先日参加した学会で、興味深い講演を聞く機会に恵まれた。
演者は、上智大学文学部教授のアルフォンス・デーケンさんという方で、
死の哲学をご専門にされている方だそうだ。
通称、『死哲(私鉄)のデーケン』とのこと。
講演の一部を以下に紹介する。
私の記憶が確かなら、、、、。
この世に生をうけた以上、死は必ず訪れる絶対的・普遍的現実である。
誰でもいつかは身近な人の死と自分の死に直面せざるを得ない。
死をタブー視せず、身近な問題として捉え、自覚を持って自己と他者の死に
備える心構えを習得することは、人間としてもっとも基本的な課題
と彼は言い切る。
彼は、この『死への準備教育(death education)』を、
自分に与えられた生命の有限性を認識し、毎日をいかによりよく生きるか
を考えるライフ・エデュケーションと言い換えている。
彼はまた述べる、、、
死には四つの形態がある。
すなわち、生物学的死、文化的死、社会的死、心理的死の四つだ。生物学的死とは、すなわち、文字どおり命の終わりで、ほかの三つは、その人が、文化的創造性をあきらめたとき、社会的貢献を放棄したとき、心理的に自らの生命の意味を見失ったときにおとずれる相対的生命のおわりである。その各々生命の延命を模索するためには、死を見つめて、価値観を再考する中から、自分の生き方を総体的に捉え直すことが必要なのだ。そのために、疾病や身体的障害を人生の途上における大きな挫折の危機と捉え、こうした試練に積極的に応戦して、自己の潜在的能力の可能性を開発する得がたい機会ととらえなおすこと、自分自身の課題への挑戦の姿勢が大事なのだ。
残された最後の1ページに自らの存在意義を賭けて、どんな絵を描くかということかもしれない。人に迷惑をかけない程度の絵から、ほんの些細でも社会的・文化的に貢献する様な絵まで様々な可能性が残されているのだ。
そのためには、告知に基づく近親者のコミュニケーションこそが大切だ。コミュニケーションによって、喜びは倍となり、また、ともに苦しむことで苦しみは半分にすることが出来るのだ。そうして、意義ある最期を過ごすことが、患者にとっての生き甲斐となり、ひいては遺族にとって、患者の死後におとずれる悲嘆プロセスを克服する支えとなるのだ。『癌告知=希望を奪う』ではなく、告知を、希望の対象を適切に選択し直す機会と捉え、生き甲斐を探求し、より豊かな自己実現のためにいかにあるべきか、という発想が大切なのだ。
コップに満たした水を、半分まで飲んだとき、『あと、半分しかない』ということもできれば、『まだ半分ある』と考えることもできるというわけだ。
話はまだまだ続くが、以下省略させていただきます。
私が、臨床の現場で肌で感じてきた告知をめぐる問題を、
私と同様にしかしもっと論理的にとらえているではないか。
告知しないことや嘘の告知は、近親者との真のコミュニケーションほどは、
患者の残された生命を輝かせはしない。
しかも、彼の方が、建設的で、嫌味がない。
私の言いたかったことを、説得力付きで述べている人がそこにいた。
彼の言う『死への準備教育』が建設的に流布されることを希望してやみません。
彼の宣伝していた本も紹介しておきます。
アルフォンス・デーケン 著
『死とどう向き合うか』
NHK出版 1996年発行 1100円
ちなみに、私はサインもらって握手してきました。
(1997/02/27記す) |