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2001年3月分履歴

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わが国GDP、何によって成長しているのか(完)

-末端需要の増加、経済成長最大の要因-

(独立新聞、320日、イゴリ・ポゴソフ:ロシア科学アカデミ−経済研究所主任研究員、経済学博士、教授)

この一カ年半、GDPの成長は1998年の平価切り下げとロシアの主要輸出品の高値と関係している。こうした見解はしっかり定着し、自明の理ともなっている。ここでは、成長の源は枯渇したとか、ほぼ枯渇していると、きまって強調される。1998年の平価切下げは国内生産活性化の上では大きなインパクトを与え、その競争力を大幅に高め、輸入品を締め出した。さらに石油、ガスの高値持続は、対外債務の決済に必要な外貨源であり、輸出企業や国家予算の収入源の重要なファクタ−であり続けている。ところが2000年度の生産にたいする影響から見ると、事態は変わってくる。生産の伸びは主に国内全体の需要増により起きたものである。このことは末端の消費から見た成長構造が物語っている(統計誤差の比例配分を計算に入れて)。

 

成長の基本要因は末端消費支出の増加であった。2000年度末端消費に関し、GDPの伸びは、1999年度価格で3790億ル-ブルであった。成長全体における末端消費支出伸び率は、51%であった。末端消費支出全体では対比価格で1999年度比で7.5%の伸びであり、その中家計支出が9.6%、公共支出は全体で1.5%であった。

 

GDP成長において重要な第二の要因は、生産活性化による蓄積の増加であった。その伸びは全体で45%であった。固定資本総蓄積の伸びは、前年比で15.2%であった。この場合、機械設備投資は、主に国内製品により行われた。

 

第三要因である、輸出入バランス増の影響はきわめて小さなもので、GDP成長全体の4%であった。生産成長にたいする民間輸出影響の過大評価は、過去の印象の痕跡にすぎない。2000年度、価格要因の影響を大きくうけたGDPの成長でも、輸出入バランスの伸び率は、25%以下であった。ここでは、国内価格上昇にたいし、対ドルル−ブル相場の変動が遅れたため、輸入増の傾向が若干見られた。

 

こうした状況は2001年度も継続している。五大基幹部門(工業、建設、農業、運輸、小売)の製造・サ−ビスの伸びは、2001年度1月では前年同月比、5.2%である。こうしたことは同時に、経済の成長状況の定着と続伸の可能性と接近を表している。行動プログラムは総需要の増加、良好な投資環境の整備、生産発展にたいする企業投資の増加、その資力と利益を保障する措置を定める必要がある。総需要の伸びは現況では国民の実質的支払い能力のある需要が伸び、国家支出や投資が増え、輸出が輸入を上回れば、達成可能である。

 

国民の実質所得の伸びは、7%にもなった労働生産性の上昇によるものである。GDP成長に応じた、つまりGDPにおける国家支出割合を維持し、国内市場における商品及びサ−ビス、年金・手当て等にたいする国家支出の増加は、相乗効果を計算に入れると、追加需要を意味し、生産発展に前向きな影響を与えている。

 

投資の活性化は、税負担が持続する中でさえ、GDPの安定成長と税収増加の基礎を作り出している。こうしたことを根拠に主要生産手段や、原材料、補充品、エネルギ−資源の需要が形成されている。2000年度の特徴は、増収の結果、企業自体の資金が投資の基本財源となったことである。

 

輸出力や、国内外市場で国内製品競争力を維持・拡大するためには、輸出収益性を確保し、輸入を抑えている現在若干低すぎるル−ブルレ−トを維持することが重要である。近い将来にたいする連邦レベルのプランでは、国内消費価格と対ドル交換レ−トの上昇テンポをほぼ同じとしている。しかしながら、指摘しておかねばならないことは、2000年度もこれについてはほぼ同じテンポを予定していたのだが、実際には消費価格は1.2倍上昇し、一方対ドルレ−ト上昇はきわめてしっかり抑えることができた。この状況の継続は、輸入増加と独自蓄積源を失うので、国内製造業の競争力の喪失や低下を伴う。

 

状況全体を評価すると、今日ロシアには生産増の基礎は存在するし、しかもそれは融資や、社債発行、個人資金や外国から投資資金がまだ広く活用されていない条件においてである。現在存在する可能性の活用は多くの点で経済、金融政策にかかっている。これまで述べた方向で政策を実施すれば、2001年度GDP成長は2000年度を上回るかもしれない。

 

 

3月23日(金)

インフレと現物取引、経済成長に歯止めかける恐れ(完)

-消費物価の上昇により、貸出し金利上げる可能性あり-

(独立新聞、36日、ウラヂスラフ・クジミチェフ)

経済発展の点から見て昨年は、多くの専門家は早い段階で経済の奇跡年と呼ぶことができた。この表現の適用そのものはきわめて妥当なものである。この30年間で初めてロシアは強い国家介入なしに、経済的に大きな成功を見せることができた。おそらく企業家が安定した条件で事業を行い、販売市場を拡大できた一つの大きな要因となったのが、中央銀行の政策である。国内通貨の安定は経済の安定も、もたらした。一方長年はじめたドルレ−トが支えられたことにより、一般国民の外貨預金の魅力が低下した。ドル預金していた人は、インフレが補填していた預金の一部を事実上失った。逆にル−ブル預金していた人ははるかにメリットがあったのである。またこれは以前の条件が保持されるのであれば、最終的には個人の資金が銀行を通して現業部門に投資されるというメカニズムが作動するかもしれないことを意味している。

 

ところがどうやら今年、図式が根本的に変化するかもしれない。経済奇跡とかについても、おくびにもでないかもしれない。きわめて公算が高いのは、最も楽観的な発展シナリオでも、ほんのわずかな経済成長(23%の範囲)にすぎないと思われる。きわめて喜ばしくない予測の原因は少なくとも三つある。きわめて高いインフレ率、国内における支払いの能力を伴った需要の低下、それに予想される世界経済の後退である。

 

すでに1月にはインフレ率は昨年の数値を超えている。年計算で工業製造価格は約26.3%上昇した。消費物価も上昇している。さらに一月、インフレ率が年水準20.7%である以上、二月を総括すると、物価上昇は加速されるかもしれない。分析会社「アトン」の予想だと、年計算でインフレ率は23%のレベルに達する可能性がある。

 

さらに一月のインフレの理由を昨年度国家予算黒字分の使い果たしや、季節要因による有料サ−ビスの高騰、輸入品価格の上昇のせいかもしれないとすれば、二月の持続するインフレ上昇の主な理由は抑制のきかない通貨供給となる。分析会社「アトン」の専門家の意見によると、経済は、昨年12月中央銀行による追加供給通貨610億ル−ブルを最早無理なく消化することができない。

 

現在政府は、利率を上げるか、それともインフレ対策をとるか、その選択に入っている。第一の方法は評判が悪いし、同じく第二の方法は難しい。政府が第一の方法を選択すると、早くも第一四半期に融資利率は28%まで上昇する可能性がある。だがこれは同時に企業向け融資利率の上昇も意味する。

 

借入金の高騰は必然的に製造価格上昇となる。一方輸入業者との競争が激化している中ではこれは、おそらく工業生産テンポの低下や販売の縮小を意味するだろう。二番目の方法もそれ自体の欠陥をはらんでいる。インフレを闘うため、政府は輸出業者の外貨売上金の強制売却のノルマを下げるかもしれない。ところが輸出業者からの外貨入金量の減少(石油価格水準全体の低下)と国の金外貨準備高の大幅な増額の必要性(ロシアとIMFが現在検討中の合意内容は、年間に約80億ドルの増加を求めている)は、通貨市場の操作能力を中央銀行から取り上げる可能性がある。こうしたこと全体から、通貨市場が不安定化し、その結果として国民には国の安定感が失われることになる。

 

余剰通貨量の調整では中央銀行の能力自体もきわめて制限されたものである。強制積立て基金への銀行の積立額を増加すれば、長期間大部分の通貨量を塩漬けにできるが、商業銀行側から対抗する動きが出てくるだろう。いずれにしても、政府と一緒に努力しないと、中央銀行のインフレ調整は望ましい結果とはならないだろう。

 

劣らず困難な課題に現在、民間経済部門が直面している。企業1000社を対象に過渡期経済研究所が実施したアンケ−トによると、現業部門の状況が悪化していることが明らかになった。例えば、同研究所のデ−タによると、すでに二ヶ月連続して現金による製品販売が絶対的に低下し、これは製造業者が頻繁に物々交換取引にすがっているせいである。

 

同研究所の専門家によると、企業には今後ロシアの産業について事態がどのように推移するか、これに関しはっきりとしたイメ−ジがない。今後数ヶ月以内に支払能力のある需要が再来しないか、それとも企業が大規模に通貨を使用しない製品販売方法に新たには頼ることをやめなければ、工業生産の当面の低下は避けられないだろう。

 

工業製品の需要低下は、製品在庫に関する企業自身の評価によっても分かる。すでに二ヶ月連続してノルマ以上という回答とノルマ以下という回答が事実上拮抗している。これまで27ヶ月間産業では、1998年直後から200012月まで継続していた品不足がきわめて実感できるものであった。1月の販売と生産成長の停滞により、企業は在庫を正常化させる方向でその判断を見直さざるえなくなった。この数値の今までの推移を念頭に入れて、同研究所の専門家は、こうした状況は生産条件の正常化の証というより、むしろロシアの産業における楽観論の低下の証拠だと結論づけている。全体として現在企業の27%が支払い能力のある需要縮小に対抗して、通貨を用いない決済方法を増やす意向である。

 

国家統計委員会に資料から、経済の後ろ向きな傾向が確認できる。一見、昨年当初と比較しても、図式は何か恐ろしいものとは思われない。例えば、20011GDP成長は5.4%であり、基幹部門の成長は5.2%、工業製品生産量は5.3%伸び、固定資本への投資は9.2%、小売業の売上高は7.3%の伸びであった。ところが一月のデ-タと12月の数値を比較すると、その図式はまさに逆になる。工業製品生産量では5.4%縮小し、小売業売上高では20.4%の縮小である。ただし、ここは季節要因を計算に入れる必要があり、12月は経済活動のピ−クにあたるし、一月はほぼ月の半分は仕事をしていない。

 

世界市場はどうかと言うと、現在状況は大幅な改善を強く期待する上では、きわめて不安定である。一面ではロシアに注目するよう投資家に唱えている、最も有名なリスク投資の専門家の一人マ−ク・モビウスのような有名な国際アナリストの声が現在早くも聞こえている。ところが多くの西側投資家はロシア経済への投資は控えている。政治とマクロ経済の不安定が起こるおそれがきわめて大きいからだ。政府の首脳部に入っている国内のエコノミストでさえ、早くも今年の中盤には経済危機の可能性があると、時折発言している。

 

3月18日(日)

ラベレジイアン、ゴルバチョフ(完)

-この部分は、出版されたばかりの本「永久の命を.....“ミハイル・ゴルバチョフ”70歳」でも公表されている。この本の著者は80名の政治家、学者、作家、芸術家、企業人、ジャ−ナリストである。ミハイル・ゴルバチョフの誕生日を祝う人の中には、ジョ−ジ・ブッシュ、ワネッサ・レドグレイフ、シモン・ペレス、アンドレイ・ビトフその他著名人がいる。(独立新聞、33日、ヴィタリ・トレチャコフ)

ゴルビ-と万民に捧げる!

十年前からミハイル・ゴルバチョフのことを個人的に知っている。彼については何度も執筆したことがあるし、その中には私達の交際まで触れたものもある。何度かインタビュ−したが、ことは一筋縄ではいかず、と言うもミハイル・ゴルバチョフは質問にたいし答えるのではなく、その時発言する必要があると考えていることを話す政治家に属するからである。

 

私はミハイル・セルゲエヴィチと並んで討論の席にも、食事の席(我々の妻も一緒であった)にも座ったことがある。悲しいことだが、彼のとなりに座り、ライサ・マクシモヴナ夫人の追悼式にも出席したことがあった。夫人は生涯にわたり立派な人で、親切な人であったし、時々鋭い機知を見せた人でもあった(ミハイル・セルゲエヴィチが権力の座にいた当時、私は彼女とは知己ではなかったので、政治家として彼の生活の中で彼女のはたした役割については、まったく間接的な推測になるかもしれない)

 

一言でいうと、年齢、政治的地位、当然有名度に差があるにもかかわらず、私たちは友人と認め合っている。ミハイル・セルゲエヴィチはこのことについて間違いだと言わないと確信している。

 

まさにここから全ての問題も出てくるのである。二年ほど前、出版社「ヴァグリウス」がゴルバチョフとエリツインという二人の政治家の伝記について執筆依頼してきた。二人は当然のことながら、空いている時間があまりにも少ないので無理だと言った。それならどちらかを選べと言われた。私はエリツインを選択した。しかしこれは望んでいたわけではなく、ゴルバチョフは友人である故、彼について書くことができなかったせいである。不愉快なことも、時にきわめて不快なことも書くはめなったろうし、しかしこれは友人にたいしても、政治家にたいしてさえ、してはいけないことである。

 

ちなみに今日まで、様々の文章の中で彼について山ほど書かれているが、ゴルバチョフついてきちんとした政治伝記は結局ロシアには出現しなかったように思われる。何故だろうか。純粋に人間的にはミハイル・ゴルバチョフことはとても好きである。当然のことながら政治家として彼にたいする私の態度ははるかに複雑なものである。そしてこうした複雑さ全体は本質的には次の一つの問いに集約される。「何故にミハイル・ゴルバチョフ、あなたはエリツインに勝てなかったのか、そして国家非常事態委員会を作った人たちに勝てなかったのか」

 

いずれにしても政治家ゴルバチョフについて、エリツインに関する本の中できわめて詳細に書く機会があった。したがって今日は人間的な思い出、特に祝いの日に相応しい事柄にとどめたい。

 

1992229日、当時モスクワで大きな騒ぎとなった独立新聞の祝賀会があった。そこに多くの政治家を招待した。正確に言えば、ある程度有名な人であった。ガイダル政府の閣僚は全員出席した。エリツインは当然欠席した。ハズブラトフは当時最高会議の議長をしていたが、前夜電話をよこし、出席したいのだが出張を延期できないと言ってきた。しかし副大統領アレクサンドル・ルツコイは出席した。それと当時CIS統合軍総司令官エフゲニ・シャポシニコフ(ソヴィエト軍の残存物:当時まだロシア軍はなかった)も出席した。さらにミハイル・ゴルバチョフとライサ・マクシモヴナを招待していた。その時最も興味をそそられたことは、ソ連邦大統領ポストを去った後、ミハイル・ゴルバチョフは人前に一度も姿を見せなかったことであった。

 

何が彼に招待を受け入れさせたのか、本当のところは分からないが、ゴルバチョフは招待を受けたのであった。公正をきすために言うが、この祝賀会の二三日前、ゴルバチョフはモスクワ芸術座で芝居を見ていた。そこでちょっとしたテレビニュ-スが流された。まさにわが社がロシアTV局(第二チャンネル)で一時間半の大きな番組を企画していた。これは祝賀会の二週間ぐらい後で放送され、そこでは番組の中心人物の一人にゴルバチョフがなっていた。199112月からこの日までなんと長かったのだろうか。それまでわが国のテレビは彼を映すことはなかった。

 

祝賀会が行われた映画館に着くと、この映画館の支配人ユ−リ・グスマンの部屋に寄ってみた。ここにはいつも最も尊敬すべき人、主に警護すべき人が集まる場所であった。この映画館には他に適当な部屋はなかった。おそらく抜けめない支配人が、まさに他の部屋がないように作り上げたにちがいない。

 

そしてグスマンの部屋によって見ると、そこにはすでに警備員がいた。つまり、まさに警護される人が来るところであった。この中には辞職したにもかかわらず、ゴルバチョフも含まれていた。やがてほとんど同時にゴルバチョフ、ルツコイ、シャポシニコフが妻と一緒に来るまで到着した。我々は迎えに出て、主賓が最終的に揃うのを待った。時折映画館のロビ−に出ては、ホ−ルに全員着席し、ロビ−には最早誰もいないことを期待した。その時に私の目論みでは、他ならぬ私がゴルバチョフ夫妻を席に案内し、人ごみをかきわけないですむようにしたかった。

 

経験の浅い私には、まさにゴルバチョフにとってこのやり方最良と思えた。ロビ-の人ごみはまったくひくことはなく、多くの報道カメラマンやテレビカメラマンもそこでうろうろしていた。あらゆる点からして、ゴルバチョフ到着の話は映画館全体にすでに流れていた。

 

今度はグスマンの部屋に戻ると、そこではちょっとした宴会が続いていた。そして人ごみは相変わらず多い、もう少し待ちましょうと言った。我々がグラスの酒を一気に飲み干した。すると突然ミハイル・ゴルバチョフが敢然と立ち上がり、「ヴィタリ、行こう!」と言った。彼は私の腕をとると、部屋の出口のほうに軽く押した。我々は映画館のロビ−と正面階段につながる細い通路を歩いた。我々の後にはライサ・マクシモヴナと私の妻オリガ、それにルツコイ夫妻、シャポシニコフ夫妻が続いた。この時のことをとてもよく記憶している。我々が歩いた30-トル、それは第三者の目からは見えないものであったが、ゴルバチョフは緊張し笑みはなかった。しかし我々はまさに通路の壁にへばりついて歩いたのであった。個人的にはこうした状態におかれたことは初めてなことであったし、どうか生涯これが最後にしてほしいものである。

 

我々の顔(もちろん、ゴルバチョフも含まれるが)数十のテレビカメラと写真レンズが向けられた。多くの人が我々に押し寄せてきたが、横から早くも警備員が現れた。彼らは報道カメラマンとテレビカメラマンの群れを手で押し分け、我々が前に進めるようにした。大騒ぎ起きた。ゴルバチョフが世間に現れたのだ。まさに彼にたいする関心は失われておらず、やはり彼はそれをおそれていたのだろう。彼の緊張感は、私は肌で感じたのだが、世に出ることを待望されている人間でまだあったことが分かると急になくなった。彼はすぐ笑みを見せ、私と何か話し始めた。写真とテレビカメラにたいし警備員を押しやりながら、そうやってまさに我々はホ−ルに入ったのである。

 

まさにその時、私は大衆政治家にとって大衆とはなにかはっきり認識したし、栄誉と知名度という響きはいいがその重圧を見定めたのであった。政治家の中で栄誉や知名度に無関心なものいないだろうし、いないわけがない。さらにこの夕べでゴルバチョフはもう一度注目の的となった。開会の辞を述べ祝賀会を始める時、私は出席した主賓を紹介した。そこで順番を逆にして、より地位に低い人から地位の高い人という順序で紹介した。

 

最後にこのホ−ルにはゴルバチョフ夫妻もいますと言った。そして壇上に上がるように彼にお願いした。その時私は「ソ連邦大統領ミハイル・セルゲエヴィチ・ゴルバチョフと大声で言った。ホ−ル全員が立ち上がり、心から拍車喝采をミハイル・セルゲエヴィチにした。彼はもう長い間、こうした拍車喝采を聞いたことがなかったのではないか、私はそう思った。前年1991年の間はまさにそのとうりだ。

 

後になって多くに民主系新聞は、私が旧ソ連邦大統領と言わなかったことを非難した。当時そうした人たちの民主主義のイメ−ジはそのようなものであったし、事実そうした人たちこそがわが国においてこの言葉をしだいに罵りの言葉にしてしまったのである。

 

もちろん生涯ゴルバチョフは政治家であるが、しかしもしあなたが彼と個人的に交際し、彼があなたを信用したとしても、それはもうほとんど分からないだろう。私はゴルバチョフ夫妻と何度か劇場にいったことがあるが、これは、彼と社会民主主義復活の考えを議論するより、いつもはるかに楽しかった。

 

1995年春、私はゴルバチョフとジェノアに飛行機で行ったことがあった。ペレストロイカ十周年大会があった。ロシアではこの日をけして祝うことはなかった。たぶん、チュリッヒでジェノア行きの飛行機に乗り換えたと思う。搭乗すると、そこにハンチング帽をかぶったエゴル・クジミチ・リガチェフが座っていた。彼も大会に招待されていた。リガチョフを見た時、私は緊張した。今まさに二人の思想的、政治的敵対者が対面する(どうなるのか)。ゴルバチョフはリガチョフのところに行き、「やあ、エゴル!」と言って、握手した。確かに彼らはキスまでしたのである。三回(政治局方式)ではなく、一回であった。それは久しぶりに会った古い友人がする人間的なものであった。これはこの五年間ではじめて会ったことだと分かった。

 

1989年初頭、新聞モスコスキイエ・ノ−ヴォスチ向けに原稿を書いたことある。当時私はそこで働いていた。ゴルバチョフの謎という大きな記事であった。私の記事の中の批判的発言の一部をモスコスキイエ・ノ−ヴォスチ紙編集長エゴル・ロコヴレフは削除するよう求め、さらにいくつかの提案し、この記事は良くなった。

 

ミハイル・セルゲエヴィチは少し後になり何度となく述べたが、ロシアのマスコミの中で自分について最もうまく政治描写したのは、私が書いただと言っていた。著者はもちろん、こうした人物からそのようなことを聞けば快い。誰が何を喋ろうが、二十世紀の最も偉大な政治家の一人である。

 

今、多くのことが分かるようになり、あらゆることにより批判的に接することができるようになったが、それでも二十世紀ロシアに三人の偉大な指導者、レ−ニンとスタ−リン、それにゴルバチョフがいたと言わざる得ない。不思議な組み合わせではないか。これは前世紀のわが国の歴史にすぎない。

 

海外でゴルバチョフの人気がほとんど落ちないことは、うわさによって知ったことではないが、それはまた再度あらためて、もしウラジ−ミル・プ−チン(エリツインにはこのことは生理的に無理)がゴルバチョフになんらかの特別の外交ミッション役を求めたとしたら、強い体力のある彼はまだロシアの役にたてるのではないか、そうした考えを私に抱かせしまう。そうしたことは今のとこない。

 

200057日、クレムリンで第二代ロシア大統領の就任式が行われた。そしてこれは一般的に公式の国家行事としては、ゴルバチョフが再度クレムリンに登場した199112月以来初めての出来事であった。エリツインは1995年の戦勝50周年祝賀式典でさえゴルバチョフを招待しなかった。ところがプ−チンは、彼を中央政界、そしてクレムリンに連れてきたエリツインがミハイル・セツゲエヴィチにたいし敵意を抱いているにもかかわらず、ゴルバチョフを招待したのであった。

 

夕方就任式の宴席、プ−チンはエリツインがいる前なのに唐突に、政権にいた時も、職務から離れても、立派にふるまっている政治家について若干発言した。そして、このホ−ルにはそのような政治家、ボリス・エリツインとミハイル・ゴルバチョフがいるとプ−チンは続けた。

 

彼の政敵がよくプ−チンのことを家族の手先と呼んでいるが、誰もその手先からこのような言葉を予期していなかった。がプ−チンは言葉にした。それも聞こえるように、クレムリンのみんなのに..。 信じようと信じまいと、最初に拍手をしたのは私であった。たしかに八年半の間、クレムリンでゴルバチョフの名前はタブ−であった。だが我々は何故にロシアはまったく不幸なのか、まだ問いつづけている。愚かな憎しみや愚かな禁止のせいであることは言うまでもない。その他のことは派生的なことである。

 

カ−ニバルとしてのペレストロイカ

ゴルバチョフ70歳、彼の友人すべてのとってお祝いの日ではあるが、しかしこの話はさほどよいタイミングではない。今日32日夕刻、祝いの席(300名が招待された)の乾杯の辞で、月並みな言葉が次々と響き、さらに月並み言葉でせかされることだろう。そして共感や愛以外でこうした乾杯に心をこめても意味のないことで、表現の内容も形式も変わるわけがない。1985年から2000年まで、我々は彼については付け加えることがまったく何もないぐらい十分な美辞麗句を語ってきた。そうしたわけで、言わないわけにはいかないし、批判してもいけないが(と言っても、ここですぐ何か新たなことが思いつくわけでもない)、賞賛はとっくに分かりきっていることの繰り返しになる。やり方はないのだろうか。ル−シにはそうしたことはありえないのだ。

 

下の文の内容は誕生日を迎える人の功績に捧げた会議で本人の出席した中、221日に述べたものである。ゴルバチョフの反応からすると、私の考え全体にたいしても、個々の表現についても、同意するというよりむしろ異議があるようだ。だが私は主張して譲らないようなことはしない。

 

記憶として覚えていることは、ゴルバチョフが政権についたまさにそのことであり、彼の最初の発言や行動、それからペレストロイカ、特にクラスノスチはソ連国民の圧倒的多数に、喜び、感激、上機嫌で迎えられたものだ。これはお祭りであった。しかしこれは、一般国民が下を歩き、幹部がレ−ニン廟の壇上に立っていたメ−デ−のお祭りではない。これはカ−ニバルであった、つまり着替えをし、上下が交替する祭りであり、ありとあらゆるタブ−が瓦解する(あるいはありとあらゆる仮面が剥がされる)祭りであった。

 

これを誰が始めたのだろうか。ゴルバチョフだ。ロシアに酒飲みの習慣をやめさせるという、独特で筋の通らぬ反アルコ−ルキャンペ−ンをまず始めた。不条理で、聖物冒涜である。これが現実や日常生活からの逃避であればそうかもしれない。だが、これはカ−ニバルの始まりの合図ではなかったろうか。それならば、正しい。たしか聖物の冒涜はカ−ニバル文化最大の特徴の一つではなかったろうか。

 

それでは何もかも出来ただろうか。よい上司を選べただろうか。ソ連共産党に悪態つけただろうか。皆の前で政治談義できただろうか。故人となった政治局員ばかりか、現役の政治局員(つまり神も皇帝も)も非難できただろうか。最高位の神官で統率者、書記長を非難できただろうか。厳しい日々の労働の中で、そんなことは夢想だに出来なかったはずだ。

 

マルクスとレ−ニンと論争してもよいのだ!スタ−リンに悪罵を浴びせ(彼を賞賛した人に)、また賞賛(彼に悪罵を浴びせた人)することもできるのだ!米国(かつての地獄)を愛し、ソ連邦(カ−ニバルまでの天国)を非難することもできる。カ−ニバルの小間使いやその主役に人民代議員を選んでもよい。そして彼らの戯言も喜んで聞くこともできる。機械や作業台、田畑、国境の関所を捨て、何時間も(作業時間に)うっとりと聞いていることができる。丸腰になり公共トイレで店を開いてもよいし(これはカ−ニバルではないのか、そうでないのなら何なのか、ミハイル・セルゲエヴィチ、カ−ニバルですよね)、三百万ル−ブルもの党費を納め、それで党員証を焼いてもよい(マルク・ザハロフ、天賦のカ−ニバル指揮者は何もかもたちどころに理解した)。売春婦は公然と街角に出るようになった。もしこれがカ−ニバルというものの証明とならないのであれば、さらにどんな証明が必要なのか、私には分からない。

 

ラブレ−やガルガンチュア、パンタグリュエル風なことやア−キタイプ、喪失した美徳、見せかけの悪徳、非の打ち所ない無垢な乙女の最高位巫女、検閲官の公衆面前での受難がなければ、祭り、カ−ニバルで最大なものは何だろうか。働かないことことである。働かず、陽気に振舞うことである。手を動かすのではなく、饒舌になることである。主催者とカ−ニバルの主役はお喋りが好きであり、それも長時間たっぷり喋るのが好きなのである。そして二千ないし二千五百人の人民代議員(これはソ連時代に限った話だが)恍惚とし、うっとりとしながらカ−ニバルに合流した。彼らははしゃぐ国民にたいし、テレビで自分たちが長く放映されればされるほど、より饒舌となった。その上、さらに集会で喋った。さらに外国でも喋り、謝礼でついでにカ−ニバルの衣装も新調した。とくかく喋りまくった。とにかくはしゃいだ。

 

そのあげく、国が崩壊した。だが代議員(その上、国民も)はこれには驚くことはなかった。さらにお喋りを続け、カ−ニバル後、エリツインが二日酔いになるまで喋り続けた。カ−ニバル、つまり遊びは数年間続き、街路には生きる屍のようなレ−ニンやブレジネフがうろつき、同時に無から新たなカ−ニバルの主人公、カ−ニバルの権威者、ジリノフスキ−やエリツインなどが誕生したのだから、国が崩壊してもよいではないか。

 

ゴルバチョフ本人はエリツインのことをカ−ニバルの登場人物と見ていて、彼を真面目には扱っていなかった。それだからこそ、最初は彼に負け、そしてカ−ニバルの政権に、そして現実の政権に負けたのだ。エリツインはたしかに饒舌であり、自己の特権をかなりあからさまに見せ付け、その上失脚しても懺悔し、反乱を起こし、モスクヴィッチで通勤し、地域の病院にはしばしば立ち寄り、アルバ−トをにんじんで塞ぎ、諜報機関を摘発(聖なる宗教裁判だ)したりした。無能な者が桧舞台に立ち、民衆が権力につき、作家は国会に居座り、役者が哲学論争し、卵がにわとりに説法し、二番目が一番目に、中尉が中将に、下級研究員がアカデミ−会員に、そして素人が政治学者になった。

 

これは国民、特に知識人、大衆のお祭りであった。つまり革命(マルクス)か、カ−ニバル(バフチン)であった。これは、ロシアの蜂起(プ−シキン)と同じようにロシアのカ−ニバルであり、無思慮で無慈悲なものである。カ−ニバルが終わった後で、平和な市民は家や職場に帰ると、財布(職場も)が消えていたのに気づき、驚いた。いったいどうしてなのか。何故か。どんな事情なのか。何故にこんな不正があるのか。真面目な市民は、祝宴のセオリ−と過去を知らないし(たしか前回のカ−ニバルはそうとうの老人だけが記憶していた。と言うの遠い1917年にあったからだ)突然不意にふってわいたお祭り気分で頭がおかしなったが、そこでどの企業もカ−ニバル中休みはとらず、逆に額に汗し大変熱心に仕事をしていることが分かった。これはすりだったのだ。一年を通じて、このカ−ニバルの三日間ほど、かくも多くの財布が取られ、人のいない家からかくも多くの家財道具が運び出されたことはなかった。おまけにそれは数日ではなく、年中となってしまった。

 

誕生日を迎える人にとってこうした発言は無礼だろうか。この非難には全面的に反論する。第一に、ペレストロイカやグラスノスチの時代がただカ−ニバルで終わったのではなく、祭りの根源というものは、祭りのスピ−チのやり方も作り出すものだ。第二に、ロシアは真顔で過去と手を切ることができるだろうか。アンドレポフの面構えでやるつもりだろうか。全員9時までに職場に入らねばならないが、スタ−リンの地下鉄のトンネルの大きさでは無理だ。本気になってもさっとは通り抜けられっこない。第三に、最初に口火を切った人間が感謝に値しないのだろうか。いずれにしても、あなたが最近思っているほど、ル−シの生活はそれほど退屈ではない。長い間はしゃいだ。こえはチュバイスが言っているように確かなことだ。アナトリ−・ボリソヴィチは私のことが嫌いでも、私を理解するだろう。そしてミハイル・ゴルバチョフも理解するだろう。おそらく、我々では別なやり方では出来なかったろうし、技量もなかったに違いない。とにかく始める必要があった。それ故、何もしないより、冗談をとばしたほうがいいのだ。まさにゴルバチョフがそれを始めた。

 

もっと賢く、もっとうまく出来たと主張している人々が一体何をしたのか。今日、あなたの健康を祈り、酒を飲んでいるだろう。だから、ゴルバチョフの健康のために乾杯するとする。

 

 

34

“ロシア語は稀有な言語なのだろうか”(完)

- “モスコフスキイエ・ノ-ヴォスチ、22026日号、ドミトリチ・バイビチ“-

ロシア語の言語空間の存続は経済力により決定されるが、地政学的変化や軍事ブロックではない。このように考えるのは、プ-シキン記念ロシア語研究所長、ロシア語及び文学講師国際協会会長ヴィタリ・コストマロフである。

 

-ソ連が崩壊したのもかかわらず、その全領域でいまだ単一言語空間が存続しています。住民の大半は従来どおり、ロシア語を使えますし、民族間の疎通言語としてロシア語を利用しています。知られているように、単一言語空間のこのような状況は他の帝国、ロ−マ帝国や大英帝国、スペイン帝国崩壊後も存続しました。このロシア語のオ−ラはあとどのくらい維持されるでしょうか-

 

「今日、誰もこの問題に正確には答えられないのではないか。これはむしろ政治や経済に関係することで、教師や言語学者に関係するものではありません。もしロシアに時折予言される、人口の減少や経済の衰退のような悲しい運命が用意されているのであれば、言語にもありがたくない運命が待っているでしょう。仮にロシアが強力で豊かな国にでもなれば、言語についても心配する必要はないでしょう。いずれにしても言語にたいする関心は経済力が決めます。宗教や文化もとても重要な部分ですが、しかし真の言語はそうしたものに立脚することはできません。ロシア語はル-マニアで150年間まったく純粋に維持されましたが、それも今では若干衰退しています。

 

言語学者は言語の普及に力をかすことができますが、独自に動いてそれを維持することはできません。例えばトルコ人はキルギスにロシアの五倍以上もトルコ語の普及に努力しているが、最終的にどの言語が優勢になるか明らかなことである。ロシアはとめどもなく、バルト諸国のロシア語支援をとなえているが、この十年間タリンのロシア大使館に暇をみつけてロシア語のカセットや本を持ち込む者はいないので、こうした声明の価値ははっきりしています。

 

何故に英語は大きく普及したのだろうか。それは英語があたかも簡単であるということではない。これは例えば、それを基準としてその他の言語を簡単な言語と複雑な言語に区分できるそうした基準言語が存在しない、そうした理由によるとするのは正しくない。ベトナム人にとって英語を学ぶより中国語を学ぶほうがはるかに簡単である。まさか侵略が英国人を支援したわけでもありまい。戦車で言語を教えることはできない。

経済、つまり先進の科学技術や高度に発展した教育制度こそが、英国人の勝利を決定づけたのである。さらに大量の移民がある。英国人と米国人は自国に様々な民族の人々を入れることに抵抗はない。周知のとおり、これはわが国では大問題である。」

 

-昔強力なラテン語の衰退のような図式でロシア語の消滅や異変の話を信じますか

「かつてプレハ−ノフが指摘したように、歴史的対比はきわめて危険であります。しかし実際にも多民族国家の崩壊における若干の共通傾向はあります。きまって本国の言語、つまりこうした国家の住民が民族間の疎通手段として利用していた言語そのものが被害にあうわけです。こうした言語が被害にあうのは、新たな独立国家が例えば公的な分野からそれを性急に追放しようとするせいばかりではない。こうした言語には常にお祭り騒ぎ的なものがつきものであり、突然の解放で民族全体の歓喜のようなものがある。今日こうした現象が標準言語基準の乱れや、外来語の浸透(わが国の場合、主に英語)、非標準的な話し方の浸透のように、はっきりと見られます。

 

だが私は多くの人が思っているほど怖いとは思っていません。最近ペテルブルグで行われた言語学者の大会で言われたことは、言語はそれ自身に浄化能力があり、時とともにあらゆる不必要なものを必ず自浄してしまう。

 

-しかし学校でロシア語を覚える機会のなくなった世代が増えるとどうなるでしょうか。こうした状況が間もなく来るとしても、旧ソ連構成共和国でいったいどんなふうにロシア語が学ばれているのか、最新の統計資料は1989年のものと言われています...

「いえ、我々には資料があります。統計はさほど正確でないかもしれませんが、しかし全体のイメ−ジはあります」

 

-しかしCIS諸国政府が出している資料は信用できますか。よく彼らは誇張して描きますし、例えばウクライナ語の学校よりロシア語の学校のほうが若干多いとまで主張していますけど.....

「あるいはその反対で、ロシア語学習者の実人数を書類上では少なめにしています。例えば、最近行われた-ロッパ地域におけるロシア語会議で、何もかも駄目になっているという発言を聞きました。そこでその後、問い質してみますと、そんな危機はないことが明らかになりました。1952年から外国でロシア語を教えてきましたけれど、この間、ロシア語はすべて順調だという話を一度たりとも聞いたことがありません。今まで常に耳にしたことは、ロシア語学習者数は減少しているとか、ロシア語にたいする関心が低下しているなどであります。もしこれがそのとおりであるなら、私とあなたは今、喋る術がないはずである。一方、だいぶ以前から見られる点ですが、例えば遠い国外でのロシア語学習では恒常的な増加や減少はありませんし、その進展は正弦曲線のように進んでいます。時にはこれに大きな出来事も影響しています。確か、ガが-リンが宇宙飛行した時、ロシア語学習者数はほぼセンセ−ショナルと言えるほど増加しました。一方、1956年スエズ運河危機の時、私はエジプトにいましたが、バザ−ルではロシア語で容易に話が通じましたし、そのように支援したことで感謝されたわけです。反対の動きもありました。1968年ソヴィエト軍がチェコ進入後や、1983年大韓航空機遭難後には、まさに誰しもがロシア語学習を止めてしまったという話もあった。実際こうした正弦曲線の平均線を引いてみると、絶えず上向いていることが分かります。したがって、長期的に見れば、懸念する根拠はないわけです」

 

-しかし、わが国の地政学的影響力低下にともない、ロシア語を話す人口数も間違いなく圧縮されるはずではなかったですか-

「結局、まったくそうではなかったわけです。もちろん、統計とは目立つものです。ロシア語学習が必須科目である国(事実上全ての旧社会主義ブロック)では、ロシア語を名目上学習した全ての学生、つまり事実上全学習者はある程度、ロシア語には通じています。ところが全ての人が本当に習得しているわけではありません。まさに彼らは授業には出たかもしれませんが、それによる効果はしばしば、きわめて弱いものです。彼らがしばしば、言葉をまったく覚えようとしない場合、如何すべきなのか。

 

ところが今日のポ−ランドに関し資料がありますが、名目ロシア語学習者数は約10分の一も減少しているにもかかわらず、ロシア語を選択し、試験に合格した学生数は義務必須時代の数値を凌いでいます。

 

-つまり、時には量より質が重要ということですね....

「もちろんです。一般に語学授業を強制すると、教師は教えている格好をとるし、生徒は学習している格好をとり、そして成績不良者のふるい落としは、何の知識も語れないというやり方で行われています。

 

-ところでウクライナに関してはどのようなデ-タがありますか

「あの国のロシア語状況はおそらく、全CIS諸国の中で最も複雑です。思想的な考えが優先していますし、さらにウクライナ西部と東部ではロシア語にたいする関係も知られているように、異なります。ウクライナの首脳部はこの問題をうまいやり方で解決しているとは思えません。ウクライナ語は東スラブ民族の純粋言語であり、その根幹で、ロシア語は古代スラブ語が普及してはじめて生き残った枯れた一支系であると、そうした意見をよく耳にする。まあ、それに類した話はあるし、時にはただ可笑しいだけです。しかし、もっともなことだが今状況が複雑なので、こうしたことはありえると思っています。

 

-共産主義者や民族愛国主義者はこうした政策に米国と西側全体がウクライナをそそのかしていると主張しています。その研究の中でこれについて何か感ずるところがありますか。

「まさにこうしたことは原則的にはないし、ありえないと断言はしたくない。しかし、こうしたことは何も悲劇的なことではないと思います。何故に、米国人や英国人がロシア語を普及させなけれならないのでしょうか。各民族は自国語を普及させようと努めていますし、これは本能的とも言える願望であります。何故に現在フランスでフランス語の英語化規制に関するツボン法が制定されたのでしょうか。おそらくこの法律はナイ−ブなものですが、しかし最大の問題は、フランス人が母国語を自ら保護すべきであると理解している点です。そうなると腹を立てる相手もいません。言語の普及についても同じことです。フランスにはこうしたことを担当しているフランス語省まであります。

 

-多くの旧ソヴィエト構成共和国でロシア人が第二、第三外国語としてロシア語を学んでいます。最初は例えば英語やドイツ語を習得し、その後でロシア語に取り掛かりなさい。こうしたことは、学ぶことや教えることの質低下となりませんか。第二、第三外国語はきまっててこずるものではないですか。

 

「これもまた悲劇とは思いません。我々はこうしたことを既に遠い外国で体験しています。例えば、フィンランドでは現在再びロシア語の関心が高まっています。どうしてでしょう。それはとても簡単なことです。例えばクラスで全員英語を勉強しているとしましょう。国中誰もがこの言語を知っています。ところがあなたは別人になりたいとしたり、職業で自分の居場所を探そうとしたり、ビジネスであなた以外誰も通じない言語で喋りたいと欲したとします。そこであなたはロシア語を選択するわけです。第二、第三外国語であるにせよ、肝心なことは、興味をもたせることです」

 

本紙関係資料:

旧ソ連邦諸国で偉大で卓越した言語がどのように教えられているのか。

ロシア語は旧ソ連邦諸国の大半で第二、第三外国語として学ばれている。このことはロシア語を学習する前に学生はさらに一つや二つの言語を学習していることを意味する。第一の言語は主に英語であり、若干のチェルク言語諸国ではトルコである。ロシア語教育で最も複雑な状況にあるのがバルト諸国である。例えば、ラトヴィアでは第二、第三外国語としてのロシア語を学んでいるのは、ラトヴィア学生の23.6%であり(比較すると、英語は72.6%、ドイツ語は20.6%)。リトアニアでは状況は若干良い。ここでは第二外国語としてロシア語が他の外国語とならんでロシア語を選択できる総学生数の75.8%が学んでいる。その学習には週二三時間割かれている(第一外国語の英語は34時間)。第二外国語としてロシア語は主にリトアニアの小中学生に教えられえ、ロシア語学校では母国語として教えられている。エストニアではロシア語は主に第二外国語として教えられ、六年生または九年生から始め、週23時間である。エストニアでのロシア語学習は、同国ではロシアのテレビ放送が中継されていないし、ケ−ブルテレビや衛星テレビを利用できる人たちしか定期的にその放送を見ることができない、そうした点でも困難である。全バルト諸国におけるロシア語は、80年代末から民族間のコミュニケ−ションとして国又は公式の言語ではない。1988年〜1989年、唯一の公式言語としてラトヴィア、リトアニア、エストニアで承認されていた。

 

タイトル民族の言語と同様にロシア語は白ロシアとキルギスで公式言語である。こうした国ではロシア語の地位は最も安定し、安泰なのである。キルギスでは教科のほとんどがロシア語で行われている。ところがこうした国でも問題は存在する。キルギスのいわゆるキルギス・トルコ学校では、ロシア語による授業は事実上行われていないし、白ロシアでは教員が、あたかもロシア語を犠牲にして白ロシア語の学習を学生に奨励するかのように、白ロシア語の作文と書き取りの要求レベルがあまりにも低いと不満を訴えている。

 

ウズベキスタンとカザフスタンのロシア語学習状況は多少希望のもてるものである。ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフは数年前、ロシア住民が密集して生活している地域では、公式の分野でもロシア語を用いてよいと命令を出している。ロシア語学校も維持されている。

 

ウクライナ、モルダヴィア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンにおけるロシア語状況はきわめて矛盾したものだ。例えば、アゼルバイジャンでは1992年ラテン文字導入と共に、同国の主要言語をアゼルバイジャン語と同起源のトルコ語にしようとした。ところがガイダル・アリエフが政権に復帰すると、こうしたやりすぎは中止された。著名なグルジアのロシア語研究者ダヴィド・ゴチリゼによると、こうした旧ソ連諸国の状況は通常、次のステップで発展していく:

1.政府によるロシア語教育の縮小と他の外国語教育への不十分な準備状態での移行2.国をヨ−ロッパ言語またはチュルク言語に方向変換することが不可能であると認識

3.民族間コミュニケ−ション分野から競合言語を締め出し、ロシア語ととって代わる。

 

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