お父さんのエッセィ

『元外科医のヒマラヤ修行14 - - - ネコが絶滅危惧種になりそうな国・ネパールでみる医療援助のありかた - - -』(2012/10/31)


『元外科医のヒマラヤ修行14 - - - ネコが絶滅危惧種になりそうな国・ネパールでみる医療援助のありかた - - -』


珍しい仕事をしている立場上、ネパールの印象を聞かれることがある。一言で語るのは難しい。
ネパール人に尋ねられたときには、気持ちの穏やかな民の国だし、一年中花が咲いていて桃源郷のような土地だと答える。アメリカ人に聞かれたときには、交通ルールのない無法者の国だね、と答えた。どちらも本当のことだ。
しかし、折に触れて思い浮かぶ印象というのは、赴任してきて3日で悟った、いわば第一印象からあまり変わっていない。それは、ここは、野良猫がred data book(絶滅危惧種)に載りそうな国だということだ。絶滅危惧という表現は、この国では猫が好まれていないということの例えだが、象徴的にこの国・国民の気質の一面を表している。

猫好き外科医としては、『ヒマラヤ修業(1)』で紹介したように、猫が嫌われる理由を調べている。牛や犬のようにヒンズー教において宗教的な役割(神の使い等)を負っていないということは、不利な点らしかった。しかし他には、はっきりとした理由は発見できていない。大使館のネパール人職員や拙宅の使用人の話では、猫は魔女の使いで、不吉だし、汚いから、嫌いなのだそうだ。ただそれだけの理由だった。さらに聞くと、ここでいう魔女の使いというのは、欧州の迷信を盲目的に輸入したものというのが彼ら自身の認識だった。日本人が、13日の金曜日を不吉と感じるのと同じ次元と思えば間違いない。
さて、この国に2年半も住んで、だんだん見えてきたのは、人々の生活は、いろいろな迷信と共にあるということだ。極端な例だが、この国では、魔女と疑われた女性はいまだに火炙りになることがある。それに比べれば、猫を見かけた我が家の運転手が、わざわざ車から降りて石をぶつける等というのは、またマシなのかもしれない。
さて、このことは、実は根源的な問題を教えてくれている。それは、輸入した迷信と土着の風習を区別なく盲信する姿勢であり、言い換えれば、一般の人には、科学的にものを考える素地が十分ではないということだ。都市部を離れれば、人々は魔女狩り・火炙りの風習を廃絶できず、山村ではシャーマンが呪術医療を行っている。呪術医療がすたれないのは、田舎に出向く医者の不足が最大の理由らしいが、あえて現実の一面を切り取ると、こういう表現もできる。

ちょっと切り口を変える。当国第三の都市にある某基幹病院の腹部外科では、手術創の感染率が70%を超えるそうだ。当国には医学校が17もあり都市部については人員不足による衛生水準の悪化というのはあたらない。件の病院も西洋式の医学・看護学を修めた医師・看護師が働いているのだが、聞くところによると、手術用の器械(ハサミや鉗子など)や手術のときに体を覆う布は、通常の洗濯・洗浄のあと、天日で干されるのみで、滅菌操作(高圧蒸気滅菌など)は省かれているのだそうだ。いわゆる消毒なしに手術器具が使いまわされていると考えれば良い。滅菌の必要性と適正な手順は、医学校・看護学校で学ぶ基本だが、現場レベルでは、ややもすれば自己流の慣習で良しとする姿勢がそこにある。なにか迷信の世界に生きる市井の民の姿勢と符合する気がして仕方がない。

この見方から、医療に限定して、国際援助のことに考えを拡げてみる。この国では、肺炎や結核など感染性の疾患による死亡がまだまだ多い。これをコントロールするには世界標準の医療知識を学ぶこと・教育することは大切な前提だ。しかし世界標準に追いつくために、高価な医療器具を、ポンポン援助すれば良いということにはならない。メンテナンスの習慣がないこの国では、高額の医療器械は、壊れたらお仕舞いなのだ。交換部品を買えないので、高価な器械全体を廃棄することになるからだ。羨ましいぐらいの使い捨てぶりだ。その時点で自己流の慣習に戻ってしまう。見栄えの良い大型援助よりも、彼らの慣習や懐具合に合わせた、持続可能な医療の方法論を示すのが現実的ではないか。
迷信と自己流の慣習の中で生きる彼らでも面倒がらずに守ることができる医療の手順を確立するのだ。それが身の丈にあった医療だと思う。腹案がないのが私の弱みだが。
例としては、ちょっとずれるが、知り合いのフランス人医師が、国境なき医師団の悪い面を、アフリカで見たと言っていた(もちろん良い面の方がたくさんある)。医師団は無料で医療を提供するが、医薬品も無料で配布するので、地元の薬局や病院が立ち行かなくなるのだそうだ。善行であるが、地元への配慮、すなわちミッション後への配慮がない、というのだ。彼らが通ったあとには、ぺんぺん草も生えない、という意味のことを言っていた。アフリカもネパールも、援助側の自己満足の世界という共通項でくくられる一面がある。
これは援助の受け手の責任ではないし、援助自体も必要である。しかし、お金やモノをポンポン渡すのではなく、その生きた使い方を示すのでなければドナー側のマスターベーションの批判を免れない。まずは、現状に即した援助の在り方を考えて実践する方法を開発し、次に、開明的教育を受けている指導的立場の現地人・援助の受け入れ窓口になっている人に、その方法論を示すことで、援助の要を押さえて、最終的に、迷信に流されがちな末端の人の意識改革につなげて、そこに定着させればよい。そうしてはじめて、西洋式援助は、マスターベーションの時代を卒業できる。

かつて、ベルリンの壁を崩し、アラブの春を進めたのは、高みから革命の旗を振る強力な指導者ではなく、平和や平等を渇望する名もなき民草だった。しかるに、医療においては、民衆の側から迷信や誤った慣習を打破するような、いわば下からのエネルギーは、なぜか想像しにくい。医学的知識というのは敷居の高い代物なのかもしれない。ならば、歴史と伝統を破壊しないように気を配りながら、悪習を改めるべく衛生教育も継続されねばならない。改革が下からであろうが上からであろうが、火炙りではなく、論理的思考の結果として、魔女、否、シャーマンが絶滅するのが、大切だと思う。
その時、この国でも、猫たちは幸せに生きていけるようになるだろう。

筆者蛇足:日本からの援助は、かつては大型ODA(政府開発援助)が花形でしたが、今はJICA(日本国際協力事業団)による技術協力など、きめ細かい援助に軸足が移ってきているようです。その一翼を担うボランティアの協力隊員たちは、世界中で大いに頑張っています。
(2012/10/31記す)