ハバナ暮らしは1年を過ぎた。
仕事では日本語、英語、スペイン語が必要だが、私は、ここに来るまでスペイン語に接する機会がなかったので、スペイン語の必要な仕事は、英語や日本語の分かるキューバ人スタッフに頼るしかない。
なかなか不便だし、通訳に甘えるばかりでは進歩がない。そこで、地元大学の教授に週一回の個人授業を頼んで、少しずつスペイン語を教えていただいている。それも1年を過ぎた。まだ日常の役にも立たないレベルだが、スペイン語の街に出る度胸は着いてきた。
この根拠薄弱の自信でもって、今回6日間の夏休みとって、スペイン語圏である南米の国を旅することにした。
キューバから南米はそれほど遠くない。ここに暮らしているうちに南米を見に行かない手はない。今回は、ペルーのクスコ・マチュピチュとナスカを選んだ。
日本からは遙か地球の裏側といってよいような遥か異国の世界遺産観光、妻も乗り気である。
日本の旅行社のペルーツアーは、日本発であるから、我々には利用は難しい。ペルーのツアー会社に依頼して、個人旅行のプランを立ててもらった。
観光は注文通りの内容だったが、当然ながら、現地までは、添乗員なしでの自力移動である。
これが、私にとっては、重大ミッションだった。下手をして面目を失えば、成田離婚??ものだ。
まず妻が、北海道から1日がかりでハバナに移動して私と合流。ハバナからは、夫婦で夏休み。
妻は英語は堪能だが、スペイン語能力は私以下なので、私が添乗員役をこなすとの理解。
内心どきどきの私とは対照的に、隣の妻は、暢気なモノである。
ペルーの首都リマまでは、パナマ・シティで乗り換えて、6-7時間の行程だった。空港も機中も、アナウンスは、基本的にスペイン語で、英語は早口かスペイン語訛である。
何とか重要単語をピックアップして、移動に必要な情報を集めるわけだ。CA・空港案内・店員・官吏との会話は、下手にスペイン語を口走ると、相手はスペイン語で話を始めるので、結局なにも理解出来ない羽目になる。『イングレス・ポルファボール(英語で頼みます)』以外は、基本的に英語で押し通すのがコツと解った。
ところで、その日の最終目的地は、実はリマではなかった。
リマから国内線に乗り換えて、遺跡都市クスコまで行かねばならない。そこまでたどり着けば、現地のガイドさんが待っていてくれる手筈だった。
リマで国内線にチェックインし直し、現地通貨を手に入れ、食事をして、搭乗待機し、、、
空港内で取って喰われることもないのだが、それなりの緊張があった。
朝4時にハバナのアパートを出発して、クスコに着いたのは夕方の6時過ぎだった。
クスコは観光都市なので、空港は大混雑。漸く預け荷物を回収して外に出ると、もう日は暮れていた。
そこへ、日本語で、間宮様と書いた紙を持ったガイドさんの登場である。平静を装っていたが、3文字の漢字の頼もしいこと。
どうやら成田離婚の危機は当面回避された。
日本語の分かるガイドさん達を頼んだので、ペルー出国までは、あまり不安なく観光できたし、彼・彼女に向かって習い覚えたスペイン語を試してみるのも一興だった。
クスコ・マチュピチュ・ナスカの観光は、多くの日本人客がまわっていたので、特にここに書くモノでもなかろう。
ただ一つご注意を述べておきます。
クスコは、標高3400メートルの高地にあり、平地から一気に乗り込むと、気圧/酸素の不足でつらい目に遭います。
私は1年前まで高地・ネパールに住んでいたのですが、1年も臨海都市で暮らしていれば、耐性は失われていた。
軽い高山病になるだろう事は予想していたので、旅行前にはジョギングで心肺機能の鍛錬をしたし、医師の特権で、症状軽減のための薬ものんでいた。
それでも、到着の夜は、熟眠できず、食欲もなかった。この期に及んで出来る対応は、静かに行動すること(走り回ったりしない)、消化の良いモノを食べること。アルコールを控えること等だそうだ。
旅行先では、地元のビールと料理を堪能するのが、我々夫婦の楽しみなのだが、初日の夕食は、スープとイモ料理程度にした。
他のテーブルでは、若い日本人や白人観光客がビールや肉料理楽しんでいたが、自分達だけが弱っているのかと思うと不思議だった。
長期滞在者でない限り、あんなに飲み食いしたら、今夜苦しむに違いないと、医学的に冷めた想像をしてみた。
ちなみに、日本ではご禁制だが、クスコではありふれているコカの葉を噛んだり、コカ茶を飲むと楽になる。
普段忙しくて、鍛錬の足りなかった妻の方が高山病はつらそうだったが、二日目には地元ビールや、地元料理を体験することが出来た。
クエ(和名、天竺ネズミ)という大ネズミの丸焼きが地元の名物料理の一つだそうだ。地元では特別なときのご馳走料理なのだそうだ。
ねずみ年の妻が共食いしている写真をご笑覧いただきたい。(表紙ページまたはグラフィティのページをご参照ください)
白人のご婦人が一人、我々のテーブルまで、この料理を見に来たので、分けてあげると言ってみた。私には無理と、辞退されてしまった。
我々夫婦には十分特別なオケージョンだったが、ま、好き嫌いのはっきり出る料理ではある。
(2014/10/05記す) |