ロシア最新ニュ−ス
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2024年11月10日(日)
編集部より:ロシア語上達法(56)(翻訳と精神の自由) (2024年10月17日(木)) ここまで来ると、かなり気温が下がる。弱い朝陽に照らされたホ−ムはかなり傷んで、床は凸凹で修理されていない。光沢のなくなった始発電車に乗る。濃紺ジャ−ジ姿の高校生も無言で数人、一緒に乗り込んだ。いつしか秋になっていた。二年半が過ぎた。膠着状態ながら、じわじわゆっくり進み、四州を固めている。そして、梃子でも動かない。いつものやり方だ。 旧約聖書の「民族浄化」の迷路に入り込んだ世界は、脱出できるのだろうか。敵が存在しないと、生きられない人々の劣等意識、天才と妄想する堕落した人々の群れ、世界は右へ、右へ旋回しながら、戦争を正当化する独特の自国中心的、自己耽美的意識、早く正常化しないと、間に合わないかもしれない。 「足るを知る」。人間の欲望はかりしれない。「己の欲せざる所 人に施すこと勿れ」(孔子)ガザの人々もゲットーは嫌いだ。精神の飢餓状態の闇は深い。いくら欲しても、満たされない「貧民根性」、どうにかならないものか。ひたすら金だけを求める、金のためなら何でもやる、誰でも平気で売る。 放送の偏りがひどすぎる。毎日、ロシアの新聞5紙に目を通している。日本のテレビ、新聞は、G7側の報道ばかり流す。日本は隣国がほぼ全て敵国である。隣人と仲良くできない。事なかれ主義で、アングロサクソン人とつきあっていると、とんでもないことになる。放送は公正でありたい。日本人は権威に弱く、テレビや新聞で伝えられると、すぐ鵜呑みして、みさかいがなくなる。問題設定をかえてみる。ロシアや中国、北朝鮮が正しかったら、どうするか?時々、逆提案して考えてみることも、戦争回避では必要かもしれない。 こんなことがある。ある知人が大手企業の依頼で、欧州特許庁へ特許出願の翻訳をしたことがった。何度、出願してもパスすることはなかった。出願書作成方法を知らなかったからだ。ロシア語の翻訳がきわめて上手な人で正確だった。しかし、特許の場合、いくつかの決まり、規則がある。これから反れると、いくら正確の翻訳でも、合格することはない。そんなことを電話でぼやいていた知人だが、よほど教えてあげようかと思った。しかし、ここにはちょっとした上下関係があった。若い時から、ロシア語の翻訳について、いろいろ教示してもらっていたからだ。相手は、こちらが特許翻訳をやっているとは、露程も知らなかったのに違いない。 人生とは特に晩年になると、厄介なことが多い。下に見ていた者に教え乞うことは、自己否定とまでいかないまでも、赤面のいたりでもあり、自己肯定感の喪失にもなる。老いてくると尚更、頭を下げられない。たぶん、老いて成長するとなれば、恥ずかしさ覚悟で、わずかに残った伸び代を、辛うじて生かすことだろう。それには下の者に教えを乞うほかない。人生最後の成長である。人間の発展は自己否定の連続から達成される。 無理とはいえ、知人も聞いていれば、欧州特許庁へ出願はパスしたことだろう。うやむやにして、原因不明となって、とうの企業も困惑したことだろう。人とは悲しい性をもっていて、老いると特に心理的に偉くなる。高齢者になっても、なるべく大きな課題を自己に提起したほうがよい。そうすれば、時に自己否定もできて、もっと伸びて、成長できるかもしれないからだ。 葛飾北斎は、最晩年嘉永2年(1849年)には『富士越龍図』を創作し、その年に亡くなっている(88歳没)。新たなものを創り出している。生きるとは何か、常に新たなもっと大きなテ−マに挑戦することなのか? ヘミングウェイの「老人と海」(1952年)では、老人の生き方に一石を投じている。死ぬまで闘争である。闘って闘って、全てのエネルギ−を燃焼尽くして、死ぬのである。それも、漁師生涯で最大の獲物、巨大カジキと死闘を演じる。老人とは人生で死期に向かって追い詰められた最晩年の人間をさす。ある意味では、経験豊富で達観してはいるが、ある意味では、肉体は醜く衰え、使いものにはならない。そこで、人生最大の課題が提起される。今まで為し得なかったことへの挑戦である。老人とは何か、回避できない状態、それなのに最大課題をぶつけてくる。そこに生の価値と意義があるのかもしれない。 ヘミングウェイにとって、隠居老人には意義も価値もないのかもしれない。人間も自然界の動物とかわることなく、闘わないと死が待っている。最後の瞬間まであらゆる手段を尽くして、生きようとする。それが動物である人間の姿である。 言語には聴覚の言語と視覚の言語がある。聴覚の言語とは耳から入ってくるもので、動物にも言語と言えないまでも、音による簡単なシグナルの交換は行われている。江戸時代、読み書きのできない人が数多くいた。当時、世界的にどこでも、識字率は低かった。「文盲」とよばれた。会話はできるが、文字は読めず、書けない。流暢な会話を聞くと、さぞかし外国語が堪能と思われるかもしれない。しかし、それは言語の半分でしかない。会話、読解・作文能力が一体となって、語学能力があるといえる。 流暢な会話ができるからといって、作文能力が高いことにはならない。外国人なら誰でもいいわけではない。しっかりとして国語能力の高い人に翻訳もチェックしてもらう必要がある。 視覚による言語は、まさに人類発展の起点ともいえる。「....ついで ながら、 人類 の 発明 で 最も
注目 に 値する もの の 一つ について 述べ させ て もらい たい( 付け加えれ ば、 それ は 今日 に 始まっ た こと では ない)。 それ は
格別 の ことで は ない、 過去 と 未来 の 発明について の 所感 で ある。...」(我ら が 至高善 「精神」 の 政策、ポール・ヴァレリー) 文字の発明である。記録という手段の発明である。それまでは、人間も動物と同じで、現在しかない。現在でしか、生きられない。教科書などで、原始人が洞窟の中で暮らし、洞窟の壁に絵が描かれている写真など見たことがあるだろう。消せない手段により、時間という概念が誕生する。現在以外の時間が存在するようになった。過去と未来である。もし、あらゆる記録媒体が存在せず、記録できないとするとどうなるか?紙もメモリも存在しない社会、記憶の存在しない社会、一瞬一瞬でしか生きられない社会、もちろん、過去も未来もない。あるとすれば、一瞬の現実だけである。当然、今日のような文明も発達もしないし、人類の成長もない。時間の概念こそ、動物と人間の決定的違いである。 ロシアの作家ゴ−ゴリの生誕地はウクライナのポルタヴァ州である。ここは、ドニエプル川左岸の地である。ザポロジエ州もあり、大型原発もある。「検察官」や「外套」で有名なゴ−ゴリだが、「ディカーニカ近郷夜話」という短編集もある。ウクライナ(украина)は、ロシア語の「окраина」(辺境)から派生した言葉らしい。ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリは、1809年(江戸時代、文化6年)4月1日に現在のウクライナのポルタヴァ州ムィールホロド地区のソロチンツィ村で生まれる。1852年(江戸時代、嘉永5年、この翌年6年にはペリー艦隊が浦賀沖にやってきて開国をせまる)3月4日(42歳)、モスクワで没する。当時は、帝政ロシアの支配下であった。 「ディカーニカ近郷夜話」は、ウクライナ地方の民話を集めたものだが、悪魔や悪魔使い、悪霊が出てくる。全体としては陽気な物語である。21歳の時の作品である。太宰治の「晩年」も、23歳、24歳の時の作品である。どちらも早成の小説家だ。 ゴ−ゴリの「所有権」では、ロシアとウクライナが最近、もめている。ウクライナ側はゴ−ゴリはウクライナ人と主張し、ロシア側はロシア人を主張している。もともと、ウクライナという国家そのものが、存在しないから、かなり複雑でデリケートな問題なのだろう。 「ディカーニカ近郷夜話」は、1829年〜1831年(江戸時代、文政〜天保)にかけて書かれたもので、明治維新(1868年)より40年ぐらい前のものである。 それから18年後、マルクスの「共産党宣言」が執筆される。ドストエフスキーの「罪と罰」は1866年、トルストイの「戦争と平和」は1865年〜1869年に書かれている。19世紀のロシアは、文学では世界最高峰にあった。ロシア文学は、当時もその後も現在に至っても、世界の文学へ大きな影響を与えている。 ヘミングウェイに「移動祝祭日」という自伝的作品がある。ヘミングウェイは、1921年から6年間、若い妻と二人で、貧乏の中、22歳から27歳という最も多感な時代をパリでおくった。これは、1960年に書かれ、死ぬ一年前である。 「私は、はじめてその貸本屋へ入っていったとき、とてもはずかしかった。貸本文庫に加入するだけのお金をもちあわせていなかったのだ。いつでも、お金の入ったときに、保証金を払えばいいと彼女は言って、カードを作ってくれ、好きなだけ本をもっていらっしゃいと言った。 彼女が私を信頼する理由は何一つなかった....。私はツルゲーネフからはじめて、『猟人日記』の二巻と、D・H・ロレンスの初期の本一冊――たしか『息子と恋人』だった――を手にとった。すると、シルヴィアは、ほしければもっとたくさんもっていけと言った。私は『戦争と平和』のコンスタンス・ガーネット版とドストエフスキーの『賭博者・その他の物語』とをえらんだ。....」(移動祝祭日) ヘミングウェイはパリでの若き修行時代にロシア文学をほとんど読破したのだろう。ロシア文学も好きだが、ヘミングウェイも好きである。どこか類似性があるのだろう。リアリズム、そして生きることを徹底的につきつめ、人間の本能を剥き出しにする。 作家の晩年、自伝的要素のつよい短編が多々ある。トルストイにもある。『幼年時代』『少年時代』『青年時代』の三部作となる自伝的短編である。一つ気づいたことは、ロシア文学は貴族の文学である。ほとんどの作家が不労所得階級の出身者である。ツルゲーネフの「猟人日記」など読むと、度々農奴が登場して、領地を所有する地主が存在して、そこで働く農民の運命決定権をもっている。それでいて、郊外にある「居酒屋」では、農民も地主も一緒になって、酔って、くだをまく。階級社会と歪んだ自由のある風土かもしれない。哲学的思索がふんだんにみられる。トルストイの「人生論」なんて、理解がかなり困難である。 「.....友達でなく親しい交りを持っていなかったら、生涯はもっと別のものであったかも知れないと思った。いつかは画壇に出て、官展の無鑑査の端っこぐらいに、吾々に記憶されるかされないぐらいの名を出していたかも知れない。」(「ある偽作家の生涯」、井上靖)これは、画壇のはなしである。友だちの一人が有能で、早くから画壇で評価され、輝いていたが、それに嫉妬したもう一人の友だちが、高く評価された友だちの絵の贋作を手がける。精巧に出来た偽物で、なかなか見破るのは至難の業であった。評価されなかった友だちも、絵画の技術は高いものがあった。しかし、結局、見破られ画壇から追われ、悲劇の人生をおくる。嫉妬など起こさず、淡々と自分を信じて絵を描いていれば、いつかは、それなりの地位について、人生を終えたことだろう。 人生も才能はわずかでも、それを信じて独自の道を歩めば、そのうち、それなりに評価されるかもしれない。騙り、なりすましなどに走らず、地道に生きたいものだ。 今年は不漁である。といっても、スポーツフィッシングのことだが...。台風と、急激な豪雨が繰り返され、いつも川は濁り、魚の活性は低かった。どこかで、護岸工事か、堰堤工事でもやっているのだろうか。とにかく水が澄んでいない。舗装されていない急勾配の坂は、所々泥濘みがあり、一気には登れない。歳のせいか、リュックが肩に食い込む。水に濡れたウエ−ダ−や、シュ-ズでかなり重い。途中、必ず一休みするようになった。心臓の音が聞こえた。静まってから、ゆっくり歩き出す。帰るあてはあるが、....。 (露語翻訳家:飯塚俊明) これまでの発言 -------------------------------------------------------------- 注(「翻訳と精神の自由」は、自由、自由人を定義した場合の一つの虚構バリエ−ション。二部構成、第一部を掲載します) 翻訳と精神の自由、プレリュードT 『エセ−ニンの詩に「хулиган」がある。「1. человек, грубо нарушающий общественный порядок. 2.
разг. перен. ребёнок, не нарушающий общественный порядок, но доставляющий
своим родителям неудобства своим поведением.」という意味らしい。1、は、「社会秩序を乱暴に乱す人」で、2、は「社会秩序は乱さないが、自分の行動で両親に不都合を与える子供」の意味。「よた者、非行少年」と訳したいところだが、「風来坊」のほうが詩の意味合いからすると適切かもしれない。カ−ル・ブッセの詩「山のあなた」は上田敏訳で、誰しもが知っている。人は夢に浮かされ、当てもなく漠然と旅に出る。たぶん、何か強い衝動にかられ遠くを目指すのだろう。ほとんどがそのまま「山のあなた」に姿を消していく。まず帰ってくることはない。愛と幸福は敵対するかもしれない。 「天は人の上に人は造らず人の下に人を造らずと言えたり」 これは福沢諭吉の「学問のすすめ」の冒頭第一行目である。備前国中津藩(大分県中津市)の下級藩士で、江戸期の堅牢な身分制度の中、明治維新の前後に西洋を見聞して、古い社会から新しい社会へ移行しても変わらぬ矛盾から、痛烈に当時の社会文化を批判した言葉として余りにも有名である。 価値観、人間観、人生観など、生きるということは、さほど確固としたものでないとしても、多少なりともそうしたメルクマールに依拠している。思想や信条はもっと外面的で、社会に対して結果的なものだろう。人間としてもっと根源的なものが、社会行動の規範を決定するのかもしれない。偽善者というのも、生来の価値観と後天的な思想信条が齟齬する場合に出現するのだろう。よく「綺麗ごとを言う人間は信用するな」とは、こうしたところから出てくるのかもしれない。 「幸福な人間には幸福は意味をなさない」 「他人と同じように考えずにいられない人間は、おそらく、そうした合意を嫌う人間に比べ精神度が低い」(ヴァレリ−) 翻訳という行為に内包する知性はどのように行動するのか、外部命令によって、強制によって動かされるものか、人間が生命体である以上、それを保証する最低限の条件が必要となる。生存に必要なカロリ−、食事、空気、一定の体温に保つ環境が必然性をもって人間に迫ってくる。こうした絶対的条件はこの世に誕生した瞬間から生の行為を選択権なしに人間を拘束する。そしてそれは人間の欲望の大元でもある。 人の心奥のことは誰も分からない。誰も裁けない。これが思想信条の自由のことだ。精神が何を考えても外部から認識できないので、何人といえども裁けないし、束縛できない。しかし、言論、表現となると、本質は異なってくる。言論、表現は外部にそれが出版の形にせよ、公での発言の形にせよ、あるいは演劇、映画などにせよ、表現することによって、周囲にその人の思想なり信条なりが明らかになる。具体的な問題になるのは、その時である。心奧のことを永遠に外部に出さず、心の引出しにしまっておけば、その段階では思想信条の自由はいつまでも維持されることになる。「人の口には戸が立てられない」という。どれほど強制しても、必ず漏れてしまう。歴史をちょっと紐解けば明らかなことだ。何故なら人間から言語を奪うことはできないからだ。人類の発展は言語の発展と共に歩んできた。言語とは人間固有なもので、動物にはないものだ。言語を発明することで、今日の文明が存在する。”人の口を塞ぐ”ことは神業なのだ。 さらに人権という言葉がある。人間の権利を指すのだろう。そして人間の尊厳という言葉もある。いくら自己の考えが正しいと信じていても、他人の人格を否定してはいけない。これは名誉毀損であり、人権侵害、尊厳を傷つけることになる。そのことの意義を認識していないせいだろう。人は平等というと理想的、観念的と思われるかもしれないが、実は人の平等という思想は科学の発展とともに芽生えてくるのである。この問題は医学的、解剖学的には解決済みのことだが、古い社会文化、因習、慣習などが根強く社会に残存し、なかなかそうにはならない。これを偏見、差別というのかもしれない。全てが科学で合理的に割り切れれば、問題は容易く処理できるのだが、人間の思考は必ずしも科学的でない。完璧に合理的であると、人は窒息するかもしれない。非合理的空間も必要なのだ。合理的に対峙するのが感情的で、しだいに動物に近くなる。人が人として今日の文明を享受できるのは科学が発達したせいだろうが、そのことによって人は科学的合理性によって徐々に支配されるようになる。科学が、つまり合理主義が人を支配するようになる。そして人から思考力や知性を奪いとり、萎縮させていく。社会単位の科学的合理性は個人の知性を限りなく劣化させる。この世の主人公は合理主義の体現であるマシンで、人はその支配下に入り奴隷化する。マニュアル、スイッチ、ボタンに従わないと、現代生活をおくれない。人間が発明したもので人間が支配される。すでに主従関係は変化し、完全なる人工頭脳ロボットが誕生していない今でさえ、無機質な物体が生物を支配している。 経済的にも社会的にも無益な人間がいる。定職をもたず、のんびりと気儘に生きている。働いているのか、働いていないのか、どこで生活の糧を得ているのか、誰も分からない。勿論、金持ちそうでもない、しかし極貧でもない。身なりは清潔だが、とても高価なものには見えない。ほとんど人を近づけない、隠遁生活者みたいだ。家の中は広い。どの壁の前にも天井までとどく本棚があり、びっしりと本が詰まっている。書斎があり、一軒ぐらいの幅の広い机もある。机の上には文書が何列も山積みしてある。表紙には各々題名があり、哲学書みたいなタイトルばかりだ。しかし、一度も公表したことはない。世に問うことは望まなかった。ただ真理を求め、解釈し、文学であれ、絵画であれ、音楽であれ評論するのが好きだった。それ以上のことは欲せず、満足できた。人間嫌いではなかったが、相手が嫌った。この世に友人は一人もなく、親類とは一切の関係を絶ち、それでも孤独感など覚えず、幸福感さえあった。なにしろ読書量は半端ではなく、一日一冊ぐらいのテンポで読み飛ばしていた。ただかなり凝り性で必ずテ−マをきめて読書をした。考えが纏まると、書き留めて文書してそれを山積みの文書の上に重ねて、完了させると、やり遂げたような気がした。この人間には特に人生のテ−マなどなかった。それでも時々、人生とは何か、如何に生きるべきか、深々と思考するが、疲労感だけをおぼえ、心地よい眠りについた。所属が大嫌いで、蕁麻疹さえ出て、三日三晩熱に浮かされたこともあった。会社、組織、団体、機構、管理する形態には背を向けた。 凡庸な人にとって重要なことは、肩書き、生活の安定、老後の年金、見栄え、その為に満員電車、無遅刻無欠勤、上司の管理など我慢し、自由というテ−マは退職でもしない限り、全くといっていいほど提起されない。最も好むのが偉人ではなく、肩書きの偉い人で、波瀾万丈の人生など論外となる。特に芸術や文化を愛するが、芸術で人生が破綻しても平気なほどのめり込むことはなく、虚栄心の範疇で楽しみ、生活のために自由を売却さえする。そもそも自由とは何か、おそらく人生で一度たりとも真剣に考えたことはない。相手より自分が偉いとだけ確認できれば、至極ご満悦で偉いとは肩書きと金銭の多寡だけで判断し、社会性などなく、若いのに予測不能の遠い老後の設計をし、自らをしっかりした性格と思い込む幻想癖がある。このカテゴリ−の人々では勝者は虚言癖があり、敗者は夢想癖がある。 おそらく自由業とはこのような人のことだろう。自営業とは違う。自由業はいわゆる職種ではない。この世に実存しているが、業種としては存在しない。つまり職業ではない。生き方のタイプで区分しているだけで、誰がそれに該当し、誰かが認定するわけではない。確かに存在しているが、かなり具体性に欠き、誰も確認できない、得体の知れない存在、けして危害を加えることはない、他へ無害な存在で、強いて言えばロシア語で言う「インテリゲンチヤ」に該当するかもしれない。この言葉はロシア語が語源だ。そしてその範疇に入るのが自由人だ。政治的には一切の党派性はなく、経済的にはどこにも所属せず、自立していて、これといった作品を残す場合もあれば、まったく残さない場合もあり、さらにその準備段階である場合もある。あらゆる管理から独立していて、その全ての発言、表現は限りなく客観性があり、正当なものだ。本質的には必然的に集団と対立する存在で、しだいに追い詰められ、崖っぷちまで高度に発展した文明社会に飼育された画一大衆に追い込まれ、最早足を踏み外し、落下は時間の問題かもしれない。 衣食住にまったく貢献せず、経済とは無関係で、社会的に無用な存在、自由人の典型的な存在、「趣味人」とも言えるし、何かを準備している、あるいは永遠に準備段階の存在、そのように国や政治、社会にとってまったく役立たない存在、それでいて文学、芸術、哲学に詳しい存在、一体何者だろうか。 翻訳者も広義の意味で芸術家の末席にはいるのだろう。それ故に著作権も認められている。表面的には翻訳の結果でしかるべき団体、組織から糧を得ている。しかしもっとクロ−ズアップし、間近に迫ってみると、そうした団体、組織とは細い糸で繋がっているようで繋がっていない。まさに漠然とした星雲で、どこまで行っても靄っとした状態が続くばかりで、とらえどころがなく、存在はしているが、確固とした存在でない。何かの準備段階がいつまでも継続して、結果の出せないでいる存在も、翻訳者かもしれない。何を準備しているのか、回答する場合もあれば、回答しない場合もあり、また準備はしているが、それが何か認識できない場合もある。それでも準備している存在かもしれない。自由人とは今は死語となりつつあり、あるいは「知的遊び人」とまで卑下される場合も珍しいことではない。すでに「レッドブック」に掲載されている。現代社会では組織に所属していない、あるいは管理外にある人間は「白い目」で見られ、異端者にされる。管理とは先ず国や地方の行政機関の書類で定義できる人間のことである。住所不定、職業不詳、無名な芸術家、哲学者などもそうだ。ますますデ−タ化され個人の属性、固有性は項目化、数値化され、結局、代替可能な人間という架空な存在を創り出す。蟻塚の働きアリだけが必要とされ、それ以外の存在は死するか、やむなく屈辱的に頭を垂れ、働きアリになるしかない。働きアリの行動は細分化、単純化され、総合的、複合的な行動は許されない。代替可能な一匹の女王アリが管理者で、それ以外は思考してはいけない。枯れ葉だけを運ぶアリ、糞だけを運ぶアリ、水だけを運ぶアリと、単一労働を求められる。どのアリも一見識別不能で、全て同じように見えるような人間社会が形成されつつある。 その中で自由人だけが、一切から無関係の関係でのうのうと悠然と生きている。これは社会の敵でもあり救世主でもある。管理と自由は対立関係にある。管理は限りなく自由を剥奪し、自由は抵抗しつつも、行動範囲は狭められている。ワンル−ムだけの自由となる可能性すらある。一歩部屋から出ると、歩く方向には標識があり、エレベ−タはボタンを押さないと動かない。全て機械の指示に従順でないと、身動きできない。最早、管理の主人公はマシンだ。人間は機械の命令通りに行動するしかない。機械が人間を選択する。機械の命令を許容できる人間だけが、現代進歩の果実を享受できる。この命令に背くと、反社会的、反進歩的となり、日常の生活空間から排除される。膨大なデ−タを記憶する装置が発明され、人間の頭脳では記憶する機能はほとんど必要なく、メモリが代行してくれる。その分、頭脳機能が縮小したことになる。PCが象形文字を記憶していて、キ−ボ−ドの決められた位置をタッチすれば、すでに自分では書くことのできない象形文字がLEDパネルに表示される。日常生活は動画化され、文章で表現するよりはるかに正確に伝達も出来るし、保存もできる。文字などいらなくなるかもしれない。プロセスは最早要らない。これは機械が代行する。今のところ、起承転結の起と結だけは人間が担当しているが、これも近い未来、装置が担当するかもしれない。終いには異常に肥大化し、身動きさえ自らできないグロテスクな女王アリに人間は変貌する可能性すらある。手足は萎縮し、その本来の機能はすでに失われ、自らの力で移動すらできない。 確かに自由人とは響きが良い。天空果てしなく透き通るような声で奏でれば無限の可能性を夢想させる存在かもしれない。今や発見さえ覚束ない。めっきり数が減って、よほど運に恵まれない限り、遭遇することは稀である。 ひたすら自由を求め、自由になればなるほど、生活の糧から遠ざかり、自己存在を完全否定する一歩手前で、なにがしの恩恵でかろうじて存在を許されている文明の羅針盤かもしれない。文明は発展すれば発展するほど、より完全な管理社会を構築していく本質をもっている。管理できない存在を許容せず、破壊し抹消していき、最後には文明自らを破壊していくのかもしれない。自由は発達した文明と対立する宿命をもっている。今の世の中、何ものにも属さない存在の居場所はますます狭くなっている。あらゆる攻撃があらゆる組織からあり、所属を迫る。どこかに所属すると、信用があると幻想を抱く組織団体は安心して、曖昧模糊の存在を消滅させ、自由という存在を社会から一掃していく。盤石で堅牢な組織も、一夜に破綻し消え去るのも現代社会の特徴でもある。混沌とした社会なのに不純物を排除しようとする。不純物とは一方から見れば不純物かもしれないが、他方から見れば歴然として純粋物である。現代社会は個人の特性を一世紀ぐらい前に発明された計算機、コンピュ−タという機械の能力に強制的に合致させ、個人特性の微妙で繊細な部分は無視し平準化させる。 但し、タヒチの原住民や、赤道近くの島民はその昔、時間も時計もない、生きることがかなり動物に近い、自然の中で管理する者も管理される者もいないのんびりした生活をしていたが、自由人とは言えない。いわゆる”知識がない”からだ。今や、文化人も知識人もなにがしの組織団体に所属し、一定のフォ−マットの中で生活している。テレビなどで膨大かつ複雑な要因が様々に絡み合う未来について平然と予見しているが、ことごとく的中しない。それは現代社会が未知の要素が過剰に存在する社会だからだ。結果から”想定外”などと言うが、想定できることのほうが少なく、ほとんどが”想定外”となる。現在があまりにも不安定で先行きが不確かで不安なので、必然的に未来予想を要求する。”想定外”のリアリテイの不安から未来へ期待をかける。未来への期待は現実を直視する恐怖から強制的に解放されたいという架空の夢ともいえる。予想とは人類の欲望から出てくるもので、人類は未来を予想しながら、その実現のために科学を駆使したり、発明したりして、環境を変えてきた。 ますます集団化していき、集団に属することで、人々は結束が強まり、不安は沈静化すると思い込み、ますます不安にかられる。我々の外部の存在が集団化されても、我々個人の内部は多様な価値観で溢れ、自己内部に宗教であれ、思想であれ、また小さなコミュニティであれ、家族内であれ、社会であれ、国家であれ、多種多様なまさに正反対な価値観が共存し瞬間々葛藤して、喘ぎ声が聞こえるほど精神を傷つけている。そうした要素が互いに威嚇攻撃して熱を帯びて爆発寸前かもしれない。いくら個人を集団化しても、それは物理的側面で、精神の深奥の矛盾は激しくなるばかりだ。異なる価値観同士が物質の原子のように光速よりはるかに早い速度で衝突し火花を拡散させる。現代社会では不眠症など通常の現象で、近代科学の一分野、化学物質、睡眠薬の人工的な助けをかりないと眠りにつけない。 一つの家庭内でも無神論者、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンズ−教徒など一つ屋根の下で寝食共にしていることも、そう珍しいことでもない。共に天を戴かない人々が外見上は友好に生活している。歴史文化の異なる土壌で生まれ育った人たちが同じ空間で暮らしている。こうした混沌として混淆はガラス細工の集団で、ちょっとした震動でもヒビが入り、あっと言う間に粉々に粉砕される運命かもしれない。これが急速に拡大しつつあるのがグロ−バリゼ−ションだ。必然的に一つの価値観が他の価値観を征服し凌駕しようとする。共通項を模索すればするほど、妥協を余儀なくされ、それまで安定していた価値観は不安定となり、互いに不安定な価値観という常に動揺する難破船の乗客のようになる。 集団化に近い概念に方法論がある。その昔、ドイツ人が発明したらしい。最も身近な例はレシピだろう。レシピとは料理の作り方のことだ。これには印刷技術と紙という記憶装置が必要となる。それ以前は天才一人知るだけで、黙したまま死して一代限りとなるか、あるいは口承ということになる。そのため、人間の記憶をたよりに伝承され、規格化、画一化は不可能で、場所や地方によって、同じ内容だったものが、少しずつ変形して理解された。だが印刷技術と紙が発明されると、同一表現ができるようになった。規格化の始まりである。しかし最大の発明は、規格化、画一化という観念を生み出したことである。方法論が先ず適用されるのは組織で、組織内の一単位をパ−ツ、歯車にすることができる。これは組織のトップから末端まで代替可能な部品に変えてしまう。トップがたとえ死のうが、組織は次のトップと入れ替え、ぐらつくことはない。 組織の各単位は可能な限り一つだけの仕事をする。できる限り単純化し、その一つの仕事だけに専心させる。きわめて複雑な人間の頭脳は、一つの単純労働だけに使われ、人類がえいえいと築いてきた知的遺産により形成された知能はしだいにあまりにも単純化した対象にしか利用しないので、徐々に劣化し退行して、進歩したものを振り出しに戻し、まるで猿あるいは原始人、そして動物に近い状態になるかもしれないと言えば、それが空想だと誰が断言できるだろうか。 もちろん、自由とは絶対的なものではなく、相対的なものだ。拘束感、束縛感、自らの行動に対する規制から解放されると、人間は自由を感じるはずだ。逆に言うと、拘束感、束縛感、規制感など感受できない人には、自由そのものが存在しない。あらゆる拘束、束縛から常時解放されて客観的に自由な状態が持続している人間にとって、自由という概念は意味をもたない。だからこそ、自由人の存在は社会、国家、政治、因習、常識に対抗する存在として、きわめて価値がある。感受性が乏しく鈍感であれば、管理された状態に慣らされ、自由も不自由も感じない。しかしこれは物理的自由のことだが、同じことが精神の自由にも言える。物理的自由があっても、精神が自由であることにならない。 精神は常に拘束されている。我々の言語表現は固定観念により、表現する前に決定され、こうしたシチュエ−ションでは、こうこう表現すると、きわめて狭い選択権で言語リストから抽出する。言語もすでに予め決定された表現方法で、この状況ではこう描写する、あの条件ではこう描写すると、無意識のうちに決められ、表現の選択権などない。既存の表現方法で表現できない対象こそが、あるいは対象そのものはありふれた陳腐なものだが、身体を引き裂くような激しい感情の高揚やあまりにも現実と自己の観念が食い違う場合など、言葉で表現できない瞬間がある。まさにそこが問題の本質であり、核心なのだ。既存の手段、方法、形式で表現できない、言葉にならない状況こそが、古いものを破壊し、新たなものを生み出す一歩だ。言語が誕生する以前は、当然言語という形式がなかったことは、想像に難くない。体系的形式なしに事態に対応する表現を駆使していたのだろう。 結論を急いではいけない。何故なら結論などないからだ。そして、すぐ結論の出る問題はさほど重要ではないからだ。 人間は「蜘蛛の糸」(нитка паучка)(小説)にぶら下っている地獄の民かもしれない。そこからどうにか這い出て幸福を得ようと必死にもがいているのかもしれない。鋼鉄の綱でない蜘蛛の糸、ちょっとした力で簡単に切断されてしまう超極細の糸、それに運命を託している。何故切断したのか、自分だけが幸福になろうとしたからだろうか。もし他人を蹴落とさなかったら、絶対切断されない頑丈な糸に変えたのだろうか。そしてそれはまた人類という生物の宿命ともいえる。不完全なのだ。人間は欲望がないと存在できない。一方、欲望は限りなく破滅への道へ導いていく。自然を支配しようとすれば、常に新たな科学技術の開発を余儀なくされ、いっそう自動化され、人間の手仕事の介入の余地のない装置が開発される。それは必然的に知能を退化萎縮させる。最高度に発達した科学と最劣化した頭脳という相反する状況が待っているかもしれない。最早、機械の介入はプロセスだけにとどまらない。問題提起も問題解決もマシンが行う。すでに守備範囲を超えてしまった。 まさに神による天地創造で誕生した人類が天地創造しようとしている。今さら引き返せない。若い頃、芥川龍之介の「トロッコ」を読んだことがある。トロッコは今はほとんど見かけることもなくなったので、知らない人も多いと思うが、荷物を運搬するために四つの車輪をつけレ−ルの上を移動させる手押し車のことだ。幼い頃、家の近くの工事現場で仲間と一緒にこれに乗って遊んだ記憶がある。その程度しか遊ぶ環境がなかった。小説「トロッコ」では、少年がトロッコ遊びに夢中になり、それに乗りながら工事現場のおじさんたちと一緒に楽しく遠くまで行ってしまい、日も陰り気づいたら見知らぬ土地まで来てしまい、もう引き返せないとはっと正気に戻る物語である。 宗教と科学は対立するものと考える人も多いだろうが、実は根源は同じかもしれない。人類最大の発明の一つは未来と過去という概念の発明といわれる。動物には過去も未来もない。リアルタイムでしか生きられない。今が全てなのだ。仮にあったとしても、ほんの瞬間の近未来、近過去でしかない。⒑年先、20年先という概念は存在しない。この概念が創出されることで、記憶、予想という世界が生まれた。同時に言語も誕生する。言語なくしては記憶も予想も不可能である。予想の最初の執行者はシャ−マンだ。つまり巫女ということだ。日本では卑弥呼などはよく知られている。想像する、空想する、夢見ることを覚えたのだ。その命令運営装置が言語だ。最初、天災、収穫、病気など生活と直接結びついた現象を予想する。何の客観的裏付けもなく、わずかな経験値で、星を見たりして占ったのだろう。当たるときもあれば、当たらない時もある。今日では人工衛星を使い、宇宙から地球の気象状態を観察できる。天気の予想である。かなり確実性が増してきた。問題は正確かどうかではなく、予想するという行為そのものだ。 面白い話がある。ロシア語の完了体動詞である。現在形がない。この動詞では現在を表現できない。おそらく言語の初期の形成段階では、過去形も未来形もなかったと思われる。過去形、未来形を形成するには、空想、想像、予想という能力、過去未来の概念が要求される。動物にはこの能力がない。人類はたぶん、言語形成の当初、現在形だけで言葉を使っていたと思って間違いないだろう。そう考えると、いかに言語が人口的、人為的なもので、人間が空想という能力を身につけて飛躍的に発展させたといえる。空想、想像できなければ、体系的言語は存在しないし、今日の文明もありえない。現在だけで生きるのあれば、文字はいらない。文字とは過去未来を記録し記憶する手段だからだ。つまり、この世に瞬間しか存在しないのであれば、記録も記憶も何の意味もない。認識できる範囲が瞬間でしかないのであれば、今日の人類はない。自分が直接見えるもの、触れられもの、聞こえるものしか、この世でないとしたら、それこそ動物の世界だ。そこに想像という機能が介在すると、宇宙の果てまで、あるいは10万年先のことまで空想できる。そして空想の中で実存できる。例えば、ビデオで昨日の出来事を録画したとしよう。確かに昨日、それは実在した。事実だが、今は存在しない。今は今でしかないし、昨日はすでに消滅している。仮にビデオ録画に映っていようが、現実の現在では存在しない。全てが時の流れと共に消え去っていく。今の現実に存在しないが、過ぎ去った現在の一瞬という実在しない瞬間を記録する行為は、過去という概念を要求する。 過去未来の概念の誕生は、信用という架空な概念につながっていく。現代は信用だけで成立しているとも言える。未然の行為をあたかも遂行されたものと仮定する。これが語学でいう仮定法だ。その代表が権力であり、政治であり、条約であり、契約であり、貨幣であり、手形であり、有価証券であり、文字通りクレジットであり、インタ−ネットであり、スマ−トフォンであり、タブレットなどである。実在の世界から飛び出し、虚の世界なのが現代なのである。それは信仰に近いものかもしれない。しかし浮ついた熱から覚めれば、「玉手箱」を開ければ、日常の現在の瞬間という目を覆いたくなる陳腐な狭小なリアルな世界しかないのかもしれない。仮定の中で生きている。確実に起こる、遂行されるという仮定にたって日常が形成されている。目に見える範囲、手で触れる範囲、耳で聞こえる範囲だけで生活すれば、仮定などいらない。何故ならそうした現象が現実と一致するからだ。しかし視覚、触覚、聴覚あるいは嗅覚の範囲を超越すると、虚の世界という概念が必要となる。人間は空想しながら生きている。信用もその一つだ。未だ実行されていない、実現されていない架空の状態が必ず実行される、実現されると思い込むのが信用だ。 かなり以前から条約でも、協定でも、契約でも、個人間の約束事でも容易く反故にされる状況になっている。元々まだ起きていない未来について拘束しあうことだから、自然の成り行きかもしれないが、それは信用の上に誕生した現代の文明社会を根底から覆すことに他ならない。「必ずやる、必ず実現する」と断言してそうならない状況とは、未来を予想するという人類の大発明を否定し、原始的状態に戻すことを意味する。そのうち物々交換だけの世界になり、信用制度がこの世から消え去り、瞬間でしか生きられない動物に人間は回帰するかもしれない。未来を否定することは人間の想像力、空想力を否定することで、今日の人類史を台無しにするものだ。 人間である限り過去と未来は絶対条件だ。この空想力、想像力が全てを生み出してきた。人間は空想、想像することで、その行動範囲を飛躍的に拡大してきた。夢見るとは、現実の否定であるが、同時に未来を信用するという行為でもある。視点をかえてみれば、人類は、あるいは人類になるか、ならない太古の時代、きわめて厳しい現実の状況の否定から出発したのかもしれない。明日を夢見る能力を身に着けたのだろう。つまり明日が存在するという想像力、明日という概念を作り出したのだ。明日が存在することで、明日に向かって今の現実を生き、変革する意義を見出したのだろう。明日という概念が存在しなければ夢見ることはないし、現実を肯定するしかない。それは自然にたいし無力で、自然の掟に従順で、自らを自然にあたかも迎合するように変貌させるほかない。明日の概念の誕生で人類は自然を自らに合わせて変えることを覚えた。変えるとは破壊することに他ならない。変化とは破壊を意味するからだ。人間は急速に天地創造の主になりつつある。この主人公は科学であり、合理主義であり、自然は人間の敵であり、人間は自然の敵である。人間と自然が融和することはないだろう。融和すれば、一気に原始状態に戻らざるえない。科学が自然を超克するか、それとも自然によって破局させられるか、どうなるか分からない。いずれにしても、明日という概念が存在するかぎり、自然に対し挑戦を続けていいくだろう。 きっと明日という概念が消滅する日がやってくるだろう。それは空想の概念でしかないからだ。明日に向かってどこまでも進み、宇宙の果てまでいき、何を発見するだろうか。過去にひたすら遡っていき、何を見るだろうか。人間は天地創造の主になれるのだろうか。生物としての人間の欲望は、過去未来の概念を発明させ、それを無限に発展させる。この概念が宗教を生み、科学を生み、そして科学で立証できない部分がある限り、未知の世界がある限り宗教が補完する。この関係がいつまで続くか分からないが、少なくとも欲望という非科学的なものが人間の存在条件だとすれば、終わりを見ることはないだろうし、決着はない。 「翻訳と精神の自由」という表題で話をすすめてきたが、随分逸脱してしまった。人生は逸脱ばかりだ。逸脱した一本の道かもしれない。上記の観点からすれば、「既成の概念」とは必ず「未来」という概念に破壊され、とって換わられる。語学では「未来形」は弱々しい。現在形が最も確かなものだ。現在という確実の時間を放棄して人は不確か未来へ旅立った。魅了された未来を夢見ることで、空想することで現代文明は形成されたが、かなり精神は損傷し、さらなる遠い未来への旅にあきあきしている。生物である限り欲望が未来へ突き動かす。過去未来の概念の発明が、欲望に拍車をかけ、精神は高熱の坩堝に投げ込まれ、もしかしたら溶解し始めているかもしれない。もちろん、精神そのものに形はないが、思考のファンクションを掌ることは事実だ。思考力の減衰は未来をバラ色か、暗黒にしか描けない。全てを単純化してしまう。最早、単純化された社会には未来を想念することは不可能だ。現代社会が停滞、行き詰まっているのは、これまでの方式で思考することでは、未来を描写できないからだ。未来とは現在を否定することだと指摘したが、今や否定する能力があまりにも弱々しい。現在を否定できないのだ。もしかしたら混濁、沈滞した状態が中世のように長期間に続く可能性すらある。あるいは単純化そのものにより惹起される単純行動が現代文明を破局させるかもしれない。 危機とはある状態から他の状態へ変化する段階をさすらしいが、危機意識の欠落とはそうした変化が期待できない意味ともいえる。 急に冷え込んできた。つまらぬ出来事、つまらぬ人間群、老いて唐突に慈悲深くなる滑稽、いつまでも同じ手法で我を通すと、「頑固者」でも、「信念の人」でもない、「認知の人」にされてしまう。医学的カテゴリ−一歩手前にいる老人群の無自覚、肉体未だ衰えず、思考力はなはだ劣化、「小児病」という重症患者、老人同士の宴会は避けたいものだ。感情をコントロ−ルできない。そこにエタノ−ルが入ると、感情が暴走し、制御不能となる。もしかしたら長寿”認知”症候群に国は破滅させられるかもしれない。 翻訳をしていると、原文を書いた人は、どんな人だろう、どんな生活をしているのだろうか、裕福なのか、貧困の淵にいるのか、普通の人なのか、家族がいるのか、その国は平和なのか、戦争をしているのか、子供の瞳は透き通っているのか、男女はどんな服装をしているのか、民族舞踊はどんな風なのか、様々なことが空想される。ところが今では衛星通信を使い、原作者の素性が暴露される。画面に顔が映り、服装が分かり、一部とはいえ生活空間を垣間見ることができる。暮らす町の状況も映し出される。限りなく想像力を奪っていく。空想を許さないのだ。空想することで発明された人工衛星が空想力を劣化させる。リアルタイムから未来へで旅立った人間をリアルタイムに引き戻す。異文化が身近になり、同化していく。最早、想像はいらない。現実という、ありのままという、美学を否定する現状のみが存在する。そして人類と動物を区別する最大の特徴が雲散霧消していく。 しかしまだ人間をやめるわけにはいかない。生物としての存在を停止するわけにはいかない。存在の根拠が欲望だからだ。欲望がある限り、さらなる未来を必ず目指す。さらなる空想を要求しなければならない。現代科学がもたらした劣化した思考力でもっと先の未来まで想像できるだろうか。欲望が収縮しつつある。単純化された思考は、直近の未来しか想像できない。しだいに注意力は遠い先のことではなく、目の前のことにしか向かなくなる。単純化思考は未来予測なしに大胆な行動に出るかもしれない。どうする?欲望の萎えた生物は絶滅するほかない。現代を取り巻く環境、最新の科学技術はあらゆる欲望を萎縮させていく。 未来へ衝動させる欲望が絶無ということになれば、完了体動詞はいななくなる。不完了体動詞だけで未来を語ることになる。それは未来も現在の反復行為にしてしまう可能性がある。今を生きる欲望が未来という概念を誕生させたが、今を生きる欲望が希薄なれば、未来の概念も限りなく縮小していく。もしも現在形しかなければ、もしも現在しか存在しないとすれば、狭い地球の中での争いごとはパンデミックな状態となるだろう。精神の中で未来の概念が消滅すると、思考は狭小の枠内でしか活動できず、行き場のない思考活動は刃がぶつかり合う時のように常に火花を散らし、精神の中で大火災を発生させるかもしれない。周りが全て敵に見えるかもしれない。人類を乗せた大型船は暗礁の乗り上げかけていると言えるかもしれない。その意味で宇宙へ向かうことは正しい選択かもしれない。そこにはまだまだ現在を忘却させ、未知の未来が無限大に存在すると幻想できるからだ。 もう一つ問題提起しておく。時代錯誤という問題だ。科学があまりにも凄まじい速度で進歩するので、人々の多くはそれについて行けない。科学の発展は必然的に生活の価値観を変化させる。人々は常にそれを後から追いかけていく状態だ。最初は身近な科学も、その背中はかなり遠くなり、とても追いかけられないぐらい引き離されてしまった。古い生活様式ではすでに役に立たないが、そこから離れようとはしない。あらゆる制度が科学進歩と一致していない。しかしそれは外部的なもので、もっと重要な点は思考が科学進歩と対立している点だ。視点をかえると、思考が未来と衝突していることだ。未来を奪うということは今後の人類に発展がないというだけでなく、想像力、空想力、そして思考力を無にすることを意味する。限りなく無に近い思考とは、現実の中でしか生きられない。欲望がリアル空間の中でしか身動きができない。そこではすでに未来は存在しなく、すべての思考は現実の欲望のためにしか活躍できない。静止状態の時間の中で生きている。もし科学が未来の概念によってのみ存在できるとすれば、もし明日も今日の現実であるとすれば、時代も静止したままだ。未来形がなければ、過去形もない。過去形も想像の概念だからだ。想像が過去未来の概念を生み出したが、想像力がなければけして過去に回帰することはできない。いくら過去に戻ろうとしても、未来を見通す能力がなければ、現実の瞬間のみが過去をなるだろう。それもほんの一瞬だ。古い価値観とは未来を否定するものだが、それはこれまで累々と蓄積したきた科学を否定し、破局へ導くかもしれない。今日の文明を破壊するものだ。そうあってほしくはないが、まったくあり得ないと誰も確信できないだろう。今日ほど科学と人間が対立した時代はないかもしれない。人間は時間という概念を身につけたが、時間が止まるということは、思考停止状態をさすのだろうが、現代の人間たることをやめることに他ならない。人類は最早、前進するしかない。どのような結末になるか誰も分からないが、一刻も早く科学と風土、因習、現実文化を一致させる必要がある。 自由人の晩年は孤独だ。しかしそれが幸福なのだ。孤独でないことは自由人でないことだ。今はまだ時間が停止していないので、明日はやってくる。特に抱負などないが、翻訳だけに明け暮れる一年が待っているだけだ。明るく元気とはいかないが、暗い憂鬱な日々もいただけない。淡々と生きる、ただそれだけかもしれない。ひたすら虚構の中で...。』 (露語翻訳家:飯塚俊明) これまでの発言 |