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2002年2月分履歴

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“未遂の暗殺者”(完)

−ナデエジュダ・アリルエヴァにスタ−リン暗殺命令が下った、と結論づけたのはオリガ・トリフォノヴァ、故ユ−リ・トリフォノフの妻。彼女は国民の指導者の私生活について本を出すため資料集めしている。銃声が響いた。しかし死んだのはナデエジュダ本人であった− (オゴニョ−ク、34、)

「スタ−リンの名に“愛”という言葉は相応しくない。ところが彼の結婚には打算はなかった。と言うことは、愛があったのだろうか。」

「スタ−リンは二度結婚している。最初の妻エカテリ−ナ・スヴァニゼは美しく、印象的な存在であった。ある時来客があると、彼女は当惑して皿をもったままテ−ブルの下に隠れたこともある。フロイト流に言えば、スタ−リンには女性にたいしファザ−コンプレックスがあった。淫蕩のことは別にすれば、彼の人生に何らかの影響を及ぼした女性は皆とても若かった。エカテリ−ナ・スヴァニゼは十七歳であったが、彼は彼女をとても愛した。その証拠となる一枚の葬儀の写真がある。悲しみで打ちひしがれ、途方にくれた。まだわずか28歳、だがその手には愛すべき、とても不憫と思われる三ヶ月の赤ん坊が残った。しかし彼はこの子を憎んだ。その憎しみの理由はわからない。おそらくヤ−シャが彼の期待に応えず、チフリス市の叔母と暮らし教育をうけ、都会の生活にほとんど馴染むことができなかったせいかもしれない。ヤ−シャを愛し不憫に思っていたナデエジュダ・セルゲエヴナさえも、ヤ−シャは扱いづらく、学業に問題があったと書いている。スタ−リンは息子の平凡な才能を許せなかったにちがいない。」

 

ナデエジュダ・セルゲエヴナをスタ−リンは愛していたと思われる。彼女を愛さずにはいられなかったろう。美しく、明るく、魅惑的で誠実。すくなくとも、アリルエフの家の中ではそうであった。彼女の魅力を理解するのなら、その末裔、アレクサンドル・パヴロヴィチとキラ・パヴロヴナを見れば十分である。彼女の甥や、幸いなことに現在まで生きているナデエジュダ・セルゲエヴナの実弟の子供たちを見ても分かる。驚くほど上品、ウイット、自嘲、そして独特の魅力。アリルエフの魅力の秘密は、おそらく血の混ざりにあるのだろう。アレクサンドル・パヴロヴィチにはとてもはっきり出ているジプシ−の血、それにポ−ランド人、ドイツ人、ロシア人、ウクライナ人の血が混ざっている。

 

セルゲイ・ヤコヴレヴィチは腕の良い技工で、稼ぎはさほど悪いものではなかったが、アリエフの家族の生活はとても苦しかった。しかしその金はとんでもない考えをおこし、革命のために使われた。

 

だがナデエジュダはそれでも立派な教育を受け、ドイツ語もフランス語も話せ、ピアノもかなりうまく弾いた。彼女は朗らかでよく笑みを見せ、温かい親切な人間で、立派な主婦であった。

 

とにかくナデエジュダは家族の中で気楽に過ごすことはできなかった。彼女の母は、彼女によるとこの世で誰よりもヒステリックな女性で自由奔放を欲した。彼女の母は最後には「自由、自由が欲しいのよ」と直接口にしては叫んだ。こうした後にはきまっていつもの愛人のところに去るか、それとも助産婦学校のような、そうした学校に入学したりした。当然、家族は置き去りにされた。そうしたことでナデエジュダは早くから家計をきりもりする能力がそなわった。

 

事実、アリルエフ一家をスタ−リンが訪れるようになった時、まだとても若いナデエジュダを選択するか、それとも長女アンナ・セルゲエヴナを選択するか、長いこと思案したと、そうした噂があった。結局若さが勝利することになる。ナデエジュダは愛する男と駆け落ちした。スキャンダルであった。こうしたことはみな歴史家の作り話で、最初ナデエジュダがモスクワに行き、その後彼らが愛し合うようになり、1919年に結婚したと、そのように話したがる傾向がある。

 

「スタ−リンはこれまでの解釈からしても、愛人として憧れの的には相応しくない」

「何を言っているのですか。彼は若い時男前で、当時の写真を見れば分かる。たしかにあばた顔だが、けして彼をだいなしにするものではない。若い頃髪はオ−ルバックにし、髪は濃くふさふさであった。おでこのように見えた。情熱的眼差し、中でもひとを惹きつける力、魅力があった。それとともに多くのものが書いているが、彼は陽気で機知に富み、気さくな男、家族に囲まれている彼を見た者は、親切で家長としてふるまっていたと話す。子供をうまく扱うことができたし、女性もまたうまく扱うことができた。女性に関し経験豊富で、贈り物を惜しむようなことはなく、女性も彼が好きであった。晩年になると権力の魅力も加わり、婦人たちはとても喜んで懇意になろうとした。たとえば、スタ−リンの最初の妻アレクサンドラ・アニシモヴナ・スヴァニゼの兄の妻マリア・アニシモヴナ・スヴァニゼ、とても美人で青い目のブロンド、明るくエレガント、財政をあずかっていたが、スタ−リンにほとんど首ったけであった。彼が理解されず、中傷されることで彼女は常に気をもんだ。美の概念とは勿論、とても移ろいやすいものではあるが、当時の基準では彼女は美人、完璧、育ちのよさ、エレガントな裕福な出の婦人であった。彼女は日記の中で、国で何が起きているか、彼が実際どのような人物であるか、まったく理解せずに夢中になってスタ−リンについて書いている。彼女の運命は悲惨なものであった。1937年彼女は逮捕され、銃殺された。それでもたとえば、「ろくでなし、悪党!よくもそんなにヨセフ(スタ−リンのこと)をがっかりさせたものね(トロツキ−とブハ−リンの裁判、あるいは淫乱に仕立てられたアヴェル・エヌキ−ゼのこと)」と書いている。

 

ナデエジュダがスタ−リンにぞっこん惚れたことも理解はできる。スタ−リンは謎めいたところがあり、どこからともなく現れ、どこへとなく姿を消すところがあった。どうして彼が流刑地から何度もうまく逃亡できたのか、いまだ大きな疑問である。

 

そうやってアリルエフの家に若い謎めいた男が現れ、そして彼らは姉妹ともども、彼の虜となった。スタ−リンはチェ−ホフを朗読した。これがとても見事であった。彼には役者としての並外れた才能があり、これは後に彼の役に立った。当然、うぶな娘は我を忘れた。こうしたことを言うのはいかに不愉快であろうとも、スタ−リンが惚れられることはありえることであった。

 

「しかしずっと後、彼が権力を手に入れ、彼やその周りで起きていることを見ないでいることができたであろうか」

「もしかしたら間違っているかもしれませんが、彼らの関係を描くと、次のようになると思う。ナデエジュダ・セルゲエヴナは長いこと何も見ず、分からなかった。1921年彼女はワシ−リを出産します。また彼女はレ−ニンの書記局で働いていました。レ−ニンが去る時の恐怖を目撃し、その時にあったあらゆる陰謀の時も傍にいました。ナデエジュダには十分同情できるかもしれません。と言うのも、女性書記局員が機密あるいは極秘スタンプの捺されたレ−ニンのメモをスタ−リンに運ぶさまを見ているからです。彼女はとても誠実な人間ですので、ひどく悩んだと思います。レ−ニン死後、彼女が仕事を辞めたには訳があるのです。彼女には子供がいました。ずいぶんとてこずり、手紙に「ワ−シャはとても強情で我がままです」と書いています。その子はまだわずか二歳ですよ。

 

家庭には怖い夫が存在し、よく癇癪を起こし、当時は悪魔のように凶悪なものでした。なぜなら彼の将来が決まりかかっていたからです。

 

1922年、スタ−リンは書記長になりました。だが冬になると、彼をいかに解任すべきか、その方法をよく考える必要があると書かれたレ−ニンの遺言を見せられる。それで家ではナ−ジャに八つ当たりしていた。

 

いわゆる夫が彼女を孕ませると、彼女は彼から去った。一度目は家からそのまま走り去り、電車に乗り、ソリャンクの産院で出産した。このように彼女にとっては甘いものではなかった。誰も彼女の居所は分からなかった。長い間彼女を探した。二度目は乳飲子のスヴェトラ−ナを連れてレニングラ−ドの父のところに行った。

 

ナデエジュダは常に魅力的な女性であり続け、キ−ロフは彼女のことが好きだったと言われている。彼女のことが好きにならずにはいられなかった。それと言うのも、すらりと細くきゃしゃ、ダンスはうまいが、はにかみやであった。家族の集まりでは彼女はショ−ルで身をつつみ、寡黙であったが、ダンスに連れ出されると、彼女を見ながら誰しも満悦であった。

 

しかしいろいろなことがあっても、家はナデエジュダでもっていた。彼女は女中(当時は給仕と言っていた)を雇い、とても可愛がった。彼女が去ると、全て暇をだされ、おそらくこうしたことでワ−シャはかなり変人となったし、スヴェトラナは不幸な女になった。

 

「スタ−リンの家庭生活は彼の周囲には秘密ではなかったのですか」

「秘密ではありませんでした。ナデエジュダには甘い家庭生活はなかったと多くの人が知っていました。これは最も側近だけではありません。マリヤ・ヴォロジチェヴァはアレクサンドル・アリフレドヴィチ・ベクとの会話を思い出した。「スタ−リンは彼女にとってはこの上ない下司でした」 彼は「下司とはどのような意味ですか、とても粗暴ということですか」と訊ねた。「いや、粗暴性のことでありません」とヴォロジチェヴァはこたえた。彼女は「スタ−リンは卑猥な言葉を巧みに使う名人である」ことを知っていた。

 

スタ−リンは妻を平気で陵辱することはできたが、彼女なしにはまったく生活できなかった。別居するとすぐ彼はとても誠実で愛情のこもった手紙を彼女に送った。推測ですが、ナデエジュダがレニングラ−ドに去った時も、カ−ルスバ−ドで療養中も、ベルリンの兄弟のもとに行ったときも、彼は尾行したと思います。

 

スタ−リンは彼女に嫉妬していたが、大切に扱うことはなかった。ナデエジュダの診療カルテには二十九歳頃になると、十度も堕胎が記録されていた。彼はまったく彼女のことは配慮せず、若くして彼女は障害者になっていた。ナデエジュダは驚くほど自分を抑えていたせいで、激しい偏頭痛に見舞われ、血圧も高くなった。胃の痛みに苦しみ、おそらく癌であったのだろう。しかし彼女はまともに治療を受けることはなかった。さすがにレ−ニンだけのことはあり、医師の同志(ボリシェヴィキ)をペテン師と言って、ドイツ人医師を呼んだ。ナデエジュダを診た医師は正確な診断をしなかった。

 

-ルスバ−ドとベルリンに送ったスタ−リンの手紙二通が残っている。どちらも心から愛情のこもったものであった。こうした一節がある。「フクロウにように一人家で座っている」 これは正直な一説だが、今ならさしずめ自己の寂しさのメセ−ジというところだろう。一面では彼らは親しい友人であった。

 

ナデエジュダは鉄鋼関係の本や電気技術の本を送った。ところでスタ−リンのレベルについて言うと、彼はゼミナ−ルで真面目に学ぶ習慣があった。注目すべき彼の言葉ある。「私は侘しさが好きだ」 もしかしたら、まさにこうした稀に見る資質により彼こそがライバルを打ち負かせたのかもしれない。さらに稀に見る執念深い性格であった。彼は優秀な演説家やオルガナイザ−から見ると古臭いものと思われたことをやるのが好きであった。スタ−リンは大変な読書家でシェ−クスピアや古典作家を驚くほど多く、それもタイミングよく引用した。

 

「いつ頃、彼らの関係に大きな変化が起きたのですか」

「これは、ナデエジュダが1929年工業大学に入り、全く異なる生活に浸った頃から徐々始まったと思われます。アリルエフ兄弟は、彼らの朝食が卵とキャビアであったと回想しています。たぶん、ナデエジュダの同じような朝食だったのでしょう。しかし彼女は貧民に出会います。ごくありふれた貧しいプロレタリア−トです。工業大学には最早そのようなプロレタリア−トは入学していませんが、それでも皆苦しい生活でした」

 

もちろん、家には食事はありましたが、彼女には自分の金はありませんでした。その証拠となるのは、コ−カサスで休暇中のスタ-リン宛手紙である。そこでナデエジュダは50-ブル送れと頼み、九月末ならないと奨学金が貰えない、家にはお金がないと書いている。スタ−リンは120-ブル送るが、直ぐにではなかった。次の手紙では彼女はお金のことを感謝している。彼女の性格からして無心は苦痛で屈辱的であった。

 

そして終にナデエジュダは青い立襟のルバシカを目の当たりにし、まったく別の話を耳にした。工業大学は右派の牙城で、党大会では必要とする者とはまったく異なる人物が選ばれた。まさにその時、ニキ−タ・フルショフが出世した。彼は新聞「プラウダ」に論文を掲載し、大学の古い指導部を激しく非難した。当然、教授や常に反対の立場にあった知識人を非難し、そして党細胞の書記に選出された。

 

ナデエジュダは手紙の中で半ば冗談に「私でさえも、右派に入られた」と書いている。この冗談は他のものでは、おそらく悪い結末となっただろう。彼女はしだいに現実を知るようになり、工業大学の寮もよく訪れた。そこでおそらくいろいろな会話を耳にしたことだろう。

 

彼女がベルリンに行き、そこで兄弟とかなり真剣な話をしたと思う。パヴェル・セルゲエヴィチは非凡な人物であった。1937年彼の仲間が逮捕されだすと、出向いて「私を逮捕しろ!」と言ったことがある。そうしたら彼の仲間は釈放された。パヴェル・セルゲエヴィチは謎めいた形で死亡している。多分、毒殺されたのだろう。このことに触れると、私は若干先走りしてしまう。パ−ヴェルはドイツの通商代表であった。おそらく諜報活動もしていたのだろう。彼は軍人であり、ドイツとの貿易ばかりか、ドイツとの接近が進行していると思わずにはいられなかった。そのあげく、ナデエジュダはドイツから帰ると別人になっていた。さらにパ−ヴェルは彼女にピストルをプレゼントしている。その当時の人の話では、誰もが拳銃を携帯していた時代であった。ある者はポケットやズボンに、ある者は婦人用ハンドバックに忍ばせていた。やがてナデエジュダはシベリア行きを決行し、党の関係でまずいことになっている自分の仲間を助けに出かけた。彼女は人を守ることが好きであった。実際そこのことにより、最良の結果になることもあった。いずれにしてもその時、ナデエジュダは多くのことを理解しはじめた。

 

「ナデエジュダ・セルゲエヴナは夫に援助を求めましたか」

「求めました。しかし彼は明らかに彼女を遠ざけていました。これから喋ることはおそらく空想の範疇ですが、その空想は実際あり得たことにとても近いものです。1932年、左の反対勢力は片付いたのですが、右との闘いはまだ真っ盛りでした。そして「マルクス・レ−ニン主義者同盟」という組織が生まれ、これをマルテミヤン・リュチンが指導したのです。スタ−リンの家庭は当時、不和状態でナデエジュダはハリコフの妹の所に去っていた。アンナの夫、スタニスラフ・レデンスはその時、政治警察GPUの長官であった。

 

1932年、ハリコフでいわゆるリュチン宣言が配布された。おそらくナデエジュダはリュチンが代表する反対勢力と接触していたのだろう。彼女は「リュチン宣言」のパンフレットをまさに政治警察GPU長官の家に保管していたのかもしれない。この推測はあたっているかもしれない。彼女は非合法活動家が潜んでいた家で育ち、最も確実な保管場所がそれを探している人の家であると理解していた。

 

自分の妻を尾行していたスタ-リンにとって妻が反対勢力と分かると、彼の性格からして彼女は殺害されたほうがよかった。彼は妻のベッドでリュチンの「宣言」を発見する。カメネフとジノヴィエフはこの「宣言」をちょっと手元においただけで、1年後に復党させる条件で党から除名し、流刑となった。

 

「それはそうと、あなたは自殺ではなく、他殺と考えているのですか」

「いいえ、そうではありません。ナデエジュダはスタ−リン殺害の任務を帯びていたので、自殺したと考えています。リュチンの仲間たちは「スタ−リンを殺害できるものは、本当に誰もいないのか」とよく叫んでいた。それにもしナデエジュダが夫殺害の命令を受けていたら、彼女は自殺を選んだと思います。スタ-リンとの関係は当時異常なものとなっていました。彼の恥知らずな行為、卑猥性、壁に唾をかける癖、これには彼女は最早うんざりしていた。最初のうち、ナデエジュダは壁を洗い、そして絨毯を壁にかけたが、彼はそれを避けて唾を吐いた。彼は悪党だが、身の処し方がうまく、チャ−チルをも惹きつけることができた。彼はもっと苦しめて彼女の人格を傷つけるため、特に彼女のためにこうしたことした。いずれにしても、病的で坂を下りだした愛であるが、まだ生きていた。

 

確かに1932年になると彼女はすでに強い人間になっていた。ある証言によると彼女はスタ-リンにむかって「あなたは何もかも苦しめる、あなたは私を苦しめ、国民を苦しめている」と言ったことがあった。当時彼女はあたかも自己存在のない無我の様相であったと言われる。

 

人生の終わり、ナデエジュダ・セルゲイエヴバは「何かもいやになった」と呟いた。そうした精神状態であった。そして友人が「どう、お暮らしは」「それで子供たちは」と聞いても、彼女は「子供たちね」と答えるだけであった。最早彼女は何にも感動しなくなった。夢、希望、全て実現しなかった。生活の中で彼女を抑えるものは何もなかった。彼女は限りない屈辱感をかんじていた。しかしそれでも、他ならぬナデエジュダにスタ-リン暗殺命令が下った時、彼女は自殺を選んだ。彼女は共に過ごした生活、娘の頃彼を愛し、夫によりそい、一緒に内戦のあらゆる恐怖に耐えた頃を忘れることはできなかった。さらにスタ-リンは彼女の唯一の男性であった。

 

「アリルエヴァの死について多くの人が書いています。そして最後の夜のことを回想しています。それについてご存知ですか」

「それは、悲劇で有名となった革命十五周年記念の伝統的夕食会の出来事でした。皆席に座り、スタ−リンはナデエジュダめがけてパンの柔らかい部分を投げつけました。そもそも彼には、ばかげた癖があった。戯れると、食べ残しをよく投げつけた。子供と遊ぶ時も、その皿に食べ残しを投げ入れた。しかし子供は幼い。それは子供たちを陽気にした。ナデエジュダの目にスタ−リンがとまると、誰がパンを投げろ、オレンジの皮を投げろと言っているとその目は語っていた。しかし彼女には不思議なぐらい自制心があった。スタ−リンが「おい、お前、飲め!」と言うと、ナデエジュダは「わたしは、おいではないわ」と答えている。彼女が席を立ち、立ち去ったと言うのも、本当ではありません。彼女はそこに残りました。打ちのめされ犬ように逃げ出す、そのように侮辱しても効きめのあるような人間ではありませんでした。こうしたことに耐えるには、強い自制心が必要でした。こうした時スタ-リンは専用電話である女に電話をした。二人は恋愛関係にあると噂があった。そして車を呼び、その誰かと別荘に出かけた。この話は多くの人が聞いている。しかしナデエジュダは全てに我慢し、深夜宴会を後にしました。

 

彼は車を呼んだが、何故か早朝家にいた。これがスタ-リンに殺人の疑いがある有力な論拠です。最早月並みだが、スタ-リンが「彼女は敵のように去った」と言ったことを思い出した。まさにこの発言は私を深く考えさせた。

 

新聞では、彼女の死は虫垂炎となっていた。しかし彼女が自殺した噂は流れた。彼女が死んだ時、親族はスタ−リンが自殺するのではないかと心配した。そして長い間、彼のまわりには、アンナ・アリルエヴァ、エフゲニヤ・アレクサンドロヴナなど家族の代表的人物がいた。彼は悲しみで顔色が黒ずんでいたと回顧している。本当に彼は大役者であった。

 

「ナデエジュダ・アリルエヴァはスタ−リンの娘であったかもしれないという憶測があります」

「ありえません。もちろん、彼女の母親は興奮しやすい性格の女性でしたが、ぺテルブルグの自宅でスタ−リンの世話を親切に行い、食事を出し、服も着せてあげましたが、彼が何者であるか、それははっきり理解していました。

 

「アリルエヴァの死後、スタ−リンの私生活は終わりましたか」

「スタ−リンにはいくつかロマンスがありました。こうしたことがありました。カガノヴィッチの妹、ロ−ザの診療カルテが彼の診療カルテと一緒にありました。おそらく下心があったのでしょう。また後にはワ−リャ・イストミナが現れました。愛くるしい女性で心から彼を愛していました。スベトラ−ナの証言ですと、故人にたいし本当に号泣したただ一人の女性だったらしいです。

 

「それはそうと、スタ−リンは誰か愛していましたか」

「流刑地で彼のそばにいた犬チ-シカが好きでした。彼はこの犬のことをよく思い出していました。犬は非常に忠実な性格ですので、それを愛すことができたわけです。

 

彼はワシリイを軽蔑し、ヤ−シャを憎悪し、特に自殺に失敗した後はなおさらでした。スヴェトラ−ナにたいする病的な愛、彼女との手紙のやりとりも、背筋の凍るようなもので幕を閉じました。

 

無論、スタ−リンは精神的には病的な人間です。さらに言われているように、常習のアルコ−ル中毒でした。彼は毎晩ワインを飲みましたが、それも多量でした。朝苛立つ状態は禁断症状でした。慢性うつ状態であり、一日の中で陽気な気分から陰気な気分に変化する。これはすべて同じ部類の現象であった。こうした環境の中でナデエジュダ・セルゲエヴナは生活した。

 

彼は自分の好きなように愛した。ナデエジュダが手動の可愛らしい玩具であった時は、幼児言葉を使い、「ノヴォ・ノヴォ、ケプコ・ケプコちゃん!キスするよ」と手紙の最後に書いたのであった。

                                    オリガ・トリフォノヴァ

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