ヒマラヤ山麓隠遁生活で徒然なるままに1年が過ぎた。そんなある日、10年来懇意にしていただいている知り合いの女性からメールがあった。彼氏が心臓病とのことだった。彼女の心痛は察するに余りあった。その文面によれば徐々に悪化する病態らしく、最終的には心臓移植も考えねばならないとの印象をもった。彼自身、私の親友の一人でもあるのだが、面と向かっては、そのような話をしたことはなかった。メールによれば彼は手術までして生き長らえることは考えていないとのことだった。彼なりに闘病の中で培った死生観にもとづく意志なのだろう。実際の治療法の選択においては、受け入れ病院の選定や経済事情も大きな問題であり、理想論だけでは語れないので、彼の考えを否定も肯定も出来なかった。ただ、20年以上、人の生き死にを見てきた臨床医として感じていたことを、先方には書き送った。
人の寿命は人の英知の及ばないところで決まるのだと彼は思っているのかもしれない。それは、真実なのだろうが、一方で、個人の命はその人一人のものではない、と私は思っている。不安の中にいる彼には酷なたとえなのだが、いろいろな臨終に立ち会いながら経験し考えたこと伝えることにした。
たとえば、おそらく多くの方が感じていることだろうが、葬式は、本来は故人のためのものだが、残された家族が死を受け入れるための儀式でもある。また、危急のときの蘇生処置(心臓マッサージや人工呼吸)は、本来、不慮で死に瀕した人に行うべきものであり、決して、大往生を遂げる老人に対して行うべきものではない。しかし時には、家族・親戚が、「何とかしてください」と苦悩する。その叫びに悲しみ以上の具体的な意味はないかもしれないが、成り行きで蘇生処置を行うこともある。それは、死が旅立つ人の個人的なものではなく、家族のものでもあるーからなのだ。静かに見送る準備のできていない家族のために、あるいはその死を納得できない親戚筋のために、今際の際が安らかならざることを故人に詫びながら心臓マッサージをするわけだ。
(蛇足ながら、臨終における私の仕事は医学・医療ではなく、三途の川の渡し守・交通整理なのだと自認している。医師のみに許された責務たる死亡宣告を口にする直前に、私の心の中では、旅立つ人は鬼籍に入る。ゆえに故人への蘇生処置というおかしな状況も成り立つ。
さらに蛇足ながら、年金や保険金の関係で死亡宣告を忌避し延命を強く要請してくる家族もあるのだが、それはまた別の話)
話を戻します。ひるがえって考えれば、生も同じこと。生も個人のものであり、神(特定の宗教をさしてはいません)の摂理によるものであると同時に、近親者のものでもあると思う。すなわち、生物学的な生命は、人間社会の関係性の中で社会的な意味を付加される。さらにそれは受動的な価値にとどまらず、近親者への思いやりという能動的な関係性と表裏一体のものであり、そこにこそ人の生があるとの換言も可能だ。彼自身のため、更には彼女のために生を全うせねばならない。そうした意味では、自分の生き様すら、ままにならないこともあろう。それは窮屈なことかもしれない。しかし、近しい者として、現世で縁(えにし)を結んだということは、そういう窮屈さをも共有するという意味を伴うのだと私は信じている。
彼は、治療方針や生き方をひとりで決めないで、彼女と、もう少し話し合って、運命論の中味を見直すべきなのだ。この世界に、縁(えにし)を結んだ人がいることを、もう少し自覚するべきなのだ。神様以外にも相談相手がいるというのは、宗教人には問題があるかもしれないが、神にすがらない彼にはあながち悪くないことだと思うのだ。
(2011/08/26記す) |