お父さんのエッセィ

『元外科医のヒマラヤ修業15 ---よどんだ空気と薄い空気の四方山話---』(2012/12/30)


『元外科医のヒマラヤ修業15 ---よどんだ空気と薄い空気の四方山話---』


   11月に風邪をひき、年末の今も『えへん虫』を一匹飼っている。夏から秋にかけて、毎週末ゴルフレッスン(1時間1000円ほど)に通って築いたなけなしのゴルフスキルも、えへん虫の退治療養中に、すっかりゼロに戻ってしまった。元来、呼吸器系は丈夫ではないと自覚していたが、知命の齢を迎え、いよいよ肺病を患うほどの衰えが来たかと、暗い気持になった。私の咳き込み月間と期を同じくして、現地採用スタッフの中に労咳患者を見つけてしまい(仕事熱心な私・・・)、事務所内で唯一の医療のプロとしては、泰然と構えつつも、自分自身の長引く咳に内心は穏やかではなかった。
 長い前振りになったが、私の咳が完治しない要因の一つは、大気汚染にある。以前にも書いたかもしれないが、寒期のカトマンズ盆地は、土埃と排ガスと焚火の煙などで、幹線道路ではヘッドライトもかすむ状態となる。数か月雨が降らない時期でもあり、浮遊粉塵を洗い鎮める要素は皆無である。咳で同僚に不快な思いをさせないように、マスクをしてみた。白い紙マスクは、二日で灰色になった。外出時ではなく、オフィス内でのマスク着用でこの始末なのだ。蛇足ながら、我がオフィスには日本製の空気清浄機があるが、浄化後の空気の吹き出し口の近傍の白壁が、なぜか煤けて黒くなっている。ここの汚染大気は日本製のマシンで浄化されるほど、やわな空気ではないということだ。我々はそんな環境で日夜業務に励んでいたわけだ。。。

   大気汚染は、実はアジア全域で共通する悩みである。もしかすると世界中の途上国で共通かもしれない。風の吹きぬける海辺の都市などはまだましだが、カトマンズは盆地なので、空気のよどみはひどい。カトマンズの国際空港に着陸する旅客機は、灰色の空気の中に沈むように滑走路に進入することになる。冬に来訪される方は、ヒマラヤの美峰だけでなく、カトマンズの大気も、飛行機の窓から確かめていただきたい。
 NASAの公開している衛星写真の中にも、大河ガンジスの上空が、煤煙に覆われている絵があった。ガンジス川に沿って、よどんだ大気が空中の川のようにベンガル湾に注いでいた。増えすぎた人口、その人々の営みで傷つく地球、そんな衝撃的な写真だ。リゾートに行けば青い空と碧い海にはお目にかかれるが、それはむしろ特別なのかもしれない。そんな風に思った。

   地球の未来を憂う思いの一方で、この初冬の或る休日、エベレストを見にヘリコプターにのった。誤解のないように書いておくが、公休日に私費で商業ツアーに参加しただけのことで、カトマンズで生活しているという地の利以外の役得は行使していない。世界で一番高いところにあるというエベレストビューホテル(富士山より高所)に、ヘリで乗り付けて、朝食とお茶と、おいしいが薄い空気と、そして世界最高峰の絶景を堪能した。空気のよどんだすり鉢の底から飛び立って、ラピスラズリのような蒼空と、そこまで行ってもなお遥かなる頂を目に焼き付けることができた。全行程3時間ほどのツアーだった。お金さえ出せば宇宙にも行ける時代、当地から日本往復の航空運賃一回分をつぎ込めば、世紀の絶景にも手が届くというわけだ。郷里の妻子・猫たちよ、この冬帰省しない父を許しておくれ!!この経験はお父さんにとっては芸の肥やし(仕事上の参考)になっているのだから。
 ちなみに、トレッキング(徒歩)で同じ景色を見ようとすると、同程度の金額と、約1週間という時間を工面せねばならない。考えようによっては、ヘリツアーよりも贅沢かもしれない。蛇足ながら、徒歩の場合には、日程を惜しんではならない。高度順化を怠れば、高山病という死に神に襲われるというオプションもあり得ることは、少し前のエッセーに紹介している。

   ツアーのへりは5000m超の標高(エベレストベースキャンプ上空)まで駈け上がってくれた。薄い空気の中を飛ぶためには、燃料をたくさん消費するのだそうだ。ヘリの排ガスは、ガンジス水系上空を下ってベンガル湾に流れ着くのだろうか、それとも偏西風にのって遥か日本にまで行き着くのだろうか、地学を専攻しなかった私にはわからないが、家族だけではなく、地球にも後ろめたい気分にさせる贅沢経験だった。
(2012/12/30記す)