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2000年3月分履歴

3月27日(月)

“プ−チンのカンニング・ペ−パ”

-政府は社会に何を期待しているのか、社会は国家に何を期待しているのか

モスコフスキイエ・ノ−ヴォスチ、10、ガリナ・トウマルキナ)

 

大統領代行の提案で設立された戦略研究センタ−はクレムリンの新たな戦略を綿密に練っている。

 

「ロシア発展戦略の目的と意義」というセミナ−の参加者は、ロシア人の価値判断の基準が変わったのか、もし変わったとすれば、どのような方向に変わったのか、この問いに答えようとしていた。

 

政府は信頼できるか

マ−ク・ウルノフ:分析プログラム財団「エクスペルチザ」会長

−私から見て、この十年国内で何がよくなり、何が悪くなったのだろうか。最も良くなった点は、ソヴィエト価値観(社会保障、相対的平等、大国主義、磐石性等を一貫して求めた)シンドロ−ムが局所的となり、四分の一に縮小した点である。さらにもう一つ加えれば、社会学的調査によれば、寛容性が増した点である。

 

どのような民主主義を形成しても否定的な面は、社会に核となる支配的価値観が存在しないことである。ロシアは現在、国民をおおまかに三つの層に区分することができる。第一の層はソヴィエトの価値観を信奉し、国民のだいたい四分の一にあたる。第二の層は国民の10%ぐらいだが、きわめて一貫して自由主義の価値観を支持している。最後に第三の層だが、国民の大部分がこれにあたるが、かなり互いに相容れない志向をもっている。しかし、国家は政治を行うにあたり、まさにこの大部分に目標を置くべきである。

 

政府にたいする信頼性も変化した。この信頼も仮に三つのタイプに区分できる。全幅の信頼、よそよそしい信頼(我々の生活改善はまかせるが、すこし様子をみる)、暖かい信頼(共に働く)に区分できる。現在国民の大半は政府にたしては、よそよそしい信頼である。

 

ロシアに発展する能力があるか

オクサマ・ガマン(国務大学教授):国民各層の価値観は異なるが、一点に関してはコンセンサスがある。これは、発展思想を受けつけないことである。エリ−ト層にかぎらず、一般国民も同じである。沈滞が都合をよい。ここでは各人は能力に応じて報酬をうける。ある者は工場をそっくりかっぱらい、ある者はパイプをかっぱらう、しかも仕事中である。このようなネガテイブなコンセンサスにより、第三ロ−マ帝国はついには第三世界にはいってしまった。

 

急激な近代化は前向きな発展とは異なり、将来の価値を最優先するが、そのためにはもっぱら現在の道具を利用する。このようなやり方でロシアではほとんど全ての改革が行われた。例えばソ連時代、産業の近代化は農家出身者と第一世代の知識人が実行した。しかし今日の政治家は立派な教育を受けているが、残念なことに国の体制危機を未然に阻止することができなかった。さらに新しい支配層には発展計画を実行する能力がないことがわかった。何故なら彼らの大半はこれには関心がなかったのである。今日最も困難なことは、現在の政治家に国家の発展も含めた長期発展計画をやらせることである。

 

ケネデイの言葉を言い換えると、ロシアはあまりにも長い間国民にたいし「君は国もために何ができるか」と問題提起してきたと言える。それ故、現在ロシア人により関心があるのは、国は我々のために何ができるかである。

 

「飢えに備えよう!」というスロ−ガンは今では理解されないだろう。豊かさやメリットという観念に、つまり最優先の価値観にうったえるほうが、はるかに効果があるかもしれない。我々がきわめて現実主義的なものをアッピ−ルしだす以前は、発展の思想や価値観、目的は、劇作家イヨネスコの戯曲「ゴ−ドを待つ」で皆が語り、今かいまかと待つが、結局舞台には現れない主人公に似ている。

 

国は雪辱できるだろうか

イ−ゴリ・ブ−ニン(政策センタ−所長):

19988月は我々はたんに金融破綻に陥っただけではない。社会におけるヘゲモニ−を標榜する文化も破綻したのである。これを現代文化とも、ウエスタン文化とも、自由主義文化とも名づけることもできる。この文化の破綻原因は経済の失敗にあるのではなく、この文化が社会と対話しようとしなかったからである。それは独特の社会進化論を唱え、インタ−ネットを知らない人間はこの社会にふさわしくないと考えていた。

 

19988月に自己破綻した後、この異端文化は大きな期待とじきにパラダイスがくると約束したのだが、明らかに敗北主義の特徴と空虚な価値観を露呈した。その直後、我々は自分たちと西側をほとんど比較することをやめ、しきりに精神主義という言葉を使うようになった。第三の道を主張しはじめ、ロシアには独特の精神が存在し、それ故、どんな文句をつけることができるのかと語りはじめた。そして近代化の牽引車である起業家を失った。彼らにたいしても、民主主義者にたいしても、社会はきわめて否定的な態度となった。これらのグル−プは、汚職や本来の社会的役割をはたさなかったため、信用を失った。国家が先頭に立ち、あらゆる空白を埋めはじめた。これはある意味では前向きでもあり、国家ととも以前は地下に潜んでいた価値観、すなわち厳格、しつけ、陸軍幼年学校などがやってきた。

 

しかし、この価値観はきわめて拡張主義的なものである。チェチェン戦争、これは一種の軍人の復権だろうが、それを背景にしてみると、社会を兵舎にかえるおそれがあり、そしてあらゆる後遺症をもたらす可能性がある。

 

幸いなことにこの価値観の体制はまだ強固なものではないし、まだ完成していない。このサブカルチャ−が個人の分野に抵触しはじめると、若干の法案では例えば選択的職務法案ではすでに検討されているが、社会は急速に後戻りしはじめるだろう。それでも社会は全体主義的段階まで戻ることはないだろう。それというのも、ありがたいことに我が国ではプライベ−トの分野がしっかりしてきたからだが、しかしこの傾向の危険性は存在する。

 

再び二つの害悪からスタ−ト

ピョ−トル・フェドソフ:連邦議会顧問

成功は国家を強化する方法によってのみ可能である。この方法は全部で二つある。強烈な独裁主義的やり方と戦時体制的なやり方である。第一のやり方はあまり適切ではない。その理由は、国民のかなり多くの部分の期待に反するものであり、西側の理解が得られない等である。第二のやり方は、民主主義の特性を保ちつつ、特に権力を分割させながら国家を強化できる。どの方法が選択されるか、その目安となるのが、憲法改正にたいする政府の態度かもしれない。今きわめて重要なことは、憲法のメカニズムを通して一つは連邦政府の力を本当に強めることであり、もう一つは権力分割を定着させることである。大衆の認識からすればこの問題はさして切実でないと考えるのは間違いである。

二月の世論調査では、一つは70%、もう一つは55%の人がこうした憲法改正を支持している。

 

美的にやる必要があるのか

ゲオルギ−・サタロフ:民主主義のための情報科学センタ−所長

五十年代半ば、ドイツの社会学者は改革により痛々しく苦悩するドイツ国民にむかって問いかけた:「現在か、それとも1932年の時代か、どちらで生活したいか」

これは基本的価値観に関する問題である。さらに大局的方針を作り上げる時、この価値観をどの程度考慮すべきか、その問題でもある。計画作り、特に大局的方針作りはソ連時代では常に得意なゲ−ムであった。このゲ−ムに参加した著名人は、このプレ−の失敗は主としてプランナ−が依拠している目的と価値観が政府の目的と価値観と一致していなかったことだと、回想している。政府には別の価値体系があり、それを社会や、それどころか専門家とさえ共有しようとはしなかった。そのような計画にいったいどんな意味があるのだろうか。

 

同じ問題が現在提起されている。我々の計画作りにどのような意味があるのか。依頼者と、この場合政府だが、専門家の間には、「政府が計画作りに着手し、目的と価値観が専門家にとっても、政府にとっても公理となれば、政府と専門家が一緒になって目的と価値観を決定する」というある種の取り決めが存在しているとすれば、このことは明らかであろう。私の理解しているかぎりでは、これは推測できない。我々には次の課題があると思われる。「社会を満足させるため、どんな美辞麗句をならべる必要があるのか」

専門家として、このことも含め、何が社会にとって満足させるものか、それを研究しているいるが、「これにたいし特に配慮する意味がない。国民の半分はまったく何らかの確固たる思想体系をもっていない」と言える。「あなたは市場経済がすきか」と問えば、「わからない。しかし必要だ」とこたえ、「君主を望むか」と聞くと「君主もよい」とし、「強い権力はどうか」とたすねると「強い権力もよい」とこたえる。国民は少なくとも50%はあらゆるものに順応できる。

 

ただ7%の人は別の回答をしている。「あなたは市場経済がすきか」の問いにたいしては「もちろん、これはよい」とし、「価格は調整されるだろうか」の問いには、「もちろん、調整される」とこたえている。国民の大半はすべてを受け入れるつもりである。無論、一定の範囲ではある。これは誰がどんな形態でこれをやるかにかかっている。内容はまったく関係ない。

 

ヨ−ロッパかアジアか

ボリス・マカレンコ:「政策センタ−」副所長

静かにそっと過渡期の終焉が近づいてきたと思われる。これは国会で統一と共産党の部分的共闘という戦術的動きのようなものが出てきた時から始まった。そうした後では過去に戻る可能性のテ−マはその緊急性を喪失した。我々がこの過渡期の終焉に何を携えて接近しているか判断するために、米国の哲学者ウオルトコ−ルの言葉である、大きな価値観と小さな価値観を利用する。小さな価値観とは普遍的なもので、ほぼ人類共通なものである。大きな価値観とは、制度的なもの、国家的なもの、文化的なものなどである。

 

それであえて推定するが、小さな価値観のレベルではここ十年ロシアには民主主義の価値観が形成された。一方大きな価値観、つまりそれを機能させる社会制度の構築は、残念だがうまくいっていない。

 

我々はチェチェンのロシア人兵士の命を尊重することをおぼえた。しかし一般住民はまだである。企業活動の自由を尊重することをおぼえた。しかし、それが犯罪と官僚主義の妨害によりどれほど身動きできないでいるか、見ないふりをしている。言論の自由を尊重することをおぼえた。しかし、ガスプロムがチェチェンにたいするテレビ局の姿勢に関し、テレビ局“NTV”との関係を見直すと最近のビャヒレフスキ−のような発言が当然なこととしてまかり通っている。

 

民主主義の価値観とそれを実現する機構を構築するができないという、矛盾に満ちた環境において、ロシア社会は航行せざるえないが、あえて推測すれば、いずれにしても民主主義の方向にすすむだろう。(中断)

 

 

3月15日(水)

“愚かなことの繰り返し”(完)

-どうして我々に反西欧主義が深く根付いてしまったのか、時々考えたらどうだろうか-

(モスコフスキイエ・ノ−ヴォスチ、8、ワシリイ・アクセノフ)

 

民衆の意識の中に、ロシア人に良いことは、ドイツ人にとって悪いことであるとか、敵に絶対降伏しないというその価値観の源泉はどうのようなものなのか。ピョ−トルの改革当時、大貴族は自分の長くてふさふさしたあごひげのことを心配していたことは知られている(注:当時あごひげ禁止令が出された)。その後どうなったかというと、あごひげは全て剃り落とされたが、反西欧気分は輸入かみそりでさらに強まったのだろうか。

 

自分のクラスでロシア長編小説200というゼミナ−ルをしていると、このジャンルの起源をもとめ、より古い時代、とくにロシア人により次々と長編小説が作られた騎士道の十八世紀に遡っていった。これらは主に宮廷に近い上流階級の人々、つまり英国風に言えば、ビッグ・ウイグ(おおきなかつら/有力者)と呼ばれる人たちによって作られたものであった。これはまさに文学中心の世界であり、それはとりわけ、大女帝エカテリ−ナ二世自身が、大きな空想力、時に若干途方もない想像力をもった作家でもあった所為でもある。これらの長編小説は全て温室育ちで高い教養のある、化粧かつらと銀色のチョッキを着けた人々や、最新のパリ流行の赤色の高いかかとの靴をはいたとんでもない侯爵によって書かれたもので、積極的ではないものの、明らかに反西欧主義の考えが内在していた。

 

例えば、A.P.スマロコフはヨ−ロッパの立派な教育、主にフランスで教育をうけており、幸福な社会について、論争を挑むような強い家父長制の理想郷をつくりだし、そこではロシアの農民はまったく西欧とは異なり、勤労意欲があり、全てが幸福で、それは正義が支配しているからだとしている。彼はさらにエカテリ−ナ二世を称賛し、つまり彼女はロシアの家父長制家族の守護者として意味付けられている。

 

もう一人の洗練された知識人、ロシアフリ−メ−ソン支部設立者、ロシア文学先駆者ミハイル・メトヴェエヴィッチ・ハラスコフはその長編小説「カドムとガルモニア」で、自分の妹ヨ−ロッパを探し求めるカドムの長旅を描いている。旅の中でカドムは幸福の民族スラブの住む桃源郷に辿り着く。この快適でこの上ない社会を支配しているのが、言うまでもなく、聡明で高潔なる女性である。旅は終わり妹を見つけることはできなかった。これは、本当はヨ−ロッパは必要ないと暗に意味している。

 

若干のロシア空想小説は何故か月を舞台に描写され、これに作家レヴシンの「最新旅行」や作家チュルコフの「キダロフの夢」がある。この二つの小説とも、ロシア人の信仰のアンチテ−ゼと言われる西側科学(すなわち、ソヴィエトそのものが西側に追従していた)に関心を抱くロシア人を嘲笑している。

 

これと同じような繁栄の王国を読者は、リヴォヴ侯の小説「ロシアのパメラ」で海難にあった船乗りが辿り着いた遠い地の島に見つけるのある。

強烈な反西欧の風刺が侯爵シェルバコフの小説「オフルの地への旅」に描写されている。ここでは寓話的な手法と用いて、ロシア最大の西欧主義者ピョ−トル一世に非難を浴びせている。ピョ−トル一世は自然の摂理に逆らい、歴史上の偉大な人々が作り出した伝統的な美徳を破壊した人物である。

 

それ以来、このような傾向でロシアの空想・風刺小説、つまり貴族の空想小説が次々と世に出た。西欧諸国の描写では、これをのけ者とか畜生と呼び、スラブの地となると、光輝なるものと描いていた。反西欧主義はあるきわめて影響力のある貴族集団の強い思想と結びついていった。勿論、他の潮流も存在し、小さな西欧の暖流もロシアの地にとどいたのだが、いずれにしても当時は、親西欧のユ−トピア小説が作られることはなかった。

 

一体何がこれらの富裕者にこのような作品を書かせ、女帝の目に直接ふれるように駆り立てたのか、女帝こそが帝国最大の読者であったからだろうか。どうやら作者はまさにこの読者を感化し、愛国心を強め、鎖国するようにしていたのかもしれない。女帝エカテリ−ナがヴォルテ−ルと手紙のやりとりをしており、またペテルブルグの宮中にはフランスの啓蒙思想家デニ・デイドロが長く滞在していたことは知られている。当時の教養人である女帝にとって、西欧で有名な作家や思想家と意見交換することは感激であった。

 

こうしたところに、ロシアの反西欧傾向のユ−トピアの謎が潜んでいるよう思える。当時の富豪や、大地主、数千の農奴所有者、女帝が狡猾な西欧自由主義者の影響をうけて突然、農奴支配権を取り上げ、しまいには廃止しまうことをまったく恐れていた。そうなれば、無限でありかつ長年の精神的風土によりあたかも合法的となった特権や、権力、富とはおさらばとなる。

 

エカテリ−ナは統治の初期においては、多くの政治改革、社会改革を実施しようと試みるが、その後の情勢の推移によりこの計画は断念せざるえなかったことは知られている。何がより多く女帝に影響したか、ロシアの貴人の反西欧ユ−トピアなのか、それとも偽ピョ−トル・プガチェフの血の反乱なのか断言するのは難しいが、強烈な反西欧思想が生まれた。

 

ボリシェヴィキ圧政の反西欧主義は説明の必要もないが、ボリシェヴィキにとってはガスを自然排出する自然の新陳代謝であった。ところがどうして、民主的で一見当然のこととして親西欧主義とおもわれる新生ロシアにおいて、反西欧主義が絶え間なくますます強くなっていくのだろうか。これは、とるにたらないバルカショフや、リモノフ、アンピロフのグル−プの活動や、プラハ−ノフの新聞、しかるべき不変性を続けるロシア共産党の活動によるものではないのだろうか。いいや、これは新たに生まれつつある思想であり、さほどはっきりしていないとしても、きわめて本質的な起源のものである。あえて推測すれば、この現象は複雑に入りくんだ政府や政界、金融・経済界、官界、警察・法曹界、犯罪組織、文化芸能界等の中核で起きている。

 

1991年以降、まだ何も理解せず、何も解明しないで、大きな恵みを期待し上機嫌で西欧にむかって突進したが、深くつき合えばつき合うほど、頻繁につまづき、立ち往生し、当惑しながら顔を見合わせるようになった。

 

ソヴィエト崩壊後様々な変化があったにもかかわらず、シェレメ−チエフ空港に着陸したとたん、遠く離れた孤立した世界と感じるのは何故だろうか。何故、国際資本や多国籍企業のロシア参入がこれほどゆっくりなのか。ひょっとしたら、我が国支配層が誰にも儲けをやりたくない、その所為だろうか。しかし、より早く発展すれば利益も増大することも理解できないほど、やはり彼らは無知なのだろうか。問題は、西側大企業がやってくると、既に出来上がったきわめて安定した現在のロシア資本主義の大根幹、言いかえれば、社会主義が最も猛威をふるっていた当時でさえ存在していたあいかわらずの内輪のかばい合いが破壊されることにあるように思える。

 

それなしには西側の財政活動がありえないと思われる、いわゆる透明性という現象を例にとってみる。どうやればこのようなものを我が国の快適で隠された環境に導入することができるだろうか。たしかに、ある方面には光が当てられておらず、若干の分野では透明性の要求が礼儀を欠くものであり、恥知らずでさえあると、あたかも全て取り決まられているように思われる。

 

ある時モスクワで興味をそそる話をきいたことがある。ロシアのある巨大企業が西側大手銀行の一つに大型融資、約30億ドルの融資を申し込んだことがある。銀行はこれにたいし好意的な態度であったが、どの分野に融資する資金を利用するのか、その詳細が書かれたプロポ−ザルの提出を求めた。きめられた期間内にプロポ−ザルは提出された。収支が一致していない一点を除けば、内容は全て正常に思われた。予想される支出は融資全額では賄うことができず、若干のドル、約1億ドルから2億ドル不足していた。西側金融家は冷淡な態度をとり、世間の尺度で推し量れない問題と直面していることをあたかも理解していないかのごとく、この些細なことに関し説明を求めた。

 

この十年間、我が国には民間銀行も企業系銀行も既に多く存在しているが、なけなしの金はあいかわらずカバンに入れて持ち運んでいる。快適で生まれつきのやり方であるが、犯罪の温床でもある。たしかに冷酷なウオ−ル・ストリ−トが入ってくれば、このような利便性はあきらめざるえない。

 

しかしあきらめるのはこれだけでないだろう。外国の大企業が入ってくれば、ロシアは世界の日常生活に本当に組み込まれるだろうし、そうなれば全ての分野で価値が見直され、相互にかばい合うグル−プの権威は揺らぎ始めるだろうし、おそらくこの新しい独特の支配権による特恵を手放さざるえないだろう。

 

我が国の高官は反西欧のユ−トピア小説こそ書かないが、意識的かあるいは無意識のうちに社会の雰囲気を作り出している。優越感と劣等感が再び表に現れ、なにかはっきりとしない曖昧だがきわめて強い屈辱感がつのり、我々にプライドがあり、毅然としていた時代へのノスタルジアが再びよみがえり、「だれよりもうまくソヴィエトのバイオリンは世界コンク−ルで鳴り響く」と古い歌が聞こえくる。商人の西欧と高潔なロシアとは相容れないものだとする考えが広がっている。しばしば、とんでもない考えをもつものさえいる。

昨年夏、憂鬱な気分になったモスクワのテレビ番組を見た。これは宇宙分野の研究に関するもので、特に月の探査に関するものであった。この番組では、アメリカ人は月に一度もいったことがないとしている。宇宙服を着て月面を何度も飛び跳ねる乗組員のア−ムストロングとオルドリンはすべて、ロシアの自尊心を傷つけるためのハリウッド流の芝居に他ならない。ブレジネフ時代のKGB第五課のゾンビもすでに動き出しているとすれば、最悪だと思う。まさか、とっくに錆付いた鉄のカ−テンの取り付けが再び開始されたと言うのだろうか。

 

この鉄のカ−テン再設置の様子は、反対側からの力についても言及しないと、無論不十分である。西側はこの新しいロシア反西欧主義にたいし、まったく唐突であり、恥ずかしくはないとはいえ、取るに足らぬやり方で反応している。特にこれが顕著なのは、マスコミの現在の傾向である。ロシアは悪意のかたまりの国家であり、文明と民主主義の生来の敵と思われている。ロシアは自由共同体の立派な一員になる前にすっかり破壊せざるえなかった若干の他の諸国と異なり、自力で独裁主義から脱出したことに何故か誰も気が付かない。

 

運命の急変により西側の住民となった多くのロシア人は、困惑と失望を今あじわっている。最近、隣人のペテルブルグ出身のインテリ女史が「私にはアメリカ人が独裁主義ソヴィエトと新生ロシアとをまったく区別できないと思える。私は常に西欧人だと自分のことを思っているが、新聞を読んだり、ニュ−スを見たり、政治集会で演説者の話を聞いていると今では、ある意図的な無理解だと思えるのが、まったく戸惑うばかりです」と情けなさそうに呟いていた。

 

これは私の感じかたとも一緒である。そればかりではなく、時に思うのは、多くの人はアレクサンドル二世も、ウラジ−ミル・レ−ニンも、イワン雷帝も、ボリス・エリツインも区別できないのか、それとも区別したくないのかもしれない。このような困った無分別の最もよい例が、オタワの主要紙に掲載されたカナダ記者の最近センセ−ショナルとなった記事である。同記者はロシア全体をひっくるめて、キャベツに包まれた醜悪なかたまりと名づけた。こらえきれず、自らも馬鹿となってこうしたnt-family: