目次
T.言葉の限界
U.語義について
V.各々の翻訳論
W.翻訳を始めるにあたって
a) 基本条件
1.相手国の歴史・文化・産業に関する知識のあること
2.原語の辞書・文献を読解できる能力
3.各分野別の一通りの日露双方の専門書を揃えること
4.ロシアで出版された辞書は可能な限り入手すること
5.本腰を入れて翻訳するつもりであれば、ロシア語ワ‐プロは必需品。
b) 基本姿勢
1.仮に特定の読者が対象であるとしても、不特定の人間が読者であ
ることを前提に翻訳すること
2.英露・露英辞典を基本的使用すること
3.ロシアのアカデミ−出版の17巻ロシア国語辞典を使用すること
4.JIS用語を基本用語をすること(技術翻訳の場合)
5.口語体で翻訳しないこと
6.必要な場合、ロシア人にアドバイスを求めても、後に基本文献で
必ずチェックすること
7.うまい翻訳より、確実・厳密・正確な翻訳を行うこと
8.文法を中心に翻訳すること
9.へんに分かり易い翻訳にはしらないこと
10.ロシアの文献に存在しない言葉は使用しないこと
11.目的の単語が見つかる迄、徹底的に文献を調べること
12.多くの書物や、雑誌・新聞等に日常的に目を通すこと
13.現場・会社用語は、特に普遍性のある用語を除き使用しないこと
14.新語の使用はなるべく避けること
15.長文に翻訳することは避けること
16.使用した用語の出典は控えておくこと
17.誤訳は必ず発生するので、恐れず翻訳すること
X.実際のやり方
1.翻訳原稿を入手したら、先ずそれに関連する原語文献に一通り目を通すこと
2.関連文献の中の用語を必ず使用すること
3.露和辞典に載っている単語は、最終的に出口が無い場合のみ使用すること
4.双方向に翻訳できる単語を使用すること
5.翻訳結果のチェックは、必ず第三者にチェックを依頼すること
6.どうしても意味のとれない場合、翻訳依頼者と相談すること
7.コンテキストから強引に判断する
8.造語は避けること
Y.おわりに
T.言葉の限界
ある会合があっととします。その中の一人が「そこにに山がある
んですよ。高い山です」と述べたとします。それ以上何の説明も無か
ったとします。会合の各々は“自分の知っている山”を連想し、ある
者は郷里にある“山”でしょうし、ある者は先日山登りした時の“山”
でしょう。山頂の尖った“山”かもしれませんし、丸い“山”かもし
れません。各々具体的な“山”のはずです。各々、具体的な“山”を
脳裏に描きながら、話し手の話を聞いています。しかし、各々が思い
描いている“山”は全く異なるの存在物です。ある者にとって“山”
とは、海抜3千メ−トルの山でしょうし、又ある者にとって“山”と
は、家の裏にある“小山”かもしれません。これも、言葉で表現する
と、“山”の一字で片づけられてしまいます。もし、この“山”を具
体的に表現しますと、会話はスム−スに流れません。「そこに、海抜
1235メ−トル、正面の山頂部が西南xx度に傾き、山腹には、ブ
ナの原生林があり、山頂の大きさは直径100メ−トル、その位置は
東経xx度、北緯xx度、名称は“xx山”...の山があるんです
よ」と述べたら、この説明だけで時間がかかり、又地理学的に細かく
説明できる人は少数でしょうし、話の本題からそれてしまいます。従
って、こうした具体的内容を捨象したのが名詞の“山”です。会合出
席者各々の共通点として“まわりに比べて高くもりあがった土地”と
定義してしまいます。話の本題が“山”でない限り、この定義で十分
話は相互の間で疎通しているはずです。しかし、話の本題が“山”で
はないとはいえ、この“山”という言葉は“話の本題”を構成する一
要素でもあります。各要素を構成することにより、話は成立します。
話の基礎となる部分において、既に各人の間で異なる“具体的山”を
想像しているのです。
最初に「言葉は、そもそもそれ自体に限界をはらんでいます」と
述べましたが、言葉の意味を限定することにより、即ち概念化するこ
とにより、言葉の約束事が成立するわけです。つまり、概念化する方
法によってのみ、言葉は存在できますし、その機能を果たせるわけで
す。こうして抽象化することにより言葉は誕生するわけですけれど、
切り捨てられた具体的部分を補助するものが、形容詞、副詞等であり
ますし、修飾語であります。それでも完全に表現するこはできません
し、更に考慮すべきは、話し手(情報伝達者)と聞き手(受容者)と
の間にも、言葉の理解に関して大きな隔たりが存在しています。例え
ば、“丸い”山と言っても、どのように丸いのか、少々凸凹でも“丸
い”考えている人もいますし完璧に球形でないと“丸い”と考えてい
ない人との間には、理解に隔たりがあります。
言葉は、具体的内容を捨て、共通的なものを普遍化させている情
報伝達方法の一手段でありますから、それ自体に既に限界があるわけ
です。それ故に、言葉を行使して相手に理解を求める事は、情報発信
時点において既に限界を有しているわけです。
U.語義について
文章は複数の単語から構成されています。文章を読む時、知らな
い単語にぶつかると、誰しも辞書を引き、幾つもある意味から一つを
選択しているはずです。
しかし、どうしてもその単語では文章の意味が理解できなかったり、
どうもしっくりこないと感じることがしばしばあります。語学力の低
い人によく見られる傾向は、限られた数の単語の中、本人にとって最
適と思われる単語を文章に平気で押し込んでしまうことです。その結
果、ぎこちない訳文が出来上がるわけです。
語義はコンテキストにより決定されると言われます。これは和文
を作成する時と外国語を翻訳する時の違いです。和文を作成する場合、
普通の能力のある日本人であれば、語義をある程度適切に選択できる
はずです。ある程度と述べましたのは、勿論最適な言葉を選択できる
能力をさしているのではありません。日本語でも同義語は無数にある
からです。「一つの場所に当てはまる最も適した言葉は、唯一つしか
ない」と言われています。
ある程度適切な語義を選択して文章を作れば、ある程度適切な文
章内容にはなります。緻密に表現できているかは、別です。ところが
外国語に接する場合、原文を読みながら分からない単語を辞書で引く
わけです。それも和訳辞書を使うわけです。文脈をきちんと把握して
いなければなりません。文脈をきちんと把握できる能力が求められま
す。すると、自然とこの場所にはこうした語義の単語を入れなければ
ならないと、当然の結論が出てきます。和訳辞書を引いて、何らかの
単語を選択し、その文書に挿入してみます。それで意味が通らない場
合は、その語義が不適切であるからです。それでも、和訳辞書にはそ
の語義しか載っていないからと、無邪気にその単語を使用してはいけ
ません。ここで原語の辞書で調べてみることです。定評のある原語辞
書でありましたら、それなりの語義を探し出すことができるはずです。
和訳辞書は、原語辞書を翻訳編纂して作成したものです。原語辞書の
質を越えることはできません。
従って、語義は原語辞書と文のコンテキストにより決定されると
言えます。
V.各々の翻訳論
「欧文は唯だ読むと何でもないが、よく味わってみると、自ずか
ら一種の音調があって、声をだして読むと抑揚が整っている。即ち音
楽的である。・・・・いやしくも、外国文を翻訳しようとするからに
は、必ずその文調をも移さねばならぬと、これが自分が翻訳をするに
ついて、先ず形の上の標準とした一つであった。・・・・」(二葉亭
四迷:余が翻訳の標準)
「・・・わが国における翻訳の研究にあたっては、和訳辞書の検
討が重要なる意味を帯びることを特記しておきたい。ほとんだ大多数
の翻訳家が翻訳にあたって何等かの意味において和訳辞書を参考にす
るのは何人も否定できない事実であろう。翻訳において単語の語義の
解釈が何よりもいちばん重大であると思うとき、和訳辞書の良否が、
いかにわが国の翻訳文学の価値を左右するか・・・。元来辞書という
ものは、多くの海外の作家の優れた翻訳が発表されたあとで、それら
の翻訳を参考にして編纂されるのがとうぜんの順序であり、また最も
願わしいことである。しかし、わが国においてはその順序が全く逆に
なっている。辞書はまず言葉のジェニ−に鈍感な外国語の教師によっ
て作られる。従って、・・・・原語の語義を著しく曖昧に拡張するこ
とがしばしばである。原語の辞書を使用する能力も便宜ももたない翻
訳家がそれらの辞書によって翻訳する場合を想像するならば、何人も
戦慄を禁じ得ないであろう。・・・・」(河盛好蔵:翻訳論)
「・・・ついでながら一頃日本で非常に流行った「忠実な逐語訳に
よった」という断り書が、ほとんどすべてといっていいくらい、語学
力の欠陥をごまかすための遁辞であったり、原文の特異性を生かすど
ころか、正しい意味では翻訳ですらなかったということも想起してほ
しい」(中野好夫:翻訳論ノ−ト)
「・・・翻訳者の資格ということが問題になる。翻訳者は、まず、
翻訳すべき作品を十分にその書かれてある国語で理解し鑑賞し得る能
力の所有者であらねばならぬ。・・・・・自覚ある、すぐれた翻訳者
について見ると、その態度は自然に二つに分かれ、一つは、何よりも
原作者を重視し、飽くまで原作に忠実であろうとするものと、今一つ
は、反対に、読者を重視して、読者の理解と趣味を目標にしようとす
るものと、・・・・いわゆる受容的態度と適合的態度である。・・・
しかし、想像し得るかぎりの最上の翻訳者は、この二つの態度を併せ
持ち、・・・・・」(野上豊一郎:翻訳の態度)
「・・・異を樹てようとするな、と云うことに帰着するのでありま
す。それをもう少し詳しく、箇条書きにて申しますと、
1.分り易い語を選ぶこと、
2.成るべく昔から使い馴れた古語を選
ぶこと
3.適当な古語が見つからない時に、新語を使うようにすること、
4.古語も新語も見つからない時でも、造語、−自分で勝手に新奇な言葉
を拵えることは慎むべきこと、
5.拠り所のある言葉でも、耳遠い、むづかしい成語よりは、耳馴れた外
来語や俗語の方を選ぶこと・・・・」(谷崎潤一郎:文章読本)
上記に若干の翻訳に関する書から抜粋して、紹介してみました。
更に優れた翻訳に関する書は多くあります。翻訳に従事する者や、翻
訳者を志そうとする者は、機会があれば、否や機会を必ず見つけて、
各々の優秀な翻訳論の一読は必要かと思います。上記に掲げた抜粋を
要約してみますと、翻訳にあたって次のような事が言えます:
1.文調・音調を汲み取ること;
2.辞書の質の良否が翻訳の質を決定づける;
3.原語辞書の読解力;
4.相手の国語理解の堪能者であること;
5.逐次翻訳は避けること;
6.造語は慎むこと;
更にこれも上記と同等に重要であるもとして、
7.日本語、日本文化の十分な理解者であること。
W.翻訳を始めるにあたって
翻訳の対象には、大きく分けて二種類あります。一つは実用文で
す。もう一つは芸術文です。実用文とは商業や工業に関係する文章の
ことです。芸術文は小説や、演劇等に使われる文章のことです。しか
し、この境目は本当のところはっきり確定できるものでもありません。
芸術表現においても、実用文のやり方で書いた方が的確にニュアンス
を伝えることができる場合もありますし、商業・工業の文章でも、芸
術文の装飾的用法を使った方が目的を達成できる場合もあります。
そう考えてみますと、上記に述べました基本精神はどちらの文章
の翻訳にも当てはまると言えます。翻訳を行う基本精神は同じでも、
細かい点になると各々の具体的方法論が異なってきます。
以下具体的方法論を若干重複しますが述べてみます。
a)基本条件:
1.相手国の歴史・文化・産業に関する知識のあること:
翻訳する相手の国が如何なる国か知っている必要があります。民
族構成、各々のの民族の歴史、文化、気質等を予め、又は全てのプロ
セスの中で概ね理解しておくことです。これは、基礎の中の基礎知識
です。文献はどこでも入手できますので、その気さえあれば、簡単に
身に付く知識です。翻訳に限らず、文化交流、経済交流、外国とつき
あう場合の基本です。
2.原語の辞書・文献を読解できる能力:
翻訳をきちんとこなせる能力のことです。勿論、翻訳する原文を
読解できる能力は必要ですが、これだけでは不十分です。ロシアの国
語辞書を自由に使いこなせること。日本で出版されている露和、日露
辞典は参考程度にし、ロシアで出版されているロシア語国語辞典を使
いこなすことです。翻訳原文に関連するする原語文献を読めることも
必要です。国語辞典は日本語の国語辞典と同様、細かい専門分野には
及んではいません。
2.各分野別の一通りの日露双方の専門書を揃えること:
ロシアの大百科事典(30巻)を用意すること。専門別百科事典
を用意すること。専門の範囲は広いので、最初は得意の分野に絞り込
んで、それに関する辞書類、専門書類を揃えること;
3.ロシアで出版された辞書は可能な限り入手すること:
専門辞書リストを作り、重複しないようにこまめに集める。最低
でも100冊程度は必要。
4.本腰を入れて翻訳するつもりであれば、ロシア語ワ‐プロは必需
品。モデム、FAXを含め最新のものを用意すること。ひと昔前であ
れば、手書き翻訳が主流でしたでしょうが、現在では手書きでは用を
足せません。情報伝達量、速度は飛躍的に増大しています。
b)基本姿勢:
1.仮に特定の読者が対象であるとしても、不特定の人間が読者であるこ
とを前提に翻訳すること:
読み手が限られている場合でも、常に不特定多数の人間を読者と
想定して翻訳するほうが後々の問題に対処できます。翻訳は文字を扱
う作業ですので、記録性があります。その時の仕事では、打ち合わせ
したスタッフ同士で用語の取り決めをしておいても、何年か経過しま
すと、その取り決めは風化し、全くの第三者が読んでしまうことがあ
ります。ここでとやかく言われると、うまく弁解できません。記録さ
れた翻訳文章はもうりっぱな一人前として扱われてしまうからです。
これこれこういう事情がありましてと説明しても、相手は本人の語学
能力に猜疑心を抱いてしまいます。
2.英露・露英辞典を基本的使用すること:
最近は優れた露和辞典が出版されたいますが、それでも英露・露
英辞典には未だかないません;
3.ロシアのアカデミ−出版の17巻ロシア国語辞典を使用すること:
ロシア語の基本単語はほぼ完璧にこの大事典に載っています。露
和辞典の多くはこの大事典を参考に作成されています;
4.JIS用語を基本用語をすること(技術翻訳の場合);
技術翻訳の場合、企業単位、工場単位で現場用語が多く使われて
いますが、この場合でも、規格としてのJIS用語を使い、普遍性を
持たせておくことが大事です;
5.口語体で翻訳しないこと:
戯曲等のセリフの箇所では、当然口語体になるでしょうが、特に
実用文では然るべき文体で翻訳する必要があります。それと、文章を
書くという事は、日常我々が喋っている通りに書けば、うまく意志を
伝達できるわけではありません。喋る場合、話し手の声色、言葉の調
子、目つき、身ぶり、手真似等が直接聞き手に伝わっていますが、喋
るとおりに文章を書いても、文章の中にこの要素は反映されません。
文章はそういうところを、文字の使い方、単語の順序、句読点の打つ
位置等により補って表現しなければなりません。
6.必要な場合、ロシア人にアドバイスを求めても後に基本文献で必ずチ
ェックすること:
となりの机に座っている日本人に、「この漢字の意味分かります
か」と質問すると、すぐ答えてくれる日本人もいれば、「え−と、・・
わからん」と言う人もいます。まして専門の分野では、日本人の間で
も、その専門の知識がないとよく分かりません。ところが外国人万能
論者がけっこういます。例えば、分からないとすぐロシア人に聞いて
くる人がいます。それで事足りたとする人間のことです。ロシア人も
上で述べたように、分かる単語もあれば、知らない単語もあるわけで
す。ネイテイブ・チェッカ−を利用する場合、この点を留意すること
です。ロシア人が目を通したからといって、正確に翻訳できている保
証はありません。
7.うまい翻訳より、確実・厳密・正確な翻訳を行うこと:
これは主に実用文に関係します。何をもって厳密と定義できるか
というと、とたんに難しくなってしまいます。和訳辞書に載っている
単語をそのまま利用しても、厳密とは勿論言うことはできません。一
つは質の高い辞書を使うことでしょうし、一つは翻訳分野の知識を十
分用意することでしょう。文章の意味を十分理解して、単純に直訳せ
ず、的確な専門用語を使い、文書全体を簡潔に仕上げることです。的
確な表現(専門用語)を知らないと文章は冗漫になります。くどくど
と説明するような文章になり、何を言おうとしているのか読者にとっ
てよく分からなくなってしまいます。
8.文法を中心に翻訳すること:
和訳する場合、先ず原文の文法構成に注目し、言葉と言葉の関係
を正確に把握します。その後で意味の解釈に入ります。さて、文法と
文の意味が矛盾する時があります。文法に従う意味と、文脈から判断
する意味が食い違う場合、どちらを優先するのが正しいのか、判断を
迷うところです。原文内容の傾向を分析してみます。原著者の文章力
が確かの場合、再度文法に従い、意味をおってみます。語義の選定に
誤りがある場合がしばしばあります。それでも、意味が通じない時は、
文脈から判断する他仕方ないがありません。一方、露訳の場合、しっ
かりした文法知識に基づき、文章の骨組みを作っておくことが必要で
す。この(外国語に翻訳する)場合、十分な文法知識がないと、もう
話になりません。先ず文体を覚えることです。手紙を書くときの文体、
法律関係文の文体、経済関係文の文体、技術関係文の文体等々を多く
の分野別に各々似通ったところもありますし、共通しているところも
ありますが、各文献をよく読んで覚えることです。更に文学・芸術関
係文の文体もあります。
この分野の文体の範囲は広くここでは比較考察することはできま
せん。
例えば、手紙を書くときの文体と言っても、実用の手紙と私信と
では文体が異なります。ここではこれは省略します。
各々の分野の文体を思い浮かべながら、必要な単語を入れて翻訳
文章を完成させます。
9.へんに分かり易い翻訳にはしらないこと:
分かり易い翻訳はよくできた翻訳ですけれど、それにも限界があ
ります。原文のニュアンスを破壊してまでも、分かり易くしてはいけ
ません。咀嚼し過ぎとなり、既に誤訳になっている場合があります。
特に初学者の場合、この事は禁物です。未だ翻訳できる能力は完成し
ていませんが、どうしても翻訳する必要がある場合、直訳をすすめま
す。大きな誤訳を防ぐ方法です。
10.ロシアの文献に存在しない言葉は使用しないこと:
日常会話で使われている言葉をそのまま文章で使用してはいけま
せん。新聞、雑誌、専門書等の文献で必ずその言葉の存在を確認する
ことが必要です。一般に公刊されている文献で用いられている言葉に
は普遍性があると考えて間違いないでしょう。文献にあるから、直ち
に普遍性があると断定はできませんが少なくとも会話で出てきた単語
より確かなものでしょう。会話は狭い範囲を対象に成立するものです。
11.目的の単語が見つかる迄、徹底的に文献を調べること:
いくら辞書をひいても目的の単語を見つからない場合、そこであ
きらめず、英語やラテン語系の読みにしてみるとか、辞書以外の文献、
専門書に目を通し見つけるように努めることです。だいたい見つかる
ものです。
12.多くの書物や、雑誌・新聞等に日常的に目を通すこと:
翻訳の質を決定する最大の要素の一つは、知識量です。よく言語
学者や文法学者が他人の翻訳の誤りを指摘しますが、誤りを指摘した
言語学者や文法学者に一度翻訳させてみるとよろしいかと思います。
たいがい、ろくな翻訳になりません。それは翻訳に関して心得違いし
ているからです。どれほど文法知識があっても、翻訳はできません。
文の関係、法則に関しては知識はあるのでしょうけれど、文の調子、
言葉の意味に関して無頓着の人には、味わいのあるニュアンスの翻訳
はできません。前にも述べましたように、翻訳は辞書にある単語を機
械的に、無味乾燥に文章に押し込む作業ではありません。
ある文化を他の文化へ置き換える作業です。日本の文化をよく知
り、又外国の文化のことをよく知っていることが重要なのです。日本
の古典小説もろくに読んでいない人には、翻訳は不可能です。「先生、
あの日本の小説の・・・あの部分、どういう意味ですか」と質問して
みて、うまくこたえられない先生には翻訳能力がないと言っても過言
ではありません。即ち、自国の国語を愛さない人間には、他国の文化
を受容する能力はありません。
13.現場・会社用語は、特に普遍性のある用語を除き、使用しないこと:
社会は、幾つもの集団、グル−プで生活しています。各々の集団・
グル−プでは、生活・仕事をスム−スに行う為に固有の言葉を知らず々
に使っているものです。しかし、その言葉が他の集団・グル−プで通
用するとは限りません。したがって、翻訳文でそうした言葉を使用す
ることは慎んだほうが無難です。
14.新語の使用はなるべく避けること;
日常会話に出現した新しい言葉を翻訳文に使わないことです。な
るべく使い古された従来から馴染みのある言葉を使うほうが、読者に
戸惑いを与えないでしょう。新語には普遍性がありませんので、その
言葉を読んでも何のことか理解できない人が多くいます。言葉は多く
の人に理解できるものでなければなりません。今日ロシアでは新しい
文化が外国から入ってきていますので、外来語や新語が多く氾濫して
います。だからといって、古くからある言葉で表現できないわけでは
ありません。言葉は多くの人とのコミュニケ−ションをはかる道具で
ありますので、なるべく簡潔で馴染みのある言葉のほうがその役割を
果たせるのです。
15.長文に翻訳することは避けること:
これは翻訳に限ったことではありませんが、文章は簡潔に書くこ
とが読者にとって分かりやすいのです。
16.使用した用語の出典は控えておくこと:
手間のかかる作業かもしれませんが、翻訳に使用した言葉に根拠
を与える為に必要です。それと、翻訳者自身にとっても後々役にたつ
はずです。どの文献から引用したか記録しておくと、誤訳した場合で
もその原因を探し出すのが簡単でしょうし、将来同様の翻訳を行う場
合便利です。
17.誤訳は必ず発生するので、恐れず翻訳すること:
誤訳は間違いなく発生します。誰がやっても必ず誤訳は含まれて
いるものです。これまで述べたことから、判断していただければ、完
璧無瑕疵の翻訳が存在しないことは理解できるはずです。如何に誤訳
を最小限にくい止めるかが問題です。十分な文法知識、専門知識、そ
れと相手国の文化に精通していることが誤訳を最小限に抑える要素に
なります。それでも誤訳は避けられません。
X.実際のやり方:
ここでは実用文(工業・商業関係)の翻訳の実践的分野に限って述
べてみます。
1.翻訳原稿を入手したら、先ずそれに関連する原語文献に一通り目を通
すこと;
原則的に翻訳に入る前に、原文を初めから終わりまで読んで大意
を掴み、知らない単語が出てきたら赤ペンでチェックしておきます。
原文に最後迄目を通さずに、頭から訳してはいけません。何故かと申
しますと、作者が何を言おうとしているのかを予め知っておく必要が
あるからです。それを理解しないで、逐一単語をおって、その言葉を
翻訳しても、全体の流れを理解していないものですから、自ずと語義
の選定が適切でなくなってしますからです。
2.関連文献の中の用語を必ず使用すること:
これは特に露訳に関係することですが、言葉には名詞もあり、形
容詞、副詞、動詞もありますし、その他いろいろな品詞があります。
例えば、“権利”という日本語があります。これはロシア語では“п
раво”です。たぶん日本文では、権利を行使するとか、権利を失
う等々の表現があります。こうした時は、原語の法律百科辞典を引い
てみることです。
そうすると、“право”に関係する動詞とか、副詞、その他
の言葉が一通り出てきます。そこに出てくる言葉を使用すれば、かな
り正確な翻訳表現がロシア語でできるはずです。一つの単語の意味だ
けを辞書で調べて、後は自分の知っている単語を使用すると、どこか
おかしな翻訳文になってしまいます。
3.露和辞典に載っている単語は、最終的に出口が無い場合のみ使用する
こと:
露和辞典に載っている語義はあくまでも参考として、原語辞書を
基本的に利用することが肝要です。
4.双方向に翻訳できる単語を使用すること:
強い経済力のある国の文化が低い経済力の国に輸出されることは
一般原則であります。日本や欧米の文化がロシアに普及するすること
はあっても、その逆はなかなか成立しにくい条件をもっています。ソ
連時代にはそこそこの経済力、工業力を保有していたソ連が崩壊し、
その経済力が急激に低下してしまうと、ロシアの文化は日本に入り難
くなります。その顕著の例がロシア語学習者数の減少です。その反対
にロシア人の中に日本語学者の数が増えています。経済力があれば高
い文化を享受できますし、又高度の文化の中には高い経済力を確保す
る要素を多く含んでいるわけです。
日米関係をちょっと見てみますと、戦後経済力の低い日本にアメ
リカの文化が大量に入ってきました。今日では座卓など使い人はほん
の少数になり、ほとんどの日本人は縦型の机ですし、椅子を利用して
生活しています。このようにアメリカと日本の間の生活文化に以前ほ
ど開きがなくなりますと、翻訳においても双方向に翻訳できる可能性
がでてきます。しかし、ロシアと日本ではそうはいきません。文化の
交流も経済の交流も未だ々限られています。
文学の翻訳の分野では、双方向など無視して当然ですが、こう
した意志の疎通を第一とする実用の分野では、一方向の翻訳では誤解
を招く結果が生まれる可能性があります。
例:都市−город、город−都市;
諸問題−вопросы、вопросы−諸問題;
勿論、これには限界があることは自明のことですが、可能な限
る双方向に翻訳できるように努めることです。さもなければ、文化の
相違を拠り所として、可能な分野の言葉も無神経に語義を曖昧にして
適用してしまうからです。
5.翻訳結果のチェックは、必ず第三者にチェックを依頼すること:
これは露訳でも和訳でも同じことが言えます。翻訳当事者はその
作業に没頭するものです。本人は完璧に翻訳できたと仮に思っても、
第三者の冷静な目でみますと、思わぬ所に誤訳が潜んでいるものです。
6.どうしても意味のとれない場合、翻訳依頼者と相談すること:
文法上問題がない場合、想定されるのが先ず原文の誤り、新語・
造語、適切な訳語が手持ちの文献・辞書等に存在しないこと、その単
語自体が存在しないことですが、この場合、翻訳依頼者と相談しその
旨説明し、なんらかの妥協案を模索することが必要です(特に職業翻
訳の場合);
7.コンテキストから強引に判断する:
文法上に問題なし、選定した語義に問題なし、それでも意味がと
れない場合、かなり危険性はあるが、コンテキストから強引に判断す
る以外に手はありません;
8.造語は避けること:
これは言うまでもありませんが、誰も知らない言葉を使ってはな
りません。前にも述べましたように、言葉は普遍性をもってその機能
を果たせるわけです。少々時間がかかっても今日存在する言葉で説明
すれば用は足せるはずです。
Y.おわりに
これまでいろいろとお話してきましたが、十分言い尽くせていな
かった部分や、もう少し究明する必要のある箇所もあり、完全に満足
しているわけではありません。しかし、大概のところには触れている
つもりです。翻訳という異文化に取りくむ作業に定式をあてはめるの
は、やはり至難の業であります。言葉は生きものですので、その調理
の仕方を誤ると、味も素気もない不味いものに仕上がってしまいます。
言葉は現実の中に生き、庶民の生活を反映し、文化の核を成すもので
あり、歴史と共に変遷する運命にあります。捉えどころのない言葉の
研究を今後更に発展させるつもりでいます。
翻訳例