ベスランのテロ事件はコ−カサスのバランスを破壊するかもしれない。オセチアとイング−シ間の古い紛争が再燃するおそれがある。この紛争のもとは前世紀まで遡る。革命の内戦当時、チェチェン人とイング−シ人(イスラム教徒)はボリシェヴィキ側についたが、キリスト教徒のオセチア人は白軍に加担した。このように過去の歴史を持ち出したのがイタリア紙「Corriere della Serra」。赤軍勝利後、共産主義思想に忠誠であったにもかかわらず、チェチェン人もイング−シ人も期待通りのものがもらえなかった。チェチェン人は約束した自由はもらえず、一方スタ−リンはイング−シ人より、ソ連権力のかつての敵オセチア人を贔屓した。そうしたことで第二次世界大戦時、この両回教徒はヒットラ−を歓迎した。その仕返しとして戦勝後ただちにチェチェン人とイング−シ人は家を追われ、中央アジアに移された。その後政権についたフルショフは彼らの帰郷を許した。ところが自分たちの家にイング−シ人はオセチア人が住んでいるのを見た。
1991年4月、ロシア政府はイング−シ人にはきわめて不満足な迫害民族の名誉回復法を制定した。それで彼らは失った土地を自力で取り戻そうとしたが、オセチア人は中央に援助を要請し、中央はイング−シ人の蜂起を鎮圧した。
「連邦政府は難民を定住地に戻すため、力も資金も時間も多く費やした」と「ニュ−スタイム」紙のインタビュ−で、北オセチア国営テレビ局社長、つい最近まで民族問題担当相セルゲイ・トボロフは発言。「そこで特に厄介だったのが、イング−シ人の再度の帰郷を許すよう、紛争時に被害にあったオセチアの農民を説得することだった」
地方自治体の代表者たちは紛争の再燃を懸念し、また共存するための道徳的・心理的環境が熟していないことを口実にして、この帰郷を事実上妨害した。ここ数年の間に状況は膠着状態から徐々動き出した。しかし今、この十二年間の活動成果がベスランに対するテロリストの襲撃で台無しになるおそれがある。
「最良の場合でも、和解プロセスの一時停止である」(金曜日夕、イング−シのインタ−ネットマスコミは、イング−シと国境を接する北オセチアの町チェルメンでイング−シ人が何人も拉致されたと報じた。後の明らかになったが、人質事件はいなかった。だが群集の喧嘩や刃傷沙汰が起きた)
ちなみにベスラン市はオセチアとイング−シのまさに“不和の種”となった近郊地帯の最もはずれにある。もしオセチアとイング−シの対立が再び活発な局面を迎えると、北オセチアの兄弟の支援に、12年前もそうだったが、南オセチア人ばかりか、グルジアからの独立を求めているアプハジア人まで駆けつけることになる。
一方、ロシア科学アカデミ−民族学・人類学研究所コ−カサス支部長セルゲイ・アルチュノフは、近郊地帯の紛争は南オセチア情勢の平定に役立つかもしれないと見ている。「ロシアの関心は南オセチアから離れるだろう。なにしろロシアそのものが危機解決を妨げているからだ。北オセチアの事件はいかに皮肉に聞こえようが、ロシアに南部での和平プロセスに着手させるかもしれない。その結果、南オセチアはグルジア内の本当の自治国になれるかもしれない。願わくば、この自治国が国際保証で担保されることだ。ロシアは国際保証を好まない。単独保証に慣れてしまったからだ。しかし残念ながら、こうしたやり方では、ロシアはほとんど得るものがない。もし平和創設軍にロシア、グルジア、オセチアだけでなく、さらにホンジュラスやマレ−シアまで加わっても、何の問題もない」
さらにアルチュノフは「いっそう注目される地域にはダゲスタンがなるはずだ」と考えている。「あそこではマハチカラとハサヴュルトの“北の反抗勢力”の対立により、きわめて深刻な事態が始まるかもしれない。そしてそれは、“アヴァ−ル人とダルギン人の恐ろしい対立となりうる”」
CIS諸国研究所コ−カサス支部長ミハイル・アレクサンドロフは最近の出来事についてコメントし、予想される紛争にさらに一つの当事者を加えた。彼によると、北オセチアの情勢は“ロシアとアングロサクソン大国間のザカスカス地方(アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアなど)の支配をめぐり熾烈な争い”という視点からとたえる必要がある。米英国のチェチェン大統領選挙に対する非難は、チェチェンテロリストの政治支援を意味する。さらに彼らはチェチェンの密使に政治亡命を認めているし、英国の特務機関はチェチェンの破壊工作員を養成している。アレクサンドロフによると、北コ−カサスで特務機関がこのように活動活発化させる原因は、南オセチアで自国の影響力を譲歩しようとしないロシアの立場にある。北コ−カサスと国内の情勢を不安定化させれば、西側はロシアをザカフカス地方から追い出すことができるだろう。
「UTRO.RU」、アンドレイ・ブズイキン
訳出:飯塚俊明©
2004年9月4日