お父さんのエッセィ

『元外科医のヒマラヤ修業 12――ちゃんと、仕事もしてました――』(2012/06/22)


『元外科医のヒマラヤ修業 12――ちゃんと、仕事もしてました――』


 ヒマラヤの峰々を遠望するカトマンズに赴任して漸く2年になりました。ネコ談義や異文化奇譚の投稿が多かったのですが、それなりに仕事もしていました。いくつか印象に残る医療事例を振り返ります。

   昨年の春は、統合失調症(昔でいう精神分裂病)や、心を病んだ方が続いて難渋しました。当地には日本語を解する精神科医がおりませんし、私は外科医あがりなので、心を病んで奇行に走り、空港で搭乗拒否にあった方や、滞在中のホテルでおかしくなった方に、手厚い医療は提供できないのです。この様な場合には、私が英語通訳の仲立ちになって、地元の精神科医に、診察していただいき、当面の服薬を調整したりします。そしてほとんど必ず、日本から付き添いのために家族に来ていただきます。家族の呼び寄せ費用(急な旅行で、帰路はオープンチケットになりますので、高額になります)と、患者さんの状態が落ち着くまでのホテル滞在(パックツアーではないので割高です)などなど、物入りです。
 心を病んだことのある方を旅に出す場合、送り出す側の留守家族は、エキゾチックな旅先でのストレスということをよく考えてみる必要があると思います。
 なかには、『旅に出せば(心の)状態が良くなると思って、送り出しました』などと、現在進行形で調子の悪かった方を送り出す強者家族もいました。これは迷惑です。事を収めるのに、多少なりとも血税が使われます。

   次は医療事案ではありませんが、似たようなちょっと未熟で困った旅行者に、NGOボランティア症候群(私が勝手に命名)というのがあります。志は立派です。尊敬します。非難はしません。でも、ちょっと変なのです。
 いままでの人生、簡単なアルバイト程度の仕事しかしたことがないのに『農業ボランティア』に来る方々です。農業の技術はありませんから、結局は農家のお手伝い(下働き)です。海外まで来て無料奉仕はご立派です。ただし、正確には無料ではなく、日本側の窓口(現地エージェントも含む)に、仲介手数料を支払っての『援農体験ツアー』に過ぎません。ちなみに、紹介エージェントはNGOを名乗っていますので、ボランティアをした気分を味わえますが、実は単なる営利団体(NPOではないところが味噌です)の商売に乗っかって、旅先で土いじりをさせてもらっているに過ぎない場合があります。さらに中には段取りのいい加減な業者もいます。ある旅行者は、当地に到着後、場末の宿屋に放置されて、英語も通じず不安がつのり、翌朝大使館に逃げ込んできました。
 ボランティアの志はご立派です。でも、どうせならNGOエージェント(ただの旅行業者?)が信頼できるかどうかなど、もう少し吟味してから旅立たれると、もっと良いです。ボランティアしたい人には、余計なお世話かな?

   また医療の話です。夜道で転落の2例。
 夜の衛星写真をみると判りますが、この国の夜は暗いです。首都カトマンズは、まだ良いですが、地方都市に行くと、本当に真っ暗です。日本とは違います。
 ある団体旅行の方々、当国第2の都市で宿屋にチェックインし、暗くなってから徒歩で5分ほど離れたレストランに皆で出かけました。ネパール料理を堪能し歩いて宿屋に戻ります。ロビーで顔を見回すと一人足りません。行方不明の1名は、翌朝、5分の道のりのなかばで側溝に突っ伏してお亡くなりになって発見されたそうです。暗闇の中で道を踏み外し、おそらくは顔から側溝に落ちたのでしょう。うつ伏せのまま気絶して、水深10cmほどの側溝で、溺死したのです。
 この方とは別に、生きてカトマンズまで戻ってきましたが、医療用チャーター便で帰国となった方もいました。ある田舎の高校に日本からの支援物資を届けに行った方でした。はやく物資を届けたい一心で、悪路の夜道を長時間ドライブしたそうです。途中の村で小休止したとき、彼は小用を足そうと道端に寄りました。真っ暗です。用足しの途中、足を動かした途端、彼は3m下に転落したそうです。道端は崖だったわけです。相当に痛かったはずですが、その後、仲間とともに目的地に入り、無事に(?)学用品などの支援物資を配ったそうです。が、帰路、おしっこが真っ赤になったため、カトマンズに戻って、慌てて病院に駆け込むことになりました。結局、右腎破裂、肋骨骨折、肝損傷でショック状態という重傷でした。一時は内出血による貧血がすすみ、血圧が下がるなど危ない状態でした。私としては、当地の日本人社会に声をかけて輸血用の血液を集めたり(ネパール赤十字からも血液をいただきました)、地元主治医と方針を話し合ったりしました。2週間ほどして漸く移動可能となり、保険会社の手配した特別機で、医師付き添いのもと帰国となりました。その後音信不通ですが、全快されていることを祈っています。

 『ハニートラップ』とは、外交官用語で、『色仕掛けによる罠』というような意味ですが、ここでは本物の蜂蜜の話を一つ。当地在住の60歳男性。彼は知り合いのネパール人から市販品でない未精製のワイルド・ハニーをいただいたそうです。冷蔵庫に鎮座する蜂蜜瓶。『邪魔だわね』との奥様の苦情。『そろそろレアものの蜂蜜を試してみるか』と彼。常温で半日おいて柔らかくなった蜂蜜。スプーン1杯を水に溶いて飲んだそうです。その後1時間ほどしてから、顔面のしびれが始まり、次第に体全体に脱力感が回り、腰砕け状態で、歩けなくなったそうです。彼はお酒を嗜まないのだそうですが、当初は蜂蜜にアルコールが混じっていたのかと思ったそうです。しかし、翌朝になっても、体がつらく、腕がしびれ、呂律(ろれつ)が回っていません。まるで酔っ払っているような印象です。特に検査もしませんでしたが、これらは典型的な症状です。蜂蜜のなかに混入していたボツリヌス菌による中毒症状です。ボツリヌス毒は、運動神経を麻痺させる神経毒で、毒が多いと呼吸筋も麻痺しますので、窒息死に至ります。日本では、いずし、なれずし、辛子レンコンなどによるボツリヌス中毒が知られていますが、ネパールでは(米国でも)、蜂蜜の摂取で発生することのある中毒として知られています。ちなみに、致死量を1グラムあたりで換算した場合の毒の強さは、青酸カリの20万倍だそうです。
 それでも彼は幸運でした。その晩蜂蜜をスプーン2杯分なめていたら、彼は今頃天国に行っていたことでしょう。ちなみに、当地では、蜂蜜は、ふつう、耳かき1杯分を1回摂取量とすることが多いようです。そうまでして珍重する必要があるのか甚だ疑問ですが、ワイルドなハニーにはくれぐれもご用心という話でした。

 ついでに49歳の単身赴任の男性。右ふくらはぎの肉離れ。別にネパール特有でもない、ありふれた怪我です。初夏の週末、職場の親睦のために行われたフット・サル(室内サッカーのようなスポーツ)に、人数あわせのために参加。ゲーム中に、右ふくらはぎを蹴飛ばされたような衝撃をうけるも、背後に人は存在せず。痛みのため次第に歩行困難となる。典型的な肉離れのエピソードです。クーリング、湿布、安静などで対応。住宅では、台所が1階にあり、居間・寝室が2階にあったため、その週末は階下の台所には立てず、居間で天井を見て過ごした。週明けに松葉杖を入手し、勤務を続けるも、職場からの外出が容易になるまで4週間かかった。経過も一般的ですが、問題は、ネパールには(更にいえば日本や欧米以外の国々では)、バリアフリーのインフラは整っていないことです。ハンディを負った人に優しくする余裕などないのが多くの国の現状です。実はこれは小生の話です。日本政府が建てた大使館でさえ、バリアありです。私のオフィスは2階にありますが、階段を上がるのがとても大変でした。医者は自分が病むと、いろいろと学び、世間を知り、少し利口になります。

 最後に、当地で亡くなられた例にも触れておきます。エベレスト登頂直後の山頂直下で高山病のため息絶えた登山者。雪崩や滑落でも死亡例を数えています。また、飛行機事故では邦人は年1名のペースで犠牲になっています。空港設備も飛行機の整備も行き届いていないのです。
 これらの方々の多くはカトマンズを流れるバグマティ川の河原で荼毘に付されます。遺灰の一部は家族に抱かれて帰国を果たし、残りは川に流されガンジス水系の自然に還されます。ご冥福をお祈りし、皆様には観光地化していない地域への旅行における一つの現実を知っていただければ、と思います。

(212/06/22記す)