お父さんのエッセィ

『外科医の当直日誌13 身をもって知るということ ―遠近両用メガネ―』(2009/04/29)


『外科医の当直日誌13 身をもって知るということ ―遠近両用メガネ―』


患者さんの傷の縫合には、医療用の糸を使う。絹糸(医療用に加工してある)、ナイロンやテフロン糸、吸収糸(ある時間を経過すると分解されて吸収されるので抜糸しなくてよいもの)などなど。それぞれ、いろいろな太さのものがあります。規格でいえば、正確には太さではなく、引っ張りの力に対しての強さで規定されています。太いものほど丈夫ということですが、一方で太いものほど糸自体の圧迫跡が傷跡として目立ちます。腹部外科の私が日常よく使用するのは、直径0.4mmから0.07mmぐらいの糸です。0.4mmは、シャープペンシルの芯を思い浮かべていただけると、かなり太いものと気づくでしょう。細いほうは猫の毛ぐらいでしょうか。
 その中でも一番細いほうの糸が、最近見えにくくなってきました。
 手術室での仕事は、無影灯という明るい照明のもとで行われます。なんでもよく見えます。ところが外来処置室や病棟での縫合は少し照度の足りない環境での仕事となります。この照度の足りない環境の場合、なぜか糸が見えにくいのです。パソコンのやりすぎで目が疲れているのか、もともと近眼ですから、度が進んだのか。目を細めたり、距離を変えたりしてみました。近眼なら近づけば良いはずですが、どうにもいけません。ご想像の通り、老眼(老視)のようでした。46歳というのはそれ相当の年齢らしいです。

   いちばん細かい仕事以外には不自由は感じておりませんでしたが、仕事に支障は許されません。仕方ないことですので、ネガネ屋さんに行きました。現在のメガネもちょっと傷んできていたので、日用メガネを新調することにしました。細かい仕事専用のメガネという選択もあったのですが、ちょっと色気を出して多目的メガネを求めました。遠近両用メガネです。話には聞いていましたが、初めての体験でした。医学生の時代にも使用体験などありませんでした。焦点距離が連続的に変化するレンズを、首の角度で調節するのだそうです。なかなかの優れもの、いたく感心しました。文明の利器です。レンズの調整室で、手元の新聞を見たり、遠景をみたりして微調節してもらいました。

   約束の日、完成したメガネを受取りに出かけました。首を上下に動かしてみます。注文通りです。満足満足。早速、新しいメガネで運転帰宅しました。ところが、実際に使ってみますと、遠近での首の動きが今までの生活とは逆なので、とっさの視線変更にまごつきます。運転中、信号を見たり速度計をみたり、たったそれだけの動作に首と目の動きがついていけません。その時、中高年の方々の不思議なメガネ姿勢の意味を悟りました。新聞を読むときのあごを突き出すような姿勢や鼻メガネです。医学生時代には習わなかったことでしたが、いちいち納得です。でも、結構なフラストレーションです。正直つらい。
 翌日は、スペースマウンテン(暗闇のローラーコースター)にはじめて乗った後のような頚部痛でした。いらちな私は、新調メガネの日常使用をあきらめて、近焦点の仕事のときだけ使うことしました。次のメガネは、用途や首・目の角度などをもっとよく考えて作らなければ。。。

   折に触れて思うことがあります。結婚生活の機微は、結婚して初めて分かり、子育ての苦労は、子供を持って初めて分かりました。病気や怪我をした時には、患者さんやご家族の気持ち、不自由の本当の意味、問題が生活に波及していくこと。そして、今回は老眼。どれもこれも体験してはじめて理解できました。身をもって知るまで気がつかないのは、自らの想像力の貧困さなのですが、以て他山(否、自山)の石として、診療活動の肥やしにしたいと考えています。
(2009/04/29記す)