先日、高校の同窓会があった。
旧制中学以来の伝統校なので、その日、老若男女数百人の同窓生が集まった。
我が母校は、同窓会の運営当番を卒業年次で割り振る習慣があり、
今年は私の期が当番だった。
運営の中心となる実行委員は約1年前から、忙しい本業の合い間に準備作業を進めてくれた。実行委員は地元に残った人間の一部が、成り行きとボランティア精神で務めてくれたわけだが、伝統ゆえの無言の強制も働いたわけで、一方で同窓会への関わりを拒否する者もいる現状(その人達を責める気はありません)を考えると、手弁当のわりに相当にきつい仕事だったはずで、頭の下がる思いだ。改めて労をねぎらいたい。
私はと言うと、仕事柄、定期的な準備作業への参加は不可能だったので、資金調達を少し手伝い、あとは当日の労働力の提供に徹した。
その日、同期生は、南は台湾、北は稚内から60数名が参集した。
出不精な私などは卒業以来はじめて(18年ぶりに)諸氏に対面した始末で、マッスルとして労働提供(給仕)しながら、諸氏の活躍や消息を聞けたことは収穫だった。60数名というのは卒業同期の1/7ほどの人数だが、当日都合がつかなかった者も含め、我々は連帯感を深めあった。
それはそれで、すばらしい機会だった。
ところで、、腑に落ちない点もいくつかありました。
関わった範囲については口を出す権利があるものとして、以下に一つ書かせていただきます。
それは、資金のことだ。出席者は会券を購入し(会費を支払い)同窓会懇親会に臨むわけだが、会券収入では大懇親会の費用の半分も賄えないのだ。理想的には(民間のイベント会社だとすれば)会券収入で運営費を含めた全コストを賄うべきなのだが、、、、懇親会費用の不足分や運営費などは当番期の責任において賄われる『伝統』で、それ故に、政治家のように??パーティ券を無理矢理ばらまき、また一部篤志の方に広告費等で協力を頂くことになる。
簡単に言うと、出席者は会費として支払ったいただいた金額以上の飲食をしているという『伝統』らしい。バブリーな話だ。
さらに、篤志家の協力でも不足であれば、当番期が工面する『伝統』らしい。バカげた話だ。(税制上はうまくやっているのだろうか?余計な心配までしてしまう。)
当番期たる我々は、小学生以下の子供をかかえ、また仕事においてはやっと中堅と言われ始める世代で、責任は重くなってきているわりに、裕福とは言えない世代だ。
学閥も地縁も今や何の意味も持たないこのボーダレス時代に、同窓会の当番を引き受けること自体、篤志といっていい行為なのに、はっきり言って同期の親睦以外に何等メリットのないこの仕事に赤字を承知で取り組む人間が、来年からも連綿と出現し続けると考えるのは、時代錯誤も甚だしい。
(出席者の方々は、ほとんど見ず知らずの我々から、バブリーなもてなしを受けるわけだが、こんな事考えないのでしょうね。自分たちも通ってきた道だから当然と思っているのかもしれません。でもそれは、経済的に崩壊寸前の社会保障制度に安穏とする日本の現状をよしとするのと同程度に無責任or歪んでいます。我々は十分な保障などうけられるはずもないと知りつつ、年金の支出をしているのですよ。)
自分の収入で払いきれない贅沢をしている人間がやがて自己破産の道をたどるように、このような悪しき『伝統』はいつか破綻する。贅沢したいなら相応の負担をすべきなのだ。同窓会懇親会に関していうなら、質素な会が嫌なら、会費は5000円ではなく、1万円超であるべきで、個人として払いたくないのなら、長年積み立ててあるはずの同窓会基金から一括して不足金を援助すべきなのだ。そして、同窓会基金が底をつく遠い将来、こんなバブリーな懇親会は自然消滅すべきなのだ。(新人類が当番の引き受けを拒否して、懇親会が運営できなくなる方が先かもしれない、、。)
とにかく、経営構造の改善が必要なのだ。
当番期がドバーっと負担せずに済む道が必要なのだ。
あること、あること書いて実行委員に迷惑になるといけないのでこのへんにしましょう。
今回は内輪の話で申し訳ありませんでした。でも、同窓生は全世界に1万人以上いるはずなのです。。。その方々からのmail待ってます。事実と違う部分は訂正しますし、ご意見ならこのHPに転載させていただきます。
(1999/08/04記す) |