お父さんのエッセィ

『花の都より 第一報』(2020/01/26)


『花の都より 第一報』


 4年数ヶ月のご無沙汰でした。その間,インドで修行すること3年,そして,ちょうど半年前からは居をパリにうつして今日に至っている。

 まずは掻い摘まんで空白の4年を語ろう。
 キューバでは,ゴルフとジョギングとマイアミ海峡ウオッチングでスカイ・ブルーとマリン・ブルーを満喫していた。ところがインド転勤を前にゴルフ肘を患いゴルフは封印となった。ハバナには国際引っ越し業者がなく,引っ越しは少してこずった。当時,オバマ大統領のキューバ訪問などもあって,欧米におけるキューバのイメージに好転の兆しのみえる時期だった。しかし,米国による経済制裁は解除されておらず(大統領ではなく議会マター),引っ越しの前後,個人の資産の国際送金にとても苦労した(私のスポンサーは共産政権ではなく,言うまでもなく,日本政府だが、米国の経済制裁は御構い無しだった)。
 余談から入るが,キューバから転出の航空機では,前国連事務総長の潘基文さんが近席だった。今は昔である。さて歴史の国・天竺。日本・キューバの高齢化社会とは好対照で,天竺は,人口爆発の渦中のような若く活気に満ちた国だった(歴史はともかく、人口ピラミッド的には若い国である)。しかし,過ぎたるはなんとやら,ヒトの生産活動の結果として,大都会ニューデリーは北京以上の大気汚染の街となっていた。N95マスクなしでのジョギングは自殺行為であり,任期中にはハバナのような健康的なブルーを目にすることはなかった(ブルー・シティは良い観光地だったが,それはまた別の話)。自分でドクターストップとしたゴルフに続き,ぼくは,キューバ3年間の習慣だったジョギングをあきらめた。

 で,なぜ,インドの風物について筆を走らせなかったのか。沈黙の3年の理由であるが。

 われわれ日本人は,欧米コンプレックスとまで言わないとしても,どうもあちらに視線が向いている。そして子供の頃から欧米文化には一定の慣れ親しみがある(さほど深い理解があるわけではないが、それでもファミリアである)。これを否定する向きはあるまい。しかして,ネパールも異邦だったが,インドは輪をかけて異質な文化圏だった。マニアにしか通じないたとえで恐縮だが、映画スタートレックでいう人類社会とクリンゴン帝国ぐらいのメンタリティ・ギャップがある。
 英語が通じる国だから,旅行も生活も、こなしてはいけるのだが,メンタリティも(我々のイメージにある)英語圏だと考えてはいけない。人々の行動原理は,むしろ,中国に似ているような気がしている。人口爆発の中で,切磋琢磨・生存競争していくという環境条件の類似性の故なのだろうか。はっきり言って,うちの支店の現地職員も含めて,自己中で言い訳の多い人が多く,プライドだけで中身が薄い。日本的期待値もしくは欧米的ビジネスにおいて常識的な水準のアウトカムを期待して仕事や生活に臨んだ僕は,日をおかず酷く幻滅することになった。

 着任3日目には,不動産屋を英語で罵っていた。
 2000年の米国留学のときに誓った目標=僕の英語のスキルの目標点は,『英語で,リアルタイムな口喧嘩が出来ること』だったのだが,怒りのあまり易々と目標をクリアしていたという始末だ。少なくとも私にとって怒るという作業は,心が磨り減る行為だ。オーラもくすむ。私のスピリットは、生存競争で口八丁の現地人に比してナイーブといっても過言ではない。(こんな書き方をすると,ぼくに叱られまくって育った我が子達は,『親爺,プリクラ以上の修正イメージじゃね』って言うかもしれないが)ぼくの心はあっという間に磨り減った。事ほど左様な摩擦は続いた。

 ネパール駐在時代は物珍しさもあって,風物を文章に残す余裕もあったが,天竺では,僕は兎に角悪口しか思い浮かばなかった。それなりの発見や小さな冒険もたくさんあったのだが,悪感情を基調にそれを随筆にする趣味はない。現地支店で人物観察していると、同僚達の8割は任国への悪感情にそまり,2割はカオスを溺愛するのだが、ぼくはその中ではマジョリティの側だった。その中の一人が明言を吐いていた。『インドは、インド人さえいなければいい国なんですけどね』だそうである。
 他人の国にノコノコやってきて,現地のしきたりが気に入らないと,わめき散らすことこそ,自己中であり,そんなに言うなら国に帰れ,という事になる。それでは仕事にならない。ぼくは筆を折ることにした。
 ちなみに、かの国へのリスペクトはある。極東軍事裁判の時に、後出しジャンケンでル―ルを変えて(事後法で)、敗戦国を裁くのはいかがなものか、と言い放ったのはインドのパール判事だった。イギリスの植民地だった黒歴史を胸に、正論を吐くことで(米)英にしっぺ返しをしたなどという邪推もできるのだが、この手の正論は子気味良い。
 話を戻す。とにかく、悪口の随筆を3年間書きまくるのかと考えただけで、僕の色相は悪化(サイコ・パス用語)しそうだったので、在任中は沈黙することにしたのだった。
 電子筆たるマイクロソフト・オフィスは,業務上の講演スライド作りや,妻から回されてくる,医学雑誌の投稿論文の査読(妻の論文ではなく,雑誌編集者から妻に依頼される査読の下請け=論点の整理や誤字脱字の指摘をおこない,多忙な妻の査読業務の効率を上げる)に専ら使われた。おかげさまで医学知識のキャッチアップはそこそこ出来ていた。

 さて,沈黙の外交官は月光仮面の修行を超えたのか、よくわかりませんが、悪口を封印して3年。昨年夏,ぼくはパリに引っ越した。今度の引っ越しは,日本の引っ越し業者のニューデリー支店が請け負ってくれた。商社の駐在員相手に商売している会社なので、役人にはしょっぱい。引っ越し貧乏になったが,それなりの仕事をしてくれた。
 で、2019年のバカンスシーズンの真っ最中で、地元民が不在でちょっと希薄な時期のパリに赴任した。一か月のホテル暮らしのあとで入居したアパルトマンは、結構ぼろいが、家賃は立派。立地としては、凱旋門から徒歩5分、わが支店事務所までは徒歩7分。凱旋門はシャンゼリゼの片端だから、イメージとしては、銀座のど真ん中に住んでいるといったものか、と想像する(銀座に住んだことがないので、あくまで想像です)。

 ホテル暮らしの1か月の時点から、ぼくは天竺生活でカラカラに乾いた前頭葉の文化野(脳科学的にはそんなものはありません)に、西欧文化のエッセンスを染み込ませるという文化的リハビリに明け暮れた。
 毎週末、ボクはマルシェと美術館を梯子しまくった。(つづく)

(2020/01/26記す)