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2001年8月分履歴

8月27日(月)

“化学兵器毒物の緩慢なる汚染”(完)

(オゴニョ−ク、32、ユ−リ・コレソヴァ)

-化学者レフ・フョ−ドロフ、化学兵器投棄の秘密明かす-

すでに15年間も化学兵器の投棄場所を調査している第一級専門家レフ・フョ−ドロフは、ここで土壌サンプルを直に採取した。古い有毒ガス、イペリットはその兵器能力、突然変異誘発力をけして失っていないことが分析して確認された。土壌年齢にもかかわらず、まったく新品であった。有毒物質を収納している容器は時の経過により若干腐り、今にも“ガスを噴出し”そうであった。

 

「“白亜の別荘”があったまさにその場所に1918年試射場が作られ、そこで多量の化学兵器の実験がされ、貯蔵された。そして弾薬に有毒物質が注入された。この試射場は1961年まで存在し、その後この化学兵器は廃棄され、その場所に埋められた。」

 

−誰も化学兵器そのものを管理していない、しかし後にあらゆる突然変異誘発原があちこちで浮上しはじめることは明らかです。これは悪夢のようなニュ−スとなるでしょうか-

「それほどではありません。1993年1月、化学兵器の開発、生産、貯蔵、使用及びその廃棄に関する条約が結ばれました。この条約そのものは、1997年4月に全世界にたいし効力をもつようになりました。この条約を承認した各国は関連した諸問題に関し、世界に向け全情報を伝える義務があります。先ず、当然ですが、化学兵器の現存の所有量、現在の貯蔵場所、さらに古い化学兵器、他の国に放置した化学兵器について報告する義務があります。

 

例えば米国はこの条約を批准すると、現在保管倉庫八ヶ所の化学兵器廃棄と製造工場の撤去プログラムを公表しました。しかも米国人は過去とも清算しました。彼らは議会命令で古文書を分析し、化学兵器に過去に関わった倉庫、試射場、埋蔵所など全215ヶ所を明らかにし、全体について詳細に全国向けに報告したのです。この報告書は1993年から一般閲覧できますから、誰でも見ることができます。そこにはワシントンに埋められたことも記載されています。とは言え実際には、報告書に記されているように埋葬箇所は一ヶ所ではありません。今回発見されたものは、当時彼らはうっかり見逃したのです。それで大きな問題となりました。

 

ロシアにおけるこの条約の扱いは、はるかに関心を引くものです。私たちも、わが国に七つの化学兵器倉庫と有毒物質生産工場があると、世界に向かって伝えています。しかしそれで全てなのだろうか。米国と異なり、わが国軍隊ではこうした化学兵器を扱ったかつての作業現場は発見されていません。紛失したのだろうか。まるでわが国は第一次世界大戦に参加せず、第二次世界大戦では化学兵器使用を準備しなかったようになっています。世界はもとより、自国国民にさえ報告するものは何もないとしている。ちなみに米国政府は発見されたイペリットガスについてしきりに逃げることはせず、その上被害者はある程度の補償金を貰えるはずである。そこで私は、ロシアとCIS諸国にあるのこうした場所約400ヶ所の名を挙げるつもりでいる。」

 

-こうした情報はどこから入手されたのですか-

「私は長い間こうした事態を追跡し、すっかり把握しています。そこで1992年から1993年の間にわが国将校が行ったことを話します。ロシア国家軍事古文書保管所がありますが、そこには三千のファイルが保管されています。“化学者”はそこに2700件の文書を公開禁止とし、あらためて特別保管所に秘匿しました。だが彼らが見て最も影響がないと思われる300のファイルは一般閲覧に回されました。とは言え、状況の怖さ全体を理解するにはファイル五個もあれば十分です。それに国防省の役人が資料全て隠したとしても、私はどちらにしても探し出します。文書というものは、少なくとも二部印刷されるものではないですか。全ての軍人が様々なやり方で証拠隠滅をはかっています。誰しも自己のセクト的利害関係があります。例えば“化学者”はある部分を隠蔽し、空軍大佐は別のものを隠し、戦車部隊関係者はさらに他のものを隠すといったぐあいです。つまり、私が全ての文書にうまく潜り込めれば、必要なものを発見できるはずです。しかしそれにもかかわらず、極秘扱しているのに最も滑稽であったのは、こうしたことに没頭している将軍たちが、どこにどんな化学兵器があるか、時として連邦保安局にさえひた隠しにしていたことです。例として特徴的なケ−スをあげてみます。最近アルハンゲリスクの化学安全会議に参加した時のことですが、当地の化学兵器倉庫の情報を話しました。そうして発言が終わると、連邦保安局の大佐が私に近づき、脇に連れてゆき、彼の管轄する州にそうしたものがあるのか、話せないかと尋ねたことがあります。

 

−そこで貴方のデ−タですと、イペリットやその他有毒物質が埋められている可能性のあるモスクワはどうなのですか-

「例えば1937年〜1939年の文書によると、モスクワ市内のクジミンキ街にあった化学兵器試射場の戦慄する歴史を再現できます。さらに37年頃になると、この試射場は四つのモスクワ化学兵器工場の廃棄物など有毒物質で12年間も汚染されています。同年37年に試射場ではどうやら“除汚”作業が行われたようですが、現実には最後までやっていません。ところが今日、この試射場の上をのん気にモスクワ市民は歩き回り、特に夏や雨後に地獄のようなところから時に穴をあけ通り抜けてきた悪臭も気にしていない。だが隣の林では砒素を肥料としたキノコが採取され、後でモスクワの市場で売られる。さらに化学兵器が“除去”された湖でモスクワ市民は時々、水浴びも、魚つりもする。ちなみに、ゴロヴァチェフ通りの片側にある家々は、かつて化学兵器試射場と呼ばれた敷地の上に直接立っている。そしてまさに“白い別荘”はその隣であり、さらに警官が警備する取水場も近くにある。

 

私は個人的にそんなに昔ではないですが、クジミンキ湖周辺の土壌を分析用に採取したことがあります。土壌サンプルはロシア科学アカデミ−に出しました。土壌中に第一次世界大戦当時のイペリットが発見されました。その上、このイペリットはほぼ70年間変化していないことが分かりました。その中の塩素原子も、雨水の影響でも加水分解していません。世界の軍事科学者誰しも、イペリットがそれほど長期間変化なしに地中に存在しつづけたことを信じないでしょう。しかし、事実である。モスクワではイペリットは生きつづけてきたし、現在でも存続している。クジミンキの試射場、オチャコフの試作品倉庫、ロシノオストロフスカヤの大砲及び飛行機用弾薬庫、レフォルトフ、エントウジアスト街道、ホドウインカ野原(航空ショ−などが行われる)、クンツエフ、リュブリンなどの各有毒物質工場にあります。その他にもロシアの多くの場所にあります。繰り返しますが、全部約400ヶ所です。

 

−調査中、医師とコンタクトとしましたか。誰か医師で非公式デ−タにせよ、どうもはっきりした原因もないのに発生した、まさにその土地固有の特殊な病気を指摘していませんか-

「もちろん、医学者と、それも下のほうでない人とコンタクトとりました。しかし、どの医学報告書でも各々の兆候をそこに有毒物質が存在していることとけして関連づけることはない、これは理解してください。人体にたいする大規模な実験はありましたが、その実験総括はされていません。それ故、現在の医学統計ではそうしたデ−タを利用することはありませんし、何らかのそうした関連性を確立することはありません。例えばサマ−ル州、ここには今日最高の医療センタ−の一つがありますが、そこの専門家でさえ、「チャパエフ・シンドロ−ム」、チャパエフスク市の子供に見られる老化症、知的退化症を直ちに識別できません。問題は、1919年当時チャパエフスク市内に有毒物質と化学兵器の弾薬庫が作られ、そしてここもまた破壊され、地下に埋められたことにあります。それはさておき、この症候群はモスクワの医学修士ベラ・ボガチコヴァが公表しました。彼女はわざわざ、この目的でチャパエフスク市に行き調査しました。興味深いのは、少し後でサマ−ルの医師V.V.スクプチェンコの研究の中で彼女がそれでも、この病状を発見したことです。ただそれはあいまいな形で記され、まったく分類されたものではありませんでした。

 

−あなたのデ−タを公表すると、我々はテロリストに切札を渡すことになりませんか-「国防省は自分たちの立場をそれと同じように説明しています。“1918〜1940年期間の古文書資料にたいする第三者の閲覧制限は、国家安全の懸念とテロ目的に利用されたため...”であると。“あまり知らないほうがよく眠れる”と言うつもりなのだろうか。だがこれはまったくふざけている。こうした情報は公開対象である。ロシアの現行法は30年以上経過した文書は社会にたいし秘密扱いすることを禁止しています。戦前からですから80年も経過しています。環境に関する情報が含まれる文書のことは言うまでもありませんが、こうした文書は時効期限に関係なく、けして秘密事項と見なすことはできません(国家秘密法第7条)。わが国はこのような試射場そのものの上で暮らし、汚染されている国民だけに隠していることになります。

 

旧化学兵器投棄場所

モスクワ市: 

ソコリニキ(軍事化学資材倉庫:ゴチヨ倉庫)

クウンツエヴォ(クウンツエヴォ軍キャンプ)

リュブリノ(リュブリノ軍キャンプ)

ノヴォギレエヴォ(ノヴォギレエヴォ軍キャンプ)

 

モスクワ州:

ナハビノ(技術試射場、化学兵器試験場)

モジャイスク(モスクワ軍管区大砲倉庫67、大砲用、飛行機用化学兵器、有毒物質(イペリット、塩素)の保管)

ナハビノ(パヴロフ村):大砲倉庫38、大砲用化学兵器保管

セルプホフ(大砲倉庫45、大砲用化学兵器保管

ソフリノ(大砲倉庫、大砲用化学兵器保管)

カシラ(カシラ軍キャンプ)

コロムナ(ゴルトヴィン)、ゴルトヴィン軍キャンプ

クビンカ(クビンカ軍キャンプ)

モニノ(モニノ軍キャンプ)

ムイチシイ(ムイチシイ軍キャンプ)

ノロ・フォミンスク(ノロ・フォミンスク大砲試射場、軍キャンプ)

セルプウホフ(セルプウホフ軍キャンプ) 

 

デガスタン共和国: 

ブイナクスク(ブイナクスク軍キャンプ)

マハチカラ(マハチカラ軍キャンプ)

 

クラスノダル地方:

アナパ(アナパ軍キャンプ)

ソチ(ソチ軍キャンプ)

トウアプセ(トウアプセ軍キャンプ) 

 

チェチェン共和国:

グロズヌイ(グロズヌイ軍キャンプ)

シェルコフスカヤ(シェルコフスカヤ軍キャンプ)

 

 

816

“シベリア鉄道”(完)

(ウラジオストック新聞、83日、ユ−リ・フィラトフ)

偉大なシベリア鉄道は世界最大の鉄道線(7416キロメ−トル)で、チェリャ−ビンスクからウラジオストックまでアジア大陸全体を横断している”(ブロクガウス/エフロン百科辞典)

1885年頃になるとヨ−ロッパは鉄道網で被われるが、それはロシアのヨ−ロッパ部分、北部から南部の数ヶ所に通過しているだけで、二ヶ所でウラルの外にわずか延びている程度であった。問題は国の後進性というより、むしろその規模にあった。ヨ−ロッパ部分にあるロシアの二大都間の鉄道は、二つの県都を結ぶのがやっとであった。二千キロメ−トルを“ほんの手の届く近く”と考える、シベリアとプリアム−リエの果てしない広地については言うまでもない。しかし、ロシアの中心と太平洋に面する最果ての地を結ぶ鉄道が、国家には年々ますます必要となってきた。

 

プリモ−リエの住民は長いこと鉄道を夢見ていた。しかしこれは地域的意義では、ウラジオストックからアム−ルまでのことである。

 

海軍大臣、海軍中将シェストフは1886年太平洋沿岸を訪れ「ウラジオストックにとって最も必要なものは、ウスリ川に繋がる立派な道路である。この道路があれば、ウラジオストック港の通商的な価値は向上し、当然シベリア最大の港になる」と述べている。

 

1886年、アレクサンドル三世は東シベリア総知事グラフ・イグナチエフの報告に基づき「シベリア総知事の報告を読むと、今日まで政府がこの豊かだが放置されていた最果ての地の要求を満たすことはほとんど何もしなかったと、沈痛と慙愧の思いで認めざるえない。最早猶予はならない」と書き残している。この皇帝の見解は、運輸次官がセルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテでなければ、きまぐれな願望におわったかもしれない。

 

彼はモスクワから太平洋まで、全ロシアを通る鉄道建設について自分のプランを描いた。同省官房長官ギュッベネトはヴィットのことをよく知る国王に、このことを報告した。1878年戦争時、ウィッテ(当時まだオデッサ鉄道長官であった)短期間に軍隊をロシアからブルガリアにうまく移動させた。同プランに皇帝の裁定が記されている。「裁可!」

 

鉄道技師には、ウラジオストックとどの鉄道路線を結合すべきか、そうした問題が持ち上がった。ウラルの背後で三つの路線が切れていた。一つはチュメニ、もう一つはチェリャ−ビンスク、三番目はオレンブルグであった。長期間検討した後、設計者は最も有利なのはチェリャ−ビンスクであると、結論づけた。1891年2月、内閣は相互に7千キロメ−トル離れた二つの地点、西東方向ではチェリャ−ビンスクからクラスノヤルスクそしてアム−ル、北西方向ではウラジオストックからグラフスカヤ(現在のラゾ駅)から同時にシベリア鉄道敷設の決定を下した。

 

1891年3月17日、皇帝は勅書を出し、皇太子ニコライに「殿下、全シベリアを通る全面的な鉄道建設に今日着手する命を出したが、国庫資金により政府命令で許可された大シベリア鉄道ウスリ区域の敷設工事をウラジオストックで完成させることを貴殿に委ねる」と書いている。

 

ウラジオストックに到着後、皇太子は1891年5月19日朝10時、町から2.5露里の所で「用意した手押し一輪車に土を入れ、鉄道の路盤に運び入れるよう直接命令した」こして大建設工事が始まった。この工事がいかに大変であったか、語るまでもない!技師シュマコフは調査中に岩から転落し、けがをして片足を失った。調査技師クラシツキ−は結核にかかった。「献身的な建設開拓者、技師ウラジ−ミル・セメノヴィチ・イロヴァイスキ−は殉職した」と“プリアム−ル・ニュ−ス”紙は報じた。「過酷な生活条件で腸チフスにかかりウスリで死亡した。享年24歳」

 

架橋技師にも、さらに一つの悲劇があった。初めて列車が橋を通過しようとした時、成し遂げた仕事にたいし自分の命をかけて責任をとろうと、一人の技師が橋の下に立った。1895年、レ−ルがザバイカリイエ近くにくると、突然路線の方向について新しい提案が出された。ウイッテは財務大臣となり、もし鉄道を計画のようにアム−ルに沿いハバロフスクに向けないで、満州を突っ切り直接ウラジオストックに向ければ、明らかに時間と資金を節約できる、そうした結論をもった。調査により確認されたことは、このようにやると費用は金貨で1千五百万ル−ブル削減できる。8月16日、ケトリツエヴォ駅から満州に向けて最初のレ−ルが敷設された。

 

1900年、義和団が蜂起し、鉄道関係者の計画は狂った。破壊された鉄道、村落、通信網の復旧に時間がとられた。けれども、1903年前半地元紙に、復旧した東シナ鉄道の区間にプリアム−ル地方とプリモ−リエの高官を乗せた列車記事が頻繁に現れるようになった。モスクワも興味を示した。

 

地方紙より:1903年6月10日付け「ウラジオストックから全面的な輸送が始まると、モスクワ・カザン鉄道局は茶輸送の追加貨車を振り向けるようになった」

1903年6月18日付け「ついに我々の鉄道が完成した。目立たぬ出来事だった。三人の技師と技工が来た。歩き回り、全てを点検した。そして何かをノ−トにメモした。それでお終いだ。もっとも夕方になるとしたたか酒を飲んだが、“満州人”で夕方飲まない者はいない」 

 

1903年7月1日付け「ロシアからハバロフスクに向かう乗客はグロデコヴォ駅で乗り換えることなく、ハバロフスクまで直接行くだろう」 こうした中国経由のシベリア鉄道の定期運転が開始された。

 

1909年シベリア鉄道でモスクワからウラジオストックに行く。カザン駅で列車に乗る。列車は立派なプルマン式で、二人用コンパ−トメントであった。柔らかい長椅子は夜になると純白シ−ツに覆われたベッドに変わる。電気スタンド、厚い絨毯があった。ゴミ一つ無く快適なものであった。車掌は要求があれば何時でも、美味いビスケット付きのテイサ−ビスをしてくれる。夜になるとベッドを用意し、朝になると片付ける。寝具は三日ごとに新しくする。列車には豪華なレストランがある。レストランの食材は常に新鮮で、と言うのもそこの冷蔵庫には凍りが詰められ、解ければ適時補給している。各タ−ミナル駅では冬季に数万立米の氷を凍らせ、氷山を作る。一メ−トルもの厚さのおが屑でしっかり覆われた氷は次の冬までもつ。さらに大きな駅では構内レストランやビュッフェがあり、停車中に乗客専用にサ−ビスする。丸13日間の道中となる。リャザン、ウファを通り、チャリャビンスクと続く。ここは1891年技師リヴェロフスキ−がシベリア鉄道の工事を始めた所だ。列車はオムスクを通過する。この町の学校や陸軍幼年学校からは、ウスリ−地方史に残る将官が出ている。ウラジオストック創始者、陸軍准尉コマロフ、日露戦争英雄、白色運動指導者、将軍コルニロフの出身地である。さらにノヴォニコラエフ、クラスノヤルスクと続く。イルク−ツクでは長時間停車する。モスクワからの乗客は仲良く浴場に入る(蒸気機関の煤や石炭埃は列車の等級に関係なく、入り込んだ)

 

天候が良いと、バイカル湖周辺道路で旅行ができる。大満足である。列車はトンネルからトンネルに姿をくらまし、時には水路のすぐ近くまで行く。車内レストランでは、脂が滲み出たバイカル湖の魚オ−ムリがメニュ−に出る。秋嵐になると、列車は時々岸辺で天候回復を待つこともある。バイカル湖の奥には懲役労働の場所がある。チタだ。鉄道はチタから東に向かい、ハバロフスクまでは建設中である。

 

鉄道は中国経由で東シナ鉄道が敷設されている。満州の駅で車掌は乗客に向かい、匪賊の襲撃があったら床に伏せてくださいと警告する。と言うのも、列車の装甲能力では窓までしか接近できない。中国を一気に突っ切ると、列車はケトリツエヴォである。この駅から三露里のところに、ニコリスク・ウスリ町がある。ラズドリノエ駅、キパリソヴォ駅、ナデジインスカ駅(これは鉄道建設者の名)、ウゴリナヤ駅と続く。そしてペルヴァヤ・レチカ駅だ。ここから110年前、東方面からのシベリア鉄道建設が始まった。列車はゆっくりと小さな駅に接近する。プラットフォ−ムには、帽子を脇に抱えた黒い制服の見たことのある憲兵隊の姿が現れる。1867年の改革後、灰色の制服は宮廷の近衛兵のみ着用となった。駅の壁には“ウラジオストック、サンクト・ペテルブルグから9877露里”と書かれている。

ここでシベリア鉄道は終わる。これはモスクワから始まっている。いずれにしても、全ての計算(距離も含め)いつも、首都から行われている。

 

8月5日(日)

“同時対局”(完)

(アガニョ−ク、7月25日号、ドミトリ・ブウイコフ)

-クレムリンでプ−チンがした初めての大記者会見については、十分すぎるほど語られ、書かれている。全ての日刊紙はそれに対応し、実況中継も行われた。完全速記録はインタ−ネットで三ヶ所には掲載された。なんと多いことか。そこで私を驚かし、喜ばせあるいは感動させたことを主に話すことにする。これはプ−チンと記者との会見というだけでなく、まさに私と大統領の出会いでもあった。記者会見にはさらに501人と報道官アレクセイ・グロモフもいたが、私はけしてがっかりはしていない。私と大統領の出会いのようなこうした規模のイベントは非公式とすべきではないし、我々は証言者を恐れてはいない。

プロとしての第一印象 

ジャ−ナリストはいくらでも権力にかみつき、批判することができる。しかしプ−チンのようにカリスマ性のない場合でも、権力のオ−ラは彼らにたいし有効に作用する。これは良くも悪くもある。悪い点は、それが勇気に酔いしれ、我々を守る集会に出ようとしている読者を惑わす。良い点は、権力とは敬うべきものとなる。崇拝するのではなく、権力にたいし礼儀正しくふるまい、敬うものである。いつも相互に憎悪していたのでは、多くの望みはもてない。

 

クレムリンではジャ−ナリストはけして卑屈ではないが、とても大人しく、丁重に振るまう。多くの顔には地方出身のものも、有名な記者の顔にも、世界の根幹の動きに関わる、そこからくる秘められた喜びが読み取れる。もしかしたら、わが国は最早超大国ではないが、わが国は大きな国である、そのせいかもしれない。地球の大きな部分を背負う大統領、さらにミサイルを保有している、そうした人物を見ることは、なんと言うか、大きな興奮をさそうものである。

 

プロというのは、自分の放送で見せているのとは異なり、クレムリンにたいし意地悪い感情をけしてもっていないとあらためて確信した。放送では彼らは毒の唾を垂らしているが、記者会見が終わり、私はプ−チン広報部の若いが有能な女官僚と抱き合って座っていた筋金入りの政府批判テレビ局のやり手記者を間近に見た。親密な関係をこわさないため、名前は出さない。それに誰にどんな関わりがあるかも分からない。私にとってはこうしたことは全て、視聴者が我々の自由な報道にまったく不安を抱かないようにするためのものである。それは必要なところには何処にでも入り込むし、必要な人であれば誰とでも仲良くする。けれでも、反政府ゲ−ムは敵対者とほとんど合意の上、プレ−をしている。こうした敵兵と仲良くしている場面を一度ならず目撃している。

 

と言っても、純粋に職業的観察もしている。そこで最近、国家の象徴、儀式、あらゆる地位にまつわる行事が復活しつつある、つまり国家体制復活のあらゆる兆候があると多くの者が語っている。こうした成り行きにはぞっとする、そのことを言っているのではない。わが国家体制はまだ自国国民にも、法律を遵守する外国人にも特に尊敬されていない。記者会見で騒ぎとなったのは、英国タイムス紙二十八歳女性記者の叫び声である。“チェチェンにたいする対応を変えたか、またそれを変える時期ではないか”というラジオ「自由」の記者ミハイル・ソコロフの質問にたいし、プ−チンが答えをはぐらかせたと彼女には思われた。ちなみにソコロフはその回答でも叫び声を上げなかった。何故なら彼は文明人だからである。

 

ところがタイムス紙女性記者はプ−チンの回答後、あらゆる取り決めを破り、マイクもなしに座ったまま叫びだした。「あなたは質問に答えていない!質問に答えてください!」 プ−チンは堪えていたが、これには明らかに苦心していることがわかった。彼は現場でこうした激しい批判には慣れていない。女性記者にマイクが渡され、彼女は最近の浄化作戦の意味を尋ねた。

 

そこでは様々な記者がそれぞれのやり方でプ−チンの状態を定めようとし、大統領をどのように見ようとしているのか、フロイトのように軽口をたたいている。かつて勇敢だった一人の女性記者が、こんなに激怒したプ−チンをけして見たことはないと書いた。別の若い記者はまだ“かつて”ではないが、大統領は無表情で冷静であったと伝えた。私には、彼がひどく立腹し、まったく感情をあらわにした。「あなたは私に何故浄化作戦を実行していのか尋ねていますね。ところで最近武装勢力が40人の老人、その中には長老やイスラム僧もいますが、殺害した、そのことについて何故質問しないのですか。そこで我々にたいし行われたことについて、何故質問しないのですか。

 

全体としてはプ−チンを理解することができる。といっても、彼には私の理解などおそらく必要ないだろう。プ−チンには人々がチェチェン民族の権利擁護闘争を装い、そのくせ実際はまったく他のことに関心をもっている、そうしたことにはうんざりしている。この英国女性記者のことを言っているのではない。彼女は間違いなく、チェチェン民族のことを心から心配している。彼女にたいしては一つクレ−ムがある。強く疑問に思うのは、ブレア首相の記者会見で具体的に彼が間違っていると指摘し、着席したまま首相に叫び声を上げただろうか。問題は順番を待たずに質問を割り込ませたことではなく、大国の大統領にたいし、あまりにもあからさまで非礼な態度(特に正当な怒りのカモフラ−ジュされている)には当たり前の作法が欠落していることにある。そしてテ−マをまったく台無しにしている。

 

政治家として見た二番目の印象

プ−チンをかならずしも好きにならなくてもよい。一つは、すぐ走狗や室内犬になってしまうこと、もう一つは何故かすぐ無趣味となる。我々には権力と良好な関係をもつ伝統はない。我々のお世辞は野暮ったく、最も誠実な言葉も瞬時に卑屈に聞こえてくる。大統領をけして好きになるべきでない。愛と憎しみの間、ご存知の通り、ほんの一歩である。しかし、いわゆるリベラル知識人(平然とあらゆるクレムリンの官僚のところに通い、“お前”という仲で抑圧者とつきあっている)の批判をさほど恐れはしないが、私にとってこうした大統領は今のところ都合がよいと、言わざるえない。そしてこの記者会見は、彼にとってはこうした多数との交流は初めての経験だが、きわめてうまくいった。プ−チンは自己の該博、頭のきれること、彼にとって常套手段、つまり仄めかし、恥ずかしくも黙しているほうがよいとされることを突然、そして挑発的にも思える調子で話すやり方を見せつけた。

 

プ−チンは時々、相手の意気をくじく単刀直入な言い方をする。米国人記者がNATO拡大にたいし、しかるべき対応について質問した。プ−チンは若干挑みかかるように答えた。「第一に私は個人的にいかなるしかるべき対応について発言していない。しかし第二にNATOの存在とましてや拡大は今日まったく意味がない。このブロックはワルシャワ条約とソ連に対抗するため作られた。ワルシャワ条約もソ連ももうない。NATOは純粋な政治組織に変わったと言うが、それなら何故ユ−ゴスラヴィアに爆撃したのか、この問題がでてくる。一体どういうことなのか。何故なのか。そして質問者を直視する。質問者はうなずく。プ−チンはしばしば先制攻撃する。こうした先手をとるやり方で、クルスク号事故後の行動に後悔していないかというアリマ・ユスノフ記者の質問にも答えている。プ−チンは「“いかなる意味”でも後悔はない」と答え、「モスクワに行っていればさらにメリットがあったろう」と付け加えた。

 

「自由」紙記者が年末までにプ−チンを打倒するというベレゾフスキ−の脅威についてコメントを求めたが、これについてはとてもよかった。「我々には教養があり、エネルギッシュな反対勢力は、一方が油断しないために必要だ」と述べた。プ−チンは体よくうまくベレゾフスキ−に就職先を見つけ、彼に自分の個人的批判家、一種の外部オブザ−バの席を用意してみせた。このためには彼を国に戻したほうがよいし、もっとよく知るためにも必要だが、しかし色々ありそうだ。

 

プ−チンが軍需企業に媚びなくなったことには好感がもてる。「セ−ヴェラ・プラウダ」(アルハンゲリスク市)記者が、年に潜水艦を一隻ではなく、三隻から五隻進水させていたよき時代について質問した。「まさに軍拡競争こそがわが国経済を破綻させ、権力への信頼を喪失させた。私は当時、90年代の初め、ちょうど外国から戻った時で苦々しくこれを見ていた」とプ−チンは告白した。プ−チンにとってよき時代とは、いずれにしても全体主義的な時代ではなく、国民と権力が団結していた時代と思われる。スタ−リン時代、特に30年代後半、こうした団結最早なかった。その神話はだいぶ昔に崩壊し、40年代の終り頃には、かつての情熱の跡形もなかった。国民と権力が比較的団結していたのは、革命の最も初期(1918年9月と赤色テロルまで)と、雪解け時代やゴルバチョフ時代の黎明期には見られた。そしてこれは、全体として見れば恥じることのない時代であった。

 

まさに社会におけるこうしたコンセンサスについて、彼はきわめて説得力ある調子で語るが、それにも私は好感をもっている。考えられるレ−ニン埋葬問題にたいし、彼は反対を表明している。と言うのも、まさにこうしたことをやれば、社会にやっと現れた脆い団結が壊れる可能性があるからだ。「こうした団結があったからこそ、まさに我々は努力したことが報われたのである」と彼は述べている。

 

プ−チンは頻繁に“我々”という言葉を用いる。これにも好感がもてる。これは「我々とは四代目のウラジ−ミル(クラスナ・ソヌイシカから数えて)」の意味ではなく、「我々、人民」の意味である。「時には自己の背後にある力を感じ取ることは有益である。我々国民はこれなしには生きられないし、いかなる民も生きられない。ばらばらで敵愾心のある孤独な群衆から我々は、民族の誇りと共通の利害に似たものを持つと一枚岩というものに本当に変貌する」 私はこれがいつも悪いとは思わない。プ−チンはそうしたことで多くのものが満たされた点でも立派である。

 

総括であり、最重要である第三番目の印象:

プ−チンは国を統一するため、自己の風貌のどの点を具体化し、強調しようとしているのだろうか。何故なら、国を統一できない権力には、破滅以外にいかなる能力もない。こうしたことを何度も我々は見てきている。まず労働能力。彼のそれは超自然的なものである。第二番目は率直さと働きものによく見られる、ある種職業的キニク主義。第三番目は、頑固さ、一定の非妥協性、非許容性。四番目は自尊心。五番目は交際好き。プ−チンはホ−ルの人々との交流にとても満足する。

 

さらにもっと多く何か列挙することもできる。老齢者にたいする尊敬である(出きる限り誠実に判断したとしても、これは一般に帝国主義の際立った特徴である)。誰と仲良くすることになったにせよ、友情を信じる。形式主義を嫌う。地方の幹部を嫌い、最高の幹部、国家の幹部を好む(人民の代表は「ツア−リには敬意をはらうが、猟犬番には敬意をはらわない」。ここから、彼が国家体制、権力の上下関係などの強化と呼ぶやり方が全国民的に支持される。これは中央へ超権力を与えるというより、地下資源からマスコミまで何もかも手中のおさめる地方の専横者一掃のためのように思える。全体として言えることは、プ−チンには多くのよいもの、あるいは少なくてもロシア民族的なものがある。それであらゆる思想なしに国民を団結させることが可能である。

 

プ−チンはとにかく、長年にわたり我々の政治的、さらに精神的営みを維持してきた対立、とりわけイデオロギ−の対立の破綻、その終焉を自ら証明している。親ソと反ソの宿命的対立は最早存在しない。西欧主義とスラブ主義は運命的に両立しえないものだ、そうしたことは最早ない。両方とも衰退してしまった。とくかに目には見えないが、今や既にあらゆる思想のパラダイムがきわめてはっきりと交替した。7月18日のプ−チンの記者会見は、このことを最も明瞭に証明した。

 

以前の紋切り型に代わり、どのような価値観が到来したのだろうか。先ずヒステリックな宣誓、たいまつ行列、我々に加われない者すべて抹殺する覚悟、そうしたものが要らない民族の団結、一体性。これはおそらく、家族的もしくは友人的集まりの団結であり、古い時代の友人仲間に存在した絆の強化かもしれない。これはまた、世界が我々にけして好意を示していない、そのことのはっきとした認識の現れでもある。それ故存続したいと思うならば、我々は力と独立心を持たざるえない。明らかに、反国家主義者は愚か者となり、国家主義者はりっぱな人間となるかもしれない。要するにロシア人がロシア人にたいし狼であることを止め、自分の祖国を恥じることが時代の流れでなく、無作法とまで言えるようになった。プ−チンの下で最重要視されるのは、金や思想ではなく、家族、友情という価値観である(以下原因不明の文字化けにより削除)

 

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