようでした。しばらくの間、何をどう言おうと、誤解の歯車は悪い方向に回り続けました。当時、私は訴訟を覚悟しました。しかし、時間の経過でなんとか症状は和らぎ、上司や周囲のスタッフも含めた真摯な対応で、その方のお怒りも遠のいたようでした。
 その経験をしてからは、『期待に100%応えられなかったことは申し訳ないことである』というような、紛らわしい表現は慎むことにしました。そうした事態においては、事実の説明の積み上げをまじめな姿勢で示すにとどめることにしました。ちなみにリスクは細かく書面にしてお渡しし再確認出来るようにするのが通例です。

   医療者側の処世術として、誤解を避けることと心証を害さないことに気をつけているわけです。世知辛い気もしますが、人は感情の生き物ですから、大事なことです。繰り返しますが、本文は大野病院事件とは関係なく、日常医療での経験と雑感を記したものです。みなさまの患者学の参考になればと思います。


(2008/08/30記す)