お父さんのエッセィ

『ある臨終と家族の群像』(1996/10/27)


『ある臨終と家族の群像』

 私の勤務する病院は、消灯時間を過ぎると戸締まりをする。一応インターホンはあるし、来訪があれ ば開錠する。
 ある末期癌の患者を看取るためにロハで(自発的に)病院に詰めていたある夜。その患者の息子が、泥 酔して、病室の窓から入ってきてあばれまわった。もちろん消灯後の話である。器材は打ち捨てられ、看 護婦さんはなぐれられ、、、で、夜間の責任者という行きがかりで、医局から呼び出された私は、彼に自 制を促した。言うことを聞くような奴は、窓から入ってきたりはしない。わたしは、眼鏡をとばされ、身 の危険を感じるような、大声で罵倒され、、、。
 『おまえのような、不細工な男は、、、ぺーぺーのくせに、、、破滅させてやる、、、○×○×、、 、、??!!』、、、。
 あの時は怖かった。そして本当に身の危険を感じた。それに、細かいことだが、わたしの風貌にまで 文句を付けられたのには、参った。腹が立つやら、あきれるやら、、、。

 話せば長いことながら、大学病院の各科をめぐっても見つけてもらえなかった癌を、末期になってか ら見つけたからって、私に何の落ち度があるのだろう?私のところに来たときにはすでに進行癌で、す ぐに大学病院に送り返したものの、手の施しようもなく、、大学ではもうすることがないと、再び私の 勤務する病院に回された人なのだ(そういう患者の息子なのだ)。臨終を控えた人をよこにして、私に 感謝しろとは言わないが、罵倒される筋合いは断じて無い。ついでに言わせてもらえば、私は検査医と して彼女の癌を発見したが、正規の担当医ではなかった。ただ、その晩の責任者だっただけでなのだ。

 最愛の母親にもうすぐ死なれるときに、冷静でいる方が難しいかも知れないが、多様な入院患者の同居 する 病院という団体社会のなかでは、もう少し常識的な行動は、要求されて良いはずだ。他の病棟の患者 までが、その大声を聞いて飛び起きたそうだ。更なる危険を感じて、結局、わたしは、警察を呼んだ。親 の臨終である。場合が場合だけに警官も音便に収めようとしたが、あまりに悪質で、警官の威力にも恐れ 入らなかったため、彼は、警官につれられて、院外に退去させられた。

 話には、続きがある。それを見ていた彼の家族いわく、
『先生、なんで彼を連れて行かすのだ?死に目に会えなかったらどうしてくれるのだ。あんた名前はな んて言うんだ?、、、俺は忘れないぞ、、、○×○×、、、、??!!』
 彼も酔っていたが、酔い方は五十歩百歩で、わたしは、彼からも不愉快な言葉を聞かされ、やんわり と、脅迫されたわけである。

 親が臨終なら、何をしても許されるのか??周囲の医療関係者に危害をくわえてもよいのか!!
そんな、免罪符が存在するなら、末期癌の患者の家族は気に入らない病院関係者を殺すことだって許され てしまう。親が 臨終なら、飲みになんか行かず、最後の1、2日ぐらい枕元にいてやれば良いではないか。 ほとんど意識のないその患者は、今際の際のこの騒動をなんと思ったのだろうか。
 『なんと親不孝な息子』と思ったのか、それとも、酔った二人と同じように『ひどい病院』と思ったの だろうか?
 翌日彼女は亡くなり、それを確かめるすべはなかった。

 息子は、連行された夜のうちに釈放されていたが、とうとう母親の死に目には会いに来なかった。
 そして、殴られた看護婦さんは、後日、彼を告訴したそうである。彼女にも家族があり、旦那さんが激 怒したのは言うまでもない。
 私と私の家族は、それから数日間お礼参りにおびえて、事の風化を待った。
 『苦労は買ってでもしろ』などとはよく言ったものだ。『ただ(ロハ)より高いものはない』のである。  この春の話である。

(1996/10/30改記す)