日本において、病院に押し込められた死は、死に至る病に源を発し、告知問題をその中継点として、人々の意識に登場してくるといえる。
前文で述べたように、各論が不可知なら、その全て(死に至る経過と認識のあり方)を、生きる方法を模索させられている医療者に押しつけるのはいかがなものか。例えば、インオームドコンセントの叫ばれる時代に、細かな情報の説明の後に『先生におまかせします。』は、どうしたものか、、、。知る権利と知らないでいる権利が、別々に医療者に向かって叫ばれるのはどういうことか?また、裁判では、適切な相手に告知しなかったことを罰せられているいっぽう、告知したことでも同様の判例があるという。裁判で、各論を結果論として裁くのはたやすい。岡目八目よりもっと簡単な所作だ。そういうのを、マンデイ・モーニング・クォーターバックという。
総論としての大枠が必要なのだ。それを現場の医者に押しつけておいて、医者個人のカラーが出ただけで非難できるのか。そんな責任問題の時だけ、『先生』などと言わないでほしい。
ここに新しい流れもある。私の師匠の持論だが、経済面からの告知解禁の流れだ。
たとえば、こうだ。
死期の迫った患者に、適切な告知をしなかったとする。ある事業を計画していた彼は、自分の死期を知らず、銀行から融資を引き出し、事業を興し、軌道にのる前に亡くなったとする。遺族に財産がなく、手に職がなければ、遺族は破産することもありうる。そんなとき、当事者の誰もが不幸であり、故人さえ後悔するかも知れない。
また、たとえば、こうだ。
ガン保険である。これが全てだ。
これは、非常に便利な代物で、これが登場してから、『早期ガン』の肩身が広くなった。ガンが見つかり、手術を受けて、回復し、退院を迎えれば、ガン保険はお金に代わる。治るガンなら大歓迎と言うわけだ。(少し口が悪かったかも知れませんが、社会現象としては事実だと思います。)しかし、治る治らないは、流動的な命題で、場合によっては、ガン保険を免罪符として、治るかどうか疑わしいガンも、告知の対象とすることだって出来る。また、生前給付の登場に至っては、もう『なんでもあり』状態で、告知と言うことになる。なぜなら、生前給付には、死亡想定時期が記載されねばならないからだ。
かつて、エコノミックアニマルと呼ばれた日本人にふさわしい、告知解禁の既成事実化かもしれない。
(著者注。言っときますが、私は、誰か個人を非難するつもりはありませんし、特定の個人を念頭に書いているわけではありません。経済活動だって、生きるためには必要だし、契約に善悪は入り込む余地はないと思ってます。)
でも、できれば偉い先生方に、総論としての大枠を作っていただきたい。
私のような、若造に、、、、(中身はともかく威厳のない『先生』に重大な話を聞かされるのを、よしとする日本人は少ない。)私のような、若造に告知され、事実への戸惑いと驚きを、同情を示しつつも、いとも簡単に命の期限を言い放った、若造への非難の感情にすり替えて、心の安定を図ろうとすることはたやすいのです。しかし、それは、恨まれる若造には迷惑な話で、『告知をさぼって、嘘をついてはいけない』というような(黄門さまの印篭のような)法律でもあれば、事実の受容に早道ではないのか。
本人、そして近親者が、人生の重大事を知らされ、戸惑い、驚き、拒絶し、あるいは恨み、やがて受容していくというプロセスは当たり前の反応です。しかし、(極端な話)そのたびに医療者が殴られてよいものではないでしょ。
ですから、偉い先生方には、『ケースバイケース』などといわないで、ぜひ頑張ってほしいのです。
また、
われわれが、告知を受けるご本人とご家族(あくまで、ご本人が第一です)に、今後医療として提供しうる全ての選択枝をお示しし、誠実に医療を実行するのは、当然のことです。しかし、告知の後の受容に至るプロセスは、ご本人の問題であり、フォローしてくれる人間(その第一は、ご家族や友人であり、医療関係者は二次的存在である。)が周囲にいてくれるかどうかは、そのご本人が、それまでの人生で周囲とどんな人間関係を築いたか、という問題の集大成なのではないか。(これも、師匠の受け売りです。)患者さんの家族が、それを『受容』することに関しても、同じ事が言える。
『なんて冷たい奴だ』と、思われる向きもあろうかと思いますが、現実には、結構苦労して死の各論にあたってます。ここに述べた考えは、万人の常識ではありませんし、それを、追いつめられた当事者(家族)に述べても通じるはずもないですから、医師として、期待されている責任?を果たすべく、ご家族の意志(無条件告知でない限り、治療方針の決定権は患者本人ではなく、家族にあり、患者本人の意志は不明としか言えない。)を尊重しようと努めているのです。それは、外科医の労働としては、検査よりも、手術よりもエネルギーのいる仕事です。正解が目の前にない仕事は疲れるものなのです。そして、それは保険点数のつかない仕事(厚生省が医者の仕事と認めてない仕事)なのです。
(別にわたしは、守銭奴ではありまでん。ただ制度上の問題点もあるといいたいのです。)
そうした仕事は欧米では、牧師か、精神分析医の仕事です。全てを拒否するわけではありませんが、ただの外科医(若造)には荷が重すぎやしないか。
ちょっと、興奮して、脱線しました、、、、前の随筆にも述べたように、患者さんが孤独の中にいないことを祈るのみです。
最後にひとこと。
某建設会社のCFに『まごころの現場主義』というフレーズがありました(北海道だけかな??)。
読んでみておわかりとは思いますが、わたしは、言いたいことは言ってしまう性格です。でも、私個人のカラーのなかで、真摯にやっているつもりなのです、、、。
(1997/02/01記す) |