お盆前後の1週間、なんとか夏休みを工面した。ようやくたどりついたその休暇は、あいにくの雨の1週間であった。しかし、他に休みのとりようもなく、私たち一家は道東旅行を敢行した、否、観光した。私にとっても、十数年ぶりの訪問であった。前回は学生時代、友人と二人でバイクにテントとシュラフを積んでの旅行であったが、今回は愛車に妻と小学生の長男と、生後2カ月の長女を乗せての旅である。
結婚して約10年、妻を道東に連れてこなかったことに、明確な理由はなかった。ただ、私の中では、最後の訪問となった前回のバイク旅行で道東訪問の大旨が完結しており、さらにまた、『次もバイクで』との潜在意識下の規制があったのかもしれない。
妻の企画した行程は3泊4日で、彼女はガイドブックと首っ引きで、3泊の宿の手配を担当してくれた。私はといえば、多忙の出張生活の中で、その宿3地点を結ぶ観光ルートの企画係を担当した。なんでも網羅しないと気の済まない妻のリクエストで、行程は約1000KMに及んだ。生後2カ月の長女には、いささか無謀な距離であったかもしれない。
そういった意味で、企画段階では気持ちにdriveのかかっていない状態の私だったが、自ら是非にと訪問を盛り込んだ地点が二つあった。一つは裏摩周、もう一つは開陽台である、、、。
第一日目。屈斜路湖、摩周湖など弟子屈近辺を回り、その古い温泉街に宿をとった。霧にかすむコバルトブルーの屈斜路湖。霧の摩周湖。小雨の硫黄山・砂湯に和琴半島。妻は霧には残念そうだったが、峠の風景や観光ポイントの景観に一応満足そうだった。
晴れた日なら、輝く屈斜路ブルーや、吸い込まれそうな摩周ブルーが見られるものを、私は言葉でそのまだ見ぬ景色を伝えるすべを知らなかった。口惜しい私の思いとは裏腹に、それでも彼女にはこの泣き出しそうな景色を味わいの深そうに楽しんでいた。
----そういえば新婚当時、彼女は500円の毛ガニを買ってきて、さも、特上の品のようにおいしそうに、食べていたっけ。冷凍で身がスカスカの蟹で、北海道人ならネコまたぎのものだった。私は彼女にその一匹全て食べていいよと太っ腹を装った。----
こういうシチュエーションのとき、いつも私は『小僧の神様(谷崎潤一郎著)』になった気がするのだった。(わかりにくくて済みませんが、短編ですので読んで見て下さい。)
第二日目。相変わらずの小雨の朝、行き交う車も追い越す車もなく、森の中を裏摩周へひた走る。15年前から訪問を夢に見ていた私にとっての秘境は、アスファルト路が整備され売店も完備していた。しかしそこは一面のガスで、憧れの逆摩周には(表摩周からは、摩周岳は向かって右側にみえ、裏摩周からは左側に見えるはずだった。)遂にまみえることは出来なかった。
清里をぬけ、今度は観光客でごった返す知床で昼食をとり、国後を左に見ながら野付半島をめぐり、一転内陸にはいり森の直線道路をアップダウンし開陽台にいたった。羅臼岳はガスの中、野付は寒風の中、そして開陽台は雨の中であった。かつてバイクで訪問した開陽台はトーチカのような廃屋とライダー達のテントが風の中に佇む地の果てで、その地平線の眺望は彼らだけのものであった。いまや、観光バスがとまり、売店に喫茶店までが整備されていた。軽装のアベックや若い女性のグループが展望台を行き来していた。
ライダーだった学生時代の思い出の地は、いま秘境ではなく観光地として立派に整備されていたのだ。私は、隔世の感という浦島効果のなかで呆然としていた。家族に観光ポイントの絶景をみせられず、落胆を隠せないうえに(そこにあるべき絶景を見たことのない家族は、判断基準がないので落胆もしない)、さらに私を襲った不幸だった。映画『サルの惑星』で、船長が最後に海岸に半身を埋めた自由の女神をみつけて、そこが地球だったことに気づき愕然とする場面に似ていたかもしれない。地平線を探すために歩み寄った開陽台の売店の窓。ガラスを伝わる雨の滴をみながら、私は『店の名はライフ(中島みゆき)』をつぶやくように心の中で歌っていた。(古い歌です。文脈から想像して下さい。)それでも、昔と同じように雨と風の中にライダー達のテントはゆれていた。私は生後2カ月の長女をしっかりと抱えてガラスのこちら側にいる自分に気が付いた。
ガイドブック片手に一応の観光を楽しむ妻。車の後部座席にひっくり返ってポケモンのことばかり考えている長男。妻の膝でいまだ哺乳動物の長女。そして、途方に暮れてハンドルを握る私、、、。天気も景色も思い出もこんなはずではなかったのだ。旅はまだ半ばであったが、私はだれに言うともなくつぶやいた。
『今度は晴れているときに来ようね。』
(1997/09/26記す) |