いわゆる、脳死患者の臓器提供および移植医療がこの数日の話題である。
考えなければならいないこと、整理しなければならない問題点は山ほどあるが、
今日の論点は、
『患者のプライバシーと移植医療の透明性』の問題である。
今回の高知の症例について、まずは、脳死判定の件で一晩もめたのは
ご記憶の通りである。一言で言えば、
臨床的脳死と定められた手続き上の脳死判定が当初食い違ったための足踏みだ。
その前後、マスコミはこれらの事実を淡々としかし執拗に報道し
患者家族はプライバシー確保の意味で、マスコミに反省を求めた。
これをマスコミは『患者のプライバシーと移植医療の透明性』の両立の問題と称して伝えていた。
かような問題は、臓器が摘出されてしまい、世間の?注目が移植医療の成り行きに
すなわち、大阪大学や信州大学に移った段階では、かすんだ問題かもしれませんが、、、
移植医療における脳死の扱いについては、曲がりなりにも法律が制定されている。
臓器移植法、脳死を人の死と位置づけるにおける、あの変則的解釈だ。
(ここではその法律の是非は問題にしない。悪法も法であるといった哲学者の時代から
法は尊重されるべき、世の中の決まり事なのだから、、、
あれを悪法だといっているわけではない、重ねて念のため)
その法律の上に、脳死から移植に至る手続きが検討され、手続きが決められ公表され、
1年4ヶ月の歳月が流れての今日この日であった。
もちろん和田移植の不透明さに30年の苦汁をなめた、移植畑の医療関係者が注意深く定めた手続きである。
私の目に奇異に映ったのは、この1年4ヶ月大して騒がなかったマスコミが、
総論ではなく、今回のこの患者のプライバシーを報道することを移植医療の透明性との
両天秤に載せることを臆面もなく主張したことだった。
1年4ヶ月の間に手続きの不備や、透明性への懸念があれば、
問題点を整理して報道しておくべきなのであって、
それが出来なかったとするのは単なる怠慢の棚上げだろう。
それら手続きがある程度妥当だとすれば、これだけマスコミのうるさい時代に
30年前のような不透明なやり方は通用しまいと思うのだ。
それでも、問題があったなら、事実を積み上げてドキュメンタリーとしてきちんと構成して伝えるべきなのだ。
(ドキュメンタリーならば、それを速報でないとするマスコミはまずないだろう。
後述するように速報は現代マスコミのお家芸だ。)
ニュース番組の中継枠の中や、ワイドショーの枠の中で、
出てきた事実をリアルタイムに(言い換えれば、たれ流し的に)報道することにどんな価値があるのだろう?
(現場からとか、ライブというのはCNNの湾岸戦争報道以来の悪しき方法論のように思える。)
こんな場合に、すなわち各論において、知りえた事実のうち、何をどのように伝えるか、、
という手順を決めておいてしかるべきだったのではないか。
少なくとも、その段階ではじめて
『患者のプライバシーと移植医療の透明性』は両天秤にかけうる次元の物となるのではないか。
そもそも、もしも、そういう手順がマスコミ側にあったのなら、
『患者のプライバシーと移植医療の透明性』を両天秤にかけるなどという問題提起の発想は出てこないだろうし。
あまり推敲せずに言いたいことを書いた。
地域振興券の時のように、お叱りも向きもあろうかと思う。
正論なる抗議はそのまま当HPに掲載させていただくことにする。
最後に、私はこれを一市民として書いた。
腹部外科医ではあるけれども。
(1999/02/28記す) |