お父さんのエッセィ

『元外科医のハバナ日記 (3) 土着宗教の暗部を垣間見た一服の茶飲み話』(2014/02/21)


『元外科医のハバナ日記 (3) 土着宗教の暗部を垣間見た一服の茶飲み話』


  ある日、大使館(キューバにある日本大使館)の同僚が、腹痛を訴えて医務室に現れた。臍から少し上の部分が中心の痛みだが、腹全体も痛い気がするという。座位・立位でつらく、臥位で少し楽になるが、事務仕事をするのに、膝を抱えて椅子に座って痛みを誤魔化していたという。腹を冷やしたのではない。発熱なし。下痢なし。背部痛なし。診察してみると、腸の音は聞こえる。特に押して痛い場所はなく、手術が必要(反跳痛)なふうでもない。
 アッペ(急性虫垂炎)の痛みなら、最初はお腹全体が痛く(腸間膜全体の関連痛のフェーズ)感じるが、やがて右下腹部に収束する。このお腹全体の痛みの時期に似ているかもしれない。ただし、彼女の場合、右下腹部には収束せず、その日の夜、左上腹部に収束したそうだ。診察した(理学)所見では、手術適応のない急性腹症(小腸・腸間膜の炎症を想定)だった。ここは南国だし、昨日食べたケーキが古かったかもしれないとのことで、食中りを念頭に、いくつかの内服を処方しました。しかし、症状は全く緩和されず、2時間後に彼女は早退しました。
 症状が異常に強いため、広範囲の小腸炎?典型的ではないが腸チフスや赤痢アメーバ?いやいやひょっとして膵炎?明日には精密検査が必要だろうかなどと考えつつ、彼女の背中を見送ったのでした。

 翌朝、彼女は、さわやかな表情で来室。症状は消えたとのこと。感染をベースにした腸炎なら3-4日はかかると踏んでいたので、私は驚きました。
『え、本当にもう良いの?』
医務官としては、労せずして、名医になったわけで、儲けものともいえますが、釈然としません。彼女も詐病だったと思われては心外とのこと。昨日の診察所見を疑ってはいないと、彼女をなだめつつ、不思議なこともあるものだと、ぶつぶつ言う私。
午前中の仕事が一段落したとき、彼女がまた医務室に来ました。自分の精神状態を疑わないでほしいと前置きしながら、ひょっとして、と、心当たりを話してくれました。

 発病の前の日に、交際中の彼氏と新居を見に行ったそうで、そのとき、隣家に招かれコーヒーを勧められたとのこと。その一家は自己紹介の中で、自分たちをクリスチャンと称したそうですが、彼氏はその家の装飾の様子をみて、単なるクリスチャンではなくサンテリアに違いないと思ったそうです。そして、その一家から異様なプレッシャーを感じたため、彼氏は出されたコーヒーには手をつけなかったそうです。それに気づかなかった彼女だけがコーヒーを飲み、その晩発病したのこと、、、

 注:サンテリア
サンテリア(Santeria)は、主に西アフリカのヨルバ人の民俗信仰と、カトリック教会、スピリティズム(心霊主義/別名カルデシズム)などが混交して成立したキューバ人の民間信仰。信者をサンテーロと呼ぶ。 なお、ハイチのブードゥー教やブラジルのカンドンブレ、マクンバなどはサンテリアの仲間である。 キューバではサンテリアのみならず、パロ(パロ・モンテ、パロ・マヨンベ)やアバクワ、ブードゥー教といった別種のアフロ・キューバ信仰も盛んである。(Wikipediaより抜粋)

 呪詛などと非科学的なことをいうと、私は普段メスではなく、五寸釘で仕事をしていると疑われてしまうが、何らかの民間薬を盛られた可能性はないだろうか。むしろそちら系の話なら、急速に軽快した不思議な急性腹症の経過が、『腑に落ちる』気もする。当地では、あまり親しくない人から勧められた飲み物には、手を付けないのが常識だと、彼氏が言っていたそうだ。初対面の相手の文化的な背景を洞察する注意力は、外交官には重要なサバイバル能力であると、訳のわからないまとめ方も出来るかもしれない。
 余談だが彼氏の実家はパロ(上述の別宗派)だそうで、呪詛にも免疫だとか。ここまで書くと、まさにスーパーナチュラルの域だが、普通の外科医だった時代の私は、大真面目に、ポケットにはいつも小さな鏡を携帯し、手首にはパワーストーンのブレスレットをしていました(理由はご想像の通りです)。茶飲み話として、彼女に、私が昔勤めていた日本の病院の怪談話を聞かせて、その場を納めたのでした。

 後日談:
 翌週、件の彼女は、ポケット鏡とアメジストのブレスレット、さらにペルーの友人からもらった魔除けのブレスレットを装着し、彼氏との新居を守る意気込み全開でした。
(2014/02/21記す)