お父さんのエッセィ

『元外科医のヒマラヤ修行(4) ヒマラヤ草枕』(2011/02/27)


『元外科医のヒマラヤ修行(4) ヒマラヤ草枕』


『山道を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。』

メンタリティの違いというのだろうか。
地域による常識やものの考え方の違いというやつは厄介である。
理性としては、『郷に入っては郷に従え』と自らを戒めるのだが、
感情としては、『野蛮・粗野に見えるがゆえの嫌悪』の嵐も吹き荒れる。
そこに、ネガティブな感情を抱く自分への嫌悪も重なれば、
修行不足の身としては、滅入ってしまう。

一例をあげれば、ネパール人はとてもデモ好きだ。
交通事故があったといっては、抗議のために道路封鎖をして、警官隊と衝突する。
物価が高いといっては、ゼネストをする。ときには、4-5日もゼネストが続く。
スト破りで出勤しようとすると、車に投石されたり、悪くすれば燃やされたりする。
抗議の相手が、見当違いだったり漠然としていたりすることは、問題ではないらしい。
アピールが警察や政府に届いたとしても、
本来責められるべきは、交通事故の加害者や悪徳商人のはずではないか。
いわんや、他人の車を燃やすなどの蛮行は、どのように正当化できるのか?
住民自身を含め迷惑を被る人が出ても、全体としてはデモを止めるという反省は生まれない。
こうした理不尽な暴走と、理性に欠けた集団心理を、彼ら自身はどう思っているのか?
日常の不満のガス抜きのためのチョットしたお祭り騒ぎ程度の認識なのだろうか。
彼らの考え方には興味があるが、被害者にはなりたくない。

もっと日常的な例もある。カトマンズの交通マナーに悪さだ。
都市計画がないので、首都といえども、道は狭い。
人口が多いから、その狭い道に車やバイクがあふれている。
そして、運転者たちは、誰よりも前に行くこと、また好きな場所に駐停車することを 侵されざる権利と考えているふしがある。
例えば、ある日の夕方。
車1台がやっと通れる道、対向車がいるのにどんどん突っ込んで行く車、車。
当然、鉢合わせの車は立ち往生だ。
そこに路肩のわずかな隙間をついて、後続する無数のバイクが刺さりこんでくる。
さらに無意味なクラクションの大合唱が止めを刺す。
どろどろ血液で流れの悪くなった、動脈硬化の血管と同じである。
譲り合えば5分で片付く小事は、『我先に・・の根性』で30分の渋滞に変容する。
ここには、譲り合いとか思いやりという解決オプションは存在しない。
烏合の衆とか、カタストロフィという言葉を連想してしまう。

交通マナーの酷さは語りつくせないのだが、もう一例だけ書かせていただく。
一般道路で、紳士的運転をするとどうなるのか?
タイガーマスクよろしく反則を忌避するとどうなるのか?
この実験は、案外容易だ。
外交官の車は行儀良く運転されなければならないので、
ルール無用の渋滞のなかで、ひとり交通マナーの範を示す羽目に陥ることがままある。
ささやかな車間距離の確保や、譲り合い(正確には一方的な譲り)の精神は、
イナゴの大群のような密度の車とバイクの前では、正義を示すいとまもない。
無理な追い越しと横はいりの嵐で、怒るより前に眼が点になる。
結果は単純。自分の車だけ、前に進まない。
さらには反則大王のイナゴ君達の、クラクション攻撃をあびる。
多勢に無勢とは、まさにこのこと。
さりとて、郷に入っては郷に従って、
横入りしてクラクションを鳴らすような運転をして、事故でも起こせば、
外交問題になるし、第一、タイガーマスクの美学が泣く。

『意地を通せば窮屈で、流れに棹差せばいいことだが、とかくに人の世は住みにくい。』

これらは、私の価値感でいえば無秩序であり野蛮の範疇だ。
しかし、住民にとっては日常に過ぎず、理不尽ながら彼らなりのルールもありそうだ。
水族館でイワシの大群が、一つの生き物のように変化する映像を見たことがあるだろうか。
イワシの群れはオーロラのようにゆれ、巨大生物のように泳ぐ。
この国の異質なメンタリティは、このイワシの群れを連想させる。
個人個人は一定の良識を持っているのだろうが、
人口密度1200人超ともいわれる、その人口がカオスを生む。
そのカオスに発生した擬似的意思がこのメンタリティの本体なのではないか。
アジアンパワーといえば聞こえは良いが、ここに暮らす身としては
理性とは別次元の異文化を丸呑みできるほど、客観的ではいられない。

『束の間の世を住みよく、人の世を長閑にする』のひらめきは、まだ成就しませんが、
つれづれに漱石草枕を再発見し、オマージュ的に愚痴ってみました。

(2011/02/27記す)