1 子は思いを胸に暴走、親は止めれない。
私の最初の海外旅行は、アメリカのバラ会社への就職でした。まだ、そのころは、格安チケットも手に入らず正規の運賃だけで持ち出し外貨も$500(1㌦360円)でした。 NEW YORKのJFK空港に、まだ、日の高いころに着くように計画を練りました。
そうすると、日本航空では見つからず、PAN AMERICAN大阪発午後1時、東京、アンカレッジ経由、JFK着午後3時の便が有りました(希望としては12時頃着の便でしたが仕方有りません)少し不安があるけれど、決めました。1月27日に出発し、2月より仕事開始!よし!これで準備万端!いざアメリカへ!・・・・と意気込む気持ちの裏には大きな大きな不安の塊が日に日に硬く巨大なものになっていくのでした。その不安を少しでも和らげようとしましたが、その方法は見つからずただ『サイは投げられた!』・・・もう、行くしかない!
親父が大阪空港の見送りデッキまで来ましたが、片岡ー岡山駅までの40分、岡山駅の列車待ち、岡山ー大阪の3時間お互い家から殆ど口も聞かず、親父は煙草を吸い続けていたことを思い出します。今思えば一人息子の今生の別れになるかもしれない旅立ちでした。母親の方は、大阪空港で見送りをすることに耐えられなかったのでしょう、近くの備前片岡駅までの見送りしかできませんでした。
当時親父は60歳少し手前、、体力の衰えも感じていた頃。、この先、あの病弱だった息子が見知らぬ土地で働き、生活することに期待以上に危惧する気持ちのどんなに大きかったことか! 当時アメリカはベトナム戦争の真っ只中で、アメリカの若者もいつ徴兵が来るか解らない状態でした。
事実アメりカで後日友達になった若者はベトナム戦争へと送られました。そんな中で彼らは虚しくただただ退廃的な生き方しか見つけられず、輝きを失った目で社会を見つめていたような時代でした。
日本で何の苦労も無く育った息子が一人で知人も居ないNY、言葉も通じないアメリカへと旅立つ・・・姉から20年ほど後に聞いたことですが、「よ~行ったな~!」としみじみと言っていたそうです。
私は未熟児で生まれ何日も生死の境をさ迷い、虚弱体質で小学校も休みがちな子供でした。そんな息子が成長するにつれ、病気に絶縁状を叩き付けるほど強靭な体力を身につけ、何とか一人前の男に育ってくれて安心していた矢先に「俺は大学よりもアメリカにバラの勉強に行く!!」の突然の宣言! 一人で神戸の三宮にあるアメリカ領事館にビザを貰いに行き取得して帰って来る。
これまで自分の掌の中で育っていた息子が大人の階段を上り始め、思いもしなかった決断を下し、巣立ち飛び立つ!どうにも止まらない、リンダ状態でした(山本リンダの歌)。 あの日・・・・・何も語らず見送ってくれた親父の声に出せなかった言葉「しっかりやって来いよ!」と同時に「行ってしまうんじゃな~~~」という声が時を経て聞こえてきたような気がしました。
********続く 2 *********
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