ロシア最新ニュ−ス
2000年4月分履歴
4月30日(日)
“新たな長期改革戦略の必要性”(完)
-ロシアには通常の市場経済とは質的に異なる経済体制が出現した-
(独立新聞、4月18日、ドミトリ・リヴォヴ、アレクサンドル・ネキペレフ)
危機後をうまく安定させること、政治指導者が交代したこと、これにより国の経済発展の長期目標問題があらためて重要となってきた。まさにこの問題をめぐり、ロシアでも国外でもエコノミストや政治家の間で激しい議論が交わされている。ここでの意見は職業的(実証論的)なものと、価値基準的(規範主義的)なものに分かれる。
いわゆるワシントン合意で決定され、IMFが積極的にすすめる改革方針の支持者は、1992年以後ロシア全体で実施された改革により、市場経済が形成されたと考えている。ロシアの市場経済が明らかに機能しなかったことは、マクロ経済安定化政策が不徹底であったこと、市場メカニズムの導入途上に温存されている官僚主義が多くの障害になったこと、様々な分野での市場制度化が遅れたことに起因している。それ故、この方法の支持者は問題全体の解決とは、経済活動を今後いっそう自由化することであり、責任ある金融・融資政策を一貫して実施し、いわゆる構造改革を実行することであると考えている。まさにこの立場は、ロシア政府と中央銀行がIMFにたいし行った1999年7月13日の“経済政策声明”と、世界銀行に宛てた1999年7月19日の“経済構造改革向け第三次借款のための発展政策に関する書簡”によく反映されている。
この立場には、次の理由により賛成することはできない。
第一点として、先入観のない分析が証明するところよると、いわゆるラジカルな改革中におかした重大な誤りにより、ロシアにはきわめて非合理的経済システムが誕生し、その活動は通常の市場経済の活動とは異質なものである。我国の経済システムの異常性が最も顕著に出ているのは、次の点である。実体経済分野の経済活動の例を見ない物々交換取引、生産部門と金融部門の大きな断絶、利率が生産投資効果水準を持続的に大幅に上回っていること、病的な性質を呈している多くの企業幹部や個別の株主による企業株式の掠奪、経済活動における犯罪水準が許容レベルを超えきわめて高いことである。こうした条件で市場制度では当たり前の経済政策や経済活動の自由規制の撤廃、それと民間部門の構造改革が状況を正常化できると期待することは、自己欺瞞そのものを意味する。
第二番目として賛成できない点は(正常の市場体制に我国経済が移行できる政策をとったとしても)国家を経済から最大限締め出すという考えである。国家が効果的に介入する必要性は国にとっては短期的、長期的な問題である。こうした介入なしには、効果的に機能する金融制度はできないし、通貨制度の健全化や、きわめて厄介な対外債務問題の解決も不可能である。ましてや、我国の条件では異常な市場調整は生産構造をきわめて病的に破壊するし、国家規制は市場の衝撃を緩和する道具として利用できるのでなおさらである。
結局のところ、長期的視点で見れば国家統制は、先端技術、強力な近代工業、発達した文化、時代の要請のこたえる教育、保健、社会保障制度のある国家としてロシアを復興させる上で必要なのである。さもなければ当面の目先の利得によりロシアは科学や生産能力の大部分を放棄することになるだろうし、結局天然資源の開発に重点を移すことになる。
勿論、この二つの問題、産業再編の異常性と国の立派な未来という概念は、規範主義的(価値基準的な)ものである。しかし反対論者がおす政策の結果は国内の圧倒的意見と対立するものである。すなわち、この政策を実行すれば激しい抵抗にあい、多大な軋轢を生むことになる。
こうした点からして経済戦略の二つの基本的やり方に、“市場改革推進派と反対派”という観点で区別することにはまったく同意できない。出来上がっている経済システムの枠内で単純に経済活動の自由を拡大しても、経済が正常に機能する市場制度に移行できないし、まさにこうした条件では国家規制も有効に機能しない。
根本的な歪曲の一掃
正常な市場制度にロシア経済を移行させるためには、多くの問題を解決する必要がある。
法人部門の所有権の修正
ロシアに形成された経済システムが変形したのは、所有権を再手続きする際におかした大きな誤りに根ざしている。この誤りは結局のところ、ロシアの大中企業にきわめて非合理的な法人経営システムを生む出すこととなった。こうした株式組織の役員会が資本所有者の有効な管理外におかれたり、あるいはその逆で資産を“掠め取り”、企業の掠奪を目論む一部の株主の全面的管理化におかれるようになった。
この課題のなすべきことは、ロシアの株式会社の役員会を資本所有者の管理下におくことであり、会社の利益(短期的観点)と純資産価値(長期的観点)を最大限に高めるようしむけることである。この課題が解決できれば、市場の警告にたいし経営体がしかるべき対応できる基本的条件がととのうし、効率の高い法人経営システムをつくることもできるし、会社経理の透明性も達成できるし、それにより投資条件を根本的に変え、効率の高い金融市場の基礎をつくることができる。
二つの方向で実施する必要がある。一つは、株主として所有者の機能を現実に発揮できるような法の仕組みの導入と小口株主の権利を守る措置を早急にとることである。もう一つは、国家により主な資産管理の市場性を保証できる体制を導入することである。ロシア科学アカデミ−経済部では、国営の投資持株会社の設立を前提に課題解決の方法を作成した。
土地問題
土地(経済活動のあらゆる物理的条件も含めた広義の意味)は生産活動の最も重要なファクタ−であり、それ故効果のある土地配分の仕組みが合理的経済活動の基本的前提条件となる。このような仕組みとなりうるのは唯一市場であることも明らかである。問題となるのは、このメカニズムが私的所有と天然資源の自由な売買に立脚すべきなのか、それとも国有の余剰天然資源を個人に貸与することを基本とすべきなのか、それだけである。倫理的根拠(“土地は神から賜ったものだから、それは全てのものである”)の他に、現代ロシアに土地問題解決には後者の案を支持するきわめて本質的な経済観があると断言できる(勿論、小規模な宅地付属の菜園や別荘の土地の私的所有権を放棄するというのではない)。
国が受け取る天然資源利用料は、国の税収の大きな部分となりうる。この意味は大いに評価すべきである。それというのも、大部分の税金と異なり、賃貸収入はバランスのとれた生産水準の低下につながらない、つまり資源の割当てに歪んだ影響を及ぼさない。
現実が証明するところによると、土地の自由売買は急速に投機対象になる可能性があり、その価格が実効果から大きくかけ離れる可能性がある。土地投機により発生した“金融バブル”は何度も、深刻な金融危機を引き起こしてきた。こうした事情は、多くの国で土地利用にさまざまな制限をもうけており、これは時折起きる不愉快な経験により多年の間導入されたものだが、その重要な理由の一つとなっている。ロシアでは私的所有に基づく土地市場を規制する理想的な制度をうまいこと一気に導入できると、期待するのはナイ−ブなことかもしれない。
国家資産を個人に譲渡した今までの経験からすると、膨大な土地の民有化により国内に勃発する極度の無秩序を思うと暗い考えを抱いてしまう。こうしたことから、今日現実的に重要な課題とは、官吏の横暴と汚職を防止できる効果ある天然資源譲渡制度をつくることである。
実体経済における未曾有のバ−タ取引は、所有権の根本的なひずみや中央地方の各国家機関の市場を否定する行動に根ざすものである。実体経済に通貨が流れないことは、市場メカニズムを正常に動かす上で大きな障害である。だからこそ、経済に通貨を流通させる課題は、根本的な問題の一つと我々は考える。
物的資産にたいし国の管理を厳しくし、また未払者にたいする破産手続きをきちんと適用してこの問題を段階的に解消できると期待するのは、ナイ−ブと思われる。通貨を使用しないという悪性腫瘍は、そのような手段で対処するにはあまりにも肥大しすぎている。金融の閉塞状態をラデイカルに一掃する以外に選択肢はない。ロシア科学アカデミ−経済部では企業と国家の収支から期限切れ債務の一掃を基本とする総合計算式をつくってみた。我々にとって喜ばしいことは、最近政府機関(特に金融健全化・破産連邦局と経済改革実行センタ−)が法人の会計を一斉に健全化させた戦後日本の経験に関心を示すようになったことである。確信をもって言えることは、分相応な暮らしをし、支払い不能な企業体は破産させるという厳しい方針をとるとする政府の意図は、互いにある債務という束縛から経済が解放されてはじめて、立派な願望から現実に実行可能なものとなるだろう。
無論、期限切れ債務の相互決済は他のシステムの改革の実施と結びついたものでなくてはならない。さもなければ、これはたんに短期的効果しかもたらさないだろう。
国家と市場
国家と市場は対峙するものではない。国家の基本的機能とは、市場システムにあった法律を作ることであり、それを絶対に遵守させる条件を確保することだし、市場制度の形成を促進させ、社会経済政策を立案し実行することである。国家活動の最も重要な点は、競争の環境を作り出し、維持することである。市場が正常に機能する上でこのことは、民営化以上にはるかに重要なのである。こうしたことから特に意味があるのは、小規模ビジネスを発展させ、振興させる積極的政策である。
国がよく用いている経済管理方法だが、市場システムの条件に適合しないものは直ちに廃止する必要がある。基本的にはこの解決は法治国家の原則を強化することである。しかし国の管轄下にある経済管理部門は、市場システムと適合しているものだけに絶えず絞り込む必要もある。特に重要なことは、国の未払い(支払い金の代わりに様々な通貨代用品のおしつけも含め)の可能性を完全に一掃することである。このためには、政府が購入した物品代金や受けたサ−ビス代金の支払いができない場合や、この債務を近代的なやり方で処理できない場合には自動的に紙幣増刷できる法律の導入は正しいと考える。さらにその事実は必ず公表すべきである。また燃料、電力等の供給停止してはいけない利用者リストに企業団体を含める場合、支払いに関しては国家保証があるとする法律も導入する必要がある。強く確信はしているが、こうしたことはインフレを引き起こさないし、政府の取るべき責任を抜本的に高めるはずである。
金融基盤
ル−ブルの強化
改革期をとおしてル−ブルはきわめて不十分にしか標準通貨としての役割をはたしていない。一面ではル−ブルは物品やサ−ビス取引を物々交換でしたり、支払決済方法とらないので実体経済から締め出されたことによる。もう一面は、外貨が価格維持の機能、特に流通資金の機能をル−ブルの代わりに完全にはたしたことによる。ル−ブルは、金本位制の時代に紙幣は金の代用目印であったというその意味で米ドルの代理物とほぼなっている。いわゆる為替管理制度導入案は、この否定面に最終決着することを目的としている。
ロシアが通貨の主権を思い切って一方的に放棄することはありえないと断言できる。反対にこれに対抗し、ル−ブルを独立国家共同体の枠内で決済の基本通貨とするための条件を徐々に作る出すよう目指すべきである。したがって我々には互いに関連した二つの課題があり、経済全体にたいしル−ブルの実効範囲を拡大することであり、ル−ブルにより通貨の全ての機能を完全にはたし、そのレ−トを安定維持できる条件をつくることである。
この内の一つの課題解決のために、上記でふれた延滞債務の決済方法がある。もう一つの課題実現は、投機資産としての外貨需要をなくすことであり、市場にたいし必要な外貨供給水準を確保することである。金融基盤が未整備で国の財政状態が困難である条件で、これを達成する方法は、経常収支計算において法人にたいしル−ブルの国内換金に制限をもうける方法だけである。別の表現を用いれば、輸出売上金全てを為替市場で強制的に売らせるという中央銀行の案はまったく妥当なものである。この場合、ポ−ランドのように現存の外貨口座を増額なしで保護してもよい。市場で外貨を取得する権利は、輸入契約書と債務返済証書がある場合にかぎり与えるべきである。
基盤の整備
“急進的改革”の時代全体をとおし、金融制度の分野は重苦しい状態にあったし、預金を投資に回すという基本的機能をはたさなかった。ロシアの株式市場は一見華々しく見えるが、銀行間の信用取引市場は復活する目どはたたないし、短期クレジットの範囲に極端に限定され、実体経済にたいする長期クレジットは実質的に行われていない。商業銀行その他の金融業者の積極的動きは、結局国債や外貨投資という形になっている。金融基盤の脆弱性が最も顕著に露呈したのが、1998年8月である。当時、金融基盤の事実上の崩壊はロシアの銀行の法人や個人の顧客に膨大な損害をあたえ、支払決済システムは崩壊の淵に立たされたし、国家自体も経済破綻寸前までいった。
こうした事態の原因とは、多くの点で金融問題以外のところにあった。金融部門と実体経済の断絶は経済システムの基盤のゆがみにより引きおこされた。物々交換している企業に融資する普通銀行は想像しがたい。また同時に本当の市場体制に経済が移行すれば、効果ある金融基盤形成の条件をもっぱら作り出すことも考慮する必要がある。しかしながら、この部門の金融健全化や、そこでの合理的な労働配分、国際金融機関との協力という最もやっかいな問題がのこっている。
現在のロシアの条件では、次のやり方が合理的に思われる。
銀行機関の財政健全化や銀行業務にたいし分別ある要求という方針は継続する必要がある。延滞債務の全面決済方式はこの問題を大幅に緩和するし、この決済により多くの銀行は財政的に健全化するし、通貨供給量が急激に増えるので実体経済部門にたいする融資規模を著しく拡大する条件も出てくる。
総合的対策をとる必要があり、それにより商業銀行の基本的投資機能が信用に基づき、企業そのたの経営体に流通資金を供与することになる。長期投資に関すれば、その財源は投資基金、年金基金、保険基金とすべきである。
とりわけ商業銀行が国内、国外の会社株式にたいする投資に関しては再検討を要する。株式は国内では証券相場固有の大きな乱高下があるので、資金流通の道具にはならない。したがって、資産における株式の占める量が異常に大きいと、銀行の信頼性が大きく低下してしまう。
資本流動の管理
IMFの強い圧力で1999年7月、政府は経常収支及び資本に基づき今後取引を自由化させる総合対策を実施する責任を負った。現在の条件ではこれは明らかに国外への資本流出の減少やロシアの産業復興を助けるものではない。
我々の見解では、税関と商業銀行が協力して日常取引による外貨の動きを効果的に管理
できる時期がやっと到来したと思う。国外資金流出の銀行ル−トを遮断するためには、商業銀行の全ての国外口座を中央銀行もしくは公認国立銀行(対外経済銀行または外国貿易銀行)の一つに移す問題は真剣に検討する価値はある。
1998年8月の破局は国内外への短期資本の動きを厳重に管理できる体制つくりが重要だとまざまざと示すものであった。したがっていわゆる一種のトビン税の導入に合理性があるか、この問題の研究にきわめて真剣にとりくむ必要がある。典型的なケ−スだと、これは外貨売買取引全てににかかる税金であるが、例えばチリやイスラエルで用いたやり方では短期投資の場合、外国投資家は多額を保証金を預ける必要があった。
経済成長のメカニズム
ロシア経済システムの深刻なひずみの除去、延滞債務の全面決済による通貨流通は経済成長の市場メカニズムに強いインパクトを与えるはずである。通貨量と価格水準の不一致は解消され、利率は実体経済における資本効率より下にさがるはずである。所有権を整備すると共に、これはまた投資プロセスを正常化させる条件も作り出す(海外からの直接投資も含め)。
それでも最初の数年、経済成長のテンポは主に既存の生産設備操業率の上昇だけで決定されるだろう。これは、経済活動のショック療法による自由化は最も肝心な各市場制度が歪んでいたり、あるいはまったく存在しない環境では、膨大な過剰ストックにより生産低下となったのである。
事態がこのように推移することはきわめて自然なことである。これは、社会主義崩壊後の全て国家で生産低下から成長への移行経験や、1998年末からロシア経済の成長が証明するところである。同時に投資によらない成長の具体的動向(全部門及び個別部門)が国の経済政策の性格にかかっていることも考えておく必要がある。
社会優先のシステム
経済戦略の基本とすべきは、ロシア経済の将来性、世界経済におけるその地位について社会に支配的な願望に応える理念である。確信していることは、ロシアの当面の相対的なメリットにより燃料や資源の専業化や、使用者がいなくなった人的資本や科学技術力の喪失に満足する者はほとんどいないだろう。ましてや最も一般的な考えからも分かるように、生産資源と人的資源の再編は大きな市場効果をもたらすかもしれないが、しかしそれは将来のことであるからなおさらである。
生産を公益としてとらえること(環境の状態、国家内外の安全、学術的基礎研究等)、公益性のある商品やサ−ビス(教育、医療、文化等)をはっきりさせる必要がある。前者に関しては基本的に市場で調整できない分野であり、後者は市場メカニズムが機能すると、社会が最良なものと感受しない結果となるものである。環境保護基準や社会保障等の基準つくりは第一義的課題となっている。
また同様に、社会経済発展戦略において社会正義についての支配的考え方も考慮することがきわめて重要である。まったく当たり前のことだが、著しい所得格差は社会の大部分には拒絶感をもたらすばかりか、労働モラルを破壊する。こうしたことを考えると、所得格差を大幅に減らす課題の提起は経済戦略の優先課題の一つとして検討すべきである。
産業政策
ロシア社会の大部分は近い将来にも、経済、科学技術、文化政治面で堂々と振舞える国家の仲間に復活する課題が第一義的なことだと考えていると、この推測が正しいならば、また政府が社会的優先課題に背くつもりがないとすれば、積極的産業政策以外にはいかなる選択肢もない。短期的な意味で超急進的自由政策が所得を急増できると考えることもできるかもしれない。しかし、この政策で上記の意欲的な課題を解決できることは絶対にありえない。承知のように市場とは目先のことだけなのであり、現在の状況ではそれはロシアを高度技術の発展に向けるのではなく、天然資源の全面的な開発に押しやるだけである。
ロシアの多くのリベラル派エコノミストは、意欲的課題の提起そのものが誤っていると本当に考えている。彼らはこの課題解決にたいする社会の傾向は、社会の保守性の現われとみなしている。ここで彼らは現代経済学の基本命題と大きく矛盾していることに気づいていない。現代経済学では価値基準の正否の評価ではなく、限られた資源を合理的に配分する上でその影響を解明することが課題となっている。これを裏付けるために、消費者選択論をもちだすことにする。これは知られていることだが、個人の嗜好を外的要因、すなわち外部から与えられたものとする考えに基づいている。
こうしたわけで経済活動にたいする国家介入の必要性は、多くの問題が市場原理では解決できないし(例えば、基礎学問の資金)、その他の場合でも社会は価値観的にも市場が提案する解決方法では満足できない、そのことに起因している。それでも重要なことは、国益に合わせ資源利用の方向を修正しながら、国家のやり方が市場メカニズムの根幹を破壊しないことである。このような問題提起には何の矛盾もない。我国出身の優秀な経済学者ワシリ・レオンチエフが市場メカニズムをベクトルの力に喩えたのは偶然ではない。国家規制とは望ましい方向に船を向ける帆であるとたとえている。
国庫に資金を集めて政府は物品やサ−ビスを国で買い付けることにより、生産資源の配分に直接影響をあたえることができる。しかも政府の手元には多くの間接的方法がある。優遇税、補助金、輸出支援策、輸入規制関税、競争力のある金融・生産構造形成と外国からの投資誘致のための奨励策等がある。この他に当然のこと国内には根本的には避けることのできない独占企業が存在しているので、国はその製品やサ−ビス価格を管理する必要がある。
産業政策をつくる場合、優先分野にたいする市場の影響は段階的に、しかし継続的に強化することを基本とすることが重要である。例えば、一定の生産分野を保護するためたんに高い税金をかけるだけではだめである。生産部門が世界市場から孤立せず、それに対応できるように仕向けるため、この保護税を正常な水準に下げるまでの厳しいスケジュ−ルも作る必要がある。
産業政策や積極的な社会政策の実現には必ず大規模な再編成プロセスを伴うが、これを実行できるのは行政機関(中央、地方)だけである。このことは、こうした政策実施の成否は全体の国家支出(及び収入)を相対的に高い水準に維持できるか、これにかかっている。ロシアではいわゆる拡大政府の支出は長い間明らかに不足していたし(国内総生産の約35%)、石油価格その他の輸出品価格の上昇によってやっと国内総生産の41%までになった。最も成功したポスト社会主義国家の場合、この数値は40〜50%で、EEC加盟の先進国では平均で50%である。勿論これは、企業の財源を奪い、人為的に国庫を“膨張”させることを言っているのではない。積極社会政策と産業政策の問題提起そのものが、これに必要な財源を確保できないと、空文句になると言っているのである。
結局のところ、産業政策の実施には様々なリスクを伴うことは認めざるえない。経済発展の優先順位を決定する際、もしかしたら科学技術進歩の将来の方向に関し間違うかもしれない。経済分野における我国それぞれの動きにたいする他の諸国や国際組織の反応を考慮するのはいつも容易なわけではない。実際形成されつつある世界経済において、企業だけが競争しているのではなく、国家も競争しているし、地域全体でさえ競争している。けれでも、ここから出てくる結論は唯一つ、それは決定にあたり、不確実性の要素も計算にいれておくことである。経済学や実体経済ではこの課題は何ら新しいことでない。
金融政策
事実上全ての専門家と現場の人間は、ロシアにおける税負担は増やす状態にないと主張している。同時に国家予算に繰り入れられる資金量は国際的水準からすれば比較的小規模なものである。このパラドクスの話も有名である。経済の大部分は“闇経済”であり、税金はほとんど払っていないか、そのごく一部だけを払っている。実体経済部門の物々交換取引の結果、多くの企業は税金を計上してはいるが、流動資金がないため、納税していない。
物々交換取引、未払い、利益の隠蔽はロシアで広く行われている脱税方法だとの意見は正しい。しかしながらよく忘れられていることは、このような“ごまかし”ができるのは、我国の経済システムのひずみに根ざしていることである。実際、会社役員会は自らの考えで、あるいは大口投資家の指示でこのような方法により税を免れ、国家ばかりか企業の全所有者ないし大部分に損害を与えている。これから言える事は、所有権を整理し、会計を透明(公開性)にすれば、全てのレベルで予算にたいする資金流入量は自動的に大幅に増えるはずである。同じような結果には金融の閉塞状態を一掃すればなる。通貨を流通させれば、多くの企業は税金を計上するだけでなく、金銭による納税をしはじめるだろう。
このように税収の維持または増加しても税負担を低減できる現実的可能性がある。けれどもこれは先ず我国経済の体系的ひずみをなくすことであり、課税率低下にたいする評価しがたい生産の反応とは関係ないものである。
税制自体も抜本的な改正が求められる。我国の条件では資源・環境保護の課税に重点を移し、他の生産要素の税負担を大幅に軽減することが理にかなっている。正常な市場条件で資源配分の著しい歪みは賃金の割増金を引き起こす。何故ならこれは就業率を大幅に低下させるからである。この割増金を全面的になくし(段階的でもいいが)、国庫から社会保障金を融資するという問題は検討する意味がある。
国庫収入の最大の財源としては、国が所有しているものからの収入がある。その主なものを管理するために特殊投資持株会社を設立すると、この会社の所得に税金をかけることができる。この場合の税率は経済状況により、資源配分に直接悪影響を及ぼさないで毎年自由に変更されるものである。
国家所有物からの賃貸料及び収入により、国民各自が配当を貰えるような特別基金を設けるかどうか、その妥当性を検討すべきである。当時経済学者O.ランゲが提案し、現在は北海での国による石油採掘に関しノルウエ−で用いられているこのような形態は、ロシア国家の強化や国の事業に国民が共同参加しているという感情を高めるかもしれない。
予算の連邦制に難しい問題がでている。口先だけでなく実際に中央と地方の対立は回避し、各地方を供益者と受益者に分けるのは避けるべきだとすることは正しいと思われる(国というのは二つのカテゴリ-からなっている。それは各地方であり、また国の中心と地方の中心である)。これは、中央が完全に全国家インフラ整備プロジェクトの資金調達をし、各地方が法で制定された社会保障(教育、医療、文化)を保証し、国家配当金を支払い、一連の国家機関(裁判所、検察機関、安全保障機関等)を維持すれば、可能である。このように権限を配分する場合、地方と中央の行政機関の間でも予算収入を配分する必要があるだろう。
未払いを全面的に決済し金融の閉塞状態をなくせば、ロシア経済において一斉に通貨取引を拡大できるだろうし、この意味では通貨改革に似ているかもしれない。それにより経済は相互の債務という桎梏から解放されるだろう。正常の経済環境の条件であれば、国は金融・融資政策を実行できるだろうし、マクロ経済学の観点から見ても、許容範囲のインフレ水準(年15〜20%)で経済動向を安定させることができる。新しい要求に合った生産構造を作り上げる段階では、中程度のインフレは効果さえある。何故かというと、大規模な資源の再配分により出てくる問題の激化を弱める独特の“潤滑剤”の役割を果たせる可能性があるからである。(完)
4月19日(水)
“愛国主義−歴史の死角”(完)
(黙示録四人の騎手)
(独立新聞、4月12日、アナトリ・ウトキン:ロシア科学アカデミ−米国・カナダ
研究所国際研究センタ−所長、歴史学博士)
西側が現在のロシアにしている最良のアドバイスとは、カオスや混乱、主体性の喪失、大衆の失望は我々のところでは、物質的、経済的原因で起こるのではなく、際限のない野心や、止まることを知らぬ傲慢さ、不相応な期待にあるのだとしている。助言者としては最良の代表者という西側は、ロシアは二十一世紀の産業に打開の道を見出せない遅れた産業基盤のある中程度の力の国家であると認識するよう、真面目に親切に助言している。彼らの考えからすれば、我国は自国の力を冷静に評価し、過度な要求と期待で無闇に人心を刺激してはいけない。
気の毒だが、謙虚、冷静な自己評価、平凡な生活を大事にするという真面目なアドバイスは役にたたない。並みの国家になるというアドバイスは、純粋に心理面からして実行し難いものである。一億五千万のロシア国民は並みの第二級の国家という運命を本能的に認めない。我国の力や資源は取るに足らぬものとか、不相応なものと、そうした論争では数値を上げて見事に勝利できるかもしれないが、しかしどう努力しようが、ロシアの国際的役割は二次的なものだとか、数兆ドルが飛び交う世界、市場の国際化や情報技術の世界、超高度技術の世界ではロシアは論外だと認める覚悟を民族意識に植え付けることはできないだろう。近代の動かしがたい事実からすれば、バルト海沿岸からべ−リング海峡にいたるまで新旧ロシアは驚異的な力で静かに、しかし頑強に西側の歴史分析にたいし不同意だと、心中奥深く抱いている。
二つの首都でも、地方でも小声の会話の中で、これは初めてのことではないし、国は1237年、1612年、1918年と崩壊消滅し、1709年、1812年、1941年には瀕死の状態にもなったが、1480年、1613年、1920年、1945年に立ち上がったと、そうした意見が聞こえてくる。そしてこの民族の遺伝子コ−ドを変えることは不可能であり、これは民族意識のパラダイムの基礎をなすものである。
これがよいのか悪いのか、おそらくアジアとヨ−ロッパの間に存在する民族の再発展と新しい合理主義の勝利を最高の善意をもって熱望する超近代的な国際化推進者にとってはまずいことに違いない。申し訳ないが、現実には真剣に取り組む必要がある。ロシアは過去も、現在も、未来も、民族の思い出、感覚、夢の中の生きているのであり、そうした国なのである。ロシアに住む民族は外国人評論家や素人評論家が何を語ろうが、国際舞台から退去するのはまずいと明らかに考えている。
民族の自覚や誇りを国家にたいする献身の基本とみなすのであれば、よいことかもしれない。英国作家リチャ−ド・オルドイングトンは愛国主義について、“りっぱな集団責任感”と書いている。これはユニ−クな現象なのだろうか。けしてそうではないだろう。二十世紀後半の誰もがよく知る寵児の運命を深く考察してみると(例えば、ドイツや日本の復興)、もし我々が肝心なことを把握しないと、例えば民族が敗北した時でもこれらの民族は確固たる自尊心をもっていたし、自国の幸運を信じ、国力を再生し、世界の一員として尊敬される地位に最終的にはつくと固く確信した一種独特の“集団狂気”をもち続けていた点を把握していないと、一般にいう彼らの成功の秘訣を理解できないだろう。
過去の独裁主義侵略者の比喩には気になる人もいるかもしれない。典型的な民主主義を見てみよう。前世紀最大の試練の時に主な民主主義国家の指導者は、客観的状況で屈辱をなめた国家のために、不敗の気持ち、民族自覚の感情、傷ついた自尊心、無念さにうったえた。ル−ズヴェルト大統領はあらゆる集会でよくもちいたパタ−ンは、「我々アメリカ人は民族として、団結さえあれば敗北することはない」というものであった。これは大恐慌の時にも、第二次世界大戦の時にもあてはまる。ウインストン・チャ−チルは国が最も悲観的な気分でおおわれている時、スペイン無敵艦隊に屈しなかった英国女王エリザベス一世の不滅の栄光や、マルボロ公爵、ネルソン提督のような人物像をひきあいにだしていた。
国民はその「脳裡に正義の旗がよぎれば」、多くのことに耐え忍ぶことができる。逆に指導者が卑屈であれば、国民は民族意識の忘却の淵にはまり込む(最近のロシアの歴史がそのよい例である)。こうした観点からすれば、クレムリン指導者の交代はまさに誰もの感情、誰もが理解する気持ちに適うものであった。他の国が困難な時に良かったことは、ロシアが困難な時でも愚かな気取った主張ではない。自分自身や自己の運命を信じていないとすれば、民族の歴史に終止符をうったほうがよいかもしれない。しかし、自分自身や自己も将来を信じることこそが、現代の巨人、現代の大国の力の基礎であり、その国力とふんばりが二十一世紀の趨勢を決定づけるだろう。率直に言えば、歴史の片隅に追いやられないことである。
きわめて本質的なことだが、これに関しては政治家と多くの大衆の意見が一致している。国家の最高ポストにつながる現大統領の道は、この確実で不敗のレ−ルの上にのっていた。第二政党(国会内の議席数で)をつくるには、色あせたナショナリズムでも十分であった。
しかもきわめて際立った形で決起した民族意識はどうやら、英雄的創造となるようだ。問題はより痛ましい地に足のついた本質的なことにある。戦争でも最も悲劇なのは、民族の自己防衛である。この世に黙示録の四人の騎手が現れた。国内から巨額の資金流失、分離主義につながる破壊された国家管理機構、大量の失業者、厳しい周囲環境である。
おそらく第一番目の危険が最も差し迫った問題であり、脅威である。年々自己本位の人々は国外に自分の資金を持ち出し、国発展の促進剤を奪い取り、ただでさえ乏しい国の資本を自国救済の資金としてではなく、国外の銀行や企業発展の糧にまわしている。わずかな期間国は石油で得たドルというド−ピング剤で持ちこたえられるかもしれないが、外国の債権者にたいする支払い期日がせまっているし、巨額の国の富が不正に流失することは国家を死地に追いやるかもしれない。最早、大変危険である外貨流出を許している例の社会構成体にたいしては憎悪にまでたっしているし、これは基本資金の流出なのである。
大恐慌時代、米国から一隻の船舶が出航する度に、国内市場から10億ドルが流出したことを思い出す。そこでル−ズヴェルト大統領は銀行機関を“凍結”せざるえなかったし、国内のドルを守るため国家統制措置をとらざるえなかった。似たような状況下で誇り高き英国やフランスは国際債務の支払いを拒否した。西側で最も筋金入りの民主主義者は、今日のロシアのように資本の流出が流入よりはるかに上回り、金融システムを疲弊させ、それにともない最終的には社会基盤を破壊するようになれば、間違いなく国境を閉鎖するだろう。
ベンジャミン・フランクリンやジョ−ジ・ワシントンなどは各州が後戻りできない独立する危険性を感じて、さほど合法的でないやり方で55人の“賢人”会議をフィラデルフィアに招集し、密室状態で中央政府を大幅に強化した新憲法を起草した。現在米国のパンテオンには栄光のヒ−ロはいない、アメリカの新世代はこの憲法を崇拝している。旧米国の連合体に劣らず危険性があるのは、単独存在できる地域、つまりロシア連邦の構成体である。だからなおさらあわてて作った1993年の憲法はアイコンではないと断言する根拠はある。
就労には当面並々ならぬ努力が必要と叫ばれる国内の失業者の存在は異常である。家族の中で父親の失業は家族崩壊を約束するものだし、それはまた社会崩壊へとつながる。フランクリン・ル−ズヴェルトは躊躇せず、失業者を公共事業に投入した。米国は当時建設された道路とか橋、公共建物を誇りにしている。ロシアは道路のないユニ−クの国であり、立派な労働力を利用しないのは犯罪である。ましてやペテルブルグには新たな石油配管やタ−ミナルがそうとう必要であるのでなおさらである。
ドイツ非ナチ化委員会の責任者であった米国哲学者ジョン・デユ−イは二つの状況、国民経済の破綻と民族の屈辱が結びつく破滅的危険性についてのべたことがある。ロシアではこの結合が起きているのであり、その西部国境ではNATOの砦が構築され、国連でのロシアの声は無視され、国際金融機関は誇示するように条件を出している。ロシアは特別条件や優遇条件を求めていない。しかしロシアは地政学的観点であまりにも軽率な政治家がその弱体化を利用しないことに期待する権利はある。しかしロシアが東に向かって第二波のNATO拡大をめざす普及者の友好性に疑念をいだけば、またカスピ海を挑発と感じれば、さらにヨ−ロッパにおけるロシアの影響力が低下すれば、そうなると偉大なデユ−イが述べていた条件が生まれるし、ロシアは西側との友好の妥当性に疑いをもつだろう。
4月12日(水)(完)
“大統領の民族問題”
-長期政策立案センタ−は、2010年までのロシア国家政策を新たな見地で検討している-(独立新聞、4月8日、リデイヤ・アンドルセンコ)
五月にはプ−チン大統領は国の長期発展プログラムを公表しなけらばならない。まだこの作業ははかどっていない。同センタ−ではどの案で実行すべきか、その統一方針が定まっていない。経済に関すれば、多くのものは年1.5〜3%の成長見込みと投資環境の改善に重点をおいた適度の自由経済モデルを支持している。しかし、アンドレイ・イルラリノフ氏のように、より過激な方法を信奉しているものもいる。これは大統領府高官によっては支持されているもので、経済規制を外し、一般税と関税を大幅に低下させるなどとする考えである。現在同センタ−では妥協案を模索しているところである。同センタ−では純粋な経済プランの他に、緊急問題にも取り組んでいる。
大統領は正式には任期四年であるが、クレムリンの新しい主人とその側近の野心は二期の統治期間の見通しに注がれていることが全てを物語っている。この証拠は「大統領任期7年」の可能性という、明らかにされた三人の知事の書簡ばかりか、同センタ−で現在検討されているほとんど全てプランは少なくとも2010年までを見込んだもので、それを裏付けている。中でも特にロシアの民族政策にふれている。歴史的見れば、ソヴィエトマルキシズムの民族政策のモデルはその役割を終えたが、社会の都市化とグロ−バル化により、民族意識が消滅するとする西側の民族政策論はロシアではかみあわない。明らかになったことだが、1989年のソヴィエト国勢調査から1994年の小規模なロシア第一回国勢調査までに国内に民族の独自性と意識をもつ新たに45の民族グル−プが誕生している(合計で172民族となった)。
この十年間、過激主義と分離主義という国家にたいし現実的脅威が生まれた。中央政府は各共和国にとっても、各自治区にとっても、国家全体にとっても完全に満足できるような民族政策をロシア社会に示せる状態にはなかった。ロシアの瓦解を恐れ、民族地域を安心させるため、クレムリンは分離主義的風潮にはしばしば寛大な態度を見せて、民族主義指導者が予算獲得で私欲を追求するため、経済行為を民族問題化している明らかな事実にも気づかぬふりをしていた。これは結果して、民族政策の最大原則である“傷つけるな”から“何もしない”が原則となってしまった。今日、民族政策研究センタ−所長エミル・パインによると、統一の国家政策で緊急に解決すべき基本問題を我国は再びかかえている。第一の問題とすれば、民族分離主義であり、最も顕著に露呈したのがチェチェン共和国である。二つ目の問題で言えば、北コ−カサスの各共和国やその他一連の地域の民族間の緊張である。これは時に共和国間の矛盾へと発展している(例とすれば、オセテイア・イング−シ紛争である)。三番目の問題としては、“ロシア人問題”がある。パインの意見だと、「これは現在まで国の上層部に納得のいかぬ恥辱感と、この問題の関心がどのような形で現れても、排外主義非難の口実をなりうる懸念を抱かせている。」 第四の問題は、少数原住民の問題である。自治権という行政管区の地位はしばしば、地域の天然資源を開発するためだけに利用されている。第五の問題は、統制のきかない民族移動問題である。
1996年、ボリス・エリツインの命令で「ロシア連邦国家民族政策の基本理念」が承認された。それにより、連邦政府は民族分離主義と過激主義の拡大をある程度防ぐことができた。しかしながらこの政策は各々の問題解決には若干手遅れであったばかりか、政治全体の状況から生み出された紛争を沈静化させる断片的な政策であった。現在専門家が新大統領にたいし、国の民族政策を発展させる上でまったく別のアプロ−チを提案している。専門家の意見だと、2010までの民族政策とは最も危険な民族政策の動きの防止を重点にした予防的なものと、ロシア発展全体の段階的長期政策と一体となったものが同時にかね備わったものでなければならない。三つの大きなシナリオが検討された。その一つは、“単一民族制”で単一民族連邦制度に基づく国家の建設を意味する。例えば、いわゆる“ロシア共和国”の樹立を意味している(ある情報だと、有名な政治家の一人がまさにこれをロシアの将来のモデルとして現在積極的に宣伝している)。長期政策立案センタ−の専門家の意見によると、このシナリオは絶対に受け入れられないどころか、きわめて危険である。それと言うのも、このシナリオでは“他の”共和国からロシア人や少数民族の締め出しが強まり、また民族浄化まで引き起こしかねない可能性がある。二番目のシナリオは“適合”政策で、“州制度”を基にして連邦制から民族色を完全に一掃するものである。このモデルもまた適当なものではなく、何故なら中央政府と公然と戦う上で、共和国国民を動員できる力のある民族主義指導者がこれには反発するからである。
最もよい将来のシナリオと思えるのは、市民社会の発展を絶対原則とする民族政策統合構想である。この意味は、ロシアの全民族を国家構成民族と認め、どの民族グル−プにも領土や権力機関、天然資源の管理にあたり特権がないとするものである。すなわち権利と義務が完全に対等であり、これにより異なる民族の利害を考慮した合意解決をはかる必要がでてくる。ここでは民主主義の自由と人権を保障する上で連邦法の役割が強化される。この新しい構想で初めてロシア人問題が重要視された。本当にこれは国の民族政策の基本問題であり、その解決は安定した連邦制度にかかっている。同時はロシア人は全ロシア社会に有利な優先権を放棄せねばならない。エミル・パイン氏の意見だと、
“ロシア人”という言葉に法的根拠を与え、多くの非難から解放し、民族に関わらず我国のいかなる国民にも対応させて、社会意識に定着させる必要がある。専門家はこうした“些事”を考慮しないでは、民族政策統合の理念を実現することはできないと主張している。民族省を中心に民族紛争防止専門機関(この機関の具体的目的と任務は近いうちに定められるだろう)を創設するとした決定は、明らかに新たなやり方であると考えられる。
ロシアの新しい民族政策構想を検討し、これはウラジ−ミル・プ−チンが公表せねばならぬものだが、同センタ−の専門家はエミル・パインの基本報告に多くの重要な追加をくわえ、中でも具体的統計資料で同文書を補完し、法律に基づく中央政府側からの強制措置を強化するという規定をもりこむよう提案している。(ロシア科学アカデミ−環境と人類学責任者ヴァレリ・テイシコフの言葉を借りれば、「国会の副議長になってはいけないし、チェチェン支部を宣伝してはいけない」) 会議ではチェチェン問題は特に検討されなかったが、これは個別の問題で、徹底的に研究する必要があり、同センタ−の専門家は北コ−カサス地域のみならず、ロシア全体にネガテイブな影響を及ぼす重大な要因としてチェチェンについて時折発言せざるえなくなった。
連邦及び地域政策問題国会委員会副議長ウラジ−ミル・ルイセンコによれば、チェチェンで戦争を継続するか、それとも中央政府がとにかくアスラン・マスハドフと交渉を開始するか、この問題は来月には決定されるだろう。モスクワ国立国際関係大学教授セルゲイ・シャフライの意見だと、ウラジ−ミル・プ−チンはチェチェン共和国に大統領直接統治制の導入という考えを断念して、危険な過ちをおかす可能性がある(噂だと、大統領はこの断念について公式に表明する用意ができている)。チェチェン人はさらに長い間にわたって、自国の統一指導者を承認しないだろうと、セルゲイ・シャフライは断言している。
4月10日(月)
“プ−チンブ−ム”(完)
-十年にわたる混乱の後、ロシア経済はやっと“回復”しはじめた“
(独立新聞、4月4日、アンデルス・アスランド、カ−ネギ平和財団主任研究員、エリツイン政権前顧問(初期)
プ−チンには選挙勝利の他にも祝うことがある。ここ十年間の戦慄する変動の後に、ロシア経済はやっと“回復”し始めた。モスクワの証券会社「ブランスヴィク・ヴァルブルグ」は今年度ロシア国内総生産は5%の伸びと予測した。この成長により、プ−チン大統領がきわめて忍耐強く根気強い人間であれば、彼が夢見ていた強力な国家にロシアを変貌させる上で求められる長期改革に着手することができるだろう。
現在まで多くの意見は、今年度のロシアの経済成長率を1〜2%とふんでいた。このあまり景気の良くない予測の原因は明白である。経済人や投資家が最早前向きな要因でさえもまったく気づかないぐらいロシアには悲観的になっているせいである。この考えの根拠とは、ロシアの経済成長は高い石油価格と大幅なル−ブル下落による輸入の補填だけだとしている。
昨年度の経済成長率(3.2%)と前四半期の驚くべき成長率(8.8%)からすると、この考えには合理的根拠はない。経済成長率は実際に上昇している。こうした動向はよほど大きな要因でもないかぎり、止まることはないだろう。昨年度の産業成長率は8.1%で今年の二月期では14%と急激に飛躍している。
石油ガス産業はこの“経済回復”では牽引車でない。実際昨年度を見ると、この産業は停滞状態にあった。16〜22%の成長率を見せている産業の種類は、化学産業、軽工業、製紙産業、機械製造業である。これらの産業は中間製品の製造業であり、単純な製造業種である。すなわち、エコノミストが経済界回復期の成長としてほんとうに歓迎する産業の種類なのである。各産業部門内で優良企業が抜け出し、本当に産業再編がおきている時はそうなるはずである。
別の古臭い論拠だと、ロシア経済の成長は表面的なもので、投資による支えがないとの意見である。しかし、各国の過渡期の経済復興は、例えばエストニアとかポ−ランド、ハンガリ−では、通常輸出から起きている。一般に投資は復興の後に続いて行われるもので、それと言うのもいたる所に、十分活用していない資産が多くあるからである。とは言え、1999年度の投資額は6%増え、その成長は今日まで続いている。
しかし最も手垢のついた論拠となっているのが、ロシアの低い徴税率である。しかしこれは問題の本質をぼかすものであり、政府の過剰な支出である。昨年政府は、例えば企業助成金のようなむだ使いと不正出費をやめ、財政建て直しをはかった。国家予算の赤字分は国内総生産の1.7%に止まった。2000年度にはこの数値は実質ゼロとなるはずである。
物々交換取引や債務(工場・企業間の借金)は長い間の頭痛の種であったが、これも減少している。1998年8月の金融破綻時から、全推定債務の三分の二が実質数値で削減され、物々交換取引は半分となった。
この原因の一つは、1999年にロシアの赤字企業約1万社が倒産したことにある。金融危機はロシア企業の財政に厳しい要求をつきつけた。彼らは大量の資金調達の必要性を自覚し、これが財政管理の急速な発展となった。今日その出現を何年もまっていたあらゆる構造改革が見られる。ロシアは大胆な構造改革により一定の利益を既に出している。
最後の懸念として、国際収支問題があった。ロシアは膨大な対外債務をかかえているが、最近ロンドン債権者会議との取り決めにより、商業銀行にたいしてソ連時代の債務を半減させるとし、それにより財政圧迫が大幅に低下した。似たような取り決めがおそらく、政府債務に関しパリ債権者会議でも行われるだろう。ここ数ヶ月、ロシアの外貨準備金は急激に増加し、ここから今年度330億ドルと驚異的増加が見込めるし、もしかしたら400億ドルまで増加するかもしれない。勿論、ロシアは従来通り資金流出がある。しかしいわゆるこの資金流出の原因は、ロシアの銀行システムが弱いことと、機能を果たさない徴税システムによる。幸いなことに現在ロシアには自由取引のル−ルが存在しているので、ロシア人は自己資金をしっかりした国際銀行に預金することができる。
これらの変化は1996年大統領選挙から台頭した財界・金権政治家の時代の終焉を告知している。“旧”財界・金権政治家に代わって、主に製造業で新しいロシア経済人のグル−プが出てきている。彼らの勢力増大は、生産発展させる健全な経済成長の反映で、単に資源の再配分でない。これは新しいやり方を意味している。
昨年十月、“マッキンジ・グロ-バル研究所”はロシアの産業に関し実デ−タに基づく膨大な報告書を公表した。その結論によると、ロシアには年間8%の成長率を確保できる
実質資本と労働資本が十分あるとし、ロシアの問題はうまく機能しない徴税システムと不動産市場が存在しないことで発生するトラブルが主な原因としている。しかしながら、銀行システムも徴税システムも、発展のこの段階では障害とはなっていない。これがより大きな問題となるのは、ロシアが発展の次の段階に移行する時であり、したがって新しい経済人はこの改革を求めている。
プ−チン大統領は洞察力が鋭くしかも人気もきわめて高い。おそらく間違いなく、彼は経済成長の波をうまく利用するだろうし、改革が不可避だとする広範な合意を利用し、国の行政機関を整備し、さほど効果がないとはいえ、企業にとってはかなり負担である税制を柔軟化させるだろう。土地改革はプ−チンがおそらく手をつけないだろうと思われるほど矛盾にある問題である。私が最も心配しているのはプ−チンのことではなく、ロシアが1997年のように、外国資本の過剰な流入に合うことである。幸運にも債権市場は眠ったままで、この回復には少なくともまだ一年間は必要である。それなしでは、ロシアの有価証券に莫大な資金の投資はかなり難しい。
何やらファンダメンタルな重要な部分がロシア経済で変化した。悪いもの全てが最早過去のものとなり、全ての誤りに気づく時が到来しつつある。ロシアにとっては1998年の8月はタ−ニングポイントであった。これは社会に多大な損害を与えた凄い衝撃であったが、同時に為替相場だけでなく、ロシア人の思考方法も変化させた。
4月7日(金)(完)
“抗議の銃が狙っている”
-新大統領は統治する上で最も困難で最も危険な最初の年に突入する-
(モスコスキイエ・ノ−ヴォスチ、13号(4日〜10日)、ヴィクトル・ロシャク)
プ−チンの信頼が維持できる期間はどの程度だろうか。数ヶ月かもしれないし、半年かも一年かもしれない。チェチェンから出棺が増えればふえるほど、信用は小さくなってゆく。おまけにプ−チンは否応なしに、エリツインが丸十年間避けつづけてきたことに最初の年に取り組まざるえないだろう。常軌を逸した社会改革を開始せざるえない。ロシアはユニ−クな国であり、そこではおそらく国家予算の半分が国家機関維持のために使われている(きちんと正確に言えば、46%)。軍隊、各機関、特典、補助金、公務員の給料等である。
“何時我々は損害の程度を計算しはじめたのだろうか..” 破産宣告した後、損害程度を計算してみると、十年もたたない内に国は国庫に入った金全てを個人の懐にばらまき、負債が減るどころか、増えていたことがわかった。老齢化のすすむ民族(我が国はまもなく、年金者と未亡人の数では世界の王者になるだろう)があいかわらすソ連時代のように国家の庇護で生活していることは驚くことでもない。驚くことは別のことである。特権をばら撒き続けた共産党支配の国会がこの間を通して、たった一つ獲得した経済手腕が、印刷機を速くまわすことである。
同時におそらく各州、各共和国の代表者は自前の抗議部隊を作り上げたようだ。チェルノブイリ出身者、炭鉱労働者、電力労働者、零落した軍人。彼らはみな一緒になって、中央政府に向かってどうやら銃の引き金に手をかけているようだ。住居や光熱費の補助金を減らし、児童手当をどのように誰に支払っているか解明し、不満の嵐が国中を駆け巡るにしても、年金年齢を世界の標準に合わせることは政府には意味がある。ロシア人の三分の一がジュガノフに投票したとしても、不満はだだでさえだいぶ以前から燻っているのに、火が煽られることはないだろう。
長期政策立案センタ−が五月中旬にまとめる自由主義方針が“政官界クラブ”の一般会員となることであると誰か考えているのだろうか。たとえば、かつてソ連共産党員であることは体制にたいする忠誠をなにか誓うようなものであった。今日我が国では大統領からアパ−トの管理人にいたるまで全て公務員である。これを至近距離で見ると、きわめて単純な構図が浮かんでくる。第一に大型車であろうと、錆付いた車であろうと国の自動車で、人より重要なものである。第二に官吏である。官吏だけが経済を扱い、管理し、赦し、許可をあたえる。ロシアが偉大だと語るのは、貧しい国家予算から見ればかけ離れたことで、それは国民を政治的自虐に招き入れるようなものだ。老練な公務員が国の金を奪い取っている。基本的に見れば、このことはウラジ−ミル・プ−チンが「国民所得が5%上がっても、最早不十分である」と見通しと経済方針についての質問の答えが証明している。四年間はあっという間に過ぎるだろうが、この期間は競争力のある国家となるべき期間である。
もしかしたら、我が国の競争力は質の悪い国家統制で確立できると誰か考えているのだろうか。ロシアという国の文脈から考えれば、これはたんに汚職の土壌にしかすぎず、かなり昔にクレムリンの城壁を超えている。汚職はどの大統領にとっても爆弾であり、プ−チンもその例外ではない。新大統領側近がとった興味深い汚職対策だけがユニ−クである。それは、マスコミが何を書こうが、どんな文書が公表されようが、反応は一つで、注意を払わないことである。山ほど例はある。流布されているこの種の事実に注目したくなければ、抗議の聴衆が、我が国の場合共産主義者であるが、選挙を繰り返しても減少しないことにしっかり注目したらいい。共産党にたいする投票は、私の考えだが、イデオロギ−ではなく、苛立ちなのである。汚職官僚はどんな熱血マルキストより多くの味方を共産党にもたらしている。
いずれにしても、極端な改革を実施する必要がある。国民の少なからぬ部分がプ−チンに好意をいだかなくなり、トウ−ラの筋金入り闘士が再び線路に上がったら、プ−チンはどう振舞うだろうか。強い意志が求められる。おそらく国民はプ−チンの強い意志とはっきりとてきぱきとした行動を支持したのだろう。社会に摩擦が生まれれば、これを全て発揮する当然の口実となる。最も重要なことは、犯罪者捜査にあたりアンドロポフの誘惑に屈しないことであり、時には不愉快だろうが、テレビや新聞が客観的の多くのものを映し出しているその鏡を割らないことである。
4月5日(水)
“第二代ロシア大統領”(完)
-彼の経歴からすると一見素朴な人生の歩みだが、それは信じがたい多くの出来事と不思議なぐらい結びついている-
(独立新聞、3月28日、アレクサンドル・ゴロフコフ)
ボリス・エリツインは民主改革の方向にロシアを初めて動かした人物で、最も荒削りの形 で新しい社会経済改革のだた大筋だけを作り上げた。自分の肉体を損ね、そして社会の信用クレジットを完全に使いはたしたエリツインは、誰も予期していなかったことをした。予め後継者を選び、具体的な政治統治能力を社会に誇示できる最も責任の重い国家ポストに彼をつけて、自発的に退陣した。
おそらくウラジ−ミル・プ−チンのポストには、有能で若いかさほど若くない、親しいか、さほど親しくないエリツインの側近の誰か別の人間が座ることもできたはずである。しかし第一代ロシア大統領の選択は真っ直ぐプ−チンに下された。
現在まではウラジ−ミル・プ−チンは評判どおり多くの期待にこたえてきたし、それを続けている。これは生まれつきの才能と状況がうまく重なったとも言えるが、しかし最も正確なところは彼が現時点、現在の歴史的状況においてロシア民族が必要と思うようなまさに指導者であったことなのであろう。
“まれに見る質素な生活”
“カメルサント”の記者の長時間インタビュ−の中で、これは単行本の形で公表されたが、そこでウラジ−ミル・プ−チンは「実際私の生活はごくありふれたもので、全て手に取るように明らかです。義務教育を終えると、そのまま大学は入りました。大学を卒業すると、KGBに就職したのです。KGBをやめると、再び大学に戻りました。大学からソプチャクのもとに行き、ソプチャクのもとからモスクワの総務部に入りました。その後、大統領府に勤めました。そこから連邦保安局に入りました。そして首相に任命されるわけです..」
と述懐している。
事実、彼の経歴において多くの重要段階でほとんど実現する公算の少ない人生パタ−ンが実現している。形而上学的思考方法からすると、ある最高なものに操られ、定められた運命の糸に赴いているように見える。実証学者の論理からすれば、これは稀有なことではあるが、統計平均値にたいし上下する、原則的に許容できる誤差とも見なすこともできる。
ここで先ず、多くの事情にもかかわらず出生したウラジ−ミル・プ−チンの事実に注目する必要がある。戦時中、彼の両親は生き残る可能性はほとんどなかった。父親は内務人民委員部の破壊工作部隊に属し、ドイツ軍の後方で戦っていたが、奇跡的に生き残った(奇襲作戦参加者の中、生還したのは4名であった)。その後レニングラ−ドのネフスキ−通りの凄惨な戦闘に参加し、重傷を負うがそれでも再び命は助かった(ある同僚の自己犠牲的な行動によるものであった)。母親は包囲網の中で餓死寸前であった(重傷で入院中の夫が医者の目を盗んでは彼女に食料を提供したおかげで生き残った)。1952年、父ウラジ−ミル・スピリドノヴィチ・プ−チンは41歳となり、母マリア・イヴァノヴナも同年齢であった。出産年齢としては限界と言われる。その上、戦時中の苦難からくる避けがたい後遺症もあった。しかし、その年の10月7日にウラジ−ミル・ウラジミロヴィッチ・プ−チン(後の第二代ロシア大統領)が誕生した。それはもう若くはないし、多くのことに耐え忍んだ二人の愛と誠実さにたいする神からの祝福のようでもあった。
少年期にはウラジ−ミル・プ−チンはスポ−ツに熱中し、またもやある人物が将来の人生目標からみても必要な方向に彼を導くのであった。彼は“トウル−ド”協会のきわめて優秀なトレ−ナと出会い、プ−チンによればその人生で決定的な役割をはたしている。(..スポ−ツをやっていなければ、その後どうなったか分からない。このトレ−ナとはアナトリ・セメノヴィッチのことで、事実上私を家から引っぱりだした。なにしろ、そこの環境は正直言ってあまり素晴らしいものではなかった...)最初はサンボを習い、その後柔道を習った。柔道は単なるスポ−ツではなく、それは哲学である。柔道には儀式から些事にいたるまで、全体として教育的視点がある。
そのような知的スポ−ツから知的関心事一般に移ることは当然であった。最初の人格形成に大きく影響したのは、必ず諜報機関員になるのだ、その抑えがたい感情であった。今日プ−チン本人は自嘲ぎみにこうした熱中について、当時有名なベストセラ−「盾と矛」のような本と映画鑑賞の影響によるもと述べている。しかし当時おそらくこの外部からの影響は何か意義があり、はっきはしないが英雄的なもの求める心の内部の動きに明らかに共鳴したと思われる。その結果、周囲の強い抵抗(尊敬するトレ-ナをも含め)を跳ね除け、その後レニングラ−ド大学法学部の試験の試練もパスする強靭な意志力がつくられた。並外れた厳しい試験であり、これはラクダが針の穴をとおるより難しいものであった。という事は、最も小さな最初の成功チャンスの完全な勝利を意味した。
さらにもう一つプ−チンの特徴はあらわすエピソ−ドがある。
プ−チンの両親は多くの国民と同様、月給までなんとかやりくりする生活であった。ところがある時、偶然にも宝くじ券が手に入った(食堂でつり銭かわりに貰った)。思いがけず豪華賞品が当たった。自動車である。当然それは学生の息子のものとなり、暴走ドライバ−となった(これもまた将来のエリ−トからすれば、意味のないことであった)。
そして多くの“ありふれた奇跡”の当然の帰結は、大学四年生の時卒業後“機関”に勤めないかとの誘いであった。ここでもKGB機関が堅持している当たり前の人事論理が早くも機能した。非の打ちどころのない履歴書にある基礎教養とスポ−ツ体験が理想的に一体化している、これこそ我々の求める人間なのだ!
国家安全委員会の仕事は(最初は逆スパイ課、その後諜報部)まずおきまりの任務を完璧に遂行する必要があり(無論、ロマンチズムなどない)、時折正規の特殊訓練をうけた。その結果、東ドイツに派遣されることになった。しかし、そこにはスパイを熱中させるものはなく、快適な生活環境の中で規則的で規定どおりの仕事であった。それは全て青年時代に夢に描いた“真に大きな仕事”の下準備であったのかもしれない。ソ連の推理小説からすれば、こうした仕事はソ連邦の“仮想敵国”リストのどこかの国での任務となるはずであった。
しかし突如、全てが瓦解した。最初はベルリンの壁(プ−チンの目前の出来事と言ってもいい)、その後でソヴィエト帝国とソヴィエト社会の伝統的権威と優先性全てが崩壊した。KGB中佐のプ−チンは1990年始めレニングラ−ドに戻った。それは、都市の規模でも、全ロシアの規模でも、新しい人々、新しい価値観が勝利し権力を握った時であった。
青年時代に選択した人生行路はその後無意味となってしまった。ウラジ−ミル・プ−チンは新たな人生の方向と目的を確立する必要があった。あれこれと予測してみれば、彼は学問でも、現実の法曹界でも、あるいはビジネスでも自己を実現できたであろう。しかし運命(その引き金となったのは、学生時代の友人たちであった)は彼を政治に押し出し、新たに選出されたレニングラ−ド市長アナトリ−・ソプチャクの一員となった。
“...かくして生活は音をたてて瓦解していった”
1990年の最初の民主選挙と1991年8月のク−デタ−の期間、ロシアで起きたことに、プ−チンはきわめて病的に狼狽した。(...実際、生活が音を立てて瓦解していった。まったくこの時まで私は国で起きていることの本質を理解できなかった。東ドイツから帰国すると、ロシアで何が起きているか私には分かったが、ク−デタが起きてみてはじめて、KGB勤務当時の私の中にあった全ての理想や目的が崩壊していった....“)
新しい活動舞台で成功するためには、新たに自己の基本的価値観を確立する必要があった。しかしこれはまったく簡単なことではなく、周囲は全て不透明で、すばしこいエゴイズムの利害と欲求が支配し、国家奉仕の根幹をそっくり押しつぶすものであった。こうした中、大きな意味をもったのがアナトリ・ソプチャクとの関係であり、プ−チンはサンクト・ペテルブルグで民主行政機構の形成と確立の間、彼直々のアシスタントとなった。ソプチャクは当時多くの者にとって、実現したのは不完全な形とはいえ民主改革が現実にもたらした実証主義の生きた体現者であった。“ソプチャクは本物だ”と、プ−チンは自身が権力の階段を高く上りあがった当時の最も古い同志と大きな確信をもって見なした人物について総括している。
資格、総合的知的レベル、強い意志、仕事の経験からして、プ−チンは既に政治官僚出世の最初の段階で他のものを抜きん出ていた(大半は野心の大きさだけが際立ち、偶然うまくいった人々である)。1990年ソプチャクのアシスタントというささやかな地位に始まり、1994年には第一副市長、事実上北都市政の2となったのは驚くにあたらない。もしソプチャクのグル−プが市政で強固なものとなっていれば、プ−チンにはやがて初めて民主的に選出されたサンクトブルグ市長の後継者となる現実的な可能性があったにちがいない。
しかし事態は別の方向にいった。アナトリ−・ソプチャクは1996年の選挙で負けた。彼に最も近い同志で選挙運動の戦友、ウラジ−ミル・プ−チンも住み慣れたスモリヌイの建物から去るはめとなった。運命はどうらや、慣れた職場のレ−ルにのって歩むことを許さず、三度目だが“おまえは何になりたいのだ”と古典的質問を彼にぶつけた。
モスクワにいるペテルブルグ出身者は当時中央の国家機関の中で大きなグル−プをつくっていた。このグル−プはネヴァ川の都市(レニングラ−ドのこと)の新しい出身者でしだいに肥大化していった。おそらく地方の宿命をもつ偉大な都市は偉業や出世する上で地方の力が及ばないぐらい強大な人材エネルギ−をつくり出していた。このことはまた過熱競争を生み出し、功名心の強いペテルブルグ人を中央の出生街道に向かわせ、そこで彼らは常にライバルを闘争力と集中力で圧倒した。
1996年の5月から6月にかけてペテルブルグで起きたことの後で、プ−チンにとっても中央政府の何らかの組織に職場を求めてモスクワに移ることは自然のことであった。しかし中央政府では、大統領選でエリツインが勝利した直後には主なポストは、共産主義の妖怪との戦いに参加した若干の競合しあう政治家・財閥グル−プの間ではっきりと配分されていた。プ−チンはどのグル−プにも属していなかった。大統領府に就職する道もあったが、当時の大統領府長官は同郷人にそれなりの関心を見せなかった。結局プ−チンは大統領総務部で働く誘いを受け入れた。最近本人が語ったところによると、事は同じくペテルブルグ人で当時第一副首相をつとめていたアレクセイ・ボリシャコフが手を差し伸べて成就した。ボリシャコフは仕事で何度となくスモリヌイ(サンクトペテルブルク市庁舎があるところ)に通ったころから、プ−チンには良い印象をもっていた。そしてパ−ヴェル・ボロ−デインにとりもった。とは言え、ボロ−デインは他人の推薦によるのではなく、自分の考えで一時的に権力基盤に影響しない役に立つ働き手としてプ−チンを採用したともかぎらない。
プ−チンはパル・パルイチの下で暫く働いたが、1997年3月大統領府管理部の責任者となった。大統領府副長官の地位にあたる(彼を推挙したのはアレクセイ・クウドリンと考えられている。同じくペテルブル出身者でプ−チンの古くからの友人である)。このポストに一年以上いたが、退屈なものであったと後に彼は述懐している。宮仕えをやめて民間で法律の仕事につこうかとも、時折考えていた。しかし1998年春、エリツイン大統領自ら引き起こした(いつもそうだが)例のごたごたが始まった。“磐石”のヴィクトル・チェルノムイルジン首相がたおれ、同時に“とって代わるものがない”と言われた第一副首相アナトリ・チュバイスも結局政権を離れた。王座をめぐり遠い未来に大きな波紋の一つとなるのが、1998年5月、地域担当として大統領府第一副長官にウラジ−ミル・プ−チンの任命であった。思うにこの任命はエリツインの直接の希望があったからこそ実現できたはずである。と言うも、まさにこの時チュバイスの最後の仲間と推挙者を一掃していた時で、噂だとプ−チンもこの中に含まれていたからだ(ペテルブルグ出身と有力な“チュバイス派”の一人アレクセイ・クウドリンとの親交による)。
当時ほとんど無名の大統領府スタッフの一人にエリツインが個人的に着目したことは、やがてその後の発展となった。1998年7月28日、ウラジ−ミル・プ−チンはロシア連邦保安局の長官となった。本人は“諜報機関”には戻りたくはなかったが、この任命は彼には前もって話もなかった。辞令がおりた、それが全てである。勤務しろ、嘆くことはない。エリツインは既に本能的にしかるべき政治変動は不可避と感じ、信頼できる人材で自分の足場を固めはじめていた。
連邦保安局長官にプ−チンは中佐でなったが、直ぐ後で大佐となった。連邦保安局の職員は自分たちの職場の長が得たいの知れぬ予備役の中佐と見て、あからさまな不快感をしめした。ソヴィエト崩壊後、この長官ポストには警官バランニコフ、政治将校ステパ−シン、クレムリン警備司令官バルスコフがついたが、彼らの中でプ−チンの前任者ニコライ・コヴァレフはプロとしてはるかに優れていた。きわめて政治的な動機によりコヴァレフを更迭した後、ルビャンカ(FSB本部の場所)の職員は新しい長官に何か優れたものは期待していなかった。しかし間もなくスタッフはプ−チンの高い職業能力と管理能力を確認することとなった。短期間に彼はなんとか組織を再編し、中央機関を犠牲にして連邦保管局の地方機関を強化した。新たな巨大組織をつくり、そこに憲法擁護、地域問題、コンピュ−タセキュリテイ問題の各機関を組み入れた。プ−チン在任当時、連邦保安局では巨大な経済犯罪問題にたいする関心が著しく高められた。信頼できる筋の情報だと、まさに連邦保安局がロシアの各港湾都市やクラスノヤルスク地方などで警察機関の大規模な捜査を率先して指揮をとった。
プ−チンはルビャンカで足場を固めた後、アナトリ・ソプチャクのロシア帰国を手助けした。当時サンクト・ペテルブルグ元市長の支持は、支持した者の政治的名声を大きく傷つける可能性があった。
プ−チンはきわめて深刻な政治危機を引き起こし、妥協の人物エフゲニ・プリマコフの首相任命を議会が承認した1998年9月11日になってやっと終息した8月破局の直前まで連邦保安局長官をつとめていた。この事件は繰り返し行われた政治衝突の終焉を意味した。この時ボリス・エリツインは最終的ではないとしても、初めて酷い敗北をした。その上、大統領にとってこのことは、一転して力の低下と激しく健康を損なうものであった。その結果クレムリンやホワイトハウスの幹部たちは、ロシア民主主義の創始者と心中ひそかく速やかに訣別しようとしていた。問題はいったい何時になったらエリツインが政治舞台から降りるのか、ただそれだけであった。
プ−チンはこの時、“見込みのないエリツインの事業”を放棄することはできなかった。これは嘗ての政治的後見人であるアナトリ−・ソプチャクの時と同様である。1999年春、肉体的にも政治的にも復調したエリツイン大統領は、国の主な機関を奪取しかけた公然、非公然の強力な政敵連合との戦いに突入した。長く過酷な政治闘争の結果、大統領の政敵は倒れた。そこには連邦保安局長官の貢献もあった(へまをした検事総長ユ−リ・スクラトフを解任した話は有名)。
エリツインにとって苛烈の国内政治闘争の勝利を確かなものにしたのが、1999年5月のセルゲイ・ステパ−シン政府の承認であった。少し前の四月、ウラジ−ミル・プ−チンは今までのポストはそのままにして、ロシア国家安全会議書紀となった。当時この就任には、政治通も特に注目しなかった。エリツインが“政治後継者”がいると五月の公然と発言しても、誰もプ−チンのことが思い浮かばなかった。プロの諜報員は、みなの見えるところにいても、どうやら目立たない存在であったらしい。
戦時中の首相
昨年八月のウラジ−ミル・プ−チンの首相就任と、彼はまた権力の継承者であるとのエリツインの発言に、新たに指名された“王位継承者”は驚きもせず、喜びもしなかった。彼はロシアの政治内情をよく知っており、この飛躍は間違いなく出世の終わりとなると予想していた。
全ては始まったばかりのダゲスタン侵攻の中で起こった。プ−チンは、もし今直ちにこれを食い止めなければ、ロシアは国家として今日の姿を保てないだろうと考えていた。大いに推定できる退陣まで数ヶ月ある。社会に支持され、軍や内務省、連邦保安局をしかるべき形で動かすことを考えた。時間が足りるのか、当時このことだけが不安であった。ダゲスタンの戦闘の始めこそが、ウラジ−ミル・プ−チンの“大勝負”の時であったと見なすべきかもしれない。彼は長い間待望した“真の偉大な”、“英雄的行為”の総指揮者となった。そして大衆の意識に予期せぬ力強い共鳴が沸き起こった。新首相は一瞬のうちに歴史的人物となり、復活しつつあるロシア愛国主義の象徴となった。
今までロシアの国家指導者やロシア軍部で誰も北コ−カサスの独立派武装勢力との戦いで大きな勝利をおさめることはできなかった。ところがプ−チンははじめはダゲスタン、そしてチェチェンでなにもかもうまくいった。先ず彼は全ての軍事関係機関の力を統合し、完全勝利まで戦うという一つの命令にその指揮官を集中させることに成功した。ロシア軍が1999年10月の始め、ほとんど損害なしに最も短期間にチェチェン領の三分の一を占領した後、国全体は北コ−カサスの敵に最終的に勝利できるし、その必要があると確信した。その後プ−チンの人気は飛躍し、マスコミの攻撃も、クレムリン内幕の陰謀も恐れなくともよくなった。
チェチェン戦争の今後の進展は各機関専門家の研究課題となった。ウラジ−ミル・プ−チン本人の政治未来はきわめて明瞭となり、国は有望なリ−ダを獲得し、残っているのはただ国民投票で現状を不動なものにすればよかった。最後で本当の君主の贈物を運命は、大晦日任期前の辞任声明に署名したエリツインの手をとおして彼に渡した。
ロシアは後退を食い止められるか
現在、首相就任してから八ヶ月、国家元首の仕事をして三ヶ月、ウラジ−ミル・プ−チンには国家発展優先順位と熟考されたものだが、まだ一般に最後まで明かしていない方針が出来上がっていることは間違いない。
この方針の骨子は、社会の力を統合し、民族国家体制を強化しながら、文明的で民主的な市場制度の形成を既に確立した方向で国を早急に発展させるために仕向けることである。
北コ−カサスの戦争にちなみ様々なところに初めて現れた社会糾合の動きは、内政全体を支配するものとなるべきであり、それは経済、社会、多年にわたり蓄積したロシア社会の問題全ての解決にたいし、前向きな変化を保証するだろう。
社会の糾合は外敵から防衛するだけに必要なのではなく、それよりむしろしかるべき秩序を確立する上で必要なのである。この秩序は先ず権力が自ら確立しなければならない。全ての国家機関の綱紀と責任を強化し、そこから腐敗し、職業的に不適性な分子を一掃する必要がある。国庫金の正確な計算と責任ある支出を行うべきである。さもなければ、またもや社会の信頼は失われ、国家上層部の団結方針はエリ−ト族や独占グル−プの狭い妥協の範囲に止まってしまうかもしれない。
プ−チンの高い人気にもかかわらず、我が国民の多くは(アンケ−トによると)、国家統治に関し改善の見込みや、汚職の根絶、しかるべき法秩序の確立にたいし、過度の期待は抱いていない。権力にたいし懐疑的態度は、権力者の多年わたる無責任の結果である。さらにクレムリンやホワイトハウスの現在の“責任ある”幹部の行動も、社会に猜疑心を引き起こす少なからぬ原因となっている。
多くのものを当惑させているのは、大統領代行としてプ−チンが署名した最初の文書がエリツイン不可侵に関するものである。これは、本人もあらゆる自分の行動にたいし処罰なしと望んでいることによるものなのだろうか。定期刊行物やテレビ放送はあちこちでささやかれる財産にまつわる争いごとのニュ−スで溢れている。財界も官界も犯罪組織も何もかもいっしょくたになっている。こうした場合、国家元首はあきからに際限がないとしても介入はしていない。法秩序と不正の根絶と言葉では訴えながらも、本人は何らかの独占グル−プの利害に触れることをほんとうは恐れているからではないのか。他のものは民主主義の理念に忠誠を誓うとしたプ−チン発言の真意に疑問をもっている。彼が諜報機関出身者であることを想起させるし、国会の中で共産党との政治かけひきが長期的な戦略同盟を明らかに視野にいれて行われていたことをほのめかしている。もしかしたら、ルビャンカにアンドレポフの記念銘板を戻したの続き、過去から他のものも戻ってこないだろうか。
いずれにしても、社会は新たに選ばれた大統領を代表とする最高権力にしかるべき信用クレジットを与えたが、今度はこれを具体的行動で証明しなければならない。戦略的目標は、しっかりとした法秩序をつくることである。ここでは法が第一義的であり、富裕者や権力者の専横ではない。確固とした公正な秩序が広範な経済の自由と結びつくと、経済分野や社会の分野において国民の労働能力や創造力を実現する上で必要な環境が整うだろう。そうなればロシアはあらゆる分野でまっしぐらに発展を開始するはずである。なぜなら、そのために必要な全ての資源があるからである(天然資源、生産能力、優秀な働き手、訓練をうけた頭脳)。
その上ダゲスタンとチェチェンの戦争は、北コ−カサスの地域でロシアが多年にわたる地政学的後退を食い止めたことでもその意味は重要である。ウラジ−ミル・プ−チンはこの後退が中央ヨ−ロッパで始まった時の目撃者であった。それに続いて何年もの間、敗北、喪失、後退が続いた。ついにそれが止まり、敵に戦闘をしかけ、どうやら勝利したらしい。しかしこれからは、大勝利の後でも休憩はない。新たな努力と戦いがまっている。(完)