お父さんのエッセィ

『死と向き合うということ、あるいは告知論と同一の平面で、、、』(1997/01/31)


『死と向き合うということ、あるいは告知論と同一の平面で、、、』


正月休みに、『人間らしい死にかた(How we die)』という本を読んだ。Nulandというアメリカの外科・医学史の教授の書いた本である。それには、現代の人間のありとあらゆる死に方が綿々と表現されていた。エイズによるものも、老衰によるものも、殺人によるものも、自殺によるもの、、、彼の哲学をふまえつつも、淡々と記されていた。重たい内容である。が、では、果たして、僕らは死を知っているのだろうか?

少なくとも、私は、医者として死の一つの側面を見続けてはいるが、それは、傍観者として、立会人としてのそれである。
みなさんはどうだろうか?
死を見つめ、死の意味を考えるという、学習の機会は、近親者の死しかない。だが、現代の日本で、どれくらいの人が、近親者の死に向かい合っていると言えるのだろう?昔、家の奥座敷で、静かに死にざまを示してくれた祖父や祖母は、今では、病院の白い壁の中で、三途の川の川渡りを見守る責務を負わされた、人を生かすことにしか能のない医者という渡し守に、見守られて、ようやく死出の旅路に逝かされるのだ。点滴のシャワーの洗礼を受け、口に管や、マスクと言った、馬のはなむけ付きである。
酷な表現で申し分けないが、自分こそは、近親者の死に向かい合って、その真実を見極めたと思う人に問いたい。『その人の末期の言葉は何でしたか?』と。日本の病院システムにおいて、末期の言葉を、言うこと、聞くことはよっぽどの幸運である。それこそ、一世一代の幸運かも知れない。『馬のはなむけ』をやられては、とっときの最期の一言はおろか、恋人の手を握ることもままならず死んでいくしかないのだ。
叙情的比喩に流されたが、病院で、死を看取った人には、思い当たる節があるだろう。
それは、人を生かすことを義務づけられた病院に、死を押し込めてしまった現代日本の歪みにほかならない。
自分は医療者だから、ここまでの矛盾しか述べることはできないが、そんな風にしか死を看取れなかった人々の、その後はどうなのだろうか?取り残された後で、じわじわと死の意味を孤独の重圧の中で味わいはしないのだろうか?一方で、そうやって死んでいった故人は、そのベットサイドに何人の人がいようとも、孤独だったのではないだろうか?

さきの名著にこうある、『、、、人の死にゆくさまを率直に語り合ってはじめて、我々がもっとも恐れている死の側面に対処できる。真実を知り、その心構えをすることによって、死という未知の世界への恐怖を免れ、自己欺瞞や幻滅を免れることができるのである。』
死を知ることに対するこれらの意味は、家族にとってのもであり、また、死にゆくその人にとっても同等の意味を持っている。 少し長いが、更に一節を引用したい。
『われわれが守れる約束と与えうる希望は、いかなる患者も一人では死なせないということだ。一人で死ぬときの様々な状況のうちでもっとも救いがなくて孤独なのは、死が確実にやってくる事実を知らされないときに違いない。しかし、これもまた「患者の希望を取り上げるわけにはいかない」という気持からくるものであり、そのために、とりわけ患者を元気づけるたぐいの希望が達成されない結果になることが多いのだ。自分が死んでいくことを知り、どのような死を迎えるのかを可能なかぎり知っていなければ、自分を愛する人たちとともに最後の希望をみたすことはできない。この最後の希望がみたされなければ、愛する人たちが臨終に立ちあっていようと、われわれは孤独の中に置き去りにされてしまう。死にさいして精神的な親交を結ぶという約束こそが希望を与えてくれるのであり、それは物理的な孤独にたいする恐怖を補ってあまりあるものなのだ。』 この書によれば、死を隠された癌患者の死は孤独であり、心を一つにできる仲間達に見送られるエイズ患者の死は孤独ではない、と、言い換えることもできる。

総論として、告知を是とする私の思いの代弁がここにある。明快に言葉にしてもらった感がある。人を生かすことを義務づけられた病院で、10年間医者として、死の一つの側面を見続けた私の中の不快感は、死にゆく人々の孤独に対する違和感だったのかも知れない。告知を拒否する家族のかたくなな姿勢は、死そのものを拒否する、家族の願いの表れなのかも知れないが、死にゆく患者そのひとの存在は、本当にそこに在るのか?おたがいに死と向き合うことで、共有し得る最後の生の輝きを見失ってはいないのか? 第三者には推し量りようもないが、彼は孤独の中に置き去りにされてはいないかという疑念が沸々とわいてくる。(余計なお世話かも知れないが、、、)
死を共有する方法論は、イコール告知と言い換えることができる。告知を拒否し、同情としての方便を医者に求め、自分にもだまし続ける重荷を課して、どうやって、死にゆく人の貴重な最期の時間を共有できるというのだ?同情の名の下に、残される自分を悲劇の主人公にしているだけなのではないか?嘘を重ねた会話の上に、それでも、逝く者・残される者が分かり合い、心が通じ合っていると言える根拠は、何なのか?(余計なお世話かも知れないが、、、)本当に彼は孤独でないと言えるのか?そして、あなたは嘘に疲れることで、死をごまかしてはいないか?その場合、患者そのひとの存在はどうされているのか?
個々の死にざまを、そして、個々の遺族を非難しようとは思わない。究極的には家族ではなく、生きていく、そして死んでいく人間ひとり一人の価値観の問題に帰属するからだ。死の各論に対する正解など、出しうるものではない。各論の呪縛にとりつかれた、某医学部教授は、『告知は、難しい問題であるから、ケースバイケース』といったそうだが、不可知論としては、間違っていない。(小僧が、僭越なことを言ってます、、、ご容赦)宗教が生きていた時代には、それら各論は、たとえば『西方浄土』の名の下に集約されて、不可知ではなかったわけだが、、、。
宗教を亡くして、生のそして死の価値観を見失ったいま、死、そして、告知問題は、法として哲学として経済学として、社会学として、、、あらゆる観点から吟味されるべき段階にある。そして私は、現場から、潜在意識に膨らんでいく違和感として、その総論の方向を感じている。

(1997/01/31記す)