−ロシア語が普及しない理由− /飯塚                                          

  戦前戦後を通じて今日が最もロシア語の人気のない時代かもしれない。どうしてこれほどロシア語の人気が低下してしまったのだろうか、そのことを少し考究してみたい。明治大正時代は海外の新しい文化思想を積極的に吸収しようと努め、海外の文化にはそれまでの日本の封建時代に鬱積していたものから解放させるような新鮮さがあった。二葉亭四迷を代表として、多くのロシア文学が紹介されている。昭和の時代に入り軍国時代になるが、権力の弾圧の中でもロシア語を密かに学ぼうとした情熱が見られる。これはソ連邦の誕生による影響も大きいが、むしろ十九世紀ロシア文学における宗教と近代科学、感情と理性、全体と個人の自由を命題として封建社会から近代の移行期の問題を提起していた所為かもしれない。そんな困難な時代でさえ、人々はロシア語を通じて漠然とした未来を信じていたのかもしれない。

  戦後は東西冷戦の時代となり、左翼陣営の言語のシンボルはロシア語とも言えた。そしてソ連が「ボスト−ク」1号を打ち上げ、その宇宙飛行士ガガ−リンが訪日した頃が戦前戦後を通じて最大のロシア語人気の絶頂期であったと記憶している。そしてソ連邦が崩壊する。見るみるうちにロシア語は不人気となり、ほんの一部の人間の趣味の語学になってしまった。経済面も文化面も魅力ない。19世紀のロシア文学を持ち出すのも少し現代という時代の要請からかけ離れているかもしれない。

  日本におけるロシア語の世界は古い手垢のついた左翼思想と若い世代の経済的功利主義で泥まみれになっている。そしてそれを貫いているのが封建的価値観であり、意味のない権威主義である。これは特に伝統文化や芸能に見られる現象だが、徒弟制度を平気で未だにやっているところもある。こうしたことは文化や芸能を古いしきたりの中に閉じこめ、広く発展する可能性を潰してしまう。ロシア語の世界にもこの傾向が観察される。ロシアとの交流、それにつきものなのがロシア語である。ロシアとの交流、ロシア語の普及、こうしたことを古い価値観の人間が指導している。過去の実績は評価に値するかもしれない。しかしその人間が古い封建思想の持ち主であればどうだろうか。これは民主的で平等主義の価値観の人間とは自ずと対立してしまう。

  それでは現代における封建思想とはいかなるものか。一人の権威者がいてその下の多くの門下生がいる形態のようなものである。血筋・肩書き・学歴等を重視している人間のことで、形式的、観念主義者のことある。あるいは組織を独断で決定しまう人間のことである。それはロシア語界に限ったことではない。日本の社会全体の問題でもある。しかしそれを日本におけるロシア語にあえて押しはめてみると、如実に日本の現状を反映しているのが分かる。日本社会がムラ社会だとすれば、ロシア語界はさらに辺鄙で特殊なムラ社会である。そしてその命脈も役割もとっくに終わっているはずなのだが、現実には存在しているし、ましてそれに媚びり、狭い利己主義と現実主義で人生を棒に振ろうとする若い世代も多々見られる。ムラ社会の特徴は家父長制、独断、閉鎖性、排他性、談合、マンネリズム、現実志向性等、おおよそ現代という時代が求め、未来と結びついた価値観とはほど遠いものである。

  ロシアはロマノフ王朝時代からソ連時代にいたる迄遅れた社会であったし、今日も遅れた社会である。“遅れた”という意味は、ヨ−ロッパ文化からの遅れの意味でもあるが、その本質は近代科学、合理主義、民主主義、個人の自由からの遅れである。ヨ−ロッパが長い中世の封建時代の桎梏、悪弊から多くの犠牲をはらいやっと抜けだし、辿り着いた理性の社会、ヒュ−マンな社会にたいしロシアは体質的にアレルギ−である。これはそのまますっぽり日本の社会にも、ロシア語界にもあてはまる。月並みの表現を借りれば、自己の不条理を認めず、何も変えず旧来通り安泰を保証するのがロシアの独自性であり、日本の独自性であり、拝外主義であり、科学・学問の否定であり、民主主義、個人の自由の否定である。テ−マがロシア語についてであるので、それ以上言及しないが、ロシア語界全体から見ると、その“遅れた”影響を深く蒙っている。ロシアでは平気で人権が無視される。日本でも平気で人権が無視される。どちらも酒場で会合をするのが好きである。人脈を重視し、法律を守らない。

  ロシア語の学者の中には家業のように何代にもわたってその職業を継いでいる者がいる。これは伝統文化、例えば古いやり方を踏襲することに価値がある世界では役に立つことかもしれないが、外国の文化との往来やインタ−ナショナルの分野では噴飯ものである。ところが、ロシア人も継承性や伝統性を好む。新しいものには嫌悪感を示す。日本人も新しい価値観より、古い伝統の価値観を日常として、欧米の技術・経済に立脚しようとしている。本来学問や科学、国際交流とは未来を志向し、ドリ−ムを追いかける世界なのである。夢を与えられないセクションは必ず滅びる。何故なら夢は人間に大いなる刺激を与え、気持ちを奮い立たせ新たなものを創造させるからである。目まぐるしく進展し変化する世界の中で、世襲的なやり方はそれ自体滅亡する運命にある。別の観点からすれば、世襲ができることはそこに激しい競争が存在せず、淀んでいることを証明している。そんな語学は本質的に見れば普及し発展する余地は皆無とも言える。ロシアでは今英語が大流行である。日本も英語がここ数年急激に流行りだしている。古い精神構造から脱却できない両国に英語が流行していることは偶然ではなく、どちらも旧習をそのままにして、新しい文化を吸収したり、経済的成果を達成しようとしている。日本は経済、科学技術ではロシアをはるかに引き離しているが、思考方法、精神構造ではその距離はほとんど無いに等しい。後進国の固有の特徴としては、最新の科学技術の導入、経済優先主義それとどうやっても変化しない日常生活の封建制、旧習、古いしきたり、血族・血縁主義であり、論理性、理性の欠落である。論理的、理性的に思考する人間が、非論理的、非理性的家族や日常を形成する矛盾、即ちそこには意識と現実との乖離が存在する。

  戦後特にロシア語は社会主義ソ連の母国語となり、冷戦時代のソ連敵視政策により学習者の資質に偏りがあったと言える。大きく分類すれば社会主義ソ連に賛成の観点からの学習者と敵国に対処するために学習する者に分けることができる。おそらくロシア語を文化としてのんびり学習した人は少ないだろう。ロシア語は冷戦構造の対立軸の一方の語学の中心であり、どのような動機にせよ、学習した人間はその影響から免れることはできなかったはずだ。つまり、文化としての語学ではなく、政治的色彩をもった語学として、ソ連を支持しようが、敵視しようが、或いは無関心であろうが、位置づけられていたのである。一面的なロシア語学習者の傾向が今日ロシア語普及のブレ−キになっているし、反動となって普及不振の大きな要因ともなっている。勿論言うまでもなく、語学も政治経済、文化、その時の社会の流行と全く無関係に存在することができないが、その政治的色彩が他の語学と比較しはるかに大きかった分だけ、見る影もない落差となって現れている。 

  経済的視点から見れば、ソ連時代が最も貿易取引も安定し、ロシア語学習者も常に一定程度存在していた。ソ連崩壊後、政治的にも経済的にもロシア語を学習する価値は完全に失われた。しかし、これは仕事との関係で見たロシア語の価値である。はたして自己の職業と無関係に考えた場合、ロシア語に魅力はないのだろうか。ではロシア語の魅力とは何だろう。経済政治関係を円滑にする道具としての魅力はおそらくどの言語も程度の差こそあれ、持ち合わせているはずだ。そうした事をここで論ずるつもりはない。本質的には元々ロシア語固有の客観的魅力は存在しないと言ったほうが正確だろう。こうした問題を究明するには、主観的な問題提起より、全言語の一言語としてロシア語を位置づけ、一般に言語そのもの役割、価値を考察したほうがいい。そうしたアプロ−チなしに語学教育、語学学習をやると、今日のような英語中心の学習になってしまう。これは経済中心主義の考えで、言語を経済の道具としか考えていない証拠である。言葉は人間と動物を区別する基本的特徴の一つであり、言葉の発達は人類の発展でもある。言葉は人間が事物ついて思考する時用いる必要不可欠な手段である。もし言語に偏りがあり、歪曲があり、合理的発展が保証されないとすると、人間の思考方法にも重大な影響があると言える。論理的、理性的思考を保証するのが言語である。日本語やロシア語が軽視され、英語が重視されるのは何を意味しているのか。日本人やロシア人の思考方法が軽視され、欧米文化の思考方法が重視されていることである。日本人は欧米人になれるだろうか。それは永遠に不可能である。それ故、日本人は、欧米文化を否定せず、むしろ積極的交流しながら、母国語で論理的、理性的に思考する条件をきちんと確立する必要がある。さすれば、自分の頭で独自に事物を思考する日常生活が生まれ、あらゆる海外文化にたいし、自分の頭で考えるようになり、偏った文化吸収の意味を理解するようになるだろう。そして、ロシア語は普通の外国言語としてそれに見合った普及をするはずである。

  それとロシア語の普及に関し若干の具体的に提言をしておく。

1)ロシア語界の古い体質は排除し、封建時代の残存物である権威主義等をなくし、開かれた分野にすること。権威主義とは、カリスマ主義、ファシズム、科学を否定する古い神の崇拝のことである。

2)ロシア語の魅力を他の諸言語と比較して、最初から再考察すること。

3)就職問題とロシア語学習を結びつけないこと。こう 言うと失笑をかうかもしれないが、パラドックスである。 経済発展ばかり考えてきたから、今日の日本経済が発展しないとも言える。何事も偏向はいけない。バランスが必要である。