私は「これ」でそばにはまりました

 私は関西地方の出身で子供の頃からそばというものを食べた記憶がなく、40才を越えるまで、そばをうまいと思ったことがありませんでした。こんな私が手打ちそばにはまるんですから人生はおもしろいですね。

 きっかけは簡単です。ある日ごちそうになったそばがあまりにもうまかったからなんです。福島県の南会津地方に湯ノ花温泉というところがあります。そこの小さな民宿「紅葉館」でいただいた手打ちそば、これが私の人生に大きな影響を与えることになりました。

 後でわかったことは、そのそばが、地元産の粉を湯こねという方法で打った100%のそばであるということでした。一年後に再び紅葉館を訪れ、ご主人の星さんが手打ちされる現場を見せてもらいました。その打ち方はこの地方独特のもののようで、熱湯でこねた玉を野球のボール大に分け、一つづつ丸く延ばしていきます。そうすると50センチ位の円形になりますので、これを5、6枚重ねて、先の少し尖った普通の包丁の先の方で親指を駒板代わりにして切っていきます。

 文字では表現しにくいのですが、これが素晴らしく芸術的なんです。これも後でわかったことですが、切り方に特徴のあるこの方法は「裁ちそば」と呼ばれているそうです。元々薄めに延ばしたのを細く切っていきますので、出来上がったそばはかなり細いものになります。これをさっと茹でて出されるのですが、あまり固すぎず、そばの香りが口中一杯に広がる、素晴らしいそばに仕上がっています。

 蕎麦がこんなにうまいものっだったとは、というのがその瞬間の私の印象でした。

 この日以来、私はうどん派からそば派に180度改宗してしまいました。お昼には都内の有名店を食べ歩く生活が始まりました。食べ歩くうち、徐々に自分でうまいそばを打ちたいという気持ちが高まっていきましたが、きっかけに恵まれませんでした。そのきっかけを提供して下さったのが、当時の私の上司、滝実さん(現衆議院議員)でした。

 偶然、滝さんが自分でそばを打っていらっしゃることがわかったので、早速入門をお願いし、快く弟子にしていただきました。早くもその週の土曜日にはご自宅にお邪魔し、生まれて初めての手打ちそばに挑戦しました。水が少な目でかなり硬い玉になりましたが、どうにかこうにかそばらしいものにすることができました。早速試食させていただきましたが、想像以上に美味でした。

 すっかりそばに魅せられてしまった私は、その帰り道に渋谷の東急ハンズに立ち寄りました。ここなら何か道具らしいものが入手できるのではと考えたのです。麺棒がありました。あったあったと思ってふっと上を見たら、そば粉まで売っていました。当然ながら両方とも購入しました。

 翌日、「さあ今日のお昼は手打ちそばだぞ」と家族に宣言し、朝から取りかかりました。しかし、意気込みとは裏腹に、出来上がったそばは、長さ2〜3pでとてもそばとは言えない代物でした。それでも家族はみんな「おいしいおいしい」と言いながら食べてくれました。本当に家族はありがたいものです。

 ただ私としては、悔しくて仕方がありませんでした。家族からもいたわられているようで、ありがたいとは思いながらも、面白くありません。「必ず本物のそばをこの手で打って、家族に食べさせるぞ」 うまく行かなかったことで、私はそばの世界にのめり込むことになります。

 その日以来、ほぼ一年間にわたって私は週末には必ずそばを打って家族に食べさせました。はじめこそうまいと言っていた子供の中には、「またそばぁ?」という者も現れましたが、概して好評で、我慢して食べ続けてくれた家族のおかげで、徐々に上達し、板倉庵の亭主が誕生しました。

 師匠は滝さんだけ。後は参考書と首っ引きで自習をしました。そばの参考書に限らず、ゴルフのレッスン書でもそうですが、しばらくして読み返すとまったく別の本を読んでいるかのような新しい発見があります。読み手の上達程度によって、書かれていることを理解する能力が全く異なっていることが良くわかります。

 そんなわけで私のそば打ちは、我流に近いものですが、二度ばかり翁の高橋さんの蕎麦打ちをこの目で見る機会に恵まれました。翁は、元東京の目白で開業していた有名な手打ちそば屋さんで、その後、うまい空気と水を求めて山梨県に移ったお店です。その感想文はメニューに載せていますが、やはり圧倒されるものでした。今の私のそば打ちに大きな影響を与えています。本物を見ることも大切なこととつくづく思います。

 私は「そばが嫌いな人はうまいそばを食べたことがない人である」と、今は、信じています。過去の私自身がそうであったように。今の日本人は、安価な大量生産機械打ちのそばに慣らされ過ぎて本当のそばがどれほど旨いものかすっかり忘れてしまっています。

 道具は、浅草の合羽橋で順次入手しました。そばを始めて以来、休みの日にぶらつく所が秋葉原から合羽橋に変わってしまいました。新しい趣味が出来て楽しいのは、それまで全く意味のなかった書物や場所が突然天然色に輝き始めることです。また自分の世界が広がった、そんな幸せを感じます。最初に買った安いそば切り包丁は、一ヶ月後に本格的なものに買い換える羽目になりました。安物買いの銭失いとはこのことです。
 
 一応道具がそろえば、次はそば粉です。不出来なそばを打った翌週の土曜日、早く入手したい一心でNTTのイエローページを開きました。何軒か電話しましたが、すぐに売ってくれるところはなかなかありません。そのうちついにたどり着いたのが、「霧下そば本家」(03−3617−4197) 。早速、車で墨田区文花へ。特選石臼挽き粉と打ち粉を分けてもらい、その日からそば修行が始まりました。たまたま行き着いた粉屋さんでしたが、ここは都内の有名店にもたくさん粉を入れているそば粉の有名店。ここの特選粉は、打ちやすく味も抜群で季節による質のばらつきも少ないなど、その後たくさんの粉屋さんから購入しましたが、質的に霧下そばを凌駕する粉はありませんでした。結果的に今でもそば粉の大半はここから購入しています。

 毎週末のそば打ちが習慣になりましたが、家族全員で腹一杯食べても1キロ打てば余ってしまいます。500グラムの玉でも二つ、1キロの玉なら一回しか打てません。これではなかなか練習になりません。せっかく打った手打ちそばです。捨てる気にはなりません。そこで、食べてくれる人捜しが当座の課題になりました。とりあえずは、親戚中に配り歩くことになりました。
 このように大勢の方々の善意で私の蕎麦の腕は徐々に上達していったのです。自画自賛になりますが、私は子供の頃から手先が器用といわれていました。もっとも、言ったのは家族です。中でも私の祖母は、「お前は手先が器用だから。」と何度も何度も言ってくれました。おかげで、俺は手先が器用なんだと勝手に信じ込む事ができました。子育てには大切なことかな、と最近になって思うようになりました。これは、余談です。

 手打ちそばを人に教えるようになって思うのは、やはり少しは器用な方が上達が早いということです。さらに、単に器用なだけでなく、物事に打ち込むタイプの人が上達します。ただ、不器用な人でも、焦らず、確実にゆっくりやっていけば必ず上達します。俺は不器用だから、と思っている方も諦めないで下さい。女の子が大工を志す、そんなNHKドラマがありましたね。その中で、主人公の女性が、「不器用だから、、、」というと、「不器用な方が上達するんだ。」と棟梁のような方が言っていました。『そういうこともあるんだな』と妙に記憶に残っています。

 色々なところに伺っていますこの文章を書き始めたときは、確か私は、46歳。今は51歳。もうすぐ52歳になるところです。(平成13年10月21日現在)その後の5年間も私はそばを打ち続けています。その間、職場も北九州から、東京に変わりました。東京は仲間の出来にくい所ですが、ぼちぼち仲間も出来てきました。仲間を広げる目的で始めた「出張そば打ち教室」も結構好評をいただき、色々なところに伺っています。まだまだ未熟ですが、これからもそば打ちを続けていこうと思っています。

 最近、麺棒を自作するというとんでもない事にはまりかけています。本当にまん丸で、真っ直ぐな麺棒はなかなか出来ませんが、結構面白いものですよ。
 
 

 (続く)